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大阪地方裁判所 昭和33年(わ)269号 判決 1958年9月06日

被告人 崔林錫

主文

被告人は無罪。

理由

第一、本件公訴事実は、被告人は、

(一)  昭和三三年一月六日午後八時三〇分頃、大阪市南区河原町一丁目一五二一番地附近路上において、松永隆(当二〇才)より日本刀で斬りつけられたことを憤慨し、金用国、趙啓宅らと共謀の上右松永に対し共同して角材等で殴打するなどの暴行を加え、

(二)  法定の除外事由がないのに、前記日時場所において日本刀(刃渡約一尺五寸位)一振を所持していた、

というのである。

第二、右公訴事実の(一)および(二)の訴因について、当裁判所は次のような事実を認定した。

(一)  被告人は大阪市生野区附近の朝鮮人青少年をもつて組織される交星会の会長であつて、趙啓宅、金用国、金清一、張景弘らはいずれもその会員である。一方、松永隆は、安永勲、趙又司、白景賛らとともに南の繁華街を根城とする同じく朝鮮人不良青少年団体である明友会の会員であり、明友会は南区河原町一丁目一五二六番地のダンスホール、ユニバースをそのたまり場としており、前示交星会が南の方に進出してくるのを快く思つていなかつた。

(二)  本件に先立つ昭和三三年一月三日、交星会会員趙啓宅が仲間四人とともに前示ダンスホールに顔入場しようとしたことから、丁度同ホールに居合わせた明友会会員趙又司、白景賛らに「大きな顔をするな」と云つて顔面を殴打された事件があつた。その後、明友会としては、このことで交星会側から仕返しがあるかもしれないと考えていた。

(三)  本件の発生した同年一月六日午後七時三〇分頃、被告人崔および金清一、金用国、趙啓宅、張景弘、新家統一郎らは前示ダンスホール、ユニバースに遊びにゆくべく、南に出、まず同ホール附近のすし屋で飲食した。交星会会員が被告人以下つれだつて南へ来たのは、前示三日の事件の仕返しのためではなく、単に遊興がその目的であつた。ところで、右すし屋を出た金清一が前示ホール前にいたつたところ、同ホールにおいて金清一の弟の友人が明友会の趙又司に無料入場をしたのではないかといつて殴られたことを知つたが、同人は正規に入場していたので、金清一は趙又司に対してその処置を難詰したことから口論となつた。そこへ明友会の安永勲が加つて外で話をつけようということになり、同ホール前の路上において明友会の者三名位が金清一を取囲んだ。明友会側としては、交星会が一月三日の仕返しをするものと思い喧嘩の体制を整えつつ、まもなく一〇名近くの者が金清一を取囲み種々挑発的言動に出た。

被告人崔は、金清一の難を知つてかけつけその場に割つて入り、明友会側の挑発的言辞に応酬していたが、結局喧嘩にいたらず、被告人崔および金清一がその場を立去ろうとしていた矢先さきに喧嘩を予想して明友会事務所に隠してあつた日本刀をとりに帰つた松永隆が右日本刀を隠し持つてその場に引返し、被告人および金清一を取囲んでいる明友会会員のうしろから人垣をわけるようにして突如右日本刀を被告人崔の腹部めがけて突き出した。松永のこの所為がきつかけとなつて交星会側と明友会側の間で乱斗がはじまり、交星会の金清一は、明友会側の朴武夫に庖丁で顔面を斬りつけられ重傷を負つた。被告人は松永の右のような日本刀による不意の攻撃に対して危く身をかわしたため左胸部下部に全治一〇日程度の切傷を蒙つたに止つたが、身を守るため松永の突き出した日本刀の刃を左手で握り右手でその柄をとつて防ぎ、結局右日本刀を松永から奪いとつた。全然予期しなかつた松永の攻撃によつて左胸部下部に傷を負わされ、さらに日本刀を奪い取るにさいして手に傷をうけた被告人は、極度に憤慨し且つまた多数の明友会会員の引続く攻撃を抑えるため、右日本刀をふりまわしたために、明友会側の者はその場から散り松永も被告人の反撃を恐れて該路上を南の方に逃走した。

