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名古屋地方裁判所 昭和41年(ワ)2296号 判決 1971年5月15日

原告

有我紀久代

代理人

加藤義則

外二名

被告

右代表者

植木庚子郎

右被告指定代理人

松沢智

外六名

被告

板谷純治

代理人

本山亨

外一名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

(原告)

一、被告らは原告に対し各自金三〇〇〇万円およびこれに対する昭和四一年八月二八日(被告国については同月二九日)から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二、訴訟費用は被告らの負担とする。との判決ならびに仮執行の宣言を求める。

(被告ら)

主文同旨。

<以下省略>

理由

一原告は昭和一五年一一月一四日生れの女子であるが、昭和三八年九月一〇日慢性副鼻腔炎(いわゆる蓄膿症)治療の根治手術を受けるため国立名古屋病院耳鼻咽喉科に勤務する医師被告板谷の執刀により同月一一日先ず左側部分に対する手術を受け、これは無事終了したこと、次いで同月一八日同じく同被告の執刀により右側部分に対する手術(本件手術)を受けたところ、この手術に基因してその右眼視力を完全に喪失し(本件失明)視力回復の可能性もない状態となつたことはいずれも当事者間に争いがない。

なお、本件手術前の原告の右眼視力が少なくとも1.2はあり健全なものであつたことは<証拠>によつて認められ、この認定に反する証拠は存しない。

二そこで先ず被告板谷に本件手術上なんらかの過失があつたか否かを判断することとする。

(一)  原告はこの点につき、同被告には手術用器具たる鉗子、鏡匙の操作を誤り手術部位たる篩骨洞と眼窩を隔する薄い骨壁である紙状板を突き破つて眼窩内に鉗子又は鏡匙を侵入させ、(1)原告の右眼視神経をこの手術用器具をもつて直接に切断したか、(2)若しくは原告の右眼視神経の機能をこの手術用器具の圧迫によつて間接的に損傷せしめたか、(3)若しくは眼窩内血管を切断したかのいずれかの過失があると主張しており、蓄膿症根治手術の担当医師に原告主張のような注意義務があることは当事者間に争いがないところ、<証拠>を総合すれば、

(1)  本件手術はコールドウエル・ルック氏法と称する術式により行われたものであるところ、この術式による手術の概要は、先ず歯齦粘膜回転部を切開して犬歯窩と称する骨を露出させ、この骨面にのみと槌を用いて上顎洞に通ずる孔をうがち、更にこの孔から同洞内に溌溜する濃汁を除去すると同時に炎症をおこしている罹患粘膜を剥離除去し、次いで上顎洞の上部に位置する副鼻洞である篩骨洞(篩骨窩)も病変に侵されていることが多いので上顎洞、篩骨洞の境界をなす骨壁を破つて篩骨洞に通ずる孔をうがちここから器具を入れて上顎洞に対すると同様濃汁除去罹患粘膜の剥離除去を行なうものであるが、その際鼻腔の方からも器具を入れて篩骨洞の清掃を徹底的に行なうというものであり(なおこのほか更に篩骨洞の裏側に位置する蝶形骨洞に対しても同様開放と清掃をなすことがあるが、本件手術では病変が上顎洞、篩骨洞にとどまつており、蝶形骨洞にまで及んでおらず、その必要性がなかつたので、同洞ににする手術は行われていない。)、右術式による手術部位である副鼻洞特に篩骨洞は解剖学的にみても眼窩に隣接しており眼窩との境界をなすのは厚さ0.1ミリメートル位しかない紙状板と称する一枚の骨壁にすぎないため、ややもすれば右術式により同洞内の罹患粘膜の剥離除去中の手術器具をもつて紙状板を損壊し、眼窩内にも損傷を及ぼしやすく、従来もかかる損傷に基因する視力障害の例が少からず存在すること、

(2)  本件手術の終了間近になつた頃、即ち篩骨洞内の清掃中と思われる頃原告はその右眼部に強い疼痛、ショックと共に眼華閃光を感じたこと(被告板谷本人尋問の結果中この認定に反するかに見える部分は証人西岡周子の証言の結果に照し採用出来ない。)、

