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名古屋高等裁判所 昭和51年(う)362号 判決 1977年2月16日

被告人 奥村恒雄

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪

理由

本件控訴の趣意は、弁護人草間豊作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官中野国幸作成名義の答弁書に各記載のとおりであるから、いずれもこれを引用する。

控訴趣意について

所論は要するに、本件事故は被害者が前方注視を怠り、被告人運転車両の直前で突然進路を変え同車の進路上に進出したため発生したもので、被害者がこのような行動に出ることは同人のそれまでの進行状態等からみて事前に予測することはできない状況にあつたから、被告人には原判示のような警音器吹鳴義務はないのに、原判決が右と異なる事実を前提として、被告人に右義務懈怠による過失があると認定したのは事実を誤認しひいては刑法二一一条前段の解釈、適用を誤つた違法がある、というのである。

よつて記録を調査するに、原判決は「被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和五〇年二月六日午後二時一〇分ころ、大型乗用自動車(バス)を運転し、三重県度会郡度会町川口地内の県道(伊勢・南島線)を伊勢市方面から南島町方面に向かい南進して同所四五七番地の二先道路にさしかつた際、道路中央より向つてやゝ右側を対向してくる久保田正貴(当時六〇年)運転の原動機付自転車を前方約五〇ないし六〇メートルの地点に認めたが、同所付近は幅員約四・八メートルの比較的狭い道路であり、しかも当時はおりからの降雨のため、右道路の東側沿いに工事が行われていた未舗装の道路拡幅予定地から流出した土砂でぬかるみ、殊に道路右端付近などには水溜りがあつて路面の状態が悪かつたうえに、右久保田は庇のある帽子をかぶつてうつ向き、通行しやすい場所を選んで進行している様子であつたから、同人が自車の接近に気づかないまゝいつどのように進路を変更し、自車進路前方に進入してくるかもしれないことが当然予測できる状況にあつたものといわねばならない。したがつて、このような場合、自動車運転者としては、直ちに警音器を吹鳴して自車の接近を知らせるとともに減速して道路左側に寄り、状況によつては徐行して同人との安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのに、被告人は左に自車の進路を変えつゝ時速約三〇キロメートルから徐々に時速約一〇キロメートルに減速したのみで右久保田がいずれ自車の進行に気づくものと軽信して警音器を吹鳴せず、自車の接近を知らせないまゝ進行した過失により、前方約三四メートル付近でうつ向いたまゝ道路中央付近に進路を変え、その後さらに道路左側部分に出て進行を始めた同人を認めて左に急転把するとともに停止の措置をとつたが間に合わず、同人運転の前記原動機付自転車に自車右前部を衝突させて転倒させ、よつて同人を死亡させた」旨、本件公訴事実とほゞ同一の事実を認定し、被告人を有罪として処断したことが明らかであるところ、原審及び当審で取り調べた証拠によると次の事実が認められる。

本件事故現場は、幅員約四・八メートル(被告人は当審で幅員約六メートルと供述しているが他の証拠に照してこのように認定する)、南北にほゞ直線に走るアスフアルト舗装道路上で、道路の西側沿いは山、東側沿いは約一〇メートル幅の道路拡幅予定地(未舗装)となつているが、該土地は朝からの降雨と工事中のため一面にぬかるんでおり、しかも舗装道路より若干高くなつているためこゝから流出した土砂が舗装道路全体を覆い、殊に道路の両側端付近には土砂が堆積していた。本件衝突地点は、道路西側すなわち被告人の進行方向からみて道路右側(以下道路の右、左はこの方向による)沿いにある西井商店の建物東南角から約一六メートル南方寄りの道路左側端で前示拡幅予定地との境界付近であるが、同地点のさらに南方約一二、三メートル付近には、道路を横断してヒユーム管の埋没工事をした跡があり、その部分は未舗装で両側端付近には轍等による水溜りがあつた。(事故後間もなく右部分に砂利が敷かれたため、水溜りは消失した。)

被告人は大型乗用自動車(バス、長さ七・八メートル、幅二・二五メートル)を運転し、時速約三〇キロメートルで道路中央付近を走行しながら北方から本件事故現場付近にさしかゝつた際、前方から道路中央ないし右側の部分を南進してくる被害者運転の原動機付自転車を認めたが、同車と約五、六〇メートルに接近したころ同人が庇のある帽子をかぶり雨を避けるようにうつ向いた姿勢で、他の自動車が通行した轍の跡など路面に土砂の少い部分を選んで走行してくるのに気が付いたので、徐々に減速しながら自車を道路左寄りに進行させた。

被害車両は時速約三〇キロメートルで進行してきたが、被告人車の前方約三四メートル付近に接近した際、前示ヒユーム管埋没個所付近の水溜りを避けるように進路を道路右側から中央寄りに変え、同所を通過した後そのまゝの速度で道路左側に進出した。そこで被告人は左に急転把すると共に停止の措置をとつたが間に合わず、停止直前の被告人車の右前端付近に被害車両の前部が衝突し、被害者は被告人車の右側に転倒した。

