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名古屋高等裁判所 昭和60年(ネ)362号 判決 1991年10月31日

主文

本件訴訟をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

控訴人ら代理人は「原判決を取り消す。被控訴人らは各自、控訴人宮地孝典に対し金八三九八万四二六四円、控訴人宮地邦一、控訴人宮地千重子に対し各金五〇〇万円、及び右各金員に対する、被控訴人医療法人愛生会については昭和五〇年八月二九日より、被控訴人鳥本雄二については同月三〇日より、被控訴人福田浩三については昭和五一年九月一七日より、各支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決、並びに仮執行の宣言を求め、

被控訴人ら代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張は、次に訂正・付加する外、原判決の事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。

(控訴人ら代理人の陳述)

1  原判決三枚目表八行目から同四枚目表七行目までを、次のとおり改める。

「2 診療契約

控訴人孝典は、昭和四九年九月二五日(以下特に日付けを示さないときは、同日の出来事である)午前零時三〇分頃、腹痛と発熱を訴えて、救急自動車で被控訴人病院に運ばれ、そこで、同病院当直医水野恵介の緊急診療を受けたところ、経過観察のうえ加療を要するとの診断であったので、被控訴人病院内科病棟に入院した。そして、被控訴人鳥本は、午後四時頃控訴人孝典を診察して虫垂炎と診断し、付き添っていた控訴人千重子に対し、虫垂切除手術(以下「本件手術」という)を勧告した。そこで、連絡を受けた控訴人邦一及び控訴人千重子は、控訴人孝典の法定代理人として、被控訴人病院との間で、本件手術及びこれに付帯する医療処置を目的とする診療契約(以下「本件診療契約」という)を締結した。」

2  原判決四枚目表九行目の「第二次医療契約」と「本件診療契約」に改める。

3  原判決五枚目表四行目から同六枚目表八行目までを、次のとおり改める。

「即ち、本件医療事故は、腰麻ショックにより生じたものであり、迷走神経反射またはアナフィラキシーショックによるものではない。

腰麻ショックは、次のようなメカニズムにより発生するものとされている。<1>腰麻により交感神経がブロックされ、末梢血管が拡張する。そのために末梢血管の抵抗が減少して血圧が下がる。<2>腰麻により交感神経がブロックされ、末梢血管が拡張し、拡張した血管内に血液が貯留されるため、心臓に戻ってくる静脈環流が減少し、心拍出量が減少して血圧が下がる。<3>腰麻により交感神経がブロックされ、筋肉が弛緩し、血液を絞り出す作用が低下して、心臓に戻ってくる静脈環流が減少し、心拍出量が減少して血圧が下がる。<4>麻酔の効果がある程度以上の高さになると、心臓にいく交感神経がブロックされ、心拍数が減少して血圧が下がる。そして、腰麻を行った場合、血圧が低下し始めると、短時間のうちに著しく低下することがあり、血圧が下がっていることに気づかないでいると、心拍数がどんどん落ち、さらに血圧が下がり、ついには心停止に至ることがある。また、血圧がどんどん下がると、脳への血流が減少し、中枢が低酸素症に陥り、呼吸が抑制されたり、停止したり、意識が消失したりする。

被控訴人鳥本は、午後四時四〇分に血圧を測定のうえ、直ちに腹部の切開に着手したが、午後四時四五分には血圧の最高値が五〇という異常な数値が認められたのであるから、午後四時四〇分から四五分までの五分間に血圧が段階的に降下したのであって、そのときにはすでに控訴人孝典の唇にチアノーゼが発現していたこと、また、心電図のモニターに不規則な心室性期外収縮が認められたことからすれば、控訴人孝典は腰麻ショックに陥っていたものと推認される。その結果、血圧の低下、呼吸機能及び心機能の低下をきたし、ついには呼吸停止、心停止に至り、心停止状態が三分以上継続した。このため、控訴人孝典の脳に対する酸素の供給が不足し、脳機能低下症が発症した。」

