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大阪地方裁判所 平成7年(ワ)9961号 判決 1997年9月17日

原告

甲野春子

右訴訟代理人弁護士

小湊収

小湊雅子

被告

学校法人××

右代表者理事

乙川太郎

被告

丙沢一郎

右両名訴訟代理人弁護士

天野勝介

山本健司

佐伯照道

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  (主位的請求)

被告らは、原告に対し、各自金四九七六万四三三六円及び内金四七二〇万六七三六円に対する平成四年五月四日から、内金二五五万七六〇〇円に対する平成七年一〇月一二日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  (予備的請求)

被告らは、原告に対し、各自金二〇〇〇万円及びこれに対する平成四年五月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  第1、2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

(主位的請求)

1 事故の発生・当事者

甲野太郎(以下「太郎」という。)は、被告学校法人××(以下「被告××」という。)の設置する××高等学校の第二学年に在学していた平成四年五月一日午後〇時五〇分ころ、豊中市<住所略>所在の同校グラウンド内における体育の授業の一環として行われた一五〇〇メートル走に参加していたところ、その一四〇〇メートル付近において突然倒れ、同月三日に死亡した(以下「本件事故」という。)。原告は、太郎の母親でその唯一の相続人である。

2 被告丙沢一郎(以下「被告丙沢」という。)の責任(民法七〇九条)

(一) 被告丙沢は、本件事故当時、被告××の設置する××高等学校に雇用されていた保健体育科の教師であり、右体育授業を担当していた。

(二) 被告丙沢は、体育の授業中に長距離走を実施するに際しては、走行中の生徒の状態を観察する人員を配置するか、自ら伴走するなど直ちに生徒の異常を発見し救護措置がとれるよう監視・救助体制を整えておくべき義務があるのにこれを怠り、記録係の生徒と雑談するなどして、太郎が倒れてから少なくとも数分間これに気付かず、救急車の手配が遅れた過失により同人を死亡させた。

(三) 被告丙沢は、長距離走の途中で倒れて意識を失った太郎に対し、その呼吸・脈拍の有無を確認し、呼吸・脈拍が停止しているあるいはこれが強く疑われるときにはできるだけ早く人工呼吸・心臓マッサージ等の心肺蘇生術を施すべき義務があるのにこれを怠り、同人が倒れて意識不明の状態にあることを発見後も同人を仰臥させて気道確保の処置をとったのみで、人工呼吸・心臓マッサージの救命措置をとらなかった過失により同人を死亡させた。

3 被告××の責任(民法七一五条)

被告丙沢は、本件事故当時、被告××の設置する××高等学校が雇用していた体育教師であり、被告××の被用者であった。被告丙沢は本件事故のあった体育授業を担当しており、右体育授業の実施は被告××の「事業」の範囲に属するものである。

4 損害

(一) 太郎の逸失利益

太郎は、死亡当時満一六歳の健康な高校生であり、本件事故により死亡しなければ、高等学校卒業後一八歳から六七歳まで四九年間就労可能であったから、その逸失利益を平成四年度一八歳初任給平均値を基礎としてホフマン式計算によって算定すれば、次のとおり、金二七二〇万六七三六円となる。

2,533,300×(1−0.5)×23.1222=27,206,736

(二) 慰謝料

太郎は原告の長男であり、原告は昭和五九年一月に夫を亡くし女手一つで太郎を育ててきたところ、同人の急死によって失望と悲嘆のどん底に突き落とされた。また、太郎自身も千里救急救命センターにおいて二日間の苦しい闘病の後、死亡したので、多大な精神的苦痛を蒙り、右慰謝料請求権を原告が相続し、右慰謝料としては合計金二〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 葬儀費用

原告は、平成四年五月六日、太郎の葬式を行い、次のとおりの諸経費(合計金一八五万七六〇〇円)を支出した。

(1) 葬儀社支払費用

金一一二万一五〇〇円

(2) 寺院お布施 金二一万円

(3) 車両代 金四万九〇〇〇円

(4) 供花代 金二二万七一〇〇円

(5) 会葬御礼 金二五万円

(四) 弁護士費用

原告は、本訴提起及びその追行を原告代理人に委任し、その費用として金七〇万円を支払った。

5 よって、原告は、被告らに対し、不法行為による損害賠償請求として、各自金四九七六万四三三六円及び内金四七二〇万六七三六円(請求原因4(一)及び同(二)の合計)に対する平成四年五月四日から、内金二五五万七六〇〇円(請求原因4(三)及び(四)の合計)に対する平成七年一〇月一二日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(予備的請求)

