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名古屋高等裁判所 昭和25年(う)2144号 判決 1951年4月07日

控訴人 原審検事 子原一夫

被告人 大同製銅株式会社 外二名

弁護人 浦部全徳 外四名

検察官 寺尾樸栄関与

主文

原判決を破棄する。

本件を名古屋地方裁判所に差戻す。

理由

検事子原一夫の控訴趣意並に弁護人浦部全徳外四名の答弁は、別紙の通りであつて、弁護人等は、更に右答弁を補つたが、その要旨は、次の通りである。

第一、本件控訴は、事実誤認を理由としながら、「訴訟記録及び原裁判所において取り調べた証拠に現れていない事実」を採用している部分がある。

第二、控訴理由にいう事実誤認の主張は「罪となるべき事実」についてでなく、「法律上犯罪の成立を妨げる理由を裏付けする事実」についてであるのに、そのけじめがはつきりついていない。

第三、控訴理由は、会社経営の実体、並に金融関係の生きた知識の欠除を余すところなく露呈している。

第四、控訴理由は、当時における労働問題並に我が国経済事情に対する具体的認識を欠いた形式的空論に過ぎない。

よつて職権により原審の訴訟手続を検討し、当事者の論旨に付、次の通り判断する。

(一)  起訴状記載の公訴事実の訴因が明らかにされていない。

労働基準法第二十四条は、労働者の賃金の受領を各個人別に保障する趣旨の規定であるから、賃金不払又は遲滞は、個々の労働者毎に犯罪が成立し、この犯罪は、各労働者に対する賃金の支払期日及び事業場が同一であつても、包括一罪又は一所為数法の関係が成立するものでなく、刑法第四十五条の併合罪の関係にあるものと解すべきである。即ち賃金は、通常、各労働者別に計算支給せらるるもので、各労働者毎に支給する行為が一個の行為であつて、事業又は事業主が同一の支払期日に多数の労働者に賃金を支払うことが一個の行為であると考えらるべきものでない。果して然らば、労働基準法第二十四条第二項違反の罪の訴因を明らかにするには、公訴事実に、各労働者の氏名、賃金、不払又は遲滞賃金の数額等を明らかにすることが理想である。数千人に達する労働者の氏名、賃金、未払賃金等を明らかにすることは、困難であるかも知れないが、別表を作成して起訴状に添附することによつて明らかにすることもできるし、各支払期日毎に労働者の数をまとめ、その賃金総額と不払又は遲滞の賃金の総額を示して、不十分ながらも攻撃防禦に支障ない程度に訴因に明示することもできる。本件においては、検察官側にも、被告人側にも、各労働者の個人別賃金支払表が用意されていたことが推測せられるので、これを援用することによつて、訴因を明確にすることができたわけである。然るに本件起訴状を見るに、個々の労働者毎に犯罪が成立するのか、被告会社の事業場別に包括的に犯罪が成立するのか不明であるのみならず、昭和二十四年七月と、同年八月における賃金未受領の労働者の数が明確にされていない。起訴状には同年八月末日現在の労働者の数が記載せられているが、この数字は、同年七月一日から同年八月末日まで、一名の異動もなかつたものと認むべきものであるかどうかもわからず労働者の賃金が全額支払われなかつたのか或は一部支払われなかつたのかも明らかでない。

右のような公訴事実の記載は、全く訴因を明かにしていないものと謂うことができる。訴因が明らかでないときは、直ちに公訴を棄却すべきものと解するのは、訴訟経済上妥当でなく、公訴事実の同一性を害しない程度で、何時でも、訴因を追加又は変更することができることになつているので、原審としては、よろしく検察官に釈明して、訴因を明らかにさせねばならなかつた筈である。訴因を明らかにすることができないことが明らかになつたとき、公訴を棄却すればよいのである。訴因を明らかにしないで、犯罪事実を認定したり、又は証拠がなかつたと断定することができないばかりでなく、犯罪の成立を阻却する事由も十分に認定し得ない筈である。従つて訴因を明確にしないで、事実を認定した原判決は、審理が尽されていないと謂わねばならないこの点においても、原判決は、破棄を免れない。

