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大阪地方裁判所 平成5年(ワ)9657号 判決 1997年3月07日

原告

甲野花子

乙野一郎こと

乙一郎

右二名訴訟代理人弁護士

鳩谷邦丸

別城信太郎

被告

丙歯科医院こと

丙二郎

右訴訟代理人弁護士

法常格

菅生浩三

葛原忠知

佐野久美子

菅生浩三訴訟復代理人弁護士

山本毅

大野康裕

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告は、原告甲野花子に対し、金八六六万九八二二円及びこれに対する平成五年一〇月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告乙一郎に対し、金一六万五〇〇〇円及びこれに対する平成五年一〇月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、昭和六三年八月ないし平成元年三月当時中学一年生であった原告甲野花子(以下「原告花子」という。)が口腔右側下顎部に腫れと痛みを覚え、歯科医師である被告の治療を受けたところ、被告が右症状がエナメル上皮腫によるものであることを看過し、その早期の治療機会を喪失させられた結果、腫瘍摘出術等の治療を要することとなり、また、長期にわたる看護治療を要する状態になったとして、原告花子において、被告に対し、診療契約の債務不履行に基づく損害賠償として慰謝料等の支払を求め、また、原告花子の父親である原告乙一郎(以下「原告一郎」という。)において、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として、原告花子の入院の付添等による休業損害の支払を求めた事案である。

一  基礎となる事実(証拠を付さない事実は当事者間に争いがない。)

1  当事者

(一) 原告花子は、原告一郎と訴外甲野正子の長女として、昭和五〇年五月一日に出生した女子である。

(二) 被告は、昭和三五年に歯科医師資格を取得し、昭和三九年以降、住所地において「丙歯科医院」を開業している歯科医師である(被告本人尋問の結果(以下「被告供述」という。))。

2  第一次治療(昭和六三年八月)

原告花子は、右側下顎第五番歯(歯牙等の表示は、以下「右下五番歯」のように略称する。)付近から奥におけての部位(以下「本件部位」という。)に腫脹と圧痛を感じ、昭和六三年八月一九日、被告に対し、本件部位の診断及び治療を内容とする診療を申し込み、被告はこれに応じた(以下「第一次診療契約」という。)。

被告は、同日、本件部位につきレントゲン撮影を行い、原告花子の症状を歯根炎(顎骨の感染性炎症性疾患の一種)による腫脹と診断し、右部位を消毒し、同月二二日に排膿を目的に埋伏歯である右下七番歯の歯肉を切開したが、膿は存在しなかった(右治療を、以下「第一次治療」という。検甲第一号証の1・2、第二号証の1、乙第一号証の1・2、被告供述)。

3  第二次治療(平成元年三月)

原告花子は、その後も本件部位に腫脹及び圧痛を覚えたので、平成元年三月二三日、被告に対し、本件部位に前記2と同様の診療を申し込み、被告はこれに応じた(以下「第二次診療契約」といい、第一診療契約と第二診療契約を併せて、「本件各診療契約」という。)。

被告は、同日、本件部位についてレントゲン撮影を行い、抗生物質を投与したうえ、同月二七日、二九日、三〇日にも治療を施した(右治療を、以下「第二次治療」という。)。

4  その後の経過

(一) 原告花子は、本件部位に腫脹及び圧痛を覚え、平成元年五月一五日、一九日、二二日、二四日にも、被告方に通院した。

(二) 原告花子は、平成元年五月二七日、訴外大阪赤十字病院(以下「訴外病院」という。)で診断を受け、同月二九日の病理組織検査の結果、「右下顎部エナメル上皮腫」との確定診断を受けた。

原告花子は、訴外病院で、同年六月一五日、腫瘍等の摘出術を受け(入院期間一五日)、右手術に伴って右下三番ないし八番の各歯牙が除去されたが、腫瘍の完全な除去は困難であった。このため、エナメル上皮腫は再発し、原告花子は、平成四年八月六日にも、再度、右手術を受けた(入院期間九日。甲第一四号証の1ないし24、第一六号証の1ないし10)。

二  原告らの主張

1  原告花子の損害賠償請求権

(一) 被告の債務不履行(原告花子関係)及び過失(原告一郎関係)

一般に、歯科医師は、患者に対し、診療契約に基づき、その症状に対応する必要な検査と適切な診療行為を行い、症状によってはこれに対応できる医療機関を紹介して早期に診断・治療を受けさせるなどの措置を講じる義務を負っている。