(3)  一方視束管損傷時に激痛と眼華閃光を訴えた患者の例が従来存在すること、

(4)  蓄膿症根治手術に伴なう視力障害事故の事例中、視神経の直接的切断の事例では一般的にいつてその視力障害の程度も重くかつその発来が術直後にあらわれる場合が多く、その予後の回復も不良な場合が多いが、本件失明も術直後にあらわれ、しかも予後は全く不良でありこの場合に該当する一例とも考えられること、

(5)  本件手術時の出血が通常の同種手術に比してやや多かつたこと、

以上の各事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

これら認定の諸事実をあわせ考えてみると、その限りでは被告板谷に原告主張のような手術器具操作上の過失があつたのではないかと推認することが一応出来るようにも考えられる。

(二)  しかしながら<証拠>を総合すれば、

(1)  コールドウエル・ルック氏法による蓄膿症手術の時の手術器具操作上の誤りによつて眼窩内に手術器具を侵入させるとすれば、必らず篩骨洞と眼窩を隔する紙状板になんらかの損傷を生ずる筈であること(特に本件手術では蝶形骨洞には手術が及んでいないので、ここから眼窩内への侵襲は考えられない)、

(2)  従つて紙状板の損傷のない以上そもそも眼窩内奥部に位置する視神経や眼窩内血管が手術用器具によつて損傷されるということはありえない道理であるこ医師岡と、

(3)  しかるに本件手術の二日後たる昭和三八年九月二〇日、同国立病院耳鼻咽喉科医長関谷医師執刀、被告板谷医師介助、同国立病院眼科医長朝岡医師、脳神経外科医長野村医師立会の下に、本件失明の原因調査と視力障害治療の目的を兼ねて本件手術の手術創を再度開放する本件再手術が行われ、その際関谷医師は紙状板には異常を認めなかつたが、紙状板を透しで眼窩内を観察したところ、眼窩内部が暗赤色を呈していたため、治療の目的で紙状板を三分の二位取り除いて同内部を直視した結果、そら豆大の凝血塊(ただし血液のまじつた組織も含む。)か視束管を圧迫している状態を確認したので、これを除去したこと(なお紙状板には本件再手術時直視不能の部分が約三分の一ほどあつたが、そのような部分もゾンデを用いて損傷のないことを調査確認している。)および視束管には骨折を認めなかつたこと。

(4)  被告板谷は昭和二八年名古屋大学医学部を卒業した医師であつて医学博士の学位を有し、昭和三四年七月同国立病院耳鼻咽喉科に奉職以来一貫して同科に専門医として勤務し、蓄膿症根治手術については既に五〇〇〇例以上の豊富な経験を有すること、

(5)  仮に紙状板を突き破つて眼窩内に手術用器具を侵入させれば眼窩内に存する眼筋を同時に損傷して眼球や眼瞼の運動麻痺を合併する例が多いものであること、しかるに本件手術に関してはそのような合併症が認められなかつたこと(なお前掲証拠と証人中島君江の証言、原告本人尋問の結果から本件手術直後原告の右眼瞼に相当の溌濃が生じていた事実が認められるけれども、これは後に認定する眼窩内出血に基因するものであつて眼瞼運動麻痺とは区別すべきものと考えられる。)、

(6)  原告に対し本件手術の翌日たる同年九月一九日同国立病院で視束管レントゲン写真を、又同年一〇月二三日名古屋大学医学部附属病院眼科で視束管拡大レントゲン写真をそれぞれ撮影しているが、そのいずれにも明瞭な視束管骨折の影響は現われていないこと、