(二)  原判決が期待可能性なしと認定したのは審不尽に基く事実誤認の疑がある。被告人石井健一郎が被告会社の代表取締役に就任したのは、昭和二十四年六月二十一日であり、被告人藤原省二が被告会社の経理部長に就任したのは、昭和二十四年六月一日であることが本件記録によつて明らかにされているから、右被告人両名が被告会社の賃金支払について責任を負担する地位についたのは、右各日時からであつて、それ以前被告人等が賃金支払について、怠慢であつたか、或は努力したか深く追究する必要はない。被告会社は、本件当時及びそれ以前において、経済情勢の変転と労働攻勢によつて、収入が減少し、被告会社の事業を運転しつゝ、労働者の賃金を万配することは、至難であり、労働者の数を整理し、債権を厳重に取り立て、融資を受けられる点はできるだけ尽力しても、なお、賃金の支払が困難であつて、遲払又は分割払の余儀なき事情にあつたことは、原審が取り調べた証拠によつて、推知するに難くない。しかし右の諸事情があつたから、直ちに、賃金遲滞は不可抗力で、期待可能性がないと断定するのは法律的に観察するときは、粗末すぎる判断である。被告会社の昭和二十四年十月における総収入は、六千五百五十一万三千円で、その中人件費は、二千二百六十二万二千円であり、同年八月分の総収入は、一億九百六十四万一千円でその中人件費は四千二十二万五千円であつたことが記録上明らかになつて居るが、人件費を増加する余地が全くなかつたか否かについては、疑問なきを得ない。被告人等の主張としては、被告会社を運転して行くには、人件費を右の程度にとどめざるを得なかつたと主張し、幾多の証拠を提出しているが、その証拠は全部被告会社側のものばかりで、被告会社と取引関係にあつた銀行その他の関係者を取り調べて手形支払その他の債務弁済の猶予を求め得なかつた事情を明らかにしていない。材料費その他の支払が真にやむを得なかつたものかどうかについても、被告会社側の者ばかりを証人として、取り調べているだけである。従つて被告会社において、賃金支払遲滞したのは、やむを得ない事情があつたとするのは、被告人等の主観であつたのではないかとの疑が存する。或は十分に審理しても、右の主観と客観とは相一致するかも知れないが、審理として、万全を尽したものと云うことはできない。この点について検察官側で反証を提出しないのは、怠慢である。仮りに人件費が前記の通りやむを得ないものとしても、右の人件費によつて、被告会社が為した賃金支払方法がやむを得なかつたものであるかどうかも、疑問なきを得ない。本件記録添附の個人別賃金未払調書の各記載を見るに、昭和二十四年七月分の賃金の請求のできない労働者も居り、従つてそれらに対しては遲滞がなく、同年八月分についても同じく、賃金の請求のできない者もあることが認められ、更に各労働者の賃金も千差万別で高額取得者から、低額賃金労働者もあり、これ等を一率に賃金の割合で一部支払われていることが認められる。右のような賃金支払方法が適切妥当であつたかどうかについても審理されていない。即ち低額賃金労働者に優先的に又は高率な割合で支払うことが許されるならば賃金支払の犯罪の個数がずつと減少することになるし、若し昭和二十四年六月分の賃金遲滞部分を待つて、七月分、八月分の賃金を優先的に支払えば、両月分の未払はなくなる可能性もなしとしない。前記説明のように、賃金不払は、各労働者毎に犯罪が成立するとすれば、賃金の支払方法如何により、犯罪の個数を著しく減少せしめることができた筈である。右のようなことが実現不能であつたかどうかを検討することなく、原審は被告会社の経営状況経理事情のみに着目して、十把一束に各労働者に対する賃金不払について判断したのは、審理が十分であるとは謂えない。期待可能性があるかないかは各犯罪毎に個別的に観察して判断すべきである。或は被告会社の労働者総てに通じて、賃金完全支払を期待することができなかつたかも知れないが、このことは前記の諸事情も考慮し、被告会社と取引する相手方の意向も確かめて、はじめて知り得ることである。原審がこの点を留意せず、刑法理論上、未だ完全に消化せられていない期待可能性理論を早急にもつて来て、被告人等の主観的観察を重視して判断したのは、審理不尽に基く事実誤認か又は法令解釈の誤りがあると謂うことができる。