4  原判決六枚目表九行目から同一一枚目表六行目までを、次のとおり改める。

「4 控訴人孝典に脳機能低下症を惹起させたについては、被控訴人鳥本及び被控訴人福田に、次のような過失があった。

(一)  腰麻施術前の安全配慮義務を怠った過失

控訴人孝典は、昭和四九年九月二四日朝から三七・五度Cの発熱と咳があり、同日午後一一時三〇分頃には腹痛を訴えて、嘔吐があり、同夜被控訴人病院に入院したもので、翌日は小児用の全粥が指示されているが、被控訴人鳥本は、控訴人孝典を診察した際、同人及び保護者に水分等の摂取の状況につき、問診をした形跡が認められない。しかし、輸液の不足による循環血液量の減少が、腰麻ショックによる循環抑制と低酸素症を促進して心停止に至る原因となることがあるから、被控訴人鳥本としては、仮に控訴人孝典に著明な脱水症状がなかったとしても、同人が同日十分な経口摂取をしていなかった可能性を考慮して、前記のような循環血液量の減少がありうることは当然予想すべきであって、麻酔実施前に十分な輸液を施して、腰麻ショックの予防を図っておくべきであった。

(二)  麻酔剤注入後の管理、監視義務を怠った過失

腰麻においては、常に血圧の降下を予見し、特に麻酔剤注入後一〇分ないし一五分間は、一ないし二分毎に頻繁に血圧を測定し、血圧の動向を監視すべきである。使用された麻酔剤であるペルカミンSの添付文書(能書)には、使用上の注意事項として二分間隔での血圧測定の必要が明記されていたところ、右薬剤を使用する医師として、使用上の注意事項を遵守することは、基本的な注意義務である。また、絶えず顔色、脈拍、呼吸抑制の有無についても観察を続けるべきであるとされ、心電図による監視も必要とされているのである。そして、血圧の降下、顔面蒼白、脈拍異常、呼吸抑制などの症状を認めたときは、直ちに昇圧剤の投与、輸液、酸素吸入、人工呼吸、体位の変換などの適切な処置をとるべきであるとされている。しかも、控訴人孝典のように、低年齢(当時七歳五か月)の児童であって、前日から急性上気道炎に罹患して、経口摂取の不足により、循環血液量の減少が生じやすいことが予見できる場合には、特に右の監視を厳重に行うべきであり、頻繁な血圧測定と心電図による監視は不可欠であるというべきである。

しかるに、被控訴人鳥本は、午後四時三五分に麻酔剤を注入した後、血圧の変動が生じやすい最も危険な時期である午後四時四〇分から、異常に気づいた午後四時四五分まで、血圧を測定せず、また、心電図のモニターのためのカルジオスコープも作動させなかった。そして、被控訴人鳥本が、午後四時四五分頃控訴人孝典の異常に気づいたときは、同人は、すでに口唇にチアノーゼが現れ、血圧は触診によって最高値五〇と辛うじて測定されるほどに重篤な状態となり、低酸素症に陥っていたのである。もし、頻繁な血圧測定と心電図のモニターにより、血圧の降下を早期に認めていたなら、素早く昇圧剤を投与し、点滴の速度を早くするなどの、血圧降下防止の処置を施し、右のような状態に陥るのを十分回避しえたはずである。

(三)  腹部切開手術の着手が早期にすぎた過失

腰麻においては、麻酔剤注入後一〇分ないし一五分間は、麻酔剤が流動的であるため、血圧降下などの変動を注意深く監視すべきであって、その間は切開手術に着手することを差し控えるべきである。

しかるに、被控訴人鳥本は、麻酔剤を注入した五分後の午後四時四〇分には開腹手術に着手したが、もし、血圧下降の最も危険域である右の一〇分ないし一五分の時間帯に切開手術に着手することなく、血圧の変動等を監視するという一般に要請されている慎重な態度をとり、その間も厳重な監視を継続していたならば、腰麻ショックに陥る前の異常な徴候を早期に発見し、適切な処置を施したうえで切開手術に着手することにより、本件事故の発生を回避できたことが明らかである。

(四)  適切な救急蘇生の処置を怠った過失

腰麻ショックなどにより、血圧降下、呼吸抑制、心機能低下などの異常事態が発生したときの、救急蘇生の処置としては、まず、気道の確保、人工呼吸(酸素吸入)、心臓マッサージを行うべきである。しかし、被控訴人鳥本が右のような救急蘇生の処置をしたかどうか、極めて疑わしい。

また、次のような適切な薬剤の投与を怠った過失もある。即ち、まず、被控訴人鳥本は、血圧降下の異常事態に気づいた時点で、メキサン一アンプルを静注しているが、メキサンは気管支痙攣を促進する作用があるので、エフェドリン、カルニゲンを投与すべきであった。次に、被控訴人福田は、控訴人孝典が心停止に陥ったので、直接心臓腔内にノルアドレナリンを注射したが、心蘇生のためにはアドレナリン(ボスミン)を投与すべきであった。さらに、被控訴人福田は、気管支痙攣に対する投薬として、アドレナリン(ボスミン)を筋注したが、すでに全身の循環に著しい障害が生じている状態のもとでは、即効を期するため、確保されていた静脈路に注射すべきであった。」