1 主位的請求の請求原因1のとおり

2 被告丙沢は、本件事故当時、被告××の経営する××高等学校に雇用されていた体育教師であり、右体育授業を担当していた。

3 太郎と被告××との間には在学契約が成立しており、被告××は右契約に基づき、その教育活動において、生徒の生命身体を危険から保護し、緊急事態が発生した場合には生徒の生命身体を救うためにできる限りの手段を講じるべき義務を負担しており、被告丙沢も体育教師としての立場上、同様の義務を負担していたものである。生徒である太郎及び原告においても本件事故のように体育の授業中、突然心肺停止状態になった場合には、被告××及び被告丙沢において万全の策をとってもらえるものと期待し信頼していたものであって、この期待及び信頼は法的保護に値する。

4 被告丙沢が太郎が倒れたことにただちに気づき、心肺蘇生術を施していたならば、太郎が蘇生する可能性はあったのに、太郎が倒れたことにすぐ気づかず、救急車が到着するまで人工呼吸・心臓マッサージの心肺蘇生術を試みなかったために太郎が蘇生する可能性が全く失われてしまった。このことにより、被告らに対し万全の救命措置がなされることを期待していた太郎及び原告の期待は裏切られ、太郎及び原告は精神的苦痛を受けた。右苦痛を慰謝するための慰謝料としては金二〇〇〇万円をもって相当とする。

5 よって、原告は、被告らに対し、債務不履行もしくは不法行為に基づく損害賠償請求として、各自金二〇〇〇万円及びこれらに対する平成四年五月四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

(主位的請求)

1 請求原因1の事実うち、太郎が倒れた時刻が午後〇時五〇分ころである点は否認し、その余の事実は認める。午後〇時五〇分は、太郎が一五〇〇メートル走を開始した時刻であり、倒れたのはその約五分後の午前〇時五五分ころである。

2 請求原因2(一)の事実は認める。

同(二)の事実は否認する。本件事故があった体育授業を担当した被告丙沢は、一五〇〇メートル走のゴール地点に立って生徒を指導しており、走行中の生徒の様子を充分把握できる状況にあったのであり、それ以上に生徒を観察する人員を別途配置したり、被告丙沢が自ら伴走するなどの体制をとるべき義務はない。また、記録係の生徒と雑談をしていたという事実はなく、太郎が倒れた直後、遅くとも一分以内に被告丙沢は太郎のもとに急行し、同人に対する救護措置をとる一方、現場にいた生徒に指示し、学校の他の職員に救急車の手配の依頼をさせた。右依頼を受けた職員は直ちに豊中市北消防署に一一九番通報を行っており、午後〇時五八分には同署が通報を覚知している。

同(三)のうち、被告丙沢が倒れている太郎を発見後も同人に人工呼吸・心臓マッサージの措置をとらなかったことは認め、その余は否認する。被告丙沢は、太郎のもとに駆けつけてから直ちにうつ伏せ状態だった太郎を仰臥させ、意識の有無の確認を行ったうえ、救急隊が到着するまで気道の確保をしつつ、呼吸・脈拍の確認を継続した。この間被告丙沢は、太郎に呼吸があり、右側頚動脈において脈拍が確認されたため、人工呼吸・心臓マッサージといった心肺蘇生術を施さなかった。呼吸・脈拍が停止したと認められる場合はともかく、いまだに微弱ながらも呼吸・脈拍がある場合には、必ずしも専門医・救急隊員のように救命についての高度の専門的知識・技術を有しているわけではない体育教師には、人工呼吸・心臓マッサージといった心肺蘇生術を施すべき注意義務はない。

3 請求原因3の事実は認める。

4 請求原因4の事実は知らない。

(予備的請求)

1 主位的請求の請求原因に対する認否1のとおり

2 請求原因2の事実は認める。

3 請求原因3のうち、太郎と被告××との間に在学契約が成立していたこと及び一般論として被告××及び被告丙沢が原告主張のようないわゆる安全保護義務を負うことは認める。その余の事実は知らない。なお、万全の救護措置に対する期待・信頼は被救命者(太郎)に一身専属的なものであり、かつ、それらの侵害は生命侵害に比肩するものとはいえないから、被救命者の母親である原告に固有の慰謝料請求権は認められない。

