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名古屋地方裁判所 平成6年(行ウ)33号 判決 1999年9月13日

原告

鈴木美穂

右訴訟代理人弁護士

水野幹男

市川博久

長谷川一裕

海道宏美

被告

名古屋東労働基準監督署長

河村幸治郎

右訴訟代理人弁護士

山田博

右指定代理人

鈴木拓児

外六名

主文

一  被告が原告に対して平成五年六月二四日付けでした労働者災害補償保険法による遺族補償年金及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、住友電設株式会社(以下「住友電設」という。)の従業員であった亡鈴木龍雄(以下「亡龍雄」という。)が気管支喘息(以下「本件疾病」ともいう。)の重篤な発作による呼吸不全により死亡したことが業務に起因するものであるとして、亡龍雄の妻である原告が、被告に対し、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく遺族補償給付及び葬祭料の各給付を請求したところ、被告が、本件疾病は業務上の事由によるものとは認められないとして、右各請求につき不支給処分をしたため、これを不服として審査請求の申立てをしたが、右審査請求の申立日から三か月以上経過しても裁決がなされないことから、被告の右不支給処分の取消しを求めた事案である。

一  争いのない事実等(特に証拠を掲げたもの以外は、当事者間に争いがない。)

1  亡龍雄(昭和二二年四月三日生)は、名城大学を卒業後、昭和四五年四月、住友電設の前身である太陽工藤工事株式会社に入社し、同社の電気設備工事技師として働いていた者であり、原告は亡龍雄の妻である。

2  住友電設の業務内容等及び就業時間

(一) 業務内容等

亡龍雄の勤務していた住友電設は、昭和二五年四月に太陽電設工業株式会社として設立され、昭和四四年三月に太陽工藤工事株式会社と社名を変更し、昭和六〇年七月に現在の社名に変更されたものであり、同社の主な事業内容は、電気設備、空調、給排水、衛生設備、情報通信設備、電気、計装設備、プラント、電力流通設備等の設備工事である。

(二) 就業時間

住友電設の就業時間は、月曜日から金曜日までが一日7.5時間であり、土曜日が6.75時間であった。そして、現場での始業時刻は午前八時とされていた。

なお、亡龍雄死亡当時、土曜日については一か月に二回交替で休日が付与されていた。

3  亡龍雄の住友電設入社後の経歴は、以下のとおりである。

昭和四五年九月 名古屋支店 工務課 実習

昭和四六年一月 名古屋支店 工務課

昭和五三年二月 東部施設工事本部 中部支社 工務部

昭和五六年一〇月 施設工事本部 中部工務部

昭和五七年二月 施設工事本部 中部工務部 主任

昭和五八年二月 施設工事本部 中部工務部 工事課 技師

昭和五八年九月 施設本部 中部支社 静岡営業所 技師

昭和五九年九月 施設本部 中部支社 第一工事課 技師

昭和六〇年七月 中部支社 第一工事課 技師

昭和六一年四月 中部支社 第一工事課 三洋岐阜作業所 技師

昭和六一年七月 中部支社 第一工事課 技師

昭和六二年一〇月 中部支社 工事課 技師

平成元年二月 中部支社 工事部第一工事課 技師

4  亡龍雄の従事していた業務

亡龍雄が住友電設において担当した電気設備等の工事の経歴は、以下のとおりである(ただし、期間は工期。甲第一四、第四一、第四二号証)。

昭和四六年九月から四七年二月 十六銀行

昭和四六年七月から四七年一月 丸糸商店

昭和四七年一月から同年三月 御園小学校

昭和四七年三月から四八年三月 藤枝電報電話局増築電機設備工事

昭和四七年七月から四八年三月 静岡公営住宅

昭和四八年四月から同年五月 武田薬品

昭和四七年一二月から四九年五月 静岡南郵便局電気設備工事

昭和四九年六月から五〇年三月 鈴鹿郵便局電気設備工事

昭和五〇年三月から同年六月 大幸住宅幹線工事

昭和五〇年七月から五一年三月 静岡市営中央卸売市場冷蔵庫棟

昭和五一年一一月から五二年一一月 平和ビル受変電設備

昭和五三年五月から五四年八月 中央卸売市場北部市場管理エネルギー棟

昭和五四年八月から五五年五月 藤森西第一、二次積立分譲住宅新築電気工事

昭和五五年三月から同年四月 マツダオート名古屋本社改築工事

昭和五五年七月から五六年一二月 磐田グランドホテル増築工事

昭和五六年八月から同年九月 中京CCBライン改造電気工事

昭和五六年一二月から五八年一月 有楽・河合共同ビル電気設備工事

昭和五七年一月から五八年一月 住生・日建共同ビル

昭和五八年二月から同年九月 安藤電気浜北工場新築電気工事

昭和五八年一〇月から五九年四月 大阪ダイヤモンド第一工場増築工事

昭和五九年一二月から六一年一〇月 三洋岐阜GI棟建設電気設備工事

昭和六一年一月から同年二月 三興製紙変電所改修工事

昭和六一年六月から同年七月 丸紅飼料改修工事

昭和六一年七月から同年八月まで 加藤化学株式会社工場増設その他工事

昭和六一年一二月から六二年三月 ワシノ機器星崎工場増設工事

昭和六一年一二月から六二年三月 浅井外科新築電気設備工事

昭和六一年一二月から六三年三月 恵那市まきがね公園体育館建設工事

昭和六二年七月から同年一二月 近藤紡績津島工場増設工事

昭和六二年八月から六三年三月 サンコー鞄本社ビル新築電気設備工事

昭和六三年三月から平成元年年六月 白鳥住宅電気設備工事

平成元年八月から同年一一月 東郷サービスエリア電気設備工事

5  現場代理人の一般的な業務の概要

亡龍雄は、死亡当時、住友電設中部支社工事部第一工事課に技師として所属し、社内における設計業務及び工事現場における現場代理人業務に従事していたが、そのうち主として従事していた現場代理人業務の業務内容は、請け負った工事について同社を代表し、概ね左記内容の業務を行うものであった。

(一) 打合せ

(イ)作業指示、連絡、安全指示、(ロ)業者間連絡調整打合せ、(ハ)客先、設計事務所等打合せ、(ニ)定例総合打合せ

(二) 現場巡視

(イ)工事進捗状況チェック、(ロ)品質チェック、(ハ)安全チェック

(三) 事務処理

(イ)実行予算検討、作成及びトレース、(ロ)外注検収、(ハ)日報等必要書類作成、予算

(四) 労務、資材等の手配

(イ)資材手配及び管理、(ロ)作業員手配、(ハ)その他

(五) 提出書類作成

(イ)着工時必要書類、(ロ)施工計画、工程表、(ハ)諸官庁等提出書類作成

(六) 承認図作成

(イ)施工図作成、(ロ)機器承認図作成

(七) 社内会議

(イ)工事部会、課会等、(ロ)TQCその他

6  亡龍雄の気管支喘息の発症

亡龍雄は、当初は風邪をこじらせたような症状であったが、昭和五二年九月二三日、夜中に喘息発作を起こしたため、翌日、堀田病院で診察を受けたところ、気管支喘息と診断され入院した。

7  亡龍雄の死亡

亡龍雄は、平成元年一一月六日午前三時ころ、自宅において就寝中に重篤な喘息発作を起こし、原告が呼んだ救急車で搬送されたが、同日午前五時五四分、須藤幸雄医師により死亡を確認された。

亡龍雄の直接死因は、気管支喘息の重篤な発作による呼吸不全であり、死亡時の年齢は四二歳であった。

8  不支給処分等の経緯

(一) 原告は、平成二年四月二七日、被告に対し、亡龍雄の死亡は業務上の事由によるものであるとして、労災保険法に基づいて遺族補償給付及び葬祭料の各給付を請求したが、被告は、平成五年六月二四日、本件疾病は業務上の事由によるものとは認められないとして、右各保険給付を不支給とする旨の処分(以下「本件処分」という。)をなし、原告にその旨通知した。

(二) 原告は、本件処分を不服として、平成五年七月二〇日、愛知労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求を申し立てたが、請求後三か月を経過しても裁決がなかった。

二  争点

1  業務起因性を肯定するためには、業務と疾病の発症若しくは増悪との間に相当因果関係の存在が必要か否か。

2  仮に1が肯定されるとして、相当因果関係の立証責任は、原告、被告のいずれが負担するのか。

3  本件疾病の発症若しくは増悪による死亡に業務起因性が認められるか否か。

三  争点に関する当事者の主張

1  争点1について

(一) 原告の主張

(1) 合理的関連性論

労働者災害補償制度(以下「労災補償制度」という。)の趣旨は、労働基準法(以下「労基法」という。)一条に規定されている「労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべき」労働条件の最低基準を定立することを目的に、負傷、死亡又は疾病が「業務上」であることのみを要件として各種の労災補償給付等を行う法定救済制度であるところに求められるべきものであり、被害者、加害者間の公平な損害の填補を目的とする民事損害賠償制度とは制度目的を異にするから、労災補償においては、民事損害賠償の場合よりも、その救済対象を拡大する必要がある。

それゆえ、業務起因性の判断において、民事損害賠償制度における相当因果関係論を持ち込むのは相当でなく、労基法七六条、七五条にいう「業務上負傷し、又は疾病にかかった場合」とは、業務と負傷、又は疾病の発症との間に合理的関連性があれば足り、当該業務に従事したために基礎疾病を悪化させ、死亡に至ったことが推定されれば足りると解すべきである。

仮に、右「業務上」の要件が、業務と負傷、疾病の発症との間に相当因果関係の存することをいうと解するとしても、前述のとおり、被災労働者の救済の範囲は拡張して解する必要があるのであるから、労災保険法上の相当因果関係は、民事損害賠償制度における相当因果関係論とは区別され、それよりも救済対象を拡大したものであって、前述の合理的関連性と同義に解すべきである。

(2) 共働原因論

仮に、労災保険法上の業務性を、労働者の負傷、疾病と業務との間に相当因果関係が存在しなければならないと解するとしても、被告の主張する客観的相対的有力原因説は、業務と他の共働原因が量的に比較不能であるときは成り立ち得ないし、また、業務の負担と基礎疾患の増悪は密接に関連する場合がほとんどであるから、そもそも競合する原因を別個独立のものとして対立的に捉え、業務と他の共働原因のいずれが有力であるかを比較するという考え方自体が誤りである。

それゆえ、相当因果関係の存否の判断基準としては、業務と関連性を有しない基礎疾患等が発症の原因となった場合であっても、業務が基礎疾患等を誘発又は増悪させて発症の時期を早める等、それが基礎疾患とともに共働原因となって発症を招いたと認められる場合には、業務と疾病との間に相当因果関係があると解すべきである。

(二) 被告の主張

(1) 労災保険法に基づく保険給付は、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に関して補償するものであり、右業務上の事由による疾病については労基法七五条二項が命令で定めると規定しており、これを受けた労基法施行規則三五条がその疾病を具体的に定めているところ、本件疾病が業務上の疾病と認められるためには、右規則三五条別表第一の二の九号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当する必要がある。

ところで、労災保険法は、労基法の定める使用者の災害補償責任を担保し、労働者の保護・救済を図った制度であるところ、労基法上の災害補償制度は、使用者の過失の有無を問わず、企業に存在する各種の危険の現実化として労働者が負傷し又は疾病にかかった場合に、その損害を填補することを内容とするものであって、民事上の無過失損害賠償理論に基づく補償の一形態というべき制度であるから、労基法施行規則三五条別表第一の二の九号の労災給付の要件である業務に起因することが明らかな疾病といえるためには、使用者に無過失責任を認めるに足りる関係、すなわち、業務と傷病等の間に条件関係があり、かつ当該傷病等が当該業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化と認められ、法的にみて労災補償を認めるのを相当とする関係(相当因果関係)があることが必要というべきである。

けだし、条件関係の存在のみをもって業務起因性を認めるとすると、業務の寄与率が極端に低いときでも条件関係が肯定される限り、事業主は労基法一一九条により全額損失補償責任を負い、その履行が罰則をもって強制されることにならざるを得ないが、他方、労災保険法では、保険給付の原資はそのほぼすべてが事業主の負担する保険料とされているのであるから、右の場合にその全額が労災保険により填補されるべきであるとすると、事業主に過大な負担を強いることになり、保険制度の存続基盤自体を危うくするおそれがあるからである。

したがって、仮に業務との間の条件関係が認められる場合でも、単に業務が機会となっているにすぎないもの、日常生活、一般の社会生活においても生じ得る疾病は、労災給付の対象たる「業務上の疾病」から除外されるべきであり、右「業務上の疾病」であることを肯定し得る「業務」とは、その業務に当該傷病等を発生させる有害因子・危険が一般的、客観的に内在する場合に限定されるべきである。