5  原判決一一枚目表七行目から同裏末行までを、次のとおり改める。

「5 債務不履行責任

被控訴人鳥本及び被控訴人福田は、いずれも被控訴人病院の履行補助者である。

したがって、被控訴人病院は、被控訴人鳥本及び被控訴人福田の、前記過失により発生した、控訴人らの後記7の損害につき、本件診療契約に基づく債務不履行責任を負うべきである。

6  不法行為責任

(一)  被控訴人鳥本及び被控訴人福田は、前記過失により、控訴人孝典に脳機能低下症を発症させ、控訴人らに後記7の損害を蒙らせた。したがって、被控訴人鳥本及び被控訴人福田は、不法行為により、控訴人らが蒙った右侵害を賠償すべきである。

(二)  被控訴人病院は、被控訴人鳥本及び被控訴人福田の使用者である。被控訴人鳥本及び被控訴人福田は、いずれも被控訴人病院の事業である医療業務に従事中、前記過失により控訴人らに後記7の損害を蒙らせた。したがって、被控訴人病院は、民法七一五条により、控訴人らが蒙った右損害を賠償すべきである。なお、被控訴人病院に対する、本件診療契約の債務不履行に基づく損害賠償請求と使用者責任による損害賠償請求とは、選択的に請求する。」

6  原判決一四枚目表二行目と三行目の間に、行を変えて次のとおり加える。

「8 仮に、本件において、控訴人孝典に低酸素性脳障害という結果が避けられなかったとしても、診療契約は、一般に準委任契約と理解されており、医師は治癒という結果を請け負っているのではなく、治療に向けて最善を尽すことを給付の内容としているものと解される。医師が不適切な治療をしたときは、そのこと自体が債務不履行となり、患者は少なくともそのことにより蒙った精神的苦痛について、慰謝料請求権を有すると解すべきである。控訴人孝典は、被控訴人らの不適切な医療行為により、幼くして脳に損傷を受け、心身に重い障害を受けながら、今後の長い人生を送らなければならないことを思えば、少なくとも控訴人らの被控訴人病院に対する慰謝料請求は、認容されるべきである。」

(被控訴人ら代理人の陳述)

1  原判決一四枚目表五行目の「同2(一)」から同末行の末尾までを「同2の事実も認める。」に改める。

2  原判決一四枚目裏二行目から同八行目までを、次のとおり改める。

「 本件医療事故が腰麻ショックにより生じたとの主張は、争う。

本件ショックは、被控訴人鳥本が本件手術を施行中、逆行性に切除すべく、虫垂根部をペアン鉗子で挟み、腹膜のあたりに牽引したときに、迷走神経に刺激が加わったため、迷走神経反射により生じた。」

3  原判決一四枚目裏九行目から同一五枚目裏三行目までを、次のとおり改める。

「4 同4(一)の主張は争う。昭和四九年当時、迷走神経反射による心停止、気管支痙攣は、議論の対象となっておらず、術前に補液した方がよいとの考えも、医師会の指針とか、医学の常識になっていなかったから、これをしなかったことをもって、過失があったということはできない。

同4(二)のうち、ペルカミンSの添付文書に、注意事項として二分間隔での血圧測定が記載されていたことは認めるが、その主張は争う。血圧測定については、昭和四九年当時、五分間隔で測定するのが常態であり、外科医の常識であった。前記ペルカミンSの添付文書による注意書は、広く外科医に行きわたらず、その常識とならなかった。また、そもそも本件では、二分毎の血圧測定により、血圧の低下が早期に発見できたか否か疑問であり、さらに発見できても、心停止等のショックを必ず防ぎ得るものでもない。そしてまた、心電図モニターを装着していなかったことも、当時としては適正を欠いていたといえない。

同4(三)の主張も争う。昭和四九年当時、ほとんどの外科医は、同じような時間に手術に着手していた。また、控訴人ら主張のように、手術の開始を遅くすれば、本件ショックを防ぎえたものでもない。

同4(四)の主張も争う。被控訴人鳥本は、まず気道を確保して人工呼吸をし、カルジオスコープを装着させ、その波形をみて心マッサージに及んでおり、被控訴人鳥本の救急蘇生処置に誤りはない。また、薬液の投与についても、控訴人ら主張の薬液との間で、結果に差はでない。」