4 請求原因4のうち、被告丙沢が太郎が倒れたことにすぐ気付かなかったことは否認し、救急車が到着するまで人工呼吸・心臓マッサージの心肺蘇生術を試みなかったことは認める。その余の事実は知らない。

三  抗弁

原告は、本件損害の填補として、平成六年二月七日、日本体育・学校健康センターから、日本体育・学校健康センター法施行令五条一項三号に基づく死亡見舞金一七〇〇万円の支払いを受けた。

四  抗弁に対する認否

死亡見舞金一七〇〇万円の支払を受けたことは認める。ただし、死亡見舞金一七〇〇万円の給付は、本件の損害のうち、逸失利益についてのみ填補されるにすぎない。

第三  証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。

理由

一  事故の発生・当事者

1  主位的請求の請求原因1のうち、太郎が倒れた時刻が午後〇時五〇分ころであったことを除いた事実は、当事者間に争いがない。

2  太郎がグラウンド上に倒れたのが午後〇時五〇分ころであったか否かについて判断するに、甲第一五号証(成立に争いがない。)、乙第二号証(弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる。)、乙第三号証(成立に争いがない。)及び被告丙沢本人尋問の結果によれば、本件事故のあった体育の授業が平成四年五月一日午後〇時一五分から行われたことが認められる。

乙第四号証(弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる。)、乙第五号証(成立に争いがない。)、被告丙沢本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、本件事故当日なされた一五〇〇メートル走は××高等学校の運動能力テストの一種目であり、同校のグラウンドに設置された一周二〇〇メートルのトラックを七周半走ってそのタイムを測定するものであったこと、午後〇時一五分の授業開始後、挨拶・出欠点呼・教材説明・ウォーミングアップ(クラス全員での右トラック二周の走行、自校体操と呼ばれる準備運動並びに腕立て伏せ、手首、足首、アキレス腱の補助運動)を行ったこと、被告丙沢は体調のすぐれない者については申告するよう言ったこと、これに対して一人が下痢であると申告したが、同人は一五〇〇メートル走に参加したこと、被告丙沢は一五〇〇メートル走のタイム測定をするについて、クラス(四九名中二名が欠席)を二班に分けたうえでタイムの測定は各班ごとに行うこととし、生徒にペアを組ませ、お互いに周回数・ゴールタイムを確認するよう指導したこと、太郎はSとペアを組み、右Sが第一班に属し、先に一五〇〇メートル走を行ったこと、先に走った第一班の生徒が全員ゴールした後、被告丙沢が一旦ゴール地点のトラック内側付近に生徒全員を座らせ、第一班の生徒のゴールタイムを各々クラスの体育委員である尻無浜に申告させ、同人がそれを記録用紙に記入して第一班の測定が終了したこと、それに続いて第二班の生徒が右ゴール地点のトラック内側からスタート地点に移動してスタートしたこと、被告丙沢に対して太郎が倒れていることを最初に知らせた生徒はMであったこと、太郎が倒れていた地点は七週目を走り終える直前の一四〇〇メートル弱の地点(スタート地点の手前)で、被告丙沢がラップを読み上げていた地点から直線距離で約五〇メートルの地点であったことが認められる。

以上の事実によると、本件事故のあった体育授業が平成四年五月一日午後〇時一五分に開始されたことは明確であるが、太郎がいつ一五〇〇メートル走を開始したか、その後いつ倒れたかについては体育授業が開始された時点から順次おこなわれた過程をたどり、まず太郎が一五〇〇メートル走を開始した時点を割り出し、同人が倒れるまでの時間は一緒に走っていた他の生徒のタイムから比較して割り出すことも可能であると考えられるが、そうだとしても本件においてはそれを分単位の正確さで割り出す必要があるところ、本件事故のあった体育授業の進行経緯は先に認定したとおりであり、右授業において行われた各行為が多く、それに含まれる不確定な要素も多く、それごとに費やされた時間を分単位で事後的に正確に把握するのは困難といわざるを得ず、結局、原告主張の事実(太郎が倒れた時刻が午後〇時五〇分ころであること)を推認することはできず、他に原告主張の右事実を認めるに足りる証拠はない。