(2) そして、傷病の発生には種々の原因が競合しているのが通常であるところ、もともと重篤な基礎疾患を持つ労働者が軽作業に従事して発症したような場合にまで保険給付を認めるのは、使用者の無過失責任を基礎とする災害補償の担保としての労災保険制度の本質に照らし相当でない。それゆえ、当該業務が当該傷病に対して、他の原因に比較し相対的に有力な原因となっている場合に、相当因果関係を肯定するべきである。

そして、当該業務が当該疾病の発症について相対的に有力であるか否かは、当該業務が当該被災者にとって有力原因であるだけでは足りず、客観的に一般的な労働者に当てはめても発症の有力な原因であることが必要というべきである(客観的相対的有力原因説)。

(3) ところで、労基法七五条二項、労基法施行規則三五条、同別表の一の二は、「木材の粉じん、獣毛のじんあい等を飛散する場所における業務……によるアレルギー性の……気管支喘息等の呼吸器疾患」(同別表第一の二第四項五号)及び「落綿等の粉じんを飛散する場所における業務による呼吸器疾患」(同項六号)を業務上疾病と規定する。

しかし、右別表の列挙疾病は、業務に伴う有害因子によって発症しうることが医学的知見において一般的に認められているものを具体的に示したもので、列挙された環境で業務に従事したこと及び所定の疾病に罹患したことの二点が立証されれば、特段の反証がない限りこれを業務に起因するものと事実上推定されるにすぎない(最高裁判所昭和六三年三月一五日判決・体系労災保険判例総覧[平成三年一月一八日発行]三〇九頁)。

したがって、右各疾病の発症、増悪に業務との関連性が認められないときは、これを業務上の疾病と扱わないことも何ら違法ではないというべきである。

2  争点2について

(一) 原告の主張

民事損害賠償訴訟において、労働契約上の安全配慮義務違反の債務不履行責任が問題とされる場合、右安全配慮義務違反がないことの立証責任は使用者側にある。しかして、前記1(一)(1)記載の労災補償制度の趣旨に照らせば、行政訴訟において労災補償給付の不支給処分の適法性が問題とされる場合の立証責任が原告にあるとすれば、民事損害賠償訴訟における水準以下となり極めて不合理である。

立証責任の分配は、各法条の解釈及び法条相互の関係から導き出される実体法上の問題であるところ、労災補償制度の目的及び労災補償を請求する申請人と労働基準監督署長との間の公平及び紛争の迅速な解決への要請並びにその権利をなるべく主張しやすくすることが望ましいという政策目的等の諸事情からすれば、被告に相当因果関係がないことの立証責任があるというべきである。

(二) 被告の主張

業務と疾病との間に相当因果関係があることの立証責任は原告にある。

3  争点3について

(一) 原告の主張

(1) 亡龍雄の従事していた現場代理人業務の内容と特色

亡龍雄は、実習を終了した昭和四六年一月以降、原則として現場代理人の業務に従事していたが、右の現場代理人は、作業現場における住友電設の責任者であり、現場事務所開設からビル・工事等の竣工に至るまでの間、労務・安全衛生・品質・予算・工程の管理等、住友電設が施工する電気設備工事に関する一切の業務を担当する。このように、現場代理人は極めて責任の重い業務であったため、亡龍雄は多大の精神的ストレスに曝されていた。

また、現場代理人業務は納期の厳守が要求され、納期間際には、早朝から深夜に及ぶ長時間作業を強いられることがあり、特に、後述の白鳥住宅電気設備工事のようなイベント絡みの現場の場合には、納期の一層の厳守が要求されるため、亡龍雄の身体的、精神的ストレスは過重なものであった。

さらに、新築ビルが作業現場の場合は、気管支喘息の発作誘因となりうる粉塵が多発するうえ、現場巡視のために階段を上り下りしなくてはならないし、現場事務所の中には、満足な暖房装置もないため冬季寒いものもあった。

(2) 平和ビル受変電設備工事に伴う気管支喘息発症の業務起因性

Ⅰ 亡龍雄は、昭和五二年七月ころに気管支喘息を発症したが、その当時勤務していた平和ビル(岐阜高島屋ビル)電気設備工事現場は、再開発ビルのため移転先の決まらない店舗がオープン二週間前まで仮設ハウスで営業しており、店舗が閉店してからの工事が夜遅くまである突貫工事であった。亡龍雄は、現場代理人北村邦雄(以下「北村」という。)とともに、現場副代理人として右の工事現場を担当していたが、竣工に間に合わせるため過重な労働に従事させられた。

また、右工事現場はデパートのため、窓がない、あってもはめ殺しの窓であり、換気が悪く常時粉塵が漂う状態であり、特に、各フロアーで躯体工事が完了し仮枠を撤去した後は、数時間ほこりが舞い上がっている状態であった。また、屋上の特別変電室の壁には石綿が吹き付けてあり、その石綿がとれて空中を飛び交じっていた。亡龍雄は、現場巡視のため、一日の労働時間の二〇パーセントをこのような粉塵の舞う現場で過ごさざるを得なかった。

Ⅱ 亡龍雄は、同工事の業務による疲労の蓄積から風邪に感染したが、十分な治療の機会を確保できないような突貫工事による過重な業務に従事するなかで、また、多量の粉塵に日常的に暴露されるなかで、気管支喘息を発症した。

Ⅲ 右のとおり、亡龍雄の気管支喘息は、平和ビル受変電設備工事における過重な業務並びに多量の粉塵への暴露等の職場環境によって発症したものである。

(3) 平和ビル受変電設備工事以後の業務について

亡龍雄は、平和ビル受変電設備工事終了後は、前記争いのない事実等4記載のとおりの業務に従事したが、それらの工事の中で、件名工事と呼ばれる大規模で工期の長い工事は、三洋岐阜GI棟建設電気設備工事(現場副代理人)と恵那市まきがね公園体育館建設工事(現場代理人)だけであり、それ以外は、亡龍雄の体調が思わしくなかったことから、規模の小さな現場ばかりであった。

そして、亡龍雄は、この間も気管支喘息の通院治療を受け、症状が悪化して喘息発作が出た場合には、通院して点滴治療を受けていた。

(4) 白鳥住宅電気設備工事における業務の過重性

Ⅰ 亡龍雄の気管支喘息の症状が一段と悪化し、それまで中等症であったものが重症となったのは、以下のように、白鳥住宅電気設備工事(昭和六三年三月から平成元年六月三〇日まで)における現場代理人業務に従事していたときであった。

亡龍雄の当時の健康状態では、白鳥住宅電気設備工事の現場代理人業務は過重なものであったが、当時はいわゆるバブル経済の真っ直中であり、三〇名程度の現場代理人しか確保できない住友電設では、亡龍雄以外に白鳥住宅電気設備工事の現場代理人を確保できない状況にあった。

Ⅱ 白鳥住宅電気設備工事においては、協力会社である大晃電気工事株式会社に昭和六三年四月に入社した佐川輝樹(以下「佐川」という。)が、現場副代理人に選任されて亡龍雄を補助した。しかし、佐川は高校を卒業したばかりで、見習いのようなものにすぎなかった。

白鳥住宅電気設備工事は、名古屋デザイン博が平成元年七月に開催予定であり、そのコンパニオンの宿舎に右住宅が使用されることになっていたため、格別に完成時期の厳守が要求され、亡龍雄は工期に追われていた。

そのため、亡龍雄は、前記(1)で述べた一般的職務に加え、電線架設のための穴堀り作業や、仕上段階での電源の回路チェックやコンセント・スイッチのプレートの取付等の、本来職人が行うべき現場作業にも従事せざるを得なかった。

また、亡龍雄は、一日一回現場巡視をしていたが、作業用エレベーターが使えないときは一四階まで徒歩で上がらなければならず、特に、平成元年四月ころからは、仕上げの時期に入って、毎日のように一四階まで徒歩で上がらなければならない状態となった。

Ⅲ 亡龍雄の気管支喘息の症状は、白鳥住宅電気設備工事に従事するようになった昭和六三年三月当時は中等症の段階にあったが、右過重な業務により著しく増悪した。

佐川は、亡龍雄が作業中に気管支喘息発作を起こしたり、気管支拡張剤であるメジヘラを一日何回も使用している状況や、階段の上り下りで苦しそうにしている状況を何度も目撃した。また、亡龍雄が喘息発作を起こし、しゃがみ込んで苦しそうにして息もできないため、救急車を呼ばなければならないと思うような発作を、昭和六三年春以降三回ほど目撃している。

また、亡龍雄は、昭和六三年八月八日には、自動車で帰宅途中に喘息発作を起こし、救急車で堀田病院に運ばれて入院したことがあり、同年一〇月か一一月初めころにも、気管支喘息の発作のため運転をあやまり、電柱に自動車を衝突させる事故を起こしたりした。

ところで、亡龍雄は、昭和六三年春ころから、頻繁に自宅に仕事を持ち帰り、帰宅後や日曜日も自宅で業務に従事するようになったが、これは作業量が多かっただけでなく、頻繁に喘息発作に見舞われていたことから、現場事務所において深夜一人で残業している際に、重い発作に見舞われた場合の身の危険を感じていたためと推測される。

Ⅳ 亡龍雄は、昭和六三年四月ころまでは、残業しても三〇分程度のことが多かったが、同年五月後半からは、連日平均一時間半程度の残業をし、同年六月後半からは、それが連日約二時間の残業となり、さらに同年七月になると三時間半の残業もするようになった。そして、前記同年八月八日の入院・静養から復帰した同年八月二二日以降も、連日二時間半程度の残業が続き、同年九月一二日まで定時で仕事を終えたことはなく、その後、同月中も定時で仕事を終えた日は一日のみで、一時間ないし二時間程度の残業が続いた。

そして、同年一〇月以降は休日出勤をするようになり、同月一日及び同月八日から一〇日までの三日間、休日出勤を繰り返している。このころより、定時に仕事を終える日はほとんどなくなり、一時間半、二時間、二時間半といった残業時間がほぼ毎日続くようになった。

Ⅴ 現場事務所は、昭和六三年冬ころ、プレハブの現場仮事務所から白鳥住宅一階の三LDKの部屋に移転した。この部屋は、一〇畳分くらいのコンクリートの床の上に板を敷き、机や椅子を持ち込んで事務所としたものであり、窓や扉にはサッシが入っていたものの、内装はなされておらず、しかも暖房器具はだるまストーブ一台しかなく、冬季は底冷えのする大変寒い部屋であり、防寒着を着なければ作業ができないような環境であった。

亡龍雄は、このような寒い現場事務所と、寒風の吹く一四階建てマンションの現場を、一日に何回も往復せざるを得なかった。

Ⅵ 亡龍雄は、平成元年三月三〇日、発注者である住宅都市整備公団の中間検査の際、現場見回り中に具合が悪くなって現場事務所に戻らざるを得ない状態となった。このように、責任感の強い亡龍雄が大事な住宅都市整備公団の中間検査に立ち会えないほど、当時の亡龍雄の気管支喘息は増悪していた。

また、平成元年四月五日、原告の妹の義父が死亡し、通夜・葬儀が営まれた際も、亡龍雄は、本来手伝わなければならなかったが、体調が極めて悪かったことから、通夜には出席できず、葬儀にも最後の方に出席して、焼香するだけという有様であった。

Ⅶ このように、平成元年三月末から同年四月初めにかけて、亡龍雄は、頻発する喘息発作により体調が極めて悪い状態にあり、しかも工事も仕上げ、内装等の段階になり現場巡視回数が増える状況の中で、それまで亡龍雄を補助し、亡龍雄の健康状態を憂慮して代わりに現場に出ていた佐川が、平成元年四月四日から同年五月二〇日ころまで、大阪に研修を受けに行くことになった。

このため、亡龍雄は、それまで佐川が担当していた職人に対する指示の伝達、施工図の手伝い、現場内のチェック等の業務をすべて行わなければならなくなったが、住友電設は、常駐の現場副代理人を応援に出すことはなく、他の現場代理人を何日間か交代で手伝わせるというようなことしかしなかった。

さらに、このような人手不足に加えて、平成元年五月のゴールデンウィークのころには、下請業者が替わるという事態が発生した。工事がピークを迎えようとする時期に、それまで現場になれた下請業者から新しい下請業者に替わるということは、現場代理人である亡龍雄の苦悩を増すことになった。

Ⅷ 完工直前の平成元年五、六月には、工事はピークを迎え、亡龍雄は多忙を極めた。

亡龍雄は、平成元年のゴールデンウィーク期間中の同年四月二九日、同年五月一日及び同月三日と休日出勤し、その後も同月九日から二〇日まで連続して勤務した。しかも、その間は、連日二時間から三時間の残業であった。さらに、同月二一日に休みをとった後も、同年六月一八日に休みを取るまで、二七日間も休日なしの連続勤務に従事したが、この間、三時間以上の残業をした日は一三日間もあり、特に、同月六日及び七日は六時間、同月一四日は七時間の残業をしている。住宅都市整備公団の竣工検査は同月一二日及び一三日の両日であり、亡龍雄は、これに向けて、疲労を蓄積させ重度の喘息発作を頻発させながらも、無理に無理を重ねて時間外労働に従事していた。