(四)  被告人は興奮の余り、松永に一矢酬いるべく日本刀を持つたまま同人を追跡したが、松永は同町一丁目一五二三番地の四辻(北西角、堀江洋家具店)をさらに南へ走り、同番地木本洋家具店の南側を西へ斜に入る道路を右折して東西の道路を西へ走り、同町一五二二番地西本洋家具店の西側の道路を北に向つて逃げた。ところが、同町一五二一番地月見ホテル前路上において、被告人の後からやはり松永を追跡していた交星会会員金用国および趙啓宅が被告人と前後して松永に追いつき、金用国は持つていた竹箒の柄、趙啓宅は手拳をもつて松永を二、三回殴打したところ、松永はその場に坐り込んでしまつた。被告人も勢込んで追跡したのではあるが、松永が余り簡単に坐り込んでしまつたので、同人に対して何ら暴行を加えなかつた。ところが、その時北の方から明友会会員韓博英が棒切れをもつて走つてきたので、金用国、趙啓宅はその方に向つたが被告人に制止せられ、その間に松永はその場から逃走した。

(五)  被告人は右日本刀を手にしたままさらに該路上を北に歩き、前示ダンスホールにいたつて明友会の安永勲らを探したが見当らなかつたので同ホールを出、その附近を歩いているところを、南警察署の司法巡査安藤政雄に発見せられ、銃砲刀剣類等所持取締令違反の現行犯人として同巡査に逮捕されるにいたつた。時に同日午後八時三〇分頃であつた。

第三、検察官は、被告人の右所為中、松永に対する所為(訴因(一))を暴力行為等処罰に関する法律第一条の数人共同暴行罪に当るとし、日本刀を所持した点(訴因(二))を銃砲刀剣類等所持取締令第二条の所持に該当すると主張する。

(一)  そこでまず(一)の訴因について考えてみる。暴力行為等処罰に関する法律第一条にいう数人共同暴行罪が成立するためには、刑法所定の暴行罪を二人以上が共同して実行すること、および共同実行の認識を必要とするから、被告人において趙啓宅および金用国との間に松永に対する数人共同暴行の認識があつたかどうかについて考える。

趙啓宅の検察官に対する供述調書中には、被告人が「突いた奴捕え」と云つた旨の記載があるけれども、被告人は当公判廷において、自分が突かれた現場には金清一以外に交星会の者がいたことを知らなかつたから、そんなことは云つていない旨供述しており、且つその附近に居合わせたと認められる金用国もその点については何も述べておらず、また趙啓宅は司法警察員に対する供述調書において、崔が追いかけそのあとから金用国が追いかけるのを見て私も崔をついた松永をいわすために追いかけた旨供述している点等から考察すると、被告人が趙啓宅に対して追跡を命じたと認めることは困難であり、趙啓宅の右検察官調書の記載は措信できない。

しかし、いずれにしても被告人が前示第二の(四)の如く松永を追跡しはじめると、その背後から金用国および趙啓宅が同じく松永を追跡し、被告人と前後して松永に追いつき、金用国はもつていた竹箒の柄、趙啓宅は手拳をもつて松永を二、三回殴打した事実は認められるのであるが、この点について、被告人は当公判廷において、追跡している間に誰かが背後から来るということは判つたが、それが誰であるか(交星会の者か、明友会の者か)は判らなかつた、という趣旨の供述をしており、さらにまた趙啓宅、金用国が松永を殴つた現場に関しても、松永が殴打されているときにはじめて殴つているのが趙啓宅であることを知つた(被告人は金用国については、はつきり記憶していない)と供述しているのである。そして、被告人のこれらの供述は、被告人が日本刀をもつて追跡するにいたつた経過並びに趙啓宅、金用国の供述調書等と照し合わせて考えるときは、これをもつて被告人が自らの罪責を逃れるためにした弁解と見ることはできないと考える。そうだとすれば、趙啓宅らが松永に暴行を加えるまでの間、被告人に同人らの暴行につき共同暴行の認識があつたとの証明は結局ないことになり、従つて被告人に対し趙啓宅らの暴行について暴力行為等処罰に関する法律第一条による共同暴行の責任を負わすことはできない。つぎに、本件(一)の訴因について訴因変更の手続を経ないで認定することができる被告人崔が単独に松永に暴行を加えたかどうか。すなわち刑法第二〇八条の暴行罪の成否について考える。当裁判所は、被告人崔が松永から奪いとつた日本刀をもつて若くはその他の方法で松永に対して暴行を加えたという事実は認定できないと考える。なるほど、松永の昭和三三年一月一七日付の司法巡査に対する供述調書中には、松永が逃げている途中において被告人から日本刀で一発殴られたという記載がある。しかしながら、被告人はこの点を否定して松永に対しては終始手をかけていない旨供述しているし、さらに松永の右供述調書中にある、崔が日本刀をもつて追いついて来たので、私は崔の胸もとに飛込んで左手で崔の右手首附近を掴み、右手で崔の左肩をだき込むようにして崔の胸へ頭で二、三回連続して頭突きをかました、といういわば崔の被害事実についても被告人崔はこれを否定している点、および右現場に居合わせた金用国並に趙啓宅の供述調書には、右松永の供述調書の記載に照応するような事実が全然述べられていない点等から見て、松永の右供述調書の記載は軽々に信用することができないと考えるのであり、他に被告人が松永に対して単独で暴行を加えたことを認めるに足る証拠はない。