二  被告丙沢の責任

1  主位的請求の請求原因2の(一)の事実は当事者間に争いがない。

2  主位的請求の請求原因2の(二)について判断する。

(一) 原告は、体育教師が体育の授業中に長距離走を実施するに際し、走行中の生徒の状態を観察する人員を配置するか、自ら伴走するなどする義務まで負うと主張するが、校外に出ての長距離マラソンを実施する場合は格別、今回行われた一五〇〇メートル走は学校内のグラウンド上の二〇〇メートルトラックを周回するだけであり、被告丙沢本人尋問の結果によると、右トラックの広さは南北に約七五メートル、東西に約四二メートルであり、前記認定のとおり、この範囲に四七名の同級生がおり、そのうち半数の生徒がトラック走行し、その半数は走っている生徒とペアを組んで様子を見ているという状況であるので、仮に異常事態が起こるとしてもそれはトラックという限られた範囲内であり、その中には同級生という全くの第三者ではない者がいることでそれには対処しうると考えられるから、それ以上に走っている生徒を観察する人員を別途配置したり、教師自らが生徒に伴走するなどの体制をとるべき義務まではないというべきである。

(二) 次に、太郎が倒れてから被告丙沢が数分間これに気付かず、救急車の手配が遅れた過失があったかを判断するに、甲第二号証の二(成立に争いがない。)によれば、豊中北消防署が被告からの一一九番通報を覚知したのは午後〇時五八分であることが認められ、仮に、太郎が倒れた時刻が午後〇時五〇分ころであったとすれば右請求原因事実を推認することも可能であるが、太郎が倒れた時刻を午後〇時五〇分ころと認めることができないのは前述(理由一2)のとおりである。

さらに、太郎が倒れた時刻はさておくとしても、被告丙沢本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、同じく第二班で走っていたHの前方を走行中の太郎が七周目の第四コーナー付近で徐々にコースアウトしていったこと、Hがその付近で太郎を追抜いたことが認められ、また、乙第一号証(成立に争いがない。)によれば、Hのゴールタイムが五分四〇秒とクラス内でかなり上位(記録の残っている生徒の中で九位)であることが認められ、これらの事実から判断すると、太郎がコースアウトして倒れた当時、まだかなりの数の生徒がトラックを走行中であったと認められ、さらに、前記のとおり、その当時、右グラウンド内には被告丙沢の他にも二〇名以上の第一班の生徒が走行中の第二班の生徒の周回数の確認のためにいたのであるから、被告丙沢がMから太郎が倒れていることを報告されたのが、倒れてから数分(四ないし五分)も経過していたとは考えられない。

なお、甲第一七号証(弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる。)によると、太郎が一五〇〇メートル走を走り始めたのは午後〇時四〇分ころとされているが、これが事実であるとすれば太郎が倒れた時刻はその五分余り後の午後〇時四五分ころになるはずであるから、被告丙沢が太郎が倒れたことに即時に気付かず、数分間これを放置していたことを推認させる事実となるが、甲第一七号証が作成されたのが本件事故後四年以上を経過し、しかも本件訴え提起の後の平成八年八月二七日であることから考えて、その内容はたやすく信用することができない。

(三)  以上より、主位的請求の請求原因2の(二)の事実は認められない。

3  主位的請求の請求原因2の(三)について判断する。

(一)  主位的請求の請求原因2の(三)のうち、被告丙沢が倒れている太郎を発見後も同人に人工呼吸・心臓マッサージの措置をとらなかったことは当事者間に争いがない。

(二)  原告は、被告丙沢が人工呼吸・心臓マッサージといった心肺蘇生術を施すべき注意義務を負う前提事実として、同人が太郎のもとに駆けつけた時点ですでに太郎の呼吸・脈拍が停止もしくはそれを強く疑うべき状態であり、救急隊員到着の数分前には呼吸・脈拍が停止していたと主張するので、この点につき判断する。

まず、被告丙沢が太郎のもとに駆けつけた時点から救急隊到着までの太郎の状態については、甲第一五号証、乙第五号証(成立に争いがない。)及び被告丙沢本人尋問の結果によれば、被告丙沢は倒れていた太郎のもとに駆けつけて、救急隊が到着するまでの間、太郎の首を左手で持ち上げて気道確保を行いながら、耳を太郎の口に近づけたり、胸の動きを観察して呼吸の継続を確認し、太郎の右側頸動脈を押さえて脈拍があることを確認し続けたという事実、太郎が倒れたという知らせを受けた××高等学校教諭のT(保健体育科)及びE(保健体育科)が、救急隊到着までの間被告丙沢が太郎の気道確保、呼吸・脈拍の確認をするのに協力していた事実が認められ、右事実からすると、被告丙沢が倒れた太郎のもとに駆けつけた時点において、太郎の呼吸・脈拍が停止もしくはそれを強く疑うべき状態であったとは認められず、その他右事実を認めるに足りる証拠はない。この点、甲第一七号証には、被告丙沢が太郎のもとに駆けつけた時点で、太郎の唇が紫色のチアノーゼ状態であった旨の記載がなされているが、前述のとおり甲第一七号証の記載内容はにわかに信用することができない。