ところで、亡龍雄は、深夜、喘息発作に見舞われると、その朝、近所のかすがい内科で点滴治療を受けてから出勤していたが、かすがい内科の開院時刻の関係から、点滴治療を受けた場合は午前八時の始業時刻に間に合わなくなるため、工事の都合で朝遅れることができない場合は、夜間発作があっても点滴治療を受けることができなかった。そのため、右期間中は合計六日間しか受診することができず、メジヘラを使用することにより、なんとか激務を乗り切った。なお、亡龍雄は、平成元年五月八日に点滴治療を受けた後、同年六月一六日までの間点滴治療を受けていないが、これはその間喘息発作が起きなかったのではなく、右のとおり点滴治療を受ける時間的余裕がなかったためである。

また、平成元年六月一二日及び一三日の竣工検査も、検査後に住友電設中部支社の安永検査部長が呼ばれるという異例の事態となり、険悪な雰囲気の中で、右安永に対して公団関係者から各種の指示がなされるなど、亡龍雄に多大なストレスを招くものであったと推測される。亡龍雄が、竣工検査後の平成元年六月一四日に二四時まで残業していることは、この公団の指示事項を遵守するために、長時間の残業を余儀なくされたものと推察できる。

Ⅸ 平成元年五、六月当時、亡龍雄は、帰宅しても疲労がほとんど回復しないまま衰弱していくという様子であった。亡龍雄は、帰宅しても風呂に入らず就寝するが、深夜、喘息発作で目が覚め、そのまま朝まで眠れない日が多くなった。そのため、食欲が極端に減退し、朝食もとれなくなり、パンも喉を通らず、コーンスープすら飲めないと言いだし、温めた牛乳を一杯飲むのがやっとという日が多くなっていった。

しかして、白鳥住宅電気設備工事終了後の平成元年七月当時の亡龍雄の顔色は、どす黒く、目が真っ赤に充血し、声もしゃがれた感じであった。

Ⅹ このような状況からして、白鳥住宅電気設備工事の業務が気管支喘息に罹患していた亡龍雄にとって過重負荷であり、中等症であった気管支喘息を悪化させて、重症に至らせたことは明らかである。

(5) 無視された配置転換の申出

Ⅰ 亡龍雄は、業務に体がついていかなくなったため、配置転換を希望し、その実現のめどがついたことから、昭和六三年九、一〇月ころ、佐川に対し、「この工事が終わったら、設計課の方へ移してもらえそうだ。」と話していた。

また、亡龍雄は、白鳥住宅電気設備工事終了後、これ以上現場代理人の業務には耐えられないと判断し、北村に対して、体調がすぐれないとの理由で、内勤の設計・積算業務への配置転換を申し出た。

Ⅱ 亡龍雄の右の配置転換の希望は実現され、亡龍雄は、平成元年七月三日から現場業務を離れ、住友電設中部支社内の積算業務を手伝うようになり、その後もしばらくの間、税務大学校の現場事務所において図面作成等の内勤業務に従事した。ただし、これは正規の配置転換ではなく、亡龍雄の身分は工事課配属のままであった。

亡龍雄は、白鳥住宅電気設備工事終了後、時間的余裕ができたことから、かすがい内科に通院して点滴治療を受けられるようになった。

なお、前記(4)Ⅸのとおり、この当時の亡龍雄には、目が充血し、顔がむくみ、顔色が悪いなどの症状がみられたが、これは白鳥住宅電気設備工事に従事したことにより悪化した亡龍雄の気管支喘息が、わずかな期間の内勤業務によっては改善されないまま、重症の状態で継続していたことによるものである。

(6) 東郷サービスエリア電気設備工事における過重負荷

Ⅰ 現場代理人選任の経緯

亡龍雄は、内勤になってわずか一か月半しか経過していないのに、平成元年八月一一日から一六日までの盆休み後、再び東郷サービスエリア電気設備工事の現場代理人に任命された。

これは、元請業者であるゼネコンから現場代理人の常駐を求められたため、住友電設から現場代理人を出さざるを得ない状況となってその選任に苦悩した北村が、亡龍雄に対して、当時の健康状態に強く不安を感じながらも現場代理人となるよう要請し、亡龍雄も、親しい間柄の北村からの話であったため、これを断ることができずに承諾したものである。

北村は、亡龍雄の健康状態が心配であったため、当初現場代理人にすることを予定していた、下請業者の社員である青木を現場副代理人に選任して亡龍雄を補助させようとしたが、実際には、青木は、平成元年九月一六日から同年一一月四日までの間、合計一三日程度しか現場に顔を出さず、現場に来ても、他の現場との掛け持ちのためか短時間で帰ることが多かった。そのため、亡龍雄は、ほとんど青木に代理人業務を手伝ってもらえず、単独で現場代理人業務を遂行していったといっても過言ではない状況であった。

Ⅱ 東郷サービスエリア電気設備工事の特徴

東郷サービスエリア電気設備工事は、上下線それぞれのサービスエリアの工事を並行して進めなければならず、現場が二つあるようなものであり、施工図面の作成や職人の手配も、それぞれに行わなければならなかった。そして、一方の現場から他方の現場へ移動するには、徒歩で遠回りして行かねばならなかった。

また、発注者が日本道路公団と施設協会であったため、通常であれば口頭で変更が可能なものまで図面化しなくてはならず、書き直しが多かったし、平常の現場以上の細かいチェックが要求され、作業中であったも、豊川市内にある日本道路公団の事務所まで出掛けて、打合せを余儀なくされることもあった。

さらに、工期についても、当初は平成元年七月一日から平成二年二月八日までの予定であったが、平成二年の正月には売店を使用できるようにとの日本道路公団の要請に応じて、平成元年一二月末までと短縮されたことに加え、電気設備工事に先行する建築工事の遅れや、職人の手配の難しさ等が原因で、更に工期に追われることになった。

Ⅲ 亡龍雄の勤務時間は、平成元年八月二八日以降、終業時刻が一八時ないし一九時という日が、土曜日を除くウィークデーは連日続くようになり、同年九月末の三日間については一七時一五分に終業しているが、一〇月に入ると、一九時までの残業が常態化し、同月一一日から一三日までは連続して二〇時まで残業している。その後も、一七時一五分に終業したのは三日あるのみで、それ以外は連日のように一八時ないし一九時まで残業している。さらに、同年一一月三日から五日までの三連休のうち、三日及び四日は連続して休日出勤している。しかも、そのうち同月四日については、かすがい内科て点滴を受けてから休日出勤をしている。

Ⅳ 亡龍雄の健康状態等

亡龍雄は、豊川市内の日本道路公団の事務所に打合せに行ったとき、一宮市の自宅まで帰る元気がないと言って、豊川市内の実家に泊ることがしばしばあった。

また、平成元年九月に末娘の保育園の運動会があったが、亡龍雄は、それまで例年欠かさず見学していたのに、今年は体調が悪いと言って欠席した。

さらに、平成元年九月三〇日、亡龍雄の父の三回忌に出席するため、亡龍雄は、原告らとともに豊川市内の実家に行ったところ、その晩に強い喘息発作が起きたことがあった。

平成元年一〇月になると、亡龍雄は、帰宅後、風呂に入らずすぐに就寝するものの、毎晩のように喘息発作が起きて睡眠を取ることができず、朝食もまともにとれない状態になった。このように強い喘息発作に見舞われるため、亡龍雄は、平成元年一〇月一一日から同年一一月四日までの間に、かすがい内科に九回通院し、そのうち七回は点滴治療をうけた。目の充血は同年九月にいったんは引いたが、同年一〇月になると再び充血したため、ひらばり眼科を受診した。

平成元年一〇月二二日には、住友電設の鬼岩への家族ハイキングがあり、亡龍雄は、三人の娘と参加したが、疲労のため、ハイキングの間は自動車の中で寝ている有様であった。

そして、このころには、作業現場における亡龍雄の気管支喘息発作の頻度も増え、メジヘラを使用している姿や、目を真っ赤に充血させている姿が、下請業者の従業員に目撃されている。

白鳥住宅電気設備工事により重症の気管支喘息となった亡龍雄にとって、このような東郷サービスエリア電気設備工事の業務が過重であったことは明らかである。

Ⅴ 最後の配置転換希望

亡龍雄は、平成元年一〇月下旬ころ、賞与査定のための自己申告書、将来の配置希望調査書において、仕事に体力がついていかないことを理由にして、設計業務への配置転換を申し入れた。会社員たる亡龍雄にとって、将来のことを考えれば、右の申入れは大変勇気のいることであったが、右は、東郷サービスエリア電気設備工事の現場代理人業務をこれ以上続けることは無理だと痛感し、将来の不利益を省みずになされたものであり、亡龍雄の悲痛なまでの叫び声というべきものである。

(7) 亡龍雄の健康状態等

Ⅰ 気管支喘息について

亡龍雄の死因は、気管支喘息の重篤な発作による呼吸不全であるが、気管支喘息は、間欠的、発作的に喘鳴性の呼吸困難が繰り返し起こる症状群として把握される呼吸疾患であり、当初は、気道の過敏性とその可逆性の二つを中心として定義されてきたが、近年では、気道の過敏性の基礎に気管支の炎症という病態があることが強調されるようになった。

気管支喘息の主な症状は喘息発作であるが、喘息発作は夜間や明け方に起こることが多く、喘息患者の病状については、昼間の様子だけでは判断できない場合が少なくないことに留意する必要がある。

気管支喘息の重症度は、出現する喘息発作の強度並びに頻度の相関により判定されるが、ステロイド剤を一定量以上使用する必要がある場合には、それだけで重症と判断される。

Ⅱ 気管支喘息の発症について

気管支喘息は、多因子性の疾患であり、発症のメカニズムとしては、アレルギー、炎症、自律神経、精神・神経因子が統合的に理解されるようになってきた。

そして、気管支喘息の発症に過労やストレスが影響を及ぼすことは、今日では医学上明らかな事実となっている。

Ⅲ 気管支喘息の増悪について

気管支喘息の増悪が過重な業務による過労・ストレスによってもたらされることは、今では広く認知された医学的知見となっている。また、過労・ストレスが気管支喘息の増悪をもたらすメカニズムについては、不明なことが多いと言われているが、人間の持つホメオスターシス(平衡状態)を過労・ストレスが不安定にすることによって、気管支喘息の発症あるいは増悪がもたらされるという考え方が有力に主張されている。

気管支喘息の増悪因子としての過労・ストレスについては、労働に伴う肉体的負荷だけがストレッサーになるのではなく、精神的緊張や責任感等の精神的要素を含めた様々な要素がストレッサーになりうることに留意する必要がある。

また、職場環境におけるさまざまな要因が気管支喘息の増悪をもたらすことが指摘されている。感冒、ほこり、寒さ、睡眠不足等が気管支喘息の誘因因子として高い比率であげられている。そして、特殊な職業性喘息をもたらす無機粉塵でなくても、建築現場に発生する粉塵等が気道を刺激して炎症を誘発し、喘息発作を引き起こすことがあるといわれている。

Ⅳ 気管支喘息の特質(いわゆる「ずれ」について)

強度の過労・ストレスが継続し、その継続時期が経過した後に気管支喘息が一層増悪したり、喘息発作が頻発することは何ら不自然なことではなく、臨床上もしばしばみられることである。特に、防御機能の破綻を伴うような重度化した気管支喘息においては、強度の過労・ストレスがその原因となった業務の終了後も、ある程度の期間にわたって継続することは当然であり、その後に一層の増悪が引き起こされることは何ら不自然なことではない。

したがって、被告が主張するように、平成元年六月前半の白鳥住宅電気設備工事における過重な業務終了後に、亡龍雄の発作回数、受診回数が増えたからといって、業務と気管支喘息の増悪との間に対応関係がないとするのは誤りである。

(8) まとめ

以上のとおり、亡龍雄の気管支喘息は、平和ビル受変電設備工事における過重な業務並びに多量の粉塵への暴露等の職場環境によって発症したものであるところ、白鳥住宅電気設備工事の過重な業務により右の気管支喘息の症状は急速に増加して中等症から重症となり、その後の一か月半程度の内勤によっては改善されないまま、再び東郷サービスエリア電気設備工事において過重な業務に従事させられたため更に増悪し、亡龍雄は、平成元年一一月六日、気管支喘息の重積発作により呼吸不全となって死亡するに至ったものである。