以上の次第で、原判決には、判決に影響すること明らかな訴訟手続の違反か又は事実誤認があるので、破棄を免れない。検察官の論旨は、結局理由がある。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条第三百七十九条第三百八十二条により、原判決を破棄し、同法第四百条により、本件を原裁判所である名古屋地方裁判所に差し戻す。

(裁判長判事 鈴木正路 判事 荻本亮逸 判事 赤間鎭雄)

控訴趣意書

一、原審は被告人等が昭和二十四年七月分及び八月分の同会社の労働者に対する賃金を所定支払日たる各月末に支払わなかつた事実は明白であるが、被告人石井健一郎、藤原省二等は困難な客観情勢の下に於いて社会通念上賃金支払につき最善の努力を傾倒したに拘らず、これを果し得なかつたのであつて何人がその地位にあつてもかゝる情勢下に於いては賃金の完配を期待する事が出来なかつたからその違法性は阻却され罪とならない。被告会社についても右両名の犯罪が成立しない以上罪とならないとして所謂期待可能性の欠缺を理由に無罪の判決をして期待可能性が無い事の理由として会社賃金不払の原因を政府の政策の変転経済安定政策の強行及び労働攻勢等客観情勢下に於いて従前の融資による赤字経営の皺寄せの結果に求めている。

二、然し本件の如き賃金不払事件において期待可能性の欠缺を理由として違法性なしとする為には賃金の不払となつた一時点において期待可能性が無い許りでなく、その不払なる結果を招来した事自体、即ちその誘因についても尚期待可能性がない事が立証されて初めて論議の的となるべきものであつて、原審の如く不払の一時点を把えてその時期に於いて期待可能性が無いから違法性を阻却すると云うのは違法性の判断に関する経験法則に反した判断といわざるを得ない。若し原審の如き理論を以つて違法性の阻却原因とする事ができるならば怠惰なる者がその怠惰によつて収入がない為めに生活物資を獲得する資に窮し、空腹の余り他人の物を窃取した場合においても犯罪が成立しないと断せざるを得ない結果に陷るであろう。

その結果の不当なるは敢て贅言を要せざる所である。

三、労働賃金に対しては民法第三百八条商法第二百九十五条等において先取特権を認め、特に商法第二百九十五条においては会社の総財産の上に先取特権を認めて之を保護して居るのであるが、更に労働基準法第二十四条第百二十条の規定を設け賃金の支払義務違背に対し刑罰を以つて臨んだ所以のものは民主主義下労働者の最低生活を保障せんとする趣旨に外ならないのであつて、この権利は極めて厳格に保護さるべきもので、労働基準法第十九条の解雇制限同二十条の解雇予告等について特に不可抗力の場合はこの限りにあらずとして、その除外規定を設けあるものと除外規定のない賃金支払に関する同法第二十四条とを対比すればその法意は一層明らかであつて、本件の如き場合に期待可能性を問題にすること自体が如何に当らざるものであるかは明白であると思料する。

四、被告人石井は昭和二十一年五月常務取締役、被告人藤原は昭和二十二年一月経理部長の職にそれぞれつき爾来会社の経営に当つたのであつてその間天災地変等の不可抗力の事実があつた事は全記録を精査するも発見し得ない所であつて、賃金不払理由として主張する所は、原審判決が認定した如く政府の政策の変転、経済安定政策の強行、労働攻勢等の客観情勢下において従来の赤字経営の皺寄せの結果以外にはないのである。