本件についていえば、被告は、第一次治療及び第二次治療において、本件部位に腫脹や圧痛を認め、かつ、本件部位についてレントゲン撮影をした。右レントゲン結果によれば、被告は、右各時点で原告花子の症状がエナメル上皮腫であることを疑い得たのであるから、更に必要な検査をしてエナメル上皮腫と診断のうえ、右病名に適合した治療をすべきであった。また、仮に、被告に検査設備や診断能力がないため確定的な診断ができないのであれば、被告は、原告花子をしてそれらを具備する医療機関において早期に診断・治療を受けさせるべきであった。

ところが、被告は、原告花子の症状についてエナメル上皮腫であることを疑わなかったばかりか、別の医療機関で診断・治療を受けることも勧めず、漫然と放置したのであるから、原告花子に対し、本件各診療契約に基づく債務を履行しなかったというべきであり、原告花子が被った損害を賠償する義務がある。

(二) 因果関係

原告花子の症状が第一次治療及び第二次治療の時点においてエナメル上皮腫であると判明した場合、「開窓術」と呼ばれる手術を受ければ完治することが可能であったのに、被告の右債務不履行により、被告花子は右治療を受ける機会を失って前記腫瘍摘出術を余儀なくされたうえ、今後も長期にわたって看護治療を要する状態になった(以下「本件状態」という。)。

したがって、被告の債務不履行と原告花子が右各手術を受けたこと及び本件状態になったこととの間には相当因果関係がある。

(1) 治療費(平成元年五月二七日から平成五年七月一三日までの間)

合計三〇万九八二二円

別紙1「治療費等支払明細(外来、入院別)」記載のとおり

(2) 通院交通費

合計二〇万七〇〇〇円

別紙2「通院交通費明細」記載のとおり

(3) 入院中の付添看護費

合計一〇万五〇〇〇円

一日当たり七〇〇〇円×一五日(平成元年六月の入院期間)

(4) 入院雑費 合計四万八〇〇〇円

一日当たり二〇〇〇円×二四日(平成元年六月と平成四年八月の入院期間の合計)

(5) 慰謝料 八〇〇万円

原告花子は、前記のとおり、早期に適切な治療を受ける機会を喪失したため、訴外病院において腫瘍摘出術を受けることになり、下顎部が変形し、その結果、大きな精神的苦痛を受け、日常生活や学校生活に重大な支障を来した。そのうえ、エナメル上皮腫は再発の可能性があるため、今後、再発の度に手術を繰り返さなければならなくなり、極めて不安定な精神状態に陥っている。

このような原告花子の精神的損害に対する慰謝料としては少なくとも八〇〇万円が相当である。

2  原告一郎の損害賠償請求権

前記債務不履行について被告に過失があり、被告の右行為により、原告花子が、訴外病院で手術を受けることが必要となったため、原告一郎は、その経営している飲食店(大阪府大東市<番地略>所在)を合計一一日間休業して、原告花子の手術に付き添った。これにより、原告一郎は、少なくとも一六万五〇〇〇円(一日当たりの平均純利益一万五〇〇〇円×一一日)の休業損害を被った。

これは原告一郎に対する不法行為を構成するから、被告は、原告一郎に対し、不法行為に基づき右損害を賠償する義務がある。

三  被告の主張

1  債務不履行の不存在

(一) 第一次治療について

被告は、昭和六三年八月一九日及び同月二二日、本件部位の腫脹、圧痛、レントゲンフィルムに認められる骨透過像から、原告花子の病名として、最も発症頻度の高い炎症性膿瘍(歯根膿瘍)ではないかと考え、その検査及び治療を行い、さらに、原告花子に対し、経過観察のため、二、三日後に来院するように告げたにもかかわらず、原告花子は指定日に来院しなかった。したがって、被告が、当時、右症状からエナメル上皮腫を発見し又はその疑いをもって精密検査をしたり、手術を勧告できなかったとしても、やむをえない。

また、一般開業医がエナメル上皮腫の羅患者を診察することは希有なことなどに照らすと、一般開業医に対し、腫脹と圧痛を主訴とする患者の初診時において、問診、視診、触診、レントゲン検査等によって直ちにエナメル上皮腫を発見する義務を負わせることはできない。