このような気管支喘息の発症や増悪が、亡龍雄の従事した右の過重な業務に起因することは明白であり、業務起因性が認められることは明らかである。

なお、労災保険法は、被災者の重過失等について給付制限をなし得る旨規定しているが(同法一二条の二の二の二項、ただし、通達により、遺族補償年金給付及び葬祭料は支給制限の対象とされていない。また、労基法は、遺族補償については重過失であっても給付制限をしていない。)、軽過失については業務上外の認定を左右しないものとしている。したがって、仮に、被告主張のとおり、亡龍雄のメジヘラ大量使用が気管支喘息のコントロールを困難にしたとしても、また、亡龍雄が喫煙を継続したことに健康管理上の懈怠があったとしても、これらの軽過失を理由に業務起因性を否定することはできない。

(9) 住友電設の亡龍雄に対する安全配慮義務違反について

Ⅰ 使用者に安全配慮義務違反が認められる場合は、当該疾病は業務に起因する危険が現実化したことにより発症したものとして、業務と当該疾病との間には相当因果関係があるというべきである。そうでなければ、使用者に過失があり、損害賠償が認められるにもかかわらず、労災補償は受けられないという不当な結果を招来することになるからである。

Ⅱ 気管支喘息の発症を防止すべき安全配慮義務違反

平和ビルの電気設備工事は、大量の粉塵が発生する現場であったが、住友電設は何らの防塵対策を講じなかった。また、北村は、亡龍雄が咳き込んでいた旨の報告を受けていたのであるから、亡龍雄に対し、医療機関で受診するよう指示するとともに、亡龍雄が療養に専念し、健康の回復に努めるよう代替者を配置すべきであったが、何らの措置もとらなかった。

このように、住友電設は、平和ビル受変電設備工事に伴って発生する粉塵を亡龍雄が吸引することにより、気管支喘息等の呼吸器疾患に罹患することを十分に予見できたにもかかわらず、何らの有効な安全対策をとらなかったことから、亡龍雄の過労・ストレスとあいまって亡龍雄に気管支喘息を発症させたものである。

Ⅲ 気管支喘息の増悪を防止すべき安全配慮義務違反

住友電設は、定期健康診断の結果等を通じて、亡龍雄が気管支喘息に罹患し治療中であることを知っていたのであるから、過労・ストレスにより亡龍雄の気管支喘息の症状が増悪しないように、亡龍雄の労働時間、休憩時間、休日、労働環境等について適正な労働条件を確保するとともに、亡龍雄の健康状態を正確に把握したうえ、亡龍雄の気管支喘息の症状の推移に十分注意を払うとともに、その病状に応じて作業時間及び作業内容の軽減、就労場所の変更等、適切な措置をとるべき義務を負っていた。

しかるに、住友電設は、亡龍雄に白鳥住宅電気設備工事の現場代理人業務を命じ、過重な時間外労働、休日出勤を強いたり、亡龍雄の補助者である佐川が研修に出ている間、代替要員を派遣するなどの措置をとらなかった。住友電設は、気管支喘息に罹患している亡龍雄の精神的・身体的負担を軽減するどころか、一層過重な負荷を負わせた。

また、住友電設が、亡龍雄を東郷サービスエリア電気設備工事に配置転換するに際して、事前に精密な健康診断を受けさせるか、主治医の春日井医師に問い合せるなどして、亡龍雄の健康状態を十分に把握し、産業医の意見を聴取するなどの処置をとっていれば、亡龍雄の喘息死は回避することができたものである。

さらに、使用者は、健康診断の結果、必要な者には精密検査を行い、その健康状態を把握して就労制限の要否を判断する義務があるところ、白鳥住宅電気設備工事終了後、亡龍雄は内勤への配置転換を申し出たのであるから、住友電設は、この時点において、亡龍雄に精密な健康診断を受けさせ、その病状を把握すべきであった。

右のとおり、住友電設は、亡龍雄が気管支喘息に罹患していることを知っていたのであるから、過重な業務をさせない義務、適正配置義務、健康状態把握義務を負っていたにもかかわらず、これを怠り、その結果、亡龍雄の気管支喘息を増悪させて死亡させたものである。

Ⅳ まとめ

右ⅠないしⅢのとおり、住友電設に安全配置義務違反がある場合には、業務起因性の判断は通常の場合よりも緩やかにされるべきである。

また、使用者の安全配慮義務違反は、被災者の過重負荷の判断要素とされ、住友電設に本件のような安全配慮義務違反が存在する場合には、亡龍雄には過重な負荷があったものと推認されるべきである。

したがって、亡龍雄の死亡には業務起因性があるというべきである。

(二) 被告の主張

(1) 条件関係の不存在

Ⅰ 発症因子

亡龍雄の気管支喘息発症当時の勤務場所は、平和ビル受変電設備工事現場であるが、一般的に、右のようなビル建築工事現場でのほこりが気管支喘息の発症原因になるとの医学的知見はないし、右のほこりと気管支喘息発症との間の因果関係を推認させるような一般的統計資料も存在しないうえ、具体的事例としても、住友電設の現場代理人において亡龍雄以外に気管支喘息に罹患した者はいない。

しかして、亡龍雄の父親も喘息患者であり、亡龍雄自身も慢性湿疹、じん麻疹等のアレルギー疾患の既往歴があり、このことから亡龍雄がアトピー素因を有していた可能性は極めて高い。

そして、春日井医師は、亡龍雄から、「前の病院で(アレルゲンは)ハウスダストだと言われた。」旨確かに聞いたと述べており、同医師自身も亡龍雄のアレルゲン同定検査を実施し、その結果は、やはりハウスダストだったと思うと述べていることからすると、亡龍雄のアトピー素因のアレルゲンはハウスダストであったと認められる。

してみれば、昭和五二年に亡龍雄が発症したのはアトピー型気管支喘息であり、同人が先天的に有していたアトピー素因のために、アレルゲンとしてのハウスダストが相当期間、相当量の暴露を経て、抗原として感作を成立させ、発症に至ったものであるから、亡龍雄の業務と気管支喘息の発症との間には、条件関係がそもそも存在しない。

Ⅱ 亡龍雄の気管支喘息の増悪、発作誘発

① 増悪・死亡に至るまでの経緯

昭和五二年に発症した亡龍雄の気管支喘息は、まだステロイド剤が常用されるほどの状態ではなく、症状は軽症の部類であったが、昭和五九年一月ころから薬の服用が頻繁になってステロイド剤が常用されるようになり、このころから症状は中等症以上に増悪した。

亡龍雄は、昭和六三年一月と同年八月に気管支喘息のため点滴治療を受けているが、その翌月は点滴治療を受けていないから、その症状は、一時的な悪化はあったが、以前より一段と増悪したわけではなかった。

しかし、平成元年二月以降は、毎月点滴治療を受けるようになっていることから、亡龍雄の症状は、そのころから増悪したと推認できる。特に、平成元年六月中旬以降は、診療実日数及び点滴回数が一段と増加していることから、症状が急激に悪化していったものということができる。

亡龍雄は、死亡前日の平成元年一一月五日(日曜日)午前八時過ぎ、所属していたソフトボールチームの試合に出場するため自宅を出て、午前中の試合は「体調が悪い。」と監督の申し出て出場しなかったが、午後の試合では、六回裏にピンチヒッターで出場し、ヒットを打って一塁まで走り、七回表に守備につくなどの運動をした。

そして、亡龍雄は、平成元年一一月六日午前三時ころ、寝ていた原告を呼び、メジヘラを持ってこさせて、自ら吸入し、その後、しばらくして呼吸困難となり死亡した。

② 亡龍雄の気管支喘息の増悪因子

(い) 亡龍雄は、たばこを一日一箱から二箱吸っており、人間ドックの診断結果で何回か禁煙を指示されていたにもかかわらず、死亡するまで喫煙を続けたばかりか、気管支喘息であってもたばこはやめられない旨公言していたほどであった。

また、亡龍雄は、昭和六〇年から六一年ころ、たばこを吸って咳き込んでは携帯用の吸入器を使っていたことから、北村からもたばこをやめるように注意されたが、これを聞き入れなかった。

したがって、亡龍雄の気管支喘息の増悪原因は、たばこの問題を含め、患者としての自己管理に問題があった可能性が高いというべきである。

(ろ) 亡龍雄は、少なくとも昭和六三年三月から死亡する平成元年一一月まで、メジヘラを自宅近くの戸塚薬局で毎月平均して約三〇本購入し、毎日これを携帯して常用していたが、この量は適正使用量の一五倍以上という余りにも過剰な量であった。

しかも、亡龍雄は、それ以前から、かすがい内科で同様の吸入薬サルタノールを月に二本ないし四本処方されており、春日井医師に無断で右のメジヘラを常用していたものであった。

ところで、メジヘラは、長時間大量に使用すると、副作用のために気管支喘息のコントロールが困難となり、場合によっては喘息死する可能性もあるため、昭和四七年から医師の処方箋による要指示薬に指定されているものである。

したがって、亡龍雄は、平成元年六月時点では、既にメジヘラの過剰使用により、気管支喘息のコントロールが難しく、発作が抑えられにくい状態にあった可能性が高く、もはや亡龍雄がどのような業務に従事していたか、その業務が忙しかったかとは関係なしに、いつ重積発作が発生してもおかしくない状態であった。

喘息死の発作誘因に関するアンケートの回答結果では、メジヘラと同様のβ刺激薬の過剰使用との回答は全体の6.5パーセントにすぎず、疲労、過労や心因・ストレスよりは回答が少なかったが、本件では適正使用量の一五倍以上もの過大な量が約二年間も継続的に常用されていること、亡龍雄は、最近の薬剤より副作用の大きい初期の段階のイソプロテレノールを含むメジヘラを使用していることから、本件はまさにその6.5パーセントの中に入る可能性が非常に高いケースであるといえる。

③ まとめ

右のとおり、亡龍雄は、アトピー型気管支喘息発症後昭和六三年までの間に、自然的経過の中で気管支喘息が増悪していたのが、長期喫煙及びメジヘラの大量長期継続使用のために発作抑制が困難な状態になり、従事業務の如何に問わず、いつ重積発作が発生してもおかしくない状態に陥っていたというべきである。

そして、死亡前日の平成元年一一月五日にソフトボールで運動したことが誘発因子となって、抑制困難な喘息発作が発生した可能性が高く、そこへメジヘラを吸入した後に気管支れん縮、狭窄を起こしたことが加わり、呼吸困難となって死亡するに至ったというべきである。

したがって、亡龍雄の業務と気管支喘息の増悪との間には、条件関係がそもそも存しない。

(2) 相当因果関係の不存在

仮に、亡龍雄の業務と気管支喘息の発症及び増悪との間に条件関係が存在するとしても、以下のとおり、亡龍雄の業務と気管支喘息の発症及び増悪との間には相当因果関係がないというべきである。

Ⅰ 亡龍雄の業務の一般的状況

現場代理人(副代理人も概ね同様である。)の業務内容は、電気設備工事現場の管理者、責任者であって、その業務の大半は、住友電設ないし現場事務所での打合せ、図面作成等の室内業務であり、工事現場を回って巡回するのは、概ね午前一回、午後一回で、時間にして一日一時間ないし一時間半であり、平均して全業務時間の二割弱にすぎない。

また、現場代理人、副代理人とも、現場作業員の行う若干の軽作業を手伝うことはあっても、現場作業員と一緒になって作業を行うことはないし、軽作業を手伝うといってもスラブ配管のときの墨出しの手伝い程度で、時間的に見ても業務全体のわずか一、二パーセントにすぎなかった。

Ⅱ 昭和五二年ころの亡龍雄の勤務状況等

亡龍雄は、昭和五二年ころ、平和ビル受変電設備工事の現場副代理人業務に従事していた。右工事は、昭和五一年一一月から昭和五二年八月までの躯体工事及び内装工事の期間は、ほぼ定時で勤務が終了し、竣工一か月前ころには、一日二時間ないし三時間程度の残業をしていたことはあるが、それも通算して五日程度にすぎず、残業日が連続していたということはなかったし、工期最終日の一日程度は午後一一時ころまで現場にいたことがあるが、その実働は午後九時ころまでであった。

なお、右工事現場では、竣工六か月前ころより週一回一斉清掃日が設けられ、各業者がフロアーを分担して作業員全員で一時間程度の清掃を実施しており、その際、各人はマスクや手ぬぐいで防塵対策をしていた。右フロアーには間仕切りがなかったため、右清掃の際、一時的に現場全体にコンクリートのほこり等が漂っていたことがあったが、これは清掃の際の一時的なものにすぎず、通常は特にほこりがひどいという状態ではなかった。

そして、亡龍雄は、右工事期間一年半のうち最初の約半年間は、空調設備も換気扇もある現場事務所で設計業務に従事していたものであるし、その後は、主として現場における作業工程のチェック等の管理的な業務に従事していたが、常時現場にいるということはなかったから、亡龍雄が右工事期間中にひどいほこりに曝されているということはなかった。