凡そ企業経営者は所謂経営権を有すると同時に経営義務をも負担して居るのであつて、労働者の賃金の支払を確保する事が出来ないような方法によつて経営に当る事はその義務を果さざるものとしてもとより排斥さるべきものであり、この事は占領軍当局昭和二十三年七月の経済安定九原則、同年十一月の賃金三原則による指示を俟つまでもない自明の理であつて、その不合理な経営が強く占領軍当局の関心を呼んだこと自体が已に責任の存在を証明しておるとも言えるのであつて、経済状態の不安定な時期に於いて無定見に赤字融資によつて経営に当る如き事は企業経営者としては排斥せらるべきことで当然その依つて生ずる一切の責任は甘受すべきで賃金以外の債務の弁済等によつて労働者の賃金を支払う事が出来ない様な事態を生じた場合当然その刑事的民事的責任に任ずべきは言を俟たざる所であろう。又原審は労働攻勢により已むなく会社の経理をある程度無視した賃上げせざるを得なかつた事によつて会社の経理状態が極度に悪化したと認定し、且その労働攻勢を以て賃金不払を正当化して居るようであるが、経営権と労働権は相対立する権利であつて経営権が労働権の下位に立つべきものでも又上位に立つべきものでもない。従つて経営権者は会社の経理を無視してまで労働賃金を引上げる何等の義務を負担していないのであつて、苟も経営権者が一定の労働賃金を承諾した以上それを履行すべき法律上の一切の義務を負担すべきものであり、これを以て刑事責任を逃れるが如き事は法の断じて容認せざる所と信ずるものである。又原審は電気料金の値上げ、補給金の減額廃止赤字融資の禁止等を以て賃金不払を不当化するが如き措辞を用いて居るのであるが、之も亦不当の見解であつて経営者たるものは速かにかゝる情勢を察知し勇気と誠実とを以つて速かに企業の合理化を実施し、労働者の賃金を確保すべきであつて、本件の如きその決断を欠時期に遲きれた企業の整備によつて招来した会社の経営状態は当然経営者の責に帰すべきもので、断じて被告人等の刑責免除の理由とすべきでないと思う。

五、本件は原審によつて明らかな如く会社の全資金を以てしても尚賃金の支払が不可能であつたのではなくて多額の賃金を賃金以外に充当して居るのである。而して原審は袴田邦男外一名作成の証と題する書面(記録三五八丁乃至三六三丁)を根拠として賃金を他の支払比率との間に於いて不当と認むべきものがないと断定しているが。賃金不払に関する違法性阻却については斯る比率により判定すべきものでないのみならず、右証と題する書面によれば昭和二十四年六月より八月迄の間における会社所要資金月平均一億三千万円で内人件費は二千九百万円約二二%なるに対し、本件前後の実際支払額は平均七千七百万円にして内二千七百万円を人件費に充当し、其の比率は三六%となるを以つて人件費優先支払を為したと主張して居るが、右会社所要資金を一億三千万円とした根拠について何等説明なく資金繰実績表(記録三〇七丁)についてみるに六月分は六千五百九十三万六千円、七月分(記録三〇九丁)は七千三百五十九万二千円、八月分(記録三一一丁)は一億二千百四十万四千円であつて人件費の比率も相違して来る。又実際支払額月平均七千七百万円として居るが右掲記の資金繰実績表によれば、昭和二十四年六、七、八月三ケ月間の月平均は八千六百九十七万七千円であつてこれによれば賃金支払率は三二%で被告人主張より低率である。

又資金繰実績表は現金として出納されたもののみの計算で、たまたま債権債務が相殺せられた場合にあつてはこの表に含まれていないのであるから、経理全部を掲げたものでなく従つてこれを本表に入れて計算する時は人権費の比率は更に低率となるべくかゝる杜撰な数字を論拠として可能性の限界を論ずることは当を得ないものと信ずる。