4  原判決一五枚目裏四行目の「被告鳥本」の次に「及び被控訴人福田」を加える。

5  原判決一五枚目裏七行目と八行目の間に、行を変えて次のとおり加える。

「8 同8の主張は争う。本件では、慰謝料請求ができるほどに、不適切な医療は行われていない。」

6  原判決二二枚目表末行の「迷走神経反射か、」から同裏三行目末尾までを「迷走神経反射に起因するものである。そして、迷走神経反射が原因となっておれば、その防止は不可能である。」に改める。

7  原判決二二枚目裏四行目の「原告ら」から同五行目末尾までを削り、同六行目の「請求原因3(三)(1)で主張する事故原因のうち」を「主張する」に改め、同二三枚目表三行目の「なったので」を「なって、気管支痙攣も認められたので」を加える。

8  原判決二三枚目表五行目から同二九枚目表九行目までを削る。

(証拠関係)(省略)

理由

一  請求原因1、2の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二  「控訴人孝典の症状及び診療の経過」については、次に訂正・付加する外、この点に関する原判決の理由説示(原判決三二枚目表五行目から同四二枚目表末行まで)と同一であるから、ここにこれを引用する。

1  原判決三二枚目表六、七行目の「前掲乙第一号証の一九、二〇」を削り、同八行目の「一六、」の次に「一九、二〇、」を、同九行目の「乙第五号証、」の次に「弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第八号証、」を、同一〇行目の「証言、」の次に「原審における控訴人宮地邦一(第一回)、同控訴人宮地千重子(但し、右控訴人らについては、後記信用しない部分を除く)、」をそれぞれ加える。

2  原判決三二枚目裏三行目の「落合医師」を「被控訴人病院内科医落合弘光医師(以下「落合医師」という)に改め、同八行目の「発赤しており、」の次に「体温は三七度三分で、」を加え、同三四枚目表八行目の「三分」を「七分」に、同一〇行目の「命じた、」を「命じたところ、」にそれぞれ改め、同じ行の「正常値」の次に「(四五〇〇~九〇〇〇)」を、同裏三行目の「受けた後」の次に「、腹部を」を、同三七枚目表一行目の「認められた。」の次に「腹膜を切開したとき、常時脈拍をとっていた吉村看護婦から、異常が生じたとの報告はなかった。」をそれぞれ加え、同一〇行目の「ペアン鉗子を離し、」を「虫垂根部をペアン鉗子で挟んだまま手を離し、」に改め、同裏一行目の「チアノーゼ」の次に「様のもの」を、同二行目の「求めたところ、」の次に「「聴診器で測定できなかったため、触診で」をそれぞれ加え、同三八枚目表二行目の「気道を確保して左手で顔面に酸素マスクをあて、」を「左手の薬指、小指、中指を使い、控訴人孝典の下顎を上げて気道を確保し、親指と人差し指を使って、酸素マスクを顔面に密着するよう押しつけて、」に改め、同裏二行目の「被告福田は」の次に「来客のため」を、同三九枚目表末行の「右発言は」の次に「、控訴人邦一の義兄である」をそれぞれ加え、同四二枚目表五行目と六行目の間に、行を変えて、

「11 その後、控訴人孝典は、同月三〇日まで被控訴人病院に入院し、それから転院して同年一一月七日まで名古屋大学付属行院に、また転院して昭和五〇年五月一九日まで国立名古屋病院に、さらに転院して伊豆韮山温泉病院に同年六月二一日までそれぞれ入院した後、自宅に帰り、同年七年一九日から同月二四日まで一時城北病院に入院した以外は、今日に至るまで自宅療養を続けているが、病態の改善はみられなかった。」を加え、

同六行目の「11」を「12」に改める。

三  そこで、控訴人孝典が陥った脳機能低下症の原因について、検討することとする。

1  原審証人百瀬隆、同弥政洋太郎、同浅井昭、当審証人芦沢直文、同宮崎正夫の各証言、原審鑑定人藤田昌雄、当審鑑定人宮崎正夫、同岩井誠三の各鑑定の結果によると、次の事実を認めることができる。