したがって、被告は、第一次治療において、適切な診断及び治療を行ったのであって、債務不履行の事実はなく、過失もない。

(二) 第二次治療について

(1) 原告花子は、平成元年三月二三日、本件部位につき腫脹と圧痛を主訴として来院した。被告は、第一次治療において、同様の症状につき歯根膿瘍と一応の診断をしていたが、原告花子がそれ以降来院していなかったことから、右膿瘍が自然排膿等によって治癒したと推察されたこと(したがって、第一次治療時と第二次治療時の各症状に同一性があることを前提にして、被告が疑うべき疾病を想定するのは妥当でない。)、右下七番が埋伏歯、右下六番が欠損歯であることなどにより、本件部位が細菌感染しやすい状況であったため、同一箇所に感染症膿瘍が再発したと推察されたこと、レントゲンフィルム上、右下五番歯根の遠心部に骨透過像を認めたことから、一般開業医として最もよく経験する炎症性膿瘍を疑った。

そこで、被告は、歯根膿瘍をまず診療対象として、抗生物質の投与等を行った。

(2) ところが、被告が、平成元年三月二七日、本件部位のうち、右下五番歯下歯肉部を切開したところ、右抗生物質の投与にもかかわらず排膿が認められなかった。そこで、被告は、炎症性膿瘍の可能性も否定できないものの、本件部位の腫脹の原因が単なる歯根膿瘍でない可能性があると考え、原告花子に対し、大学病院で検査を受けるように指示し、原告花子も春休みの間に検査を受けに行く旨答えた。

被告は、原告花子に対し、同月三一日まで、炎症性膿瘍の治療を継続した。

(3) このように、被告は、第二次治療の時点においても、適切な診断と治療行為をし、また、転医の指示をしているから、債務不履行ないし不法行為は存在しない。

2  相当因果関係

(一) 仮に、原告花子の症状が、第一次治療及び第二次治療の各時点においてエナメル上皮腫であると診断することができたしても、その治療のためには、訴外病院で施されたのと同様の腫瘍摘出術を実施しなければならないうえ、その再発可能性などを考えると、原告花子が本件状態に陥ることは回避できなかった。

したがって、被告の行為と原告花子の損害との間には相当因果関係がない。

(二) 同様にして、被告の行為と原告一郎の休業損害との間には相当因果関係がない。

3  過失相殺

原告花子は、第二次治療の際、被告から大学病院で検査を受けるよう勧告されたのに、これに従わなかったのであるから、本件病状の悪化について相当程度の過失がある。原告らの請求については右過失を勘酌すべきである。

四  主たる争点

1  第一次治療及び第二次治療における被告の債務不履行の有無

2  被告の債務不履行と原告花子の本件状態との間の相当因果関係の有無

第三  争点に対する判断

一  本件治療の経過

前記基礎となる事実に加え、甲第二号証、第三号証の1ないし3、第五号証の1ないし3、第一四号証の1ないし26、第一六号証の1ないし10、第一七号証、検甲第一号証の1ないし3、第二号証の1・2、第三ないし第二三号証、乙第一号証の1・2、証人今岡工の証言(以下「今岡証言」という。)、原告甲野花子本人尋問の結果(以下「原告花子供述」という。)、被告供述(ただし、後記採用できない部分を除く。)及び弁論の全趣旨によれば、次の各事実が認められる。

1  被告から治療を受けるまで

原告花子が、昭和五九年四月二四日、昭和六〇年四月二五日に小学校の歯科検診を受けた際、右下六番歯(第一大臼歯)は存在したが、昭和六一年四月二五日の検診の際には同歯は存在しなかった。

2  被告における昭和六二年一〇月の治療について

原告花子は、昭和六二年一〇月当時、小学六年生であったが、口腔右側の奥付近に異常感を感じ、同月二七日、一人で、原告花子の家族も受診したことがある被告方(丙歯科医院)に赴いた。

しかし、被告は、右上六番歯、左上六番歯、左下六番歯、七番歯(第二大臼歯)についてう歯(虫歯)の治療を施したのみで、右側下顎部の歯の治療をしなかったが、原告花子はこれに対し何も言わなかった。

被告供述中右認定に反する部分は採用しない。

3  第一次治療について

(一) 原告花子は、昭和六三年八月一九日当時、中学一年生であったが、右下五番歯より奥にかけての部位(本件部位)が腫脹し、圧痛を感じたので、昭和六三年八月一九日<省略>、一人で、被告方に赴いた。

被告は、同日、本件部位に腫脹(右下七番の歯茎付近まで腫脹があった。)と圧痛があることを認め、右下の三番歯(犬歯)から七番歯付近にかけての部位について、局所的なレントゲン撮影を行った。