Ⅲ 昭和五九年ころの亡龍雄の勤務状況等

このころの亡龍雄の業務が過重であったと認めるに足りる証拠はない。

Ⅳ 昭和六二年八月から平成元年三月までの亡龍雄の勤務状況等

亡龍雄は、昭和六二年八月ころから白鳥住宅電気設備工事に従事する昭和六三年三月ころまで、別の工事現場の現場代理人業務に従事していたが、そのころの業務が過重であったことを窺わせる証拠はない。

その後、亡龍雄は、昭和六三年三月から白鳥住宅電気設備工事の現場代理人業務に従事し、佐川が現場副代理人となった。

亡龍雄は、白鳥住宅電気設備工事においては、その工事期間の前半は現場事務所内での作業がほとんどであり、後半は事務所内と現場管理の作業の両方を行っていたが、右現場事務所や工事現場のほこりが特にひどいということはなかった。

白鳥住宅電気設備工事は、昭和六三年夏ころまではあまり忙しくなく、勤務はほぼ定時で終了していたが、同年一〇月ころから忙しくなり、休みも日曜日くらいになった。

亡龍雄の気管支喘息が増悪した平成元年二月は、出勤日のほぼ毎日残業があったが、一日当たりの残業時間はせいぜい三〇分から一時間三〇分の間がほとんどであり、それ以前の月と比較しても、終業時間、残業時間数とも勤務時間に大差はなく、むしろ昭和六三年一〇月、一一月のそれよりは少ない勤務時間となっている。

Ⅴ 平成元年四月から六月までの亡龍雄の勤務状況等

佐川は、平成元年四月から研修で大阪に行くことになったが、白鳥住宅電気設備工事程度の規模であれば、通常は現場代理人一人だけで十分やれる仕事であるから、現場代理人の経験豊富な亡龍雄にとっては、右工事は当然一人でできるものであった。

また、佐川は、住友電設の下請会社の社長の息子で昭和六三年三月に高校を卒業したばかりであり、現場副代理人として配置された目的は、電工としての業務研修及び現場副代理人業務の見習いであって、亡龍雄の補助が目的ではなかったのであるから、佐川がいなくなったことにより亡龍雄の作業負担が増えたということもない。

さらに、住友電設は、佐川がいなくなった後、亡龍雄の依頼に応じて下請の作業員を増員したほか、平成元年五月一一日から同年六月五日までの約一か月にわたって、北村や他の現場代理人二名を交代で亡龍雄の応援に行かせたこと、亡龍雄自身も、現場代理人よりも職人の応援を求めていたことからすると、亡龍雄の現場代理人業務自体はそれほど応援を要するものではなかったと認められる。

したがって、白鳥住宅電気設備工事での現場代理人業務が、佐川がいなくなったことにより過重になったことはないというべきである。

亡龍雄は、平成元年五月中旬から六月中旬までは一日しか休みをとらず、残業も多くなっているが、六月中旬以降の勤務時間は通常に戻っている。

Ⅵ 平成元年七月から八月下旬までの亡龍雄の勤務状況等

亡龍雄は、その当時、それまでのメジヘラの過剰使用等により、気管支喘息のコントロール不良の状態にあったが、平成元年六月下旬ころ、住友電設に対し、現場代理人から内勤への配転希望を申し出た。

そこで、住友電設は、平成元年七月一日以降、亡龍雄をデスクワーク(積算業務)に従事させたが、亡龍雄は、なれないデスクワークに窮屈さを感じ、仕事がおもしろくない、現場の方が良いとの気持ちを抱いていた。

北村は、亡龍雄に対し、そのころ数回にわたって、体調はどうかと聞いたが、亡龍雄は、いつも「どうもない。」との返事しかしなかったため、北村は、亡龍雄の体調が回復してきていると考えていた。

亡龍雄は、右のとおり平成元年七月一日から業務が内勤のデスクワークに変わったこともあって、残業時間は一日当たり三〇分ないし一時間程度と大幅に減り、土、日の所定休日や八月一一日から一六日までのお盆休みもすべて休暇を取得した。すなわち、同年七月は、一か月だけで土、日の二連休が四回、三連休が一回の合計一一日間の休日を取得しているし、同年八月も、お盆休みの六連休を含め、合計一一日間の休日を取得している。

したがって、この約一か月半の間に、亡龍雄の疲労は実際にも相当程度回復したものと認められる。

Ⅶ 平成元年八月下旬以降の亡龍雄の勤務状況等

平成元年のお盆明けの八月一七日ころ、住友電設中部支社において、北村が東郷サービスエリア電気設備工事の図面を見ていたところ、亡龍雄がそれをのぞき込んで、亡龍雄の方から、「どこの現場か。」と尋ねてきたので、北村が、工事の規模、工期等を説明したところ、亡龍雄は、「そんな現場だったら自分でもできる。」と言って、自ら現場に復帰して右工事を担当したいとの意向を示した。そこで、当時右工事の現場代理人の選定に困っていた北村は、亡龍雄を右工事の現場代理人に選定した。

右工事は、その規模及び亡龍雄の現場代理人としての経験からすると、亡龍雄一人で十分担当できるものであったが、北村は、亡龍雄の体調や工事期間が短縮されたことなどを考慮し、協力会社の従業員の青木を副代理人に選任して、亡龍雄の補助をさせる手配をした。

亡龍雄は、平成元年八月二一日から同月三一日までは住友電設中部支社で施工図の作成等の準備作業をし、同年九月一日からは現場事務所に移り、同年一〇月中旬以降の図面作成のピーク時には、青木に図面の作成を手伝ってもらう等して、現場代理人業務に従事していた。

亡龍雄の勤務状況は、平成元年八月下旬ころから二時間の残業をする日が出始め、同年九月、一〇月はその日数が増えてきているが、死亡の前々日である同年一一月四日までの一日当たりの残業時間は、ほぼ0.5時間ないし2.5時間以内であった。

なお、平成元年九月の残業時間は合計24.5時間であるのに対し、同年一〇月のそれは四八時間と増加しているが、午前中にかすがい内科で点滴注射を受けてから出勤した日が六日間あり、これらの日は、現場へ着くのが一〇時から一〇時半となるので、その遅刻時間を差し引くと、残業時間の合計は三六時間となる。また、休日取得状況を見ても、九月、一〇月とも、月に七日ないし八日の休日を取得している。

以上のような勤務状況は、昭和六三年夏以前の白鳥住宅電気設備工事がまだ忙しくなかったころの状況と変わらない程度であり、過重な労働というほどのものではない。

そして、亡龍雄は、東郷サービスエリア電気設備工事において、咳き込んだりしたときにメジヘラを使っていたことが目撃されているが、それ以外のときは、第三者から見て、普通に仕事ができる状態と見られていた。

Ⅷ 亡龍雄が死亡する直前の就業状況等

亡龍雄が死亡する二週間前から死亡日までの間も、工事の進捗状況は遅れていたというほどではないし、残業時間もそれほど多くなく、概ね午後七時までには終了していた。忙しくなったのは、むしろ亡龍雄死亡後の平成元年一一月二〇日ころからであった。

なお、平成元年一一月は、同月三日及び四日の祝日を休日出勤しているが、これらは金曜日及び土曜日であり、同月五日(日曜日)は休んでいるので、祝日のない通常の月と比較すれば、特に過重なものとはいえない。

Ⅸ まとめ

亡龍雄の業務は、現場代理人という肉体的な重労働を伴わない性質のものであって、昭和五二年の平和ビル受変電設備工事、昭和六三年からの白鳥住宅電気設備工事のいずれにおいても、ほぼ残業時間も少なく、全体として業務を過重であると評価するに足りる事情は見当たらない。白鳥住宅電気設備工事のうち、平成元年五月中旬から同年六月中旬までの間は、休日出勤、残業とも極めて多くなり、過重な業務となっていた可能性が高いが、亡龍雄は、同年六月下旬以降は内勤業務となって負担の軽いデスクワークとなり十分な休暇も取得しているから、同年八月下旬からの東郷サービスエリア電気設備工事の現場代理人業務に従事するまでの間に、右の疲労は十分回復していたとみるべきであるし、その後の勤務状況、休日取得状況に照らしても、東郷サービスエリア電気設備工事の業務が過重であったということはできない。

そして、気管支喘息の症状増悪と亡龍雄の勤務状況等を時期的に比較してみても、症状悪化は昭和六三年一月、八月及び平成元年二月以降であるが、昭和六三年一月と八月に残業が特に多く休日も取得できないといった事情はなく、逆に、平成元年六月中旬以降についてみると、勤務時間は少なくなったのに受診回数及び点滴回数が増加している。したがって、症状悪化(喘息発作)と業務(勤務時間)との間には、相関関係は認められないというべきである。

なお、発作が本当にひどければ受診せざるを得ないのが当然であるから、残業が多く休日出勤も多かったために点滴治療を受ける時間が確保できなかったということは考えられない。

このような事情を総合すれば、業務遂行過程において亡龍雄の基礎疾病である気管支喘息の症状が徐々に増悪していたとしても、それは右基礎疾病の自然的経過の範囲内での増悪と判断されるべきものであり、仮に、亡龍雄の従事していた業務と本件疾病の発症及び増悪との間に条件関係があったとしても、亡龍雄の業務が本件疾病の発症及び増悪につき相対的に有力な原因であったということはできず、相当因果関係はないというべきである。

よって、いずれにしても、本件疾病の発症及び増悪は業務に起因するものとはいえない。

第三  争点に対する判断

一  争点1について

1  業務起因性の意義

(一) 労基法及び労災保険法に規定されている労災補償制度の趣旨は、労働災害が発生する危険性を有する業務に従事する労働者について、右業務に通常内在ないし随伴する危険性が発現し労働災害が生じた場合に、使用者の過失の有無にかかわらず被災労働者の損害を填補するとともに、被災労働者あるいはその遺族等の生活を保障しようとするものであると解するのが相当である。

そして、労基法及び労災保険法が、保険給付の要件として、労基法七五条において、「業務上負傷し、又は疾病にかかった」、労災保険法一条において、「業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡」と各規定するほか、何ら特別の要件を規定していないことからすれば、業務と傷病等との間に業務起因性があるというためには、当該業務により通常傷病等の結果発生の危険性が認められること、すなわち業務と傷病等との間に相当因果関係が認められることが必要であり、かつ、これをもって足りると解するのが相当であって(最高裁判所昭和五一年一一月一二日判決参照)、この理は、労基法施行規則三五条別表第一の二第九号に定める「その他業務に起因することの明らかな疾病」の認定、すなわち非災害性の気管支喘息等の業務起因性の有無の判断を行ううえにおいても、何ら異なるところはないと解するのが相当である。

(二) 原告は、労基法及び労災保険法上の業務起因性の判断基準としては、業務と結果発生との間に合理的関連性があれば足りる旨主張するが、業務上外の判断基準は、右説示のとおり合理的関連性があるだけでは足りず、相当因果関係があることまで必要とするというべきである。

2  しかして、非災害性の気管支喘息の発症及び増悪については、被災労働者の従事していた業務と直接関係のないアトピー素因やアレルゲン等の日常生活上の危険因子が複合的、相乗的に影響しあって発症に至ることが多いことに鑑みれば、業務と右気管支喘息の発症及び増悪との間に相当因果関係を肯定するためには、単に気管支喘息が業務遂行中に発症したとか、あるいは業務が気管支喘息の発症及び増悪の一つのきっかけを作ったなどという一事のみでは足りず、当該業務に通常内在ないし随半する危険が顕在化したものと認められることが必要であると解すべきである。

しかるところ、肉体的、精神的緊張等に基づくストレスないし疲労(以下「ストレス等」ともいう。)の蓄積が、気管支喘息を誘発あるいは増悪させる危険因子の一つであり、ことに気管支喘息の基礎疾患を有する者に対しては、一層悪影響を与える可能性があることが認められるものの、ストレス等の発生要因は種々であって、業務のみならず業務外の事情も考えられるほか、気管支喘息の発生機序については、医学上もいまだ十分に解明されていない分野であり、ストレス等の発生及びその受容の程度並びに身体に与える影響についても個人差が存在し、現在の医学水準からはストレス等の蓄積を客観的・定量的に数値化することは困難であることが認められることからすると、現在の医学的知見によっては、ストレス等の蓄積と気管支喘息の発症及び増悪との因果関係を、医学的に明らかにすることは難しいものといわざるを得ない(甲第五七、第六五、第六七号証、第七〇ないし第七五号証、第七七、第八九号証及び弁論の全趣旨)。