(1)腰麻に伴う医療事故の結果、脳機能低下症に陥る原因としては、<1>腰麻剤ペルカミンS(ジブカイン)によるアナフィラキシーショック、<2>高位腰麻ショック、<3>腰麻ショック、<4>迷走神経反射によるショック、の四つが考えられる。 (2)アナフィラキシーショックとは、一般に抗原によって感作された個体に、同一抗原を再度投与することによってみられる即時型反応のうち、急激な全身症状を伴うものをいい、皮膚の発赤、じんま疹様発疹、掻痒感、顔面と眼瞼の浮腫、声門浮腫、気管支痙攣が生じ、血圧低下、徐脈、呼吸困難となり、治療に反応しないときは、心停止に至ることがあるとされている。しかし、ジブカインによるアナフィラキシーショックは、一般に極めて稀である。 (3)通常高位腰麻というのは、脊髄クモ膜下腔内に注入された麻酔剤が、脳脊髄液中で拡散され、麻痺高が乳腺(T4)以上に及ぶ場合をいい、これがために、呼吸筋(肋間筋、横隔膜)が麻痺して、呼吸抑制、呼吸停止をきたす場合を、高位腰麻ショックという。しかし、高位腰麻ショックに陥ると、一時間程度は自発呼吸が戻らない。 (4)腰麻ショックというのは、その定義が困難であるが、控訴人らの主張をも参考にして、本件においては、腰麻剤の影響により、血圧が段階的に降下し、脳への血流が減少して、脳中枢が低酸素症に陥り、呼吸抑制、呼吸停止となり、ついには心停止にまで至るショック状態のことを指称するものとする。そして、血圧降下の機序は、<1>腰麻剤により交感神経がブロックされて末梢血管が拡張し、その抵抗が下がって血圧が下がる、<2>末梢血管が拡張すると、その血管内に血液が貯留されて心臓への静脈環流が減少し、心拍出量が減少して血圧が下がる、<3>交感神経がブロックされて筋肉が弛緩し、血液を絞り出す作用が低下して、静脈環流が減少し、同様に血圧が下がる、<4>麻酔の効果がある程度以上の高さになると、心臓にいく交感神経がブロックされて、心拍数が減少して血圧が下がる、というものである。 (5)腰麻剤のため、自律神経の一方である交感神経がより強度に抑制され、他の一方の副交感神経である迷走神経が相対的に優位になると、腹膜刺激、腸管牽引などの手術操作による機械的刺激が加わった場合、迷走神経反射が起こり、急激な徐脈、血圧降下、呼吸抑制をきたすことがある。また、副交感神経が優位になると気管支痙攣の発生しやすい状態になり、これによる低酸素症は迷走神経反射をさらに増強させ、ついには心停止、脳死に至ることもありうる。

2  これを本件についてみるに、まず、ペルカミンSの主成分である塩酸ジブカインによるアナフィラキシーショックは、極めて稀であるうえ、控訴人孝典には、その初発症状である全身発赤、掻痒感、顔面眼瞼浮腫が認められないから、アナフィラキシーショックが控訴人孝典の脳機能低下症の原因であるということはできない。また、前記認定の事実によると、被控訴人鳥本が、腰麻剤を注入後、手術開始前に、ルンバール針で控訴人孝典の腹部を突いて、麻酔高を剣状突起の下二、三センチメートルのところであることを確認しているうえ、午後四時四五分頃、控訴人孝典が「気持が悪い」と訴えたというのであるから、当時はその言葉を発声しうる程度の呼気量を確保するだけの呼吸筋の作動能力を有していたわけであり、その上、ショック状態に陥って自発呼吸が消失した後、午後四時五五分頃には再び自発呼吸が回復したことからすると、控訴人孝典が高位腰麻ショックに陥っていたということもできない。

3  結局、当審証人宮崎正夫の証言、原審鑑定人藤田昌雄、当審鑑定人宮崎正夫、同岩井誠三の各鑑定の結果を総合して判断するに、前記認定事実のうち特に、被控訴人鳥本が午後四時四四、五分頃、虫垂根部をペアン鉗子で挟み、腹膜のあたりまで牽引したとき、控訴人孝典が急に「気持が悪い」と悪心を訴え、それとほぼ同時に吉村看護婦が脈が遅く弱くなったと報告したこと、そのときの控訴人孝典の顔色は蒼白で、唇にチアノーゼ様のものが認められたこと、被控訴人鳥本は直ちに酸素吸入をしたが、次第にバグの加圧に抵抗を感じ、被控訴人福田の聴診によって肺部に喘息様の音が聴かれ、控訴人孝典は気管支痙攣に陥っていることが判明したという事実に着目すると、控訴人孝典は、午後四時三二分頃腰麻剤の注入を受けた後、次第に呼吸抑制の外、上気道炎による発熱により、換気量減少をきたし、午後四時四〇分直後から血圧低下の傾向もあったため、低酸素症の状態になっていたところ、午後四時四四、五分頃、虫垂根部を牽引するという機械的刺激を機縁として迷走神経反射が起こって、徐脈、急激な血圧降下に陥り、直ちに酸素吸入の処置がとられたものの、低酸素症により増強された迷走神経反射のため、続いて起こった気管支痙攣により、換気不全となり、また、一時期心停止の状態にもなり、心臓マッサージは継続されていたが、自発呼吸が回復した午後四時五五分頃までの間、脳への酸素供給が途絶したか、または著しく減少したため、控訴人孝典は、重篤な後遺症(いわゆる脳死)を残した脳機能低下症となったものというべきである。