被告は、右レントゲンフィルム(「デンタルエックス線フィルム」、「部位レントゲン写真」などと呼ばれる。検乙第二号証の1は右レントゲンフィルムを撮影した写真である。)を見て、右下五番歯の歯根の遠心部(奥歯に向かう部分)に、特に黒い陰があること、また、右下六番歯が欠損し、右下七番歯が歯茎に埋伏した状態(歯冠部分が近心部(前歯の方向の部分)に向かって埋伏している。)であることを認めた。

被告は、原告花子の病名を、右下七番歯の未萌出による歯根炎ではないかと考え、同日、本件部位を消毒した。

(二) 被告は、同月二二日、右歯根炎により本件部位に膿が溜まっているとして、膿瘍を排出するため、右下七番歯の歯茎の付近を浅く切開した。しかし、出血のみで、膿瘍の排出はみられなかった。

被告は、炎症部位がもっと深部にあるために排膿しないのではなかろうかと考え、原告花子に対し、症状について説明せず、「痛みや腫れがあればすぐに来院しなさい。」と告げた。

なお、被告は、経過を観察するため、原告花子に対し、「二、三日してから」来院するよう告げた旨供述するが、右供述は採用しない。

4  第二次治療について

(一) 原告花子は、平成元年三月二三日、本件部位の腫脹及び圧痛が著しくなったので、一人で、被告方に赴いた。被告は、原告花子に対し、その際、第一次治療の後に、来院しなかった理由等を尋ねなかった。

(二) 被告は、原告花子の右頬部に腫脹と圧痛を認め、右下の三番歯から七番歯付近にかけての部位について、局所的なレントゲン撮影を行った。

被告は、右レントゲンフィルム(検甲第二号証の2は右レントゲンフィルムを撮影した写真である。)には、右下五番の歯根部分に、昭和六三年八月撮影のレントゲンフィルム(検甲第二号証の1の撮影対象であるレントゲンフィルム)のそれより大きな黒い像が写っていることを認め、その部分に膿瘍が存在すると考え、本件部位の腫脹と圧痛の原因は、右下五番歯の歯根膿瘍であると考えた。

被告は、本件部位を洗浄し、タカシリン(抗生物質)を投与した。

(三) 被告は、同月二七日、原告花子の右下五番歯の歯茎付近を切開したが、排膿がなかったため、先に投与したタカシリンの効果がなかったものと考え、再度、同剤を投与した。

被告は、その際、原告花子の症状の原因が歯根膿瘍でないことも考え、原告花子に対し、「悪化するようならば、大きな病院で診てもらいなさい。」と告げた。

しかし、被告は、原告花子に対し、適当な病院を指示したり、診察の際に持参すべき紹介書等を交付しておらず、原告花子の両親に対し、その病状を伝えたことももとよりなかった。

なお、被告は、原告花子に対し、大学病院で検査を受けるように述べると、原告花子は、春休みの間に検査を受けると答えた旨供述する。

被告は、原告花子の症状について、依然として歯根腫瘍であると考え、その治療のために、再度、タカシリンを投与し、後記のようにその後(同月二九日、三一日)も口腔内を洗浄したり、また、う歯の治療をするなど、緊急性があるとは考えにくい治療を継続していることなどに照らすと、被告が原告に対し、大学病院で検査を受けるように申し向けたことがあったとしても、一般的な注意喚起にとどまっていたものというべきであって、それによって具体的に通院・転院を指示したものとは認められない。

(四) 被告は、原告に対し、同月二九日、三一日、口腔内を洗浄し、左下六番歯と七番歯のう歯の治療をした。

原告花子は、その後、同年五月一五日まで歯科医院を訪れなかった。

4  被告における平成元年五月一五日の治療等について

(一) 原告花子は、平成元年五月一五日、本件部位の腫脹と圧痛を訴えて、被告方に来院した。

被告が大きな病院で検査してもらったかと尋ねると、原告花子は、行かなかったと答えたので、被告は、早く行くよう勧告した。

被告は、再度、タカシリンを投与し、原告甲野の右下五番歯の歯茎付近を切開したが、排膿はなかった。

被告は、右切開の結果、原告の病状が歯根膿瘍でないことに気づいたが、原告花子に対し、特段の指示もせず、同月一九日、二二日、二四日、他の歯牙について治療等を行った。

5  大阪赤十字病院(訴外病院)での治療経過

(一) 原告花子の本件部位の腫脹や圧痛が著しく、被告での治療が効を奏しないため、原告一郎は、平成元年五月二七日、原告花子に訴外病院を受診させた。原告花子の主治医は、訴外今岡工(以下「今岡医師」という。)であった。