しかしながら、訴訟上の因果関係については、かかる医学的な証明まで必要とされるものではなく、論理法則、経験則に照らしての歴史的証明で足りるのであるから、訴訟上の因果関係を肯定するにおいては、その事実的側面において、気管支喘息等の発生機序が医学的に余すところなく証明されなければならないとするのは相当でなく、また、ストレス等の蓄積が客観的・定量的に把握できない限り訴訟上の因果関係を肯定できないと解することもまた相当でない。

してみれば、業務と気管支喘息の発症及び増悪との間に相当因果関係があるといえるかどうかを判断するに当たっては、前記労災補償制度の趣旨に鑑み、当該被災労働者の基礎疾患の内容、程度、発症前後の業務の状況、生活状況等の諸事情を具体的かつ全体的に考察し、これを当該被災労働者の疾病発生原因及び増悪についての医学的知見に照らし、社会通念上、当該業務が当該被災労働者にとって過重負荷と認められる態様のものであり、これが被災労働者の基礎疾患を自然的経過を超えて著しく増悪させ、それにより喘息発作による死亡の結果を招いたと認められる場合に相当因果関係を肯定するのが相当である。

二  争点2について

業務災害に関する遺族補償給付及び葬祭料は、労基法七九条、八〇条に規定する事由が生じた場合に、補償を受けようとする遺族又は葬祭を行う者の請求に基づいて行われるところ(労災保険法一二条の八第二項)、右請求は、労働基準監督署長に対し、請求を裏付けるに足りる所定の事項を記載した請求書に、これを証明することができる書面を添付してしなければならないとされている(労災保険法施行規則一三条一項、二項)ことからすると、遺族補償給付及び葬祭料を受けようとする遺族あるいは葬祭を行う者は、右請求にかかる各給付について、自己に受給資格のあることを証明する責任があるというべきであって、右遺族ないし葬祭を行う者が遺族補償給付あるいは葬祭料を請求するには、「労働者が業務上死亡した」(労基法七九条、八〇条)ことを証明しなければならないものと解するのが相当である。

そうすると、遺族あるいは葬祭を行う者は、労働基準監督署長が、遺族補償給付及び葬祭料の請求に対し、業務起因性を有しないことをもって不支給決定をしたときに、その効力を訴訟上争う場合においても、遺族あるいは葬祭を行う者の側で、当該死亡が業務起因性を有することを主張・立証する必要があるというべきである。

もっとも、訴訟上の因果関係の立証は、自然科学的な証明ではなく、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることで足り(最高裁判所昭和五〇年一〇月二四日判決・民集二九巻九号一四一七頁参照)、また、医学的に厳密な証明まで要求されるとすると、前記説示のとおり、ストレス等の蓄積と気管支喘息の発生機序について医学的にも十分に解明されていない現状においては、亡龍雄の業務起因性の立証につき著しい困難を強いる結果となる。

してみれば、亡龍雄の業務と死亡との相当因果関係を立証するにおいても、亡龍雄の基礎疾患を自然的経過を超えて著しく増悪させたと認めるに足りる過重な業務の存在を立証すれば足り、被告から、本件基礎疾患が重篤な状態にあったこと、あるいは業務外の肉体的、精神的負荷等が原因となって本件疾病が発症及び増悪したことについて特段の反証がない限り、本件疾病は労務に通常内在ないし随伴する危険性が顕在化したものと認められ、業務と本件疾病の発症及び増悪との間に相当因果関係を肯定することができるものと解するのが相当である。

三  争点3について

1  第二の一に摘示した「争いのない事実等」及び証拠(甲第五、第七、第八号証、第一三号証の二、三、第一五号証の一ないし四、第一八、第二四号証、第二六号証の一、第二七、第二八号証、第三〇号証の一、二、第三一号証、第三二号証の一ないし三二、第三四号証の一、二、第三五号証の一ないし四、第三六号証、第三七号証の一、二、第三八、第三九号証、第四〇号証の一ないし四、第四一、第四六、第四八号証、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし四、六ないし八、一〇ないし一三、第五九号証の一、五、第六一号証の一、三ないし七、第六三号証の一、二、第六四号証の一ないし一五六、第八一号証、第八三ないし第八七号証、乙第一号証の二、第三号証の一、三ないし一一、第一二号証の一、二、第一三ないし第二八号証、第三一ないし第三三号証、第三七、第四一、第四五号証及び証人北村邦雄、同佐川輝樹、同春日井将夫、同末次勤の各証言並びに原告本人尋問の結果)並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる(なお、各認定事実の冒頭の括弧内に当該事実の認定に供した主な証拠を掲記した。)。

(一) 亡龍雄の経歴・性格等(甲第四一、第五八号証の一、二、一二、第八一、第八三、第八四号証、乙第一七号証)

亡龍雄(昭和二二年四月三日生まれ)は、名城大学を卒業後、昭和四五年四月、住友電設の前身である太陽工藤工事株式会社に入社し、同社の電気設備工事技師として勤務していた。

亡龍雄は、本件死亡までの約一九年間、主として、ビル、工場等の受変電設備や証明、コンセント等の設置工事の現場副代理人又は現場代理人業務に従事していた。

亡龍雄は、明るく部下に慕われる性格である反面、人見知りをし、本音をなかなか話さない性格であり、几帳面で仕事に対しては責任感が強かった。

(二) 亡龍雄の業務内容等

(1) 亡龍雄の担当業務(甲第三八、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一、二、五、第五九号証の一、第六一号証の四、乙第三一、第三三、第三七号証)

亡龍雄は、現場副代理人又は現場代理人として、前記争いのない事実等5記載の業務を遂行していた。

現場代理人の業務内容は工事の進み具合にしたがって変動し、現場事務所の開設から躯体の立ち上がりまでの間は、打合せ、事務処理、労務、資材等の手配、提出書類の作成、図面、書類の作成など、現場事務所内での業務がほとんどを占めるが、躯体の立ち上がりから竣工までの間は、現場事務所内での業務に加えて現場巡視が付け加わる。この現場巡視は、常時現場に詰めているわけではなく、午前、午後の各一時間ほど、工事進行状況のチェック、施工内容の品質チェック、作業員等の安全チェックのために現場を回るというものであり、それ以外の時間は現場事務所内において、施工図の作成及び修正、月間工程表・週間工程表の作成及び修正、日々の工事の進み具合に合わせた施工計画の修正、他の設備業者との打合せなどの業務を処理していたが、このなかでも特に時間がかかるのは、施工図作成及び施主、関係業者との打合せであった。

現場代理人業務は、現場事務所の責任者として右の業務を処理するものであり、責任の重い業務であった。

なお、現場代理人は、現場の管理者、責任者であって、原則として、現場作業員の行う若干の軽作業を手伝うことはあっても、現場作業員と一緒に作業を行うことはなかった。

(2) 就業規則上の労働条件(乙第三二、第三三号証)

就業規則上の休日は、祝祭日、メーデー、年末年始、日曜日、月に二回の土曜日と夏季休暇であり、所定休日に出勤した場合は代休が与えられることとなっていた。

始業時間は午前八時四五分であり、終業時間は、月曜日から金曜日までは午後五時一五分、土曜日は午後四時三〇分であり、昼の休憩時間は一時間であった。したがって、月曜日から金曜日までの実労働時間は七時間三〇分であり、土曜日の実労働時間は六時間四五分であった。なお、工事現場で就労する場合は、元請業者等との就業時間に合わせる必要があるため、始業時間は午前八時とされていることが多かった。

(三) 平和ビル受変電設備工事期間中の亡龍雄の就業状況等(甲第一五号証の一ないし四、第三六、第三八号証、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし三、八、一一、一二、第六一号証の四、第八一、第八三、第八四号証、乙第三号証の四、第一七ないし第一九号証、第二四、第二七、第三三号証、証人北村邦雄の証言、原告本人尋問の結果)

(1) 工事の概要

住友電設は、株式会社大林組から、平和ビル新築工事(地下一階、地上一一階、塔屋三階建)のうち、受変電設備、幹線設備、動力設備、中央監視設備工事を請け負った。平和ビル全体の工期は、昭和五〇年一〇月から昭和五二年九月までであり、昭和五〇年一二月ころに基礎工事に着工し、昭和五二年四月まで躯体工事が、同年四月から同年九月まで内装工事が施工された。そして、住友電設は、昭和五一年五月から同年一〇月までは設計業務を行い、同年一一月から昭和五二年九月までの間に躯体工事や内装工事と並行して電気設備工事を施工した。

右平和ビル電気設備工事では、北村が現場代理人、亡龍雄が現場副代理人を担当したが、右工事は比較的順調に進行し、亡龍雄はほぼ定時に帰宅していた。なお、亡龍雄は、竣工期日の一か月前ころに、設備の試運転等で二時間ないし三時間の残業をしたことがあったが、それも連続ではなく合計五日程度にすぎなかった。

(2) 清掃業務について

Ⅰ 平和ビル電気設備工事現場では、昭和五一年一一月ころから躯体工事が完成する昭和五二年四月ころまでの約半年間、毎週一回一斉清掃日が設けられ、午後一時から二時までの約一時間程度、ゼネコンの割り振りに従い、各業者が分担して新築ビルのフロアーを清掃していた。右一斉清掃のうち、コンクリート打ち用の仮枠を撤去した直後の清掃の際には、一時的(三〇分ないし一時間程度)に大量のほこりが発生した。ほこりの種類は、コンクリートのほこり、石膏ボードの切り屑、砂などであり、水をかけてほこりが舞い上がらないようにするが、間仕切りがないので全体にほこりが舞い上がってしまう状況であった。そのため、右仮枠撤去直後の清掃当番に当たったときは、北村や亡龍雄を含め、作業者全員がマスクや手拭いを口元にあてて清掃作業をしていた。

しかし、仮枠撤去直後の清掃は、各階につき一回であり、かつ、右清掃は五班で分担したため、亡龍雄の所属する班が右の清掃を担当したのは三回程度にすぎなかった。また、内装工事が始まった昭和五二年五月以降は、内装業者が右の清掃を行うようになり、北村と亡龍雄らは右の清掃作業には参加しなくなった。

なお、住友電設の現場代理人は、いずれも右のような新築ビルの工事現場において業務に従事しているが、これまで亡龍雄以外に気管支喘息に罹患した者はいなかった。

Ⅱ 右仮枠撤去直後の清掃以外の一般清掃は、紙、木片等のごみが多く、ほこり、粉塵は少なかった。また、清掃時以外にも、コンクリートのはつり工事の壁や仕上工事の初期の段階には、一時的にほこりが舞うこともあったが、その程度は大したものではなかった。

なお、屋上の特別変電室の壁には石綿が吹き付けてあったが、その石綿がとれて空中を飛び交うということはなかった。

(3) 亡龍雄の業務内容

亡龍雄は、電気設備工事着工までは設計変更に伴う施工図の作成や修正を担当し、右工事が同年一一月に着工された後は、工事が予定どおり進行しているかをチェックする工程管理を主に担当し、工事現場を午前と午後に各一時間ほど巡視したり、現場事務所内で施工図の作成及び修正、月間・週間工程表の作成及び修正、資材の手配などの業務に従事していた。

このように、亡龍雄の業務は、現場事務所内において行うものが大半であった。

(4) 亡龍雄の健康状態等

亡龍雄は、昭和五二年七月ころ、咳が止まらない状態となり、当初は風邪をこじらせたものと思っていたが、同年九月二三日、自宅でゼーゼーといいながら、汗を流して息苦しそうな状態になったため、翌二四日、当時の自宅近くの堀田病院で診察を受けたところ、気管支喘息と診断され、そのまま同月二九日まで入院した。

(四) 平和ビル受変電設備工事終了後から、白鳥住宅電気設備工事に従事するまでの亡龍雄の就業状況及び健康状態等(甲第一八、第二四、第四五、第四六、第八一、第八三号証、乙第五号証の一、二、第六号証の一、二、第一四、第三三号証)

(1) 亡龍雄は、平和ビル受変電設備工事終了後、昭和五三年五月から昭和六三年三月までの間、第二の一4記載のとおり、一八件の工事に現場代理人又は現場副代理人として従事したが、いわゆる件名工事と呼ばれる大規模なものは、三洋岐阜GI棟建設電気設備工事と恵那市まきがね公園体育館建設工事の二件であり、それ以外は規模が小さく期間も短い比較的楽な工事ばかりであった。

(2) 亡龍雄は、昭和五九年一二月から昭和六一年一〇月まで三洋岐阜GI棟建設電気設備工事の現場副代理人業務に従事したが、このころから喘息発作の回数が増え、時々、発作のため夜眠れない日もあるようになった。