(7)  同年一一月六日名古屋大学環境医学研究所において原告に対し、光刺激に対する脳波の反応の検査が行われ、その結左眼を遮蔽し、右眼のみに光刺激を与えても健眼たる左眼のみに対する場合に比しやや抑制されてはいるが脳波に反応が認められたこと、この結果は右視神経に物理的切断はないことを意味するものであること(なお原告本人尋問の結果中右検査の際原告の左眼に対する遮蔽が不十分であつた旨の部分は証人小嶋克の証言に照しにわかに措信し難い、又甲一号証中「右視束損傷」という表現は視束に対し物理的損傷があつたことを意味するようにも解しうるがこれも視神経の機能に障害が存することを「損傷」という文字をもつて表現したものと解されるからこの認定を覆すには足らない。)

以上の各事実が認められ、

(8)  右認定の各事実および右援用の各証拠を総合すれば、本件手術の過程において原告の紙状板は損傷されず、同視束管に骨折も生じなかつたことが認められ、

以上各認定を左右するに足りる証拠はない。

右の(1)ないし(8)の事実が認められる以上被告板谷に原告主張のような手術器具操作上の過失があつたと推認することは出来ない。

そして、右(3)の事実に<証拠>をあわせて考えると、本件失明は、眼窩内出血またはこれと視神経鞘内出血による視神経の間接的損傷を原因とするものと一応推認されるけれども本件全証拠によるも右各出血について被告板谷に本件手術上なんらかの過失があつたと認めるに足るものはない。なお、右認定のとおり、本件手術の過程において紙状板を損傷せず、視束管の骨折も生じていない本件の場合、過失の推定に関する原告の法律上の主張は妥当でないと考えられる。

三次いで本件手術後被告板谷に視力回復措置懈怠が存するか否かについて判断する。

(一)  先ず本件失明の発見とこれに対し同被告がとつた措置であるが、

<証拠>により

(1)  同被告が本件視力障害に気付いたのは本件手術終了直後(その時刻は前記証拠により午後一時四三分過ぎ頃と認められこの認定に反する証拠はない。)、手術室内に於いてであること、

(2)  そこで同被告はこれに対し手術立会の看護婦に命じて止血剤の注射および眼部の湿布をさせたこと、

(3)  更に同被告はこの視力障害事故の発生を耳鼻咽喉科医長の関谷医師に報告すると同時にその指示を求めたこと、

(4)  これに対し、同医長は同被告の措置を適当なものと認めて承認すると同時に更に眼科専門医の診察を受けさせるよう同被告に指示したので、同被告はこの指示に従い前記立会看護婦に命じて眼科専門医への診察依頼の連絡をなさしめたこと、

(5)  その後同被告は予め予定されていたところに従い午後二時半頃から聖霊病院に出張し、同国立病院を不在にしたこと、なおこの出張は聖霊病院の耳鼻科医の欠員を補うため同国立病院に対し医師の派遣方を要請されていたのに基づき関谷医長の命によりなされたものであること、

(6)  同被告は聖霊病院から直接自宅に帰宅後、原告の家族から電話連絡があつた旨を知つて原告をその病室に訪ねて診察していること(その時刻は原告本人尋問の結果により同夜一〇時頃と認められ、この認定に反する証拠はない)

以上の事実が認められこの認定に反する証拠はない。

(二)  よつて右に認定した被告板谷の措置、行動をもとにそれが蓄膿症根治手術直後患者に視力障害があることを発見した手術担当医として過失と評価しうるか否かを判断する。

(1)  <証拠>から、同国立病院が耳鼻咽喉科以外に眼科、脳神経外科等をも併設したいわゆる総合病院であること、同被告が属する耳鼻咽喉科には本件手術当時六、七名の専門医が勤務しており、手術担当医が不在であつても常に当直医および当直看護婦が院内にあつて患者の診断治療にあたりうる体制が整つていることが認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。これによれば同被告が事前の予定に従い、医長の命を承けて本件手件手術後聖霊病院に出張し、同国立病院を不在にしたことは患者を放置して外出したものではなく、そこにはなんら医師としての業務上の注意義務に反した責むべき点はないものと考えられる。