衝突地点は前叙のとおり道路の左側端付近で、右埋没個所の中央付近から約一二、三メートルの位置にあり、被告人車は衝突直後衝突地点で同車の前部の殆んどを拡幅予定地に乗り入れ、車体を道路と斜に交差した状態で停止した。

なお右道路の交通量は閑散で、当時他に通行車両はなかつた。

以上の認定を妨げる証拠は存しない。

右認定の本件衝突地点、被告人車の停止位置、同車が衝突直後停止した事実及び衝突地点から埋没個所までの距離等を総合すると、被告人車は、被害車両を五、六〇メートル先に認めてから徐々に減速すると共に自車を道路左側端まで寄せ、または拡幅予定地に一部乗入れて進行し、衝突直前には極めて低速であつたと推測される。そして道路の幅員と被告人車の幅から推すと、同車の右側には被害車両が通行できる余地は十分あつたと考えられ、道路右側に堆積している土砂の存在を考慮にいれても被害車両が該部分を通行することがとくに困難であるとか、被告人車の進路にあたる部分の方が通行し易いというような状況は、証拠上これを認めることができない。(ちなみに本件事故後被告人車の右側部分を車両数台が通行したことがうかゞわれる。)

そこで以上認定、判示した事実に基づき、被告人に対する原判示注意義務の存否について考察する。

原判決は本件事故現場付近の道路の状況や被害車両の進行方法及び被害者が被告人車の接近に気付いていないことから、同人が「いつどのように進路を変更し、自車進路前方に進入してくるかもしれないことが当然予測できる状況にあつた」旨判示していることは冒頭で述べたとおりであり本件道路の状況や被害者が被告人の接近に気付いてなかつたと思われることは、前記認定のとおりである。

しかし被害者は、路面上の土砂が少く通行し易い場所を選んで進行していたというものゝ、前示ヒユーム管埋没個所を通過するまでは、道路中央ないし右側部分を進行していたのであり、この間左側部分へ進入したり道路一面にわたり不規則に進行した形跡はない。また被害者は、その行動が予測し難い幼児などと異り自動車の運転者であるから、前示水溜りを避けて道路右側から中央付近に進出し、右埋没個所を通過した後は再び進路を元に戻し、道路中央から右側部分の通行し易い場所を選んで進行すると予想するのが通常であつて、被害者が被告人車の接近に気付いていないように見えたからといつて、前記のヒユーム管埋没個所に至るまでの被害車両の進路、走行方法及び道路の状況からみて、同車が少くとも同埋没個所に至るまでの間において無軌道に進路を変えることまで予測することは困難であると考えられ、しかも、同車が進路を左に変え被告人車の進路上に進出してきたのは右埋没個所を通過してからであり、同車の速度、同所から衝突地点までの距離等からみるとこの間約二秒弱の出来事であると推測され、また被告人車の右側部分が通行困難な状況にあつたとは認め難いこと前叙のとおりであるから、被告人に対し被害者のかゝる行動を予測して行動することを期待するのは少しく酷であると考えられる。

従つて被告人が五、六〇メートル先に被害車両を認めた時点における注意義務としては、それまでに被告人が認識した事情に徴すると、減速徐行し、被害車両が自車の右側を十分通行できるよう、できるだけ道路左側端に(可能であれば拡幅予定地まで)寄せて進行すれば足り、さらに被害者に警告を与えるため警音器を吹鳴する義務まではないと解するのが相当である。なるほど本件の場合において、被告人が予め警音器を吹鳴し、被害者の注意を喚起しておれば、或は本件事故は避けられたかもしれないとは考えられるが、本件の場合の如く、危険の発生を予知することが困難であり警音器を吹鳴しなくても、徐行し道路左側端へ寄るなどの方法により危険を防止することが可能であると認め得られる場合には、自動車運転者に警音器吹鳴の義務まで認めることはできないと解する。

本件において、前記のように被害者が前記ヒユーム管埋没個所に至るまでの間、被告人が警音器吹鳴の点を除く前説示のような注意義務を尽していること前認定のとおりであり、被害者が右埋没個所を通過してからの事態は前認定のように転瞬の間であつて、その時点において警音器吹鳴の義務を認める余裕はなく、その効果も期待し得ないと推認されるから、本件において被告人に、とくに必要な注意義務を懈怠した過失があるものとは認め難いといわねばならない。

してみると、被告人に警音器吹鳴義務及びその懈怠による過失があると認めて被告人を有罪として処断した原判決は、事実の認定を誤り、ひいては法令の解釈適用を誤つた違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて、本件控訴は理由があるので、刑訴法三九七条一項、三八二条に則り原判決を破棄し、同法四〇〇条但書によりさらに判決する。

原判決が認定した事実と同じ本件公訴事実は、以上の理由により犯罪の証明がないことに帰するので、刑訴法四〇四条、三二六条に従い、被告人に対し無罪を言い渡すことゝし、主文のとおり判決する。

(裁判官 杉田寛 塩見秀則 平野清)

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