(3)Ⅰ 亡龍雄は、堀田病院に、昭和五九年一月から昭和六〇年五月まで継続的に通院(実日数五七日)して、気管支喘息等の治療を受けていた。

Ⅱ 亡龍雄は、実父が通院していた小柳津医院に、昭和五九年一月一日から昭和六一年八月三一日まで通院(実日数一二六日)して、気管支喘息の投薬を受けていた。

Ⅲ 亡龍雄は、自宅近くのかすがい内科に、昭和五九年一一月一七日から通院するようになり、死亡するまで主治医として気管支喘息等の治療を受けていた。

Ⅳ 亡龍緒は、山下病院に、昭和六〇年四月一七日から昭和六一年七月三日まで通院(実日数四五日)したが、そのカルテには、昭和六〇年七月一五日「喘息発作」、同年八月二日「喘息発作」、同年八月二六日「喘息発作」、同年九月九日「喘息発作は軽いのある。」、同年一〇月七日「喘息の方がどうもいかん。」、同年一〇月(日時不明)「夜間時々喘鳴あり。サルタールでおさまるが、薬を夜間にも効くように長く作用するようにしましょう。」、同年一二月一三日「階段四階までで呼吸困難ある。一週間前より風邪、労作時に呼吸困難、喘鳴少しあり。」、昭和六一年一月二四日「喘鳴あり。走ると呼吸困難」、同年二月二一日「喘息発作時々あり。喘息のトリガーとしては、運動負荷、タバコ、食事の食べすぎのとき。」、同年五月二六日「喘息発作」、同年七月三日「喘息発作、呼吸音、ラッセル音なし。」と記載されていた。

Ⅴ 亡龍雄は、三洋岐阜GI棟建設電気設備工事の現場近くの安八診療所に、昭和六一年二月五日から同年九月二〇日まで通院(実診療日数一六日)して、気管支喘息の治療を受けていた。

(五) 白鳥住宅電気設備工事(昭和六三年三月から平成元年六月まで)

(1) 白鳥住宅電気設備工事の概要(甲第三八、第三九号証、第四〇号証の一、二、第五二ないし第五五号証、第六一号証の三、四、乙第一八ないし第二〇号証、第三三号証、証人北村邦雄、同佐川輝樹の各証言)

住友電設は、名古屋市熱田区所在の白鳥住宅新築工事のうち、第二A工区電気設備工事(一四階建、住宅九〇戸及び二階建集会所の電灯・コンセント・弱電設備・防犯設備の設置と、外溝の引き込み管路・街灯の工事)を住宅都市整備公団中部支社から請け負った。右の工事は、いわゆる件名工事であり、住友電設としては中型の工事であった。

第二A工区電気設備工事の契約工期は、昭和六三年三月から平成二年六月まで(ただし、一、二階住戸内電気工事を除く部分は平成元年六月三〇日までとする。)であり、昭和六三年四月から平成元年三月までの間に躯体工事が施工され、昭和六三年一〇月からは三階から順次上方に内装工事が施工された。

住友電設は、右の躯体工事、内装工事に合わせて電気設備工事を施工し、平成元年六月三〇日に三階から一二階部分を竣工して、住宅都市整備公団中部支社に引き渡した。

なお、右の工期は、当初、平成元年五月末までとされていたが、途中で集会所の建築が追加されたことにともなって、同年六月末まで延長された。

(2) 現場代理人等の選任について(甲第五二ないし第五五号証、乙第一八ないし第二〇号証、第三三号証、証人北村邦雄、同佐川輝樹の各証言)

Ⅰ 北村は、白鳥住宅電気設備工事の現場代理人を選任するに当たり、当時住友電設中部支社に在籍していた三〇名程度の現場代理人の中から、ローテーションの順番に従って亡龍雄を選任した。

Ⅱ 住友電設では、原則として、大規模工事以外は現場副代理人を配置しておらず、白鳥電気設備工事は、通常であれば現場代理人一人を配置する程度の規模であったが、住友電設の協力会社である大晃電気工事株式会社からの依頼により、同社の代表取締役の息子で昭和六三年四月に同社に入社した佐川を、新人研修のため現場副代理人として配置した。

佐川は、高校を卒業したばかりで現場経験がなく、専ら見習いのような地位であったことから、亡龍雄の指示を現場の職人に伝達したり、亡龍雄に教わって図面を書いたり、自分の分かる範囲で現場に直接指示を出す等、いわば補助的業務に従事していた。

(3) 現場代理人の業務内容等(甲第八号証、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし三、六、七、一一、一三、乙第三号証の三、第一八ないし第二〇号証、第二三、第三三号証、証人北村邦雄、同佐川輝樹の各証言)

Ⅰ 白鳥住宅電気設備工事は、平成元年七月に名古屋デザイン博(以下、単に「デザイン博」という。)が開催される予定であり、右住宅がコンパニオンの宿舎に使用されることが決定していたため、他の工事現場以上に完成時期の厳守が要求され、特に竣工検査直前の一か月程度は突貫工事を要するほどではなかったものの、非常に繁忙であった。

そのため、亡龍雄は、前記(二)(1)記載の現場代理人の一般的職務の他に、仕上段階では、電源の回路チェックやコンセント、スイッチのプレートの取付等の本来職人が行うべき簡単な現場作業にも従事しなければならなかった。

Ⅱ 亡龍雄は、昭和六三年の夏ころから、一日に一回、三〇分から一時間程度、現場巡視に出るようになったが、作業用エレベーターが使用できないときは、一四階まで徒歩で上がらなければならなかった。

(4) 現場事務所の環境等(甲第八、第三八号証、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし三、一一、一三、乙第一八ないし第二〇号証、第二七、第三三号証、証人佐川輝樹の証言)

Ⅰ 亡龍雄は、昭和六三年四月一一日から同年一〇月二〇日ころまでは、空調設備、換気設備の備わったプレハブ建物を現場事務所として使用していたが、そのころ、建築中の建物の一階にある三LDK程度の現場事務所に移転した。

右現場事務所は、仕上げがなされていないコンクリートの部屋に木パネルで間仕切りをし、半分程度を現場事務所にし、残り半分を資材置場にしたものであり、空調や換気についてはコンクリートの穴からの自然換気であった。また、右現場事務所には、だるまストーブ一台しか設置されていなかったため、冬季は非常に寒く、亡龍雄は防寒着を着て作業をしていた。

Ⅱ 白鳥住宅電気設備工事の作業現場は、通常はそれほどほこりが出るわけではなかったが、コンクリートのはつり工事や掃除等の際にはかなりのほこりが出ることもあった。

(5) 白鳥住宅電気設備工事における亡龍雄の就労状況及び健康状況等(甲第八号証、第二六号証の一、第三六、第三八、第四六、第四八号証、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし三、第六一号証の四ないし六、第六三号証の一、二、第八一ないし第八四号証、乙第三号証の四、七ないし九、第一七ないし第二〇号証、第二八、第三三号証、証人北村邦雄、同佐川輝樹、同春日井将夫の各証言、原告本人尋問の結果)

Ⅰ 亡龍雄は、昭和六三年四月ころまでは、定時に帰宅するが、残業しても三〇分程度のことが多かったが、同年五月後半からは、連日平均一時間半程度の残業をし、同年六月後半からは、それが連日約二時間の残業となり、さらに同年七月になると三時間半の残業もするようになった。そして、後記同年八月八日の入院・静養から復帰した同年八月二二日以降も、連日二時間半程度の残業が続き、同年九月一二日まで定時で仕事を終えたことはなく、その後、同月中も定時で仕事を終えた日は一日のみで、一時間ないし二時間程度の残業が続いていた。

そして、同年一〇月は、同月一日及び同月八日から一〇日までの合計四日間休日出勤し、このころより定時に帰宅する日はほとんどなくなり、一時間半、二時間、二時間半といった残業時間がほぼ毎日続くようになった。

なお、亡龍雄が始業前にかすがい内科に通院したときは、診療開始時間の都合上、二時間程度遅刻せざるを得なかった。

Ⅱ 佐川は、白鳥住宅建設現場に勤務中、亡龍雄が咳き込んでメジヘラを一日に何回も使用している姿を見かけていたが、昭和六三年の夏以降咳き込む時間が長くなった。また、亡龍雄が気管支喘息の発作により、しゃがみ込んで苦しそうにして息もできないため、救急車を呼ぼうと思い、亡龍雄に止められたことが三回ほどあった。

なお、亡龍雄は、激しく咳き込むときだけでなく、咳をしていないときにもメジヘラを使用していた。

Ⅲ 亡龍雄は、白鳥住宅電気設備工事の現場代理人になってから、自宅に仕事を持ち帰り、帰宅後や日曜日に自宅で図面作成等の業務をするようになった。

原告は、亡龍雄の健康状態を心配し、長期休暇を取るように勧めたところ、亡龍雄は、「休めたらいいなあ。」と答えたことがあった。

Ⅳ 亡龍雄は、昭和六三年八月八日、自動車で帰宅途中、気管支喘息発作に見舞われ、運転することができなくなり、救急車で堀田病院に運ばれ、翌九日まで同病院に入院した。右入院時の亡龍雄の症状は、「胸内苦悶、呼吸困難、喘鳴著しく、起挫呼吸を行う。顔面には冷汗出現。」というものであり、酸素吸入、点滴治療を受けた。そして、亡龍雄は、右退院後、同月一七日まで自宅療養し、仕事の進行状況を見るため同月一八日に一度出勤したが、同月一九日から二一日まで再度休みを取った。

また、亡龍雄は、昭和六三年一〇月末か一一月初めころ、自動車を運転して帰宅する途中に喘息発作に見舞われて、電柱に自動車を衝突させるという事故を起こした。

Ⅴ 白鳥住宅は、昭和六三年一二月中旬ころには一四階まで躯体が立ち上がった。

亡龍雄は、一日一回現場巡視をしていたが、徒歩で一四階まで上がらなければならないときもあった。亡龍雄は、佐川に対し、階段を登る際、「えらい、しんどい。」と漏らし、立ち止まって呼吸を整えていたことがあり、佐川は、亡龍雄の健康状態を案じて、できるだけ亡龍雄に代わって現場に出るようにしていた。

Ⅵ 平成元年一月一日から同年一一月六日までの亡龍雄の出勤時間、退勤時間、労働時間、かすがい内科への受診状況及びメジヘラ購入本数は、別表一の「亡龍雄の月別勤務状況、受診状況及びメジヘラの購入本数」記載のとおりである。そして、右の労働時間、発作回数、受診回数と、高木医師が計算した後記吸入点数、ステロイド点数、発作点数を月別に一覧表にしたものが、別表二の「時間外労働と喘息の状況」である。

右別表一によれば、平成元年一月前半は、正月休みもあり労働時間はそれほどでもなかったが、同月後半からは再び一八時ないし一九時まで残業をするようになり、特に同月三一日から同年二月一七日までは、二月一二日に一日休みを取っただけで連日出勤し、右一八日間の労働時間は合計一五三時間に及んだ。右期間中は、二月八日に一度受診しているのみであるが、メジヘラの購入本数は約二四本(ただし、二月一五日の一二本は、その大部分が右期間後に使用された可能性が高いので、二本として計算した。)で、一日当たりの平均使用量は、1.3本となり、後記の全期間を通じての平均使用量0.91本よりも多かった。そして、亡龍雄は、右連日出勤後の二月一八日及び一九日に休みを取った後、同月二〇日から二二日まで三日間連続して喘息発作を発症し、点滴治療を受けた。

平成元年二月下旬は残業時間が大きく減少したが、同年三月三〇日に住宅都市整備公団の中間検査が行われる予定であったため、同年三月に入ると再び一八時ないし一九時まで残業し、同月四日及び二一日には休日出勤もした。同年三月は合計六回受診しているが、そのうち三回は喘息発作があり点滴治療を受けた。

右のように、亡龍雄は、平成元年二月下旬から、喘息発作により点滴治療を受ける回数が多くなってきた。

Ⅶ 平成元年三月三〇日、住宅都市整備公団の中間検査が行われた。亡龍雄は、同公団の設備担当者や佐川らとともに現場を回り、パイプシャフトの収まり等不具合な点について指摘を受けるなどしていたが、途中で具合が悪くなったため、佐川に対し、後は頼むといって事務所に戻った。

また、平成元年四月五日、原告の妹の義父が死亡したが、亡龍雄は、体調が悪く、仮通夜にも通夜にも出席できず、葬式の最後に出席して焼香をしただけであった。

Ⅷ 平成元年四月四日、佐川が大阪へ研修に行くことになった。佐川は見習いのような立場ではあったが、前述のとおり、亡龍雄の補助者として、職人に対する指示の伝達、施工図の手伝い、現場作業のチェック等の業務を担当していたが、佐川がいない間、これらの業務をすべて亡龍雄が行わなければならなくなった。しかも、平成元年四月ころからは仕上げの段階に入り、現場代理人は毎日一四階まで現場巡視に行かねばならない時期であったが、それまで亡龍雄の健康状態を気遣って、できるだけ亡龍雄に代わって現場に行くようにしていた佐川がいなくなったことから、亡龍雄は、自ら現場巡視をする機会が多くなった。