もっとも、当審証人芦沢直文は、胃のような内臓を牽引した場合ならともかく、虫垂根部を牽引しただけで、本件のような気管支痙攣を起こすとか、心停止に至るとかの強烈な迷走神経反射は、その分布状態からみても、また経験からしても、起こりえない旨証言し、いずれも原本の存在及びその成立の争いのない甲第二〇号証、第三四号証、いずれも弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二一号証、第二六号証にも、同趣旨の記載があるが、その根拠が必ずしも明確でないうえ、前記当審鑑定人宮崎正夫、同岩井誠三の各鑑定の結果は、本件の場合に迷走神経反射の発生を肯定していることに照らし、右芦沢直文の証言及び右各甲号証は、いずれも採用できない。また、当審証人芦沢直文は、前記認定に係る心室性期外収縮は、著しい低酸素症によって説明すべきである旨証言するが、当審鑑定人宮崎正夫の鑑定の結果によると、心室性期外収縮は、迷走神経反射の時に発生する典型的な不整脈でないとはいえ、迷走神経刺激によっても出現しうることが認められるので、心室性期外収縮がみられたことをもって、迷走神経反射でないということはできない。

4  以上の認定判断に反する限りにおいて、控訴人孝典の脳機能低下症の原因に関する、控訴人ら及び被控訴人らの主張は、いずれも採用できない。

四  そこで、控訴人ら主張の過失の有無について、検問することとする。

1  腰麻施行前の安全配慮義務を怠った過失について

なるほど、原審における控訴人宮地千重子本人尋問の結果によると、控訴人孝典は、本件手術の前日である九月二四日朝から咳が出て、体温が三七・五度あったため、午前中に小児科の馬嶋医院で診察してもらったところ、風邪であるとの診断であったが、同日午後二時頃に腹痛を訴え、夜薬を飲ませたところ、また腹痛を訴えて、咳をし、咳にむせて嘔吐もし、さらに午後九時三〇分頃と午後一一時三〇分頃にも腹痛を訴え、唇が紫色になったため、救急車で被控訴人病院にかけつけたことが認められ、また、前記認定の事実によると、翌九月二五日午前一〇時三〇分頃落合医師によって急性上気道炎と診断され、そのときの体温が三七・三度であり、さらに午後二時三〇分には三七・七度であったことが明らかである。そして、当審証人北原哲夫の証言により真正に成立したものと認められる甲第二七号証、当審証人芦沢直文の証言では、控訴人孝典には手術前輸液が必要であったとの指摘があり、また、当審鑑定人宮崎正夫の鑑定意見でも、前日からの水分摂取が十分であったかどうか明らかでないとしながらも、急速な心停止に至った一つの原因として、輸液の不足による循環血液量の減少が考えられるとしている。

しかしながら、前顕乙第一号証の一〇によると、控訴人孝典に対する病院食は、小児全粥と指定されているうえ、原審における被控訴人鳥本雄二本人尋問の結果(第一回)によると、被控訴人鳥本は本件手術前控訴人孝典を診察したとき、皮膚の状態を観察して、脱水状態ではないと判断していること、さらに、当審鑑定人岩井誠三が、控訴人孝典の診療録に脱水を推認させる、嘔吐、下痢、体温上昇、頻脈等の臨床記載がないことから、多少の脱水のあったことは推測されるとしながらも、それが本件において重要な因子として作用したとは考えられない、としているので、被控訴人鳥本が、本件手術前控訴人孝典に輸液をしなかったことをもって、同被控訴人に過失があったと認めることはできない。