今岡医師は、同日、本件部位に腫脹を認め、原告花子の歯部をレントゲン撮影したところ、レントゲンフィルムには、右下七番の歯が歯茎内に埋伏し、臼歯部奥の部分には骨吸収像があり、右下三番、四番、五番の各歯牙の下部までエックス線の透過像が認められた。今岡医師は、右のような状態等から、原告花子の疾病が歯原性の腫瘍又は嚢胞でないかと考え、同月二九日の病理組織検査の結果、「エナメル上皮腫」と確定診断をした。

今岡医師は、右エナメル上皮腫の手術について、原告花子の両親の意見を聞いたうえ、術式を腫瘍摘出術と定め、同年六月一五日、その手術を行った。原告花子のエナメル上皮腫は子供のこぶし大の大きさに成長しており、周囲の骨組織に浸潤し、腫瘍との接触面の骨組織は粗造な状態となっていたため、今岡医師は右腫瘍を一塊に摘出することができず、掻爬的に摘出すると共に、相当量の顎骨を除去し、これに伴って、右下三番ないし八番の各歯牙(ただし六番歯は欠損歯)を除去した。

(二) 原告花子は、訴外病院で経過観察を受けていたが、その後、レントゲン撮影の際、右側下顎部臼歯部付近に透過像が認められ、病理組織検査の結果、再度「エナメル上皮腫」と診断されたため、平成四年八月六日、腫瘍摘出術を受けた。

原告花子は、その後も症状の経過観察を継続して受けている。

二  被告の原告花子に対する債務不履行の有無について(争点1)

1  エナメル上皮腫について

甲第一三号証の1ないし3、鑑定人松矢篤三の鑑定結果(以下「松矢鑑定」という。)、今岡証言及び同松矢篤三の証言(以下「松矢証言」という。)によれば、次の各事実が認められる。

(一) エナメル上皮腫の形成過程、判断方法等

(1) 本来、口の上皮を覆う部分(口の粘膜)であった細胞が、胎児の骨が形成される過程で顎の骨の中に入っていき、歯(乳歯、永久歯)の芽(歯胚)を形成し、それが正常に生育すれば、歯を形成する。

しかし、歯を形成する細胞が離れて顎の骨内に残り、それが成長して腫瘍又は嚢胞を形成する場合がある。これは、歯の細胞そのものに起因して生ずるという意味で、「歯原性腫瘍」又は「歯原性嚢胞」といわれ、形成に関与する歯の組織などによって、歯原性腫瘍又は嚢胞の種類が異なる。エナメル上皮腫とは、発育中の歯の胚細胞、すなわち、エナメル芽細胞から生ずる腫瘍をいう。

(2) 歯原性腫瘍又は嚢胞の場合、比較的緩慢な速度で、その辺縁部が比較的明瞭のまま、拡大する。その意味で「良性」であるといわれる(たとえば、骨内の癌腫の場合、非常に速い速度で、浸潤的に拡大し、辺縁部は不明瞭になり、「悪性腫瘍」といわれる。)。ただし、エナメル上皮腫に限って、多くは拡大するが、部分的に浸潤する形態をとる。

エナメル上皮腫は、右のとおり拡大するところから、他の歯原性の腫瘍又は嚢胞と同様、比較的緩慢な速度で成長・拡大し、それによって歯根を傾けたり、歯根部分が吸収されて消失することが生じる。したがって、このような特徴がレントゲンフィルムにおいて認められれば(歯根の吸収・消失は、骨透過像として現われる。)、エナメル上皮腫をはじめとする歯原性の腫瘍又は嚢胞を疑うべきことになる。

しかし、エナメル上皮腫であると確定診断するには、病理組織的診断が必要である。

(二) エナメル上皮腫の発生頻度等

口腔疾患の大部分は、歯牙う触、慢性歯周炎、歯牙欠損で占められ、口腔疾患全体に対するエナメル上皮腫の発現頻度は極めて少ない。

しかし、口腔に発現する腫瘍に限定した場合、エナメル上皮腫の発生頻度はその一〇パーセント前後、歯原性腫瘍に限定した場合、その六〇パーセント以上とされ、その発生頻度は高いといわなければならない。

そのため、エナメル上皮腫は、歯科医学教授要項で教育すべき項目に挙げられ、また、歯科医師国家試験にも再々出題されており、歯科医師としては、エナメル上皮腫を疑うだけの知識を有していなければならないとされている(松矢鑑定)。