六、被告人等は会社再建資金としてシンヂケードを結成して昭和二十四年七月一億円の融資を受けた(記録一二七丁)が之は総て賃金以外の未払分に充当したものであり、(被告人藤原省二第二回供述調書記載-記録三一四丁及び資金繰実績表-記録三〇七丁乃至三一二丁-並に再建資金使途明細表-記録三六二丁)尚右資金繰実績表によると銀行よりの借入金は昭和二十四年六月金六百万円、七月一千万円、八月一千三百五十万円の計二千九百五十万円に対し銀行に返済された額は六月七百万円、七月八百五十万円、八月一千八百万円計三千三百五十万円で差引四百万円借入額より返済額が上廻つて居る状況であり、尚借入れた銀行は日本興業銀行のみであり、他の何れの金融機関よりも資金借入れを行つて居ない事実等は当時刑罰を以て強制されて居る賃金の不払二ケ月に達して居るのに之を解消するために資金借入れに最善の努力を尽したものとは認められないし更に取引銀行に預金が有つたか無かつたかに付て何等原審では糾明されて居ないが通常取引銀行には手形割引又は資金借入の保証的性格を持つ預金があるのであつて、被告会社にも相当の預金が有つたと認められる。事実被告会社の取引銀行たる興業銀行及東海銀行には昭和二十四年一月より九月迄は月平均三百六十万余円、同年十月より昭和二十五年三月迄月平均九百十九万余円、同四月より十月迄は月平均一億百五十六万余円の預金があつたのであつて、これを賃金支払資金に充てることなく、手形割引又は資金借入によつての保証的なものとし且つかゝる担保ある借入金の支払に急なるは労働者の犠牲に於いて利息をかせぐ以外のなにものでもなく、昭和二十四年九月より二十五年十月迄の遲配賃金は月平均二千七百余万円で誠にこれを銀行に於ける貸付金と仮定し利息を計算すれば約三百九万余円の多額に上るのであつて、賃金の支払について不要不急の資材の売却処分をした点よりしても預金の如きは挙げてこれを賃金に充当すべきであるが、斯る措置を講じた事実が原審記録中に見られないので、被告人等が賃金支払につき最善の努力をしたとは認められないし原審裁判所が斯る事実の審理を尽さずして最善の努力をしたとしても軽々に断言したのは審理不尽に基く事実誤認であつて失当であると思う。

七、原審は被告人等は賃金の未払分で解消すべく極力売掛金の回収に奔走し不要不急の会社財産を処分する等万般の手段をつくしたと認定して居るが被告人藤原省二の第三回供述調書記載(記録三二五丁裏乃至三二六丁六行)によれば本件賃金不払の七月末当時四億円余りの売掛残高(記録一四一丁)が有つたのに回収係員を臨時に増員もせずに従来の係員を加えて重役、工場長のみが当つて居たに過ぎず、特に努力した点が認められないのに原審が被告人等が回収に万般の手段をつくしたと認定したのは当を得たものでなく、又不要不急の会社財産の処分をしたから最善の努力をしたと原審は認定して居るが、使用者は不要不急資材及遊休設備等が有れば之を処分して賃金支払に充当すべきことは社会通念上当然為すべきことであつて、賃金不払に対して、刑罰が課せられて居るに於いては尚更であるが被告会社は不要不急資材在庫表(記録三三〇丁)によるに資材のみで昭和二十四年六月二十日現在約三千万円相当を所有して居り之れを処分した金額は同年八月二十日現在約一千万円で一ケ月平均約五百万円処分したに過ぎないのみならず、同社は戦時中労働者及学徒動員を合せて約十二万名を超える大事業場であつたが(記録二〇七丁裏)昭和二十四年七、八月頃には労働者約五千名二十分の一に過ぎず、従つて如何に戦災による被害があつたとは言え右資材の外に尚不要不急の設備が相当ある事が思考せられるがこのことは被告会社が昭和二十四年十月以降翌年九月迄の間に於いて三億一千三百万円の遊休資材を売却しておる事実によつても明らかである(記録にはないが厳然たる事実である)。而して資材の処分にしても賃金の不払が目捷の間に迫つた昭和二十四年七月に初めて為されて居る(記録三二一丁及び三三二丁)点等よりして最善の努力をしたとは認められない。

八、原審は証人錦織清治の公判廷に於ける供述(記録二〇八丁裏一行乃至五行)による「昭和二十四年にドツヂ声明ありて強行されるに至り、補助金も次第に廃止される事になり会社に対する融資の道が断たれたのであります」の証言を採用して経済安定策の施行により補助金の減額次いで廃止になつた為会社の経理状態が悪化したと論断しその事実を違法性阻却原因の一つとしているが右証言は減額及び廃止の時期並に金額等について何等具体的に明らかにして居ない単なる抽象的なものでかゝる不確実な証言を採用して違法性阻却原因としておるのは、それ自体からしても不当であつて事実補給金の支給状況を調査すればこれが賃金不払の重大な原因となつたものでないことが明らかとなるのであつて、この点に於いても審理不尽に基く事実誤認であるのである。