(2)  又、術直後措置の適、不適の判断であるが、<証拠>によれば、本件手術のような蓄膿症根治手術の直後に麻酔のかかりすぎ又は一時的出血による視神経の圧迫から一過性の視力障害を生ずることは往々存することが認められこの認定に反する証拠はない。とすれば同被告が術直後原告の視力障害をこのような一過性のものと判断し、これに対する措置として止血剤の注射と湿布を看護婦に命じたことは妥当な治療措置というべく、この間の同被告の行為にもなんら責むべき点はないと考えられる。

(3)  更に前認定のとおり同被告は本件視力障害事故の発生を医長に報告し、眼科専門医に診察を依頼しているのであるから、この点についても手術担当医としてなすべきをなしたものというべく、ここにも責むべき懈怠は認められない。

(三)  なお<証拠>を総合すれば、本件手術の翌日以降原告に対してなされた検査、診断および治療は被告らの積極的主張(事実第四)(五)ないし(八)項記載のとおり<編注、後出>であることが認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。右認定の事実によればこの間にも被告板谷には本件失明に対し視力回復措置を怠つた過失は認められないものといわざるをえない。

四以上のとおりであるから本件手術および本件失明発見後の治療措置等につき被告板谷には証拠上過失を認めるに足りないものといわざるをえない。

従つて本訴請求はその余の争点を判断するまでもなく理由がないことが明らかであるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(山田正武 日高千之 須藤浩克)

(編注、事実摘示第四被告の主張中理由で引用された部分)

(五) 翌一九日の経過と診察、治療

(1) しかしながら一夜明けた翌一九日朝に至るも視力障害が回復しないため、同国立病院の朝岡眼科医長の診断を求めたところ、視束管骨折による視神経切断の疑いがあるとの診断であつたため直ちに視束管のレントゲン写真撮影を行うとともに同写真を同国立病院の野村脳神経科医長に示してその診断を求めた。

(2) しかしながら、右写真によつては視束管骨折の異常が認められなかつたので、前日と同じ注射の続行と更に炎症消退視力障害回復促進等の目的でハルドロン(副腎皮質ホルモン剤)の内服およびキモブシン(蛋白酵素剤)の筋肉注射などを続行した。

(2) それにもかかわらずいぜん視力障害の症状が軽快しないので、前記関谷、朝岡、野村の三医長の意見は眼窩内出血のため視束管の圧迫があるのではないかということになり、再度手術部を開放して出血巣があればこれを直ちに除去し同時に視東管の異常の有無も確認した方がよいとの結論に達した。

(六) 翌二〇日の本件再手術。

そこで翌二〇日前記の如く本件再手術が被告板谷も介助者として立会の上なされたのである。

その結果紙状板に異常のなかつたことは前述のとおりであるが、菲薄な中篩骨洞の眼窩壁(紙状板の一部)をすかしてみるに眼窩内に暗赤色の出血巣らしきものが認められたので、これを中心に蝶形骨洞まで骨壁を除去するに眼窩内に脂肪組織に混じて凝血塊を認めたのでこれを除去した。更に視束管を精査したが骨折等の異常が認められなかつたことは前述のとおりである。そこで再度手術創の清掃を行い止血の十分であることを確かめたうえ、圧迫除去の目的で眼窩骨壁(紙状板)は広く開放したまま本件再手術を終えた。

(七) 本件再手術後も軽度の眼球突出、眼瞼および結膜下出血ならびに高度の視力障害が残つたので、前記三医長の指示下に止血、化膿防止、炎症特に浮腫消退、解毒、神経機能賦活などの目的で止血剤(アドナ・ヘスナ)抗生剤(ペニシリン・マイシリン)、副腎皮質ホルモン(ハルドロン)、活性ビタミンB1剤(アリナミン)およびATP製剤(アデホス)等を強力に投与した。その結果視力障害以外の障害は漸時消退した。

(八) 同年一〇月二三日には原告およびその家族の要望と伊藤同国立病院長、関谷、朝岡両医長の指示により名古屋大学医学部附属病院眼科に原告を受診させ、同大学眼科教授小島博士の診察を受け以後同教授の指示により視力回復のための治療を続けた。

このような努力にもかかわらず原告の右眼視力は回復せず、原告は同年一一月一七日同国立病院を退院したのである。

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