ただ、被告人が日本刀をもつたまま、松永の背後から間隔をおいて約二〇〇米位の間同人を追跡したことは疑いないところであるが、被告人の右追跡行為をもつて直ちに暴行と解することはできない。以上のようにして被告人については単独暴行罪も成立しない。

(二)  次に訴因(二)の銃砲刀剣類等所持取締令違反(以下、取締令と称す)の点について考える。

弁護人はこの点に関し、被告人は日本刀を松永から取り上げてもつていたものであつて、物理的な所持ではあるが、取締令にいう所持には該当しないと主張している。

そこで、まずこの点について考えると、一般的に所持とは、ある物を自己の事実支配の下におくことをいうものであるが、取締令にいう所持は、同令の目的に照してさらに検討されねばならない。取締令の立法趣旨は、銃砲刀剣等人に対して危害を加えることに役立つべき物件が隠匿保存され、さらにそれによつて犯罪行為が準備されたり実行されたりする危険を防止しようとするところにあるのであるから、所持という概念も右の立法趣旨に照らして決定されねばならない。従つて、例えば届出のための持参行為等は、取締令にいう所持には該当しないが、本件における被告人の日本刀の所持は、同令の右立法趣旨から見て、同令第二条にいう所持には該当すると云わねばならない。

次に、被告人の本件日本刀所持行為の違法性について考えると、被告人が本件の日本刀を所持するにいたつた事情は、前示認定の通り、松永の急迫不正の侵害行為に対して自己の生命、安全を衛るためやむをえずこれを松永から取上げて所持するにいたつたものであつて、所持開始の点をとらえて考えれば、被告人の日本刀の所持は、全く違法性を欠いたものであるといわねばならない。しかしながら、被告人は松永から日本刀を取り上げた後これをもつて松永を追跡したのであるから、その場合における所持は、いわゆる過剰行為として違法性を具有するにいたるものと解せられるのである。

そこで、右のような日本刀の所持について、被告人に責任を帰せしめることができるかどうかが次に検討されねばならない。本件において、被告人が松永から日本刀を奪いとり、それをもつて同人を追跡してから司法巡査安藤政雄に逮捕されるまでの間(この間の時間を推定すれば、せいぜい一五分位である)の状況を考えてみると、前示認定のように明友会側の者が被告人らに対して大がかりに危害を加えようとしており、彼我の勢力には圧倒的な優劣があつたこと、そして現に被告人自身松永から突如日本刀で突かれて左胸部下部に切創を受け、さらに金清一も朴武夫から庖丁で顔面を切られて相当の重傷を受けたこと、明友会側では他にも兇器を準備している様子を被告人が感じていたこと、さらに乱斗後において被告人は交星会会長として同会員らを保護すべき必要を感じたこと等を考慮に入れると、被告人が日本刀を松永より奪いとつたあとせいぜい一五分位の間これが所持を継続していたことについて被告人を非難することができるであろうか。たしかに前示認定のように、被告人が日本刀をもつて松永を追跡したことはともかく、安永勲らを探すために日本刀をもつたままダンスホール、ユニバースの中に入つたことは、もとより穏当な行為でないかもしれない。しかしながら、もし本件において、被告人の右の行為が有罪であるとするならば、被告人が取締令違反の罪責を免れるためには、松永から日本刀を奪いとつた後直ちにこれをその場に投げすてるか、または最寄の交番にでも届ける以外に途はないことになろう。しかし、前示のような状況下において(日本刀をその場に投げすてれば直ちにこれをもつて再び攻撃をうけるであろうし、また会員らの安全を見定めることなくその場を離脱して交番に届けることも被告人の交星会会長としての地位よりして困難であると思われる)。被告人にこれを期待することは到底できないところであろうと当裁判所は考えるのである。要するに、被告人の本件日本刀の所持は、違法な所為ではあるが、それについて被告人に責任を負わせることは酷であり、結局被告人には責任がないということに帰著するのである。

第四、以上の次第で、本件公訴事実中(一)の訴因については犯罪の証明がなく、(二)の訴因については罪とならないので、刑事訴訟法第三三六条によつて両訴因について無罪の言渡しをすることとし、

主文の通り判決した。

(裁判官 今中五逸 児島武雄 吉川寛吾)

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