九、原審裁判所は「昭和二十四年三月……その後三ケ月間争議が継続し所謂五月雨戦術吊上戦術によるサボタージユ(準生産管理の如き方式)があつたため最大の生産を上ぐべき満水期に生産が半減したために会社の経理に破綻を招き」と論及して居るが之れを会社提出の答弁書(記録一四一丁)によるに争議中の四月、六月の生産高は約一億円であり争議解決後の七、八月は約一億一千万円乃至一億二千万円で原審判決理由に有る如き半減の事実は認められない。最も低い五月に於いてすら約八千九百万円であり、七、八月に比して約七〇%に相当して居り会社の経理に破綻を招いた様な事実は何等認められない。証人綿織同袴田両名が具体的な数字によらずして労働争議の発生を賃金不払の一つの理由として主張して居るのはその責任を争議に転嫁せんための方便に過ぎないのであつて、何等根拠なきものであつて被告人側の弁解の当らざることは極めて明瞭である。以上の如く原審は孰れの観点からするも充分なる審理を尽すことなく事実を誤認して、軽々に期待可能性理論を適用した違法を侵し本件無罪の判決を為したのであつて、破毀は免れないものと思料するものである。

弁護人浦部全徳外四名の答弁

本件控訴の理由とするところは、「原判決は審理不尽に基く誤認及び違法性阻却原因に関する判断につき経験法則に反する違法がある。」というにあるが、原判決にはさような違法がないから、理由のない控訴として、当然棄却さるべきものと信ずるのである。

第一、本件控訴理由は、出発点を誤つている。

本被告事件が、(1) 、大同製鋼株式会社が昭和二十四年七月分と同八月分の賃金を所定支払期日に従業員たる労働者に支払わなかつた事実についてのみ審判を請求されたものであつて、同会社の賃金遅払そのものを公訴事実としているものでないことを見忘れていること。更に(2) 、原判決が「被告会社については、その代表者たる被告人石井健一郎並会社のために行為をした被告人藤原省二に犯罪を構成しないので同人等に犯罪が成立することを前提とする本件公訴に於ては、労働基準法第百二十一条の法意について判断を示すまでもなく、被告会社についても罪とならない」と判断していることを認めた以上は、違法性阻却原因に関する原審の判断を争うのは、被告人石井と同藤原とについてであるべく、被告会社そのものについて期待可能性の有無を論ずる必要が無いのにその筋違いを敢えてしていること。この「見忘れ」と「筋違い」とから出発した本件控訴理由が、いかに的を外れた理由なきものであるかを順を逐うて明らかにしよう。

第二、七月分と八月分との賃金はどう支払われたか。

記録に編綴されている「上申書」(1) によれば、七月分も八月分も、ともに九月末に完全に支払われているのだから、昭和二十四年十月以降において、被告会社になお賃金の遅払状態が続いても、それは本被告事件とは関わりのないものであり、同時に同年六月以前のことも、情状以外の意味は持ちえないわけである。然るに、本件控訴理由の「六」において、「昭和二十四年一月より九月迄は月平均三百六十万余円、同年十月より昭和二十五年三月迄、月平均九百十九万余円、同四月より十月迄は月平均一億百五十六万余円の預金があつたのであつて、これを賃金支払に充てることなく云々」とか、「昭和二十四年九月より二十五年十月迄の遅配賃金は毎月平均二千七百余万円で、試にこれを銀行に於ける貸代金と仮定し利息を計算すれば、約三百九万余円の多額に上る」とかいうて、「労働者の犠牲に於いて利息をかせぐ以外のなにものでもない」とコキ下しているのである。そうして、これを以て「原審裁判所が斯る事実の審理を尽さずして最善の努力をしたとして、軽々に断言したのは、審理下尽に基く事実誤認であつて、失当であると思う。」と結んでいる。いうまでもないことであるが、昭和二十四年七月分と同八月分との賃金についてのみ、その支払に最善の努力を尽したことが証明されゝば、本被告事件としては十分であり、原審においてその審理は尽されているのだから、かような控訴の理由は一笑に附せられて然るべきものである。