2  本件各治療時点の資料から考察できる原告花子の疾病について

(一) 第一次治療時点の資料から考察できる疾病

検甲二号証の1(昭和六三年八月一九日撮影のレントゲンフィルムを撮影した写真)、松矢鑑定、今岡証言及び松矢証言によれば、右レントゲンフィルムの右下五番歯(右下第二小臼歯)は傾き、同歯の遠心部から右下七番の埋伏歯付近におけて陰影が認められ、右陰影が骨透過像であると認めることができる。

右レントゲンフィルムでは、骨透過部分が不鮮明で、骨透過像の辺縁の境界が、明瞭な特徴を示す骨透過像であるのか(良性腫瘍の特徴である。)、不明瞭な特徴を示す骨透過像であるのか(悪性腫瘍の特徴である。)は明らかでない。

右下六番歯は、前記のとおり、昭和六〇年四月二五日から昭和六一年四月二五日までの間に欠損したが、右レントゲンフィルムから、その喪失の原因が、自然脱落であるか抜歯であるか等を判断することはできず、また、右下七番歯(右下第二大臼歯)が埋伏していることをもって、直ちに何らかの病的状態の部分症状ということはできない。

以上のレントゲン検査における原告花子の所見から考えられる疾患は、別紙3「疾病一覧表」記載のとおりである(松矢鑑定、松矢証言)。

同表記載の疾患のうち、腫脹と発赤を伴う、ある程度の圧痛があるという症状を具備するものとしては、まず第一に、同表記載「ヘ」の各疾病、すなわち顎骨の感染性疾患が疑われる。

しかし、右レントゲンフィルムから得られる所見と局所の腫脹は、顎骨の炎症性疾患のみを示す所見でなく、その他の疾病(腫瘍、嚢胞等)も否定できない所見である。前記のとおり、炎症性疾患に比し、腫瘍、嚢胞は希有な疾患であるが、その可能性は考えておく必要がある(松矢鑑定、松矢証言)。

(二) 第二次治療時点の資料から考察できる疾病

検甲二号証の2(平成元年三月二三日撮影のレントゲンフィルムを撮影した写真)と同号証の1を対比すると、同号証の2では、七か月間に、原告花子の口腔内の状態が次のとおり変化したことが認められる。

(1) 骨透過像が拡大した(右下五番、四番の歯牙の根尖の吸収、右下七番の埋伏歯の歯冠上方の骨組織像の透過像への変化、右下五番歯と四番歯との間及び四番歯と三番歯との間の歯槽骨の骨組織の一部透過像への変化)。

(2) 右下七番の埋伏歯が相対的に下方に移動した。

このことから考察できる最も可能性の高い疾病は、極めて希有な症状を除くと、歯原性腫瘍又は嚢胞である(松矢鑑定、松矢証言)。

前記のとおり、本件部位付近には腫脹、圧痛があったから、この場合、細菌感染によって炎症が併発したことを勘案する必要はあるとしても、歯原性腫瘍又は嚢胞の可能性が最も高いという結論は変わらない(松矢鑑定、松矢証言)。

(三) 本件全経過に照らしたうえで考察できる疾病

本件全経過に照らしたうえで、検甲第二号証の1をみると、右下五番歯遠心部の骨透過像は、エナメル上皮腫による骨透過像であり、遅くとも昭和六三年八月には、同部にエナメル上皮腫が存在したものと認められる。

検甲第二号証の1によると、右下五番歯根尖下部及び右下七番歯歯冠上部に骨組織の存在を示す骨の不透過像が見られる。このことから、この時期の腫瘍は、近心は右下五番歯付近、遠心は右下七番歯付近に囲まれる程度の大きさのものであったと認められる。

また、甲第一七号証の記載より、右下六番歯が昭和五九年四月二四日、昭和六〇年四月二五日には、正常な位置に萌出して存在していたことが推認できることから、当時、右エナメル上皮腫は、右下六番歯の発育及び萌出には影響を与えない程度の位置又は大きさであったと考えられる。

昭和六三年八月から平成元年五月までの九か月間の右エナメル上皮腫の発育速度は良性腫瘍としては速く、発育速度から逆算すると、右下第六歯の直下付近で昭和六〇年ころより急速に発育増大を開始し、昭和六三年八月撮影のレントゲンフィルムにおいて透過像と認められる程度の大きさに顕在化してきたと推認できる(松矢鑑定)。