2  麻酔剤注入後の管理、監視義務を怠った過失について

まず、血圧の測定に関して判断するに、なるほど、ペルカミンSの添付文書に、注意事項として二分間隔での血圧測定が記載されていたことは、当事者間に争いがなく、また、前記認定の事実によると、被控訴人鳥本は、本件手術を行うに当たり、吉村看護婦に対し五分毎に血圧を測定して、その報告をするよう指示したのみであって、午後四時四〇分に血圧を測定した後、直ちに本件手術を開始している。一方、前顕甲第二六、二七号証、成立に争いのない甲第二五号証、いずれも原本の存在及びその成立に争いのない甲第二四号証、第二九乃至第三三号証、当審証人芦沢直文、同北原哲夫の各証言によると、外科医である北原哲夫は、腰麻につき研究するうち、腰麻剤注入後一五分ないし二〇分の間が血圧降下を伴ういわゆる腰麻ショックが発生する危険度が高いので、その間は頻回に血圧を測定すべきであるということを、昭和三〇年代の早い時期から提唱して、昭和三五年には二分毎に血圧を測定すべきであると論文に発表し、昭和四〇年には同趣旨をラジオを通じて講演したこともあり、昭和四七年には同人の要望により、ペルカミンSの添付文書(能書)にも、血圧対策として、腰麻剤注入前に一回、注入後は一〇ないし一五分まで二分毎に血圧を測定すべきことが記載されるに至り、次第に他の医師の賛同を得てきたことが認められる。

しかしながら、当審証人宮崎正夫の証言によると、北原医師の提唱にも拘わらず、昭和四九年頃は、血圧については少なくとも五分間隔で測るというのが、一般開業医の常識であったことが認められ、また、当審鑑定人宮崎正夫の鑑定書添付の資料<4>、及び当審鑑定人岩井誠三の鑑定書添付の資料2によると、麻酔医横山和子は、昭和五八年九月に発行された書物の「脊椎麻酔の合併症」という著述の中で、血圧低下は脊椎麻酔施行後一五分以内に発現することが多い、と記載するのみで、血圧測定の間隔については言及がないことが認められる。そうすると、本件手術当時の医療水準を基準にする限り、腰麻剤注入後一〇ないし一五分まで二分毎に血圧を測定せず、五分毎の測定を指示したにすぎないことをもって、被控訴人鳥本に過失があったということはできない。もっとも、医師が使用する薬剤について、その能書に記載された注意事項を遵守することは、医師として当然の義務であるから、この観点からすると、被控訴人鳥本には注意義務違反があったというべきである。

次に、心電図モニターを装着しなかったことについて判断するに、当審鑑定人宮崎正夫、同岩井誠三の各鑑定の結果によると、全身麻酔であればともかく、腰麻でしかも本件のように虫垂切除術の場合には、術前から不整脈の有する症例、心機能に異常がある場合、また異常が予想される場合に使用されるが、術前に異常が認められず、また心機能に異常発生の可能性がないと判断された場合には、本件手術当時心電図モニターを装着しないのが、第一線医療の現実であったことが認められるので、心電図モニターを装着しなかったことをもって、被控訴人鳥本に過失があったということはできない。

その外、前記認定の事実によると、被控訴人鳥本は、吉村看護婦に対し常時控訴人孝典の脈拍をとることを、また山内婦長に対し控訴人孝典の顔面等の監視に当たるよう、それぞれ指示していたのであるから、術中の患者に対する監視体制に格別不備な点があったということはできない。

なお、前記被控訴人鳥本における二分毎に血圧を測定する義務に違反した点については、仮に能書の指示どおり血圧を測定していたとしても、控訴人孝典が急に「気持が悪い」というまで、吉村看護婦も山内婦長も控訴人孝典の異常に気づかなかったのであるから、果たしてより早期に異常を発見しえたかどうか明確でないうえ、前記認定判断によると、控訴人孝典の脳機能低下症は、迷走神経反射を機縁に発生した気管支痙攣のため、被控訴人鳥本らの蘇生処置にも拘らず、換気不全に陥り、脳への酸素供給が不足したことが原因となったというべきであるから、血圧を二分毎に測定しなかった注意義務違反と控訴人の脳機能低下症との間には、因果関係が存しないということになり、結局、被控訴人鳥本の右注意義務違反も、控訴人孝典の脳機能低下症との関係での過失には該当しないといわなければならない。