なお「賃金の不払が二ケ月に達している」という表現は、人をして二ケ月間全く賃金が支払われなかつたように思わせるが被告会社の従業員等は、滞つていた賃金を、昭和二十四年七月には二千二百六十二万二千円、同八月には四千二十二万五千円と、現実に支給されていたのであるから(「上申書」(1) 参照)、右八月の如きはあたりまえに貰う賃金(約二千九百万円)よりも沢山貰つたわけなのである。

第三、期待可能性の有無は、被告人石井と同藤原とについて判断されているのである。

原判決は「被告人石井は被告会社の代表取締役として会社の業務一切を統轄支配する地位にあり、被告人藤原は当時経理部長として会社の経理事務を担当しその責任者たる地位にあつた者であるから、労働者に対する賃金支払について労働基準法第十条の所謂事業の経営担当者或は事業主のために賃金支払の行為をする者に該当する。従つて同被告人等は同法第二十四条に基き右会社の福田正彦外四千二百五十二名の労働者に対し、毎月末日に賃金全額を支払うべき義務を負担していることは明瞭である」と判断しているのであるから、労働基準法第十条に規定する「事業主」たる使用者をこゝでは問題としていないことは明らかである。而して、控訴理由は、原判決の右判断を争うことなく、ただ「賃金の不払となつた一時点において期待可能性が無い許りでなく、その不払なる結果を招来した事自体、即ちその誘因についても尚期待可能性がない事が立証されて初めて論議の的となるべきものだ」という独自の見解を以て原判決を非難しているが、不払の誘因の期待可能性をどこまで遡らしめたところで捉えようとするであろうか。記録に明らかなように、被告人石井が被告会社の代表取締役に選任されたのは昭和二十四年六月二十一日であり、被告人藤原が被告会社の経理部長になつたのは、同年同月一日であつたのだから、その以前に遡つて事を論ずることは、被告会社についてならばいざ知らず、被告人石井と同藤原とについては、全く意味をなさない。蓋し、被告人石井は代表取締役たることによつて労働基準法第十条にいわゆる「経理担当者たる使用者」として、被告人藤原は経理部長たることによつて、同条にいわゆる「その事業の労働者に関する事項について事業主のために行為する者たる使用者」として、それぞれ本件の被告人となつて居るのであるから、その地位に就く以前に存する事由に基づいて、刑事責任を負うべきいわれはないからである。

控訴理由において、被告人石井が昭和二十一年五月常務取締役に就いたとあることは、その通りであるが、常務取締役たるに基いて労働基準法第十条の使用者とされたのではなく、また、被告人藤原が昭和二十二年一月経理部長の職に就いたとあるのは全く誤りであり、同日常任監査役になつたものであるから、かような事実誤認に基いて立論された控訴理由の「四」の失当であることはいうまでもあるまい。労働基準法第二十四条によつて、被告人石井と同藤原とが「賃金を毎月一回以上一定の期日に、被告会社の従業員たる労働者に支払わねばならぬ」地位にあつたことは、明らかであるが、右被告人等が賃金債務そのものの主体でなかつたこともこれまた明白である。賃金債務の主体は、事業主たる使用者に限られているからである。従つて民法第三百八条商法第二百九十五条等との対照において、被告人石井と同藤原との賃金不払責任の不可避性を云々することは失当であり、被告人等について賃金不払の違法性を阻却したからというて賃金債権は消滅するわけでなく、会社の総財産の上に先取特権を有するものとして厳存するのである。この点に対する控訴理由の無理解は、労働基準法第十九条の解雇制限同二十条の解雇予告手当の場合における不可抗力が認められるならば、普通ならできない解雇も有効にできるし、与えねばならぬ解雇予告手当もやらなくて済むという性質のものであることを見忘れて、賃金不払について不可抗力が認められても賃金債権そのものの存在に何等の消長をも来たすことがない本件の場合と混同して論じているところに明白に示されている。いうまでもないことであるが、賃金債務に限らず、一般に金銭債務の不履行は、その不履行の民事的責任を問われた場合不可抗力を以て抗弁とすることは許されないのである(民法第四百十九条参照)。かように見て来ると、「苟も経営権者が一定の労働賃金を承諾した以上それを履行すべき法律上の一切の義務を負担すべきもの」との控訴理由は、当然の事理を表明したものに過ぎないが「これを以つて刑事責任を逃れるが如き事は断じて容認せざる所と信ずる。」と承つていることは労働基準法第二十四条、同第百二十条、同第百二十一条の解釈において肯認しえないところがあるのみならず右法条を被告人石井と同藤原とに適用するについて、検討未だしといわねばならぬ。被告人両名が「事業主でない使用者」として責任を問われていることをくどいけれども、重ねて申し添えておく。