3  医師の注意義務について

(一) 診断義務について

(1) およそ、医師、歯科医師(以下「医師等」という。)は、患者の生命、健康を管理すべき業務に従事しているのであるから、一般的医療水準を現実の医療の場で効果的に実現するように、その水準に沿った学問的技術的能力を具備すべきものであって、医師等としては、診療契約を締結した患者に対し、治療の成功という結果まで保障する義務はないが、右水準に沿った診断をし、これにしたがって、適切な診療行為をなすべき義務を負っているというべきである。

したがって、患者と診療契約を締結した医師等は、患者に対し、その症状を十分に観察し、必要な検査を行い、その結果等を総合して、当該疾病の病名等を可能な限り正確に推測すべき義務を負っている(診断義務)。

(2) 実際には、医師等は、患者の症状の観察・問診・検査等によって、まず、患者について一定の病名を診断し、これに従って治療が実施され、また、さらに検査が行われる。そして、その結果をみて、当初の診断内容が正確であったか否かを確認したり、また、診断内容を修正して、再度、検査・治療を実施することが行われ、こうした過程を経て正確な病名が判断されることになる。

したがって、通院の患者を経過観察する場合あるいは経過観察の途中で患者を退院させる場合においても、医師等は、患者に対し、経過観察する旨や再度診断する日時を告げるなどして、診断が続行していることを明確に認識させる必要があるというべきである。

(二) 転医指示義務について

また、医師等は、診断義務の一環として、当該患者の症状を診断・治療する具体的能力が不足していたり、また、必要な検査・治療の設備等を有していない場合、そのことが判明した段階で直ちに、右患者に対し、専門医や設備の完備した病院において速やかに受診するよう指示する義務(転医指示義務)を負っている。

そして、医師等は、右患者に対し、有効・適切な医療措置を受けることができるように、当該症状を診断できる能力や設備等を具備する病院名等を具体的に示し、必要に応じて紹介状を交付するなどしなければならないというべきである。

小学生ないし中学生の患者が、父兄等を同伴せず一人で受診しに来ている場合に、医師等は、右患者の症状が重大な疾病であるか、その可能性があるときは、右診断義務ないし転医指示義務に基づき、右患者の父兄に対し、直接、面談したり、あるいは、右患者に書面を交付するなどして、右患者の父兄に転医を指示する措置を講じるべきことは当然である。

4  被告の債務不履行の有無

(一) 第一次治療について

被告は、原告花子に対し、第一次診療契約に基づき、まず、顎骨の感染性炎症性疾患を疑い、その検査・治療をし、それが効を奏しなかった場合、別紙3「疾病一覧表」記載の他の疾病を疑い、それに応じた検査等をする義務(診断義務)を負っているというべきであり、そのために必要な検査設備等がない場合には、転医を指示すべき義務がある。

本件において、被告は、歯根炎を疑い、本件部位をレントゲン撮影し、さらに右下七番歯の下部の歯茎の切開を試みたが、膿瘍の排出はされなかった。

したがって、被告は、その時点で、同表記載の他の疾病の可能性を考慮する必要があったし(右下五番歯が傾いていることは骨組織の吸収を想定することも可能であったとも考えられる。)、経過を観察するというのであれば、次回の診察予定を明確に示すべきであった。

ところが、被告は、他の病気である可能性を考慮せず、原告花子に対し、「痛みや腫れがあればすぐに来院しなさい。」と述べただけであって、しかも、右文言は直ちに診療の続行を指示するものとは認められない。

しかし、原告花子は、この後第二次治療まで被告方に受診に来なかったため、被告による治療は行われないままであった。このような状況下では、被告の診療行為は万全を尽くしたものとは到底言い難いが、被告が直ちに原告花子のエナメル上皮腫を発見できなかったことについて、診断義務違反があるとまではいえない。

なお、被告は、一般開業医としては、腫脹と圧痛を主訴とする患者について、レントゲン検査等によってエナメル上皮腫を発見することは期待できないとも主張するが、歯科医師としては、前記のとおり、エナメル上皮腫を疑うべき知識が要求されるのであって、被告の右見解は採用できない。

(二) 第二次治療について

被告は、この段階においては、第一次治療の際に撮影されたレントゲンフィルムと第二次治療の際に撮影されたレントゲンフィルムを比較し、歯原性腫瘍及び嚢胞を疑うことが可能であったのに、これを歯根膿瘍と診断して、その治療及び検査をしたのみであった。

また、右下五番歯の歯茎を切開した結果、膿瘍が排出されなかったのであるから、被告としては、遅くともその時点で、他の疾病の可能性を疑うべきであった。

そして、その中には前記のとおり、重大な疾病も含まれているのであるから、被告としては、原告花子ないしその両親に対し、原告花子の症状を説明したり、必要があれば転医すべきことを明確に指示すべきであった。