ところで、甲第一号証の二、甲第二号証の二、甲第七号証及び甲第八号証(いずれも成立に争いがない。)によれば、救急隊が太郎のもとに到着して太郎の呼吸・脈拍の有無、瞳孔反応を確認した時点では既に呼吸・脈拍が停止し、瞳孔散大の状態にあったことが認められ、この事実をもって原告は被告丙沢が太郎の介護をしていた時点においては呼吸・脈拍が停止もしくはそれを強く疑うべき状態であったと主張するところ、証人Zの証言によれば、心停止が起こって脳への血流が途絶して僅か七、八秒で瞳孔散大の状態になるという事実、呼吸・脈拍が停止している患者を診てその患者が時間的にどれくらい前からその状態にあったかを判断するのは専門医でさえ困難であるという事実も認めることができ、前記事実からは救急隊到着のどれくらい前の段階から呼吸・脈拍が停止していたのかは必ずしも明らかではなく、また、そのときの状態が呼吸・脈拍の停止を強く疑うべき状態であったことは推認することはできず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。

(三) 次に、被告丙沢に倒れて意識を失い、脈拍・呼吸が未だ確認できる状態にある太郎に対し、人工呼吸・心臓マッサージの心肺蘇生術を施すべき義務があるかについて判断するに、甲第五号証(成立に争いがない。)によれば、患者の脈が完全に停止していない場合であっても、規則正しく動いていない場合や不規則かつ弱々しい場合(心室細動、心室粗動)には直ちに心臓マッサージを行うべきであるという見解があることが認められる。

しかし、他方、証人Zの証言によれば、動脈がかすかでもふれた場合、心臓マッサージによっていろんな合併症を起こす場合もあるため、施さないのが普通であるという見解があることも認められ、また、乙第七号証(成立に争いがない。)によれば、「心停止の判断の難しさなど救急処置には特別の知識が必要であるし、不適当な心マッサージをすれば副作用を伴うから、心マッサージの実施は医療関係者、および特別の蘇生法教育を受けたものにとどめた方がよい。」という見解があることが認められる。

以上からすると、倒れて意識を失っている太郎に対して、昭和五五年ころ、日本赤十字社主催の救急救命法の講習会に五日間にわたって参加している(被告丙沢本人)被告丙沢に対し、一義的に心臓マッサージを行うべき義務を課すことはできない。

また、人工呼吸については、甲第三号証、甲第四号証(いずれも成立に争いがない。)、甲第五号証、乙第六号証(成立に争いがない。)及び乙第七号証によれば、呼吸が停止する前の段階では、人工呼吸の必要性はないというのが一般的な見解であることが認められる。

以上より、主位的請求の請求原因2の(三)の事実は認められない。

三  予備的請求について

以上によれば、原告の主位的請求は理由がないから、予備的請求について判断する。

1  予備的請求の請求原因1の事実は、主位的請求の請求原因1のとおり、太郎が倒れた時刻を除いて当事者間に争いがなく、太郎が倒れた時刻については前記認定のとおり、午後〇時五〇分とは認められない。

2  予備的請求の請求原因2の事実は、当事者間に争いがない。

3  予備的請求の請求原因3のうち、太郎と被告××との間に在学契約が成立していたこと及び一般論として学校法人と教師が原告摘示のようないわゆる安全保護義務を負うことは、当事者間に争いがない。

4  予備的請求原因4のうち、被告丙沢が太郎が倒れたことに気づいてから救急隊が到着するまでの間に人工呼吸・心臓マッサージの心肺蘇生術を施さなかったことは、当事者間に争いがない。しかし、理由二3(三)において述べたとおり、被告丙沢には太郎の呼吸・脈拍が停止する前の段階から心肺蘇生術を施すべき高度の注意義務までは認められない以上、被告丙沢は保健体育科の教師としては万全の救命措置をとったと評価でき、太郎の期待及び信頼を裏切ったとはいえない。

5  したがって、太郎の母親である原告の右期待及び信頼が法的保護に値するかを判断するまでもなく、原告の予備的請求には理由がない。

四  以上によれば、原告の本訴請求は、いずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官今中秀雄)

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