第四、被告人等に期待可能性がないと判断した原審は、十分に審理を尽くしている。

被告人石井と同藤原とは、原判決に判示されているところの「昭和二十四年三月従業員整理案を発表したところ、労働組合と正面衝突を来しその後三ケ月間争議が継続し、所謂五月雨戦術、吊上戦術によるサボタージユ(準生産管理の如き方式)があつたため、最大の生産を挙ぐべき満水期に生産が半減し為に会社の経理に破綻を招き、争議の解決した同年六月には、賃金二ケ月合計約五千七百九十六万円の遅配を見るに至つた」、その六月に相前後して被告会社の経理担当の地位についたのである。被告人等の涙ぐましいまでの遅配絶滅への闘いが、かような窮境から出発していることは銘記ちれねばならぬ。控訴理由が、「争議中の四月、六月の生産高は約一億円であり、争議解決後の七、八月は約一億一千万円乃至一億二千万円で、原判決理由に有る如き半減の事実は認められない」というているが、証人錦織清治の法廷での供述中にも、「争議状態が四、五、六月と続き、生産は半分位しかされませんので、会社としては大打撃を受けました」とあり労働基準監督官宮地勝経の作成にかゝる被告人藤原の第一回供述調書別紙の資金繰実績表によれば、六月の営業収入は五千四百四十四万三千円七月のそれは五千九百九十三万二千円、八月のそれは一億四十七万九千円となつている。また、控訴理由は、原判決が「経済安定政策の施行により、補助金の減額、次いで廃止になつた為、会社の経理状態が悪化した」と論断したことを、証人錦織清治の公判廷における供述によつたものであるというているが、原判決が「昭和二十四年所謂ドツヂラインの施行によつて金融面は枯渇し、売掛金の回収が意の如くならず云々」と判示している部分は、明らかに「右の事実は証人水津利輔の当公廷の供述によつて明白である」といつており、「これを大同について見るに、同会社も亦前敍の例に洩れない云々」という部分は、「前記証人並に証人錦織清治、袴田邦男等の当公廷の供述によつて明らかである」とあるのである。而して、右袴田邦男の証言によると、「何しろ昭和二十四年六、七、八月は政府の助成金が、ドツヂラインにより停止された為云々」とあるのだから、「単なる抽象的で不確実な証言を採用して判断したことは、それ自体不当である。」ということはできない。

その他、控訴理由は、人件費支出額の会社所要資金乃至実際支出額に対する比率について、くどく述べ立てゝいるが、上申書(3) の人件費支出比率――営業収入に対する――が示すように、被告人等は、昭和二十四年七月には、営業収入五千九百九十三万二千円のところ、賃金として二千二百六十二万二千円を支払い、同八月には営業収入一億四十七万九千円のところ賃金として四千二十二万五千円(税込)を支払い、同九月には営業収入八千三百七十九万六千円のところ三千三百十五万七千円を支払い、これで、本件で起訴された同年七、八両月分の賃金を完払したのであるから、同年十月以降の分に、被告人等がその後もいかに賃金の支払に当つて人件費優先の原則を守り続けていた情状を物語るものである。

以上のような次第であるから、原審が「充分なる審理を尽すことなく事実を誤認して軽々に期待可能性理論を適用した違法がある」と主張する控訴理由は、全く失当であり、本件控訴は理由なきものとして棄却さるべきものと信ずる。

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