ところが、被告は、原告花子に対し、「悪化するようならば、大きな病院で診てもらいなさい。」と述べたのみであるから、これでは被告において、十分な診断ないし転医指示を行ったということは到底できない。

もっとも、被告は、当時、第一次治療の際の歯根膿瘍が自然排瘍等によって治癒したと考えていたのであって、昭和六三年八月時と平成元年三月時の各症状に同一性があることを前提としたうえで、被告が疑うべき疾病を想定するのは妥当でない旨主張する。

しかし、前記説示のとおり、原告花子のエナメル上皮腫は第一次治療の時から既に存在していたのであり、被告としては、遅くとも第二次治療の際には、その存在を疑うことが可能であったというべきであり、被告の右主張には理由がない。

結局、被告は、遅くとも第二次治療の際には、診断義務ないし転医指示義務に違反したというべきである。

三  相当因果関係(争点2)

1  エナメル上皮腫の治療方法と再発可能性等について

甲第一三号証の1ないし3、松矢鑑定、今岡証言及び松矢証言によれば、次の各事実が認められる。

(一) エナメル上皮腫の治療方法としては、腫瘍摘出術、顎切除術、開窓術などがある。

(二) エナメル上皮腫は、前記のとおり、多くは拡大し、部分的に浸潤的に広がる疾病である。浸潤的に広がるとは、腫瘍の本体から細胞が骨の中を足を伸ばすように伸びていき、その先で大きくなることを意味し、腫瘍摘出術を用いて腫瘍本体を摘出しても、足を伸ばした部分が残ることが非常に多く、そのため、再発率は高い。

他方、顎切除術を用いた場合、再発率は低いが、患者の成長や生活等に大きな障害を残すことになる。

(三) そこで、保存的な治療として、再発を覚悟のうえ、腫瘍本体を摘出した後に、露出した周囲の骨の表皮を掻爬するなどして、ある程度腫瘍を除去し、患者の体内で骨が形成されることを期待するという腫瘍摘出術が多く用いられている。

なお、開窓術は、胞壁の一部を切除し、嚢胞腔を口腔に開放して、嚢胞の縮小を図るもので、若年者で、腫瘍が表層の近い場所にある場合に用いられるが、それのみでは、原告花子の症状に対する措置としては不適当であった。

2  被告の債務不履行と原告花子の損害との間の相当因果関係の有無

前記認定事実のほか、松矢鑑定、今岡証言及び松矢証言によれば、被告が診断義務ないし転医義務を怠ったと認められる第二次治療時点において原告花子のエナメル上皮腫が発見できたとしても、原告花子は実際に受けた腫瘍摘出術を回避することはできず、その後の経過についても同様であって、本件状態を回避することは困難であったといわざるを得ない。

してみると、原告らの損害と被告の第二次治療における債務不履行もしくは過失との間に相当因果関係を認めることができないことに帰着する。

四  結語

以上のとおり、原告らの請求は理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官林醇 裁判官亀井宏寿 裁判官桂木正樹)

別紙1治療費等支払明細(外来、入院別)<省略>

別紙2通院交通費明細<省略>

別紙3疾病一覧表

イ 歯原性嚢胞(濾胞性歯嚢胞、根側性歯根嚢胞、残留性歯根嚢胞、発育性歯周嚢胞、歯原性角化嚢胞、石灰化歯原性嚢胞)

ロ 歯原性腫瘍(エナメル上皮腫、腺様歯原性腫瘍、歯原性石灰化上皮腫、象牙質腫、歯原性粘液腫、歯原性線維腫、エナメル上皮線維腫、エナメル上皮歯牙腫)

ハ 非歯原性腫瘍及び腫瘍類似疾患(顎骨中心性血管腫、顎骨内神経鞘腫、巨細胞腫及び好酸球肉芽腫)

ニ 偽嚢胞(単純性骨嚢胞、脈瘤性骨嚢胞、静止性骨空洞)

ホ 悪性腫瘍(顎骨中心性癌、骨中心性線維肉腫、骨肉腫、軟骨肉腫、孤立性骨髄腫、横紋筋肉腫、転移癌、悪性エナメル上皮腫、エナメル上皮線維肉腫)

ヘ 顎骨の感染性炎症性疾患(根尖性歯周炎(歯根膿瘍を含む。)、歯槽骨炎、骨髄炎)

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