3  腹部切開手術の着手が早期にすぎた過失について

当審鑑定人宮崎正夫の鑑定の結果によると、腰麻剤による循環及び呼吸の変動は、腰麻施行後一五分間のうちに起こることが多いから、本件手術はこの不安定期に施行されたことになるが、当審証人宮崎正夫の証言によれば、昭和四九年当時腰麻施行後短時間のうちに手術が開始される例が多かったことが認められるし、患者に異常が発生した場合に備え、その監視体制を整え、これを早期に発見して、適切な救急処置をとることの方がより重要であるというべきであるから、被控訴人鳥本が腰麻剤を注入した約八分後に、本件手術を開始したことそれ自体をもって、同被控訴人に過失があったということはできない。

4  適切な救急蘇生の処置を怠った過失について

前記認定の事実によると、被控訴人鳥本は、異常発生により手術を中止した後、控訴人孝典をトレンデレンブルグ体位に変え、看護補助者沢地を介して被控訴人福田及び山口医師に応援を頼み、自らは控訴人孝典の気道を確保しながら酸素マスクをあてて、バグを加圧しつつ酸素吸入を施し、同時に吉村看護婦に指示して、昇圧剤メキサン一アンプルを三方活栓から急速に静注させるとともに、山内婦長に指示して、心電図のモニターを開始させたこと、また、被控訴人福田は、手術室に駆けつけるや、吉村看護婦に指示して、副腎皮質ホルモン剤ソルコーテフ一〇〇mgの静脈急注とノルアドレナリン一アンプルを点滴液内から混注させるとともに、心臓マッサージを実施したこと、山口医師が到着してからは、同医師が呼吸管理を担当して、気管内チューブの気管内挿管をし、バグの加圧やマウスツーマウスを交互にする一方、被控訴人鳥本は、被控訴人福田と交代して心臓マッサージを行い、さらに被控訴人福田は、心臓腔内に直接ノルアドレナリン一アンプルを注射し、気管支痙攣に対処するため、吉村看護婦に指示して、ボスミン二分の一アンプルを右上膊部

に筋注させたことが明らかであるから、右事実からすると、被控訴人鳥本及び被控訴人福田に、救急蘇生処置そのものの点で過失があったということはできない。

また、その際使用した薬剤とその施行方法については、当審証人芦沢直文の証言、及び当審鑑定人宮崎正夫の鑑定の結果によると、被控訴人鳥本が異常事態の発生に気づいた際、メキサン一アンプルを静注した点について、メキサンよりもエフェドリンまたはカルニゲンを使用した方がよい、また、被控訴人福田が控訴人孝典の心停止に対して、心臓腔内にノルアドレナリンを注射した点について、ノルアドレナリンよりもアドレナリンの方がよい、さらに、被控訴人福田が気管支痙攣に対処するため、ボスミンを筋注した点について、筋注よりも静注した方がよい旨、それぞれ指摘されていることが認められるが、右鑑定の結果及び当審証人宮崎正夫の証言によっても、要は相対的な問題であって、被控訴人らの処置が決定的に誤りであり、一方右鑑定意見等により処置をしておれば、控訴人孝典の脳機能低下症を回避できたとまで認めることはできないから、被控訴人鳥本及び被控訴人福田の使用した薬剤とその施行方法に過失があったということもできない。

5  そうすると、本件診療契約の履行補助者である被控訴人鳥本及び被控訴人福田に過失が認められないか、または被控訴人鳥本に注意義務違反が認められるにしても、それと控訴人孝典の脳機能低下症との間に因果関係が認められないから、結局、被控訴人病院は、その余の点について判断するまでもなく、本件診療契約に基づく不完全履行を理由とする債務不履行責任を負わないというべきである。

また、被控訴人鳥本及び被控訴人福田に、不法行為の原因となる過失が認められないか、または被控訴人鳥本に注意義務違反が認められるにしても、それと控訴人孝典の脳機能低下症との間に因果関係が認められないから、その余の点について判断するまでもなく、被控訴人鳥本及び被控訴人福田は、不法行為による責任を負わないし、それ故、被控訴人病院も使用者責任を負担しないというべきである。

五  控訴人らは、さらに被控訴人鳥本及び被控訴人福田の不適切な医療を理由に、債務不履行責任として、被控訴人病院に対する控訴人らの慰謝料請求を認めるべきであると主張する。

しかしながら、前記認定の事実によると、被控訴人鳥本及び被控訴人福田の医療上の処置に不適切な点があったとは認められないから、控訴人らの右主張も理由がない。

六  そうすると、控訴人らの被控訴人らに対する本訴請求は、いずれも失当としてこれを棄却すべきであり、右と同旨の原判決は相当である。

よって、本件控訴をいずれも失当として棄却することとし、控訴費用の負担について民訴法九五条本文、九三条一項本文、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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