なお、佐川は、平成元年五月二〇日ころ研修から帰ってきたが、一週間程度他の現場の応援に行き、同月下旬ないし同年六月上旬ころ、白鳥住宅電気設備工事の現場に戻った。

また、平成元年五月のゴールデンウィークのころには、下請の作業班が変更するアクシデントがあり、亡龍雄は職人の手配に苦労したことがあった。

北村は、亡龍雄からの応援依頼を受けて、下請の作業員を増やしたほか、平成元年五月一一日から同年六月一五日までの約一か月間、北村を含む三名の現場代理人が午後から交替で亡龍雄の応援に行くようにした。

Ⅸ 亡龍雄は、平成元年四月もほぼ一八時ないし一九時まで残業し、同月八日、二二日及び二九日の三日間休日出勤した。亡龍雄は、平成元年四月は合計五回受診し、そのうち三回は喘息発作により点滴治療を受けた。なお、四月九日からは、従前の投薬内容に加えて、リザベル3K(抗アレルギー喘息発作予防剤)が投与されるようになった。

平成元年五、六月には、工事は仕上げの段階に入り、亡龍雄はさらに多忙となり、図面の作成や書類の整理等を自宅に持ち帰ってすることも多くなった。

また、平成元年六月一二日及び同月一三日、住宅都市整備公団による竣工検査が行われたが、右の検査後に住友電設中部支社の安永検査部長が公団担当者から呼びだされて、各種の指示を受けた。亡龍雄は、右の指示事項を遵守するために、竣工検査後の同月一四日二四時まで残業した。

亡龍雄は、平成元年のゴールデンウィークは、同年四月二九日、同年五月一日、同月三日及び同月四日と休日出勤し、その後も、同年五月九日から二〇日まで連続して勤務した。しかも、その間は、連日一八時から二〇時までの残業であった。さらに、同月二一日に休みをとった後も、同年六月一八日に休みを取るまで、二七日間も休日なしの連続勤務の従事したが、この間、二〇時以降まで残業した日数は一二日間もあり、特に、同月六日及び同月七日は二三時まで、同月一四日は二四時まで残業をしている。

右の五月九日から六月一七日までの四〇日間の労働時間は合計四一一時間にもおよび、しかもその間一日しか休みが取れず、そのうえ右の期間は竣工検査を控えていて労働密度も濃かったものと推測されるから、亡龍雄の右の期間の労働内容は極めて過重なものであった。右の期間中、亡龍雄は、五月二三日及び六月六日の二回と竣工検査が終わって少し余裕の出た六月一六日及び一七日の二回受診し、後者の二回は喘息発作により点滴治療を受けた。右の期間中の受診回数が少ないのは、その前後の受診回数から判断して、気管支喘息の症状が軽快したためではなく、多忙な業務により受診する余裕がなかったことによるものと考えられる。しかし、右の期間中のメジヘラ購入本数は約四〇本(ただし、六月一五日の一五本は、その大部分は右期間後に使用された可能性が高いので、二本として計算した。)であり、一日当たりの平均使用量は一本となり、全期間を通じての平均使用量0.91本と有意の差は認められないから、右の過重な業務によりメジヘラの使用量が増えたとはいえない。

その後、平成元年六月一九日から同月三〇日までは、所定休日もきちんと取れ、ほぼ定時に帰宅できるようになった。亡龍雄は、その間、合計六回受診し、いずれも喘息発作により点滴治療を受けた。

Ⅹ 亡龍雄は、平成元年五月、六月になると、帰宅しても疲労がほとんど回復しない状態であった。亡龍雄は、帰宅すると風呂に入らず、すぐに就寝するが、深夜に喘息発作で目が覚め、そのまま朝まで眠れない日が多くなった。そのため、食欲が減退し、朝食も取れなくなり、温めた牛乳を一杯飲むのがやっとという日が多くなっていた。

(六) 平成元年七月一日から同年八月二〇日までの亡龍雄の勤務状況及び健康状況等(甲第三八、第四八号証、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし三、六、七、一一、第六一号証の四、第八一、第八三、第八四号証、乙第一八ないし第二〇号証、第二三、第二八、第三三号証、証人北村邦雄、同佐川輝樹の各証言、原告本人尋問の結果)

(1) 配置転換の申入れ

亡龍雄は、北村に対して、平成元年六月三〇日ころ、体調がすぐれないとの理由で、内勤の設計・積算業務への配置転換を申し出た。北村は、亡龍雄の目が充血し、顔がむくんでいるなどの症状をみて、白鳥住宅電気設備工事の疲れが残っていると考え、工事部長と相談して、亡龍雄には工事課配属のままで積算業務の応援をさせることとし、同年七月一日、中部支社内での内勤を命じた。

しかし、亡龍雄は、不慣れな内勤のため、自分の机に長時間座っていることができず、頻繁に外出するなどし、そのため、設計積算課の従業員から苦情が出た。そこで、北村は、亡龍雄の職場を替えることとし、亡龍雄の健康状態を考慮して、平成元年七月一七日から同年八月二〇日までの間、税務大学校現場事務所において、「シティーコープ滝の水」電気設備工事の準備作業を命じた。

亡龍雄は、右の期間中は、ほぼ定時に退社し、残業しても三〇分ないし一時間程度であった。そして、土曜日、日曜日の所定休日や、お盆休みもすべて休暇を取得したため、平成元年七月及び八月は、合計すると各月とも一一日間の休みを取ったことになる。

(2) 亡龍雄の健康状態等

右(1)のとおり、亡龍雄の業務は軽減されたが症状はなかなか回復せず、顔色はどす黒く、目は真っ赤に充血し、声もしゃがれた感じであった。

亡龍雄は、平成元年六月一六日から同年七月一〇日まで、五日間に三回の割合で頻繁に受診し、いずれも喘息発作による点滴治療を受けていたが、その後は、同月一五日(喘息発作による点滴治療)、同月二三日(同上)、同月二六日(発作なし)と少し喘息発作の間隔があくようになった。しかし、同月二八日に感冒に罹患してから、同日、同月二九日、同年八月二日、同月九日、同月一一日、同月一九日、同月二一日及び同月二三日と再び頻繁に喘息発作を発症するようになり、いずれも点滴治療を受けた。そして、同月二三日、投薬内容が変わり、ステロイド剤であるリンデロン散0.6ミリグラムが処方されなくなるとともに、同月二五日から三〇日まで連続六日間、喘息発作により点滴治療を受けた。

(七) 東郷サービスエリア電気設備工事

(1) 東郷サービスエリア電気設備工事の業務内容等(甲第三〇号証の一、二、第三四号証の一、二、第三九号証、第四〇号証の三、四、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一、三、一一、証人北村邦雄の証言)

住友電設は、東名高速道路東郷サービスエリア上下線の売店、トイレ等の全面改修に伴う電気設備工事を住友建設株式会社(以下「ゼネコン」という。)から請け負った。

東郷サービスエリア電気設備工事の全体の工期は、平成元年七月一日から平成二年二月八日までであったが、平成元年八月初めころ、発注者である日本道路公団から、売店については、平成二年の正月までに使用できるようにしてほしいとの申入れがあったことから、住友電設は、これを承諾した。そして、平成元年八月二九日から、ゼネコンの建築工事と並行して電気設備工事に着手した。

また、東郷サービスエリア電気設備工事は、日本道路公団発注のいわゆる官庁工事であったため、民間工事に比べて提出書類が非常に多いという特殊性があった。

(2) 亡龍雄が東郷サービスエリア電気設備工事を担当するまでの経緯(甲第五二ないし第五五号証、第五八号証の一、三、一一、乙第一八、第一九、第二一号証、証人北村邦雄の証言)

北村は、東郷サービスエリア電気設備工事の現場代理人として、当初、協力会社である中央電機株式会社の青木孝之(以下「青木」という。)を予定していたところ、平成元年八月一〇日、青木を同行してゼネコンにあいさつに赴いた際、ゼネコンから、工期が迫っているので現場代理人は現場事務所に常駐してほしい旨の要請がなされた。青木は他の工事現場も担当しており、東郷サービスエリア電気設備工事に常駐することは困難であったため、北村は、住友電設の従業員の中から現場代理人を選任する必要に迫られたが、当時はいわゆるバブル景気の真っ最中であり、住友電設も多くの現場を抱え現場代理人が不足していたことから、その選任に苦慮していた。

北村は、平成元年八月一七日、亡龍雄と住友電設中部支社内であった際、亡龍雄が当時応援をやっていてフリーの立場にあったことから、亡龍雄に対し、「そんな大きな仕事やないけどどうだ。」と要請したところ、亡龍雄は、当時の住友電設の現場代理人不足を理解しており、かねて親しく交際していた北村からの頼みでもあったことから、「それくらいなら、わしできるわ。」とこれを承諾した。

北村は、亡龍雄の経歴からすれば、東郷サービスエリア電気設備工事程度の現場代理人業務は負担にならないと考えていたが、亡龍雄の健康状態に不安があったことと、売店の工期が一二月末日までに短縮されたことから、青木を現場副代理人に選任して亡龍雄の補助に当たらせることにした。

(3) 現場事務所の環境等(甲第五八号証の一)

東郷サービスエリア電気設備工事の現場事務所は、空調設備もあり、窓もついており、作業環境が特に悪いということはなかった。

(4) 東郷サービスエリア電気設備工事の現場代理人の業務内容等(甲第三二号証の一ないし三二、第三四号証の一、二、第三五号証の一ないし四、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一、三、六、七、一〇、一一、乙第三号証の三、六ないし八、一〇、一一、第一八、第一九号証、第二一ないし第二三号証、第三三号証、証人北村邦雄の証言)

Ⅰ 亡龍雄は、平成元年八月二一日から同月二九日までの間、住友電設中部支社において、施工図の作成、資材・機材の手配、職人の手配等の準備作業を行い、同年九月一日からは、現場事務所に移転して図面等の作成に従事した。

Ⅱ 東郷サービスエリア電気設備工事は、前記のとおり、いわゆる官庁工事であったため、材料のすべてについて写真を撮るようにとの指示があり、それだけでも半日を要することがあった。また、図面変更の際にも、口頭で変更が可能なものまで施工図面に表さなくてはならず、書き直しが多かった。

亡龍雄は、北村に対し、死亡する一週間くらい前、「図面変更が多いんで大変や。」、「書いても書いても変更がある。」と漏していた。

Ⅲ 平成元年一〇月中旬から下旬にかけて、図面書きがピークとなり、青木も図面書きを手伝うようになった。

そして、平成元年一一月初旬ころから、建屋以外の埋設物の管路工事が始まり、作業員数が増加した。なお、右の時点において、建築工事の遅れなどが原因で、電気設備工事は予定よりも二日程度遅れていた。

亡龍雄は、平成元年一一月三日及び同月四日と二日間連続して休日出勤し、職人や材料の手配をすべて終了させ、一一月六日から本格的な工事に入る予定であった。

なお、亡龍雄は、統合サービスエリア電気工事では、自宅に仕事を持ち帰ることはなかった。

Ⅳ 亡龍雄は、別表一「亡龍雄の月別勤務状況、受診状況及びメジヘラの購入本数」記載のとおり、平成元年八月二一日以隆残業時間が増え始め、同年一〇月に入ると、連日のように一八時ないし一九時まで残業するようになり、同月七日には休日出勤し、同月一一日から一三日までは連続して二〇時まで残業した。そして、同月二八日の土曜日と同月二九日の日曜日は休みを取ったが、同年一一月三日及び同月四日は連続して休日出勤した。

亡龍雄の死亡直前一か月間の労働時間は合計二四二時間であり、白鳥住宅電気設備工事現場における平成元年三月当時と同じ程度の労働時間であった。

(5) 亡龍雄の健康状況等(甲第二六号証の一、第四六、第四八号証、第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし三、一〇ないし一二、第六一号証の五、六、第六三号証の一、二、第六四号証の一ないし一五六、第八一、第八三、第八四、第八五号証、乙第三号証の六ないし九、第一六ないし第一九号証、第二一、第二二、第二八、第三三号証、証人北村邦雄、同春日井将夫の各証言、原告本人尋問の結果)

Ⅰ 平成元年九月ころ、三女の運動会があり、亡龍雄は、これまで子供の運動会は欠かさず見学していたが、このときは体調が悪く運動会に行くことができなかった。

また、亡龍雄は、平成元年九月三〇日、実父の三回忌で豊川市内の実家を訪れたが、同夜、強い喘息発作が起きたことがあった。

さらに、亡龍雄は、豊川市内の道路公団事務所に打合せに行ったときは、自宅まで帰る元気がなく、同市内の実家に泊まったりした。

Ⅱ 平成元年一〇月になると、亡龍雄は、設計図面作成の仕事が増加し、残業も増え、帰宅時間が遅くなる日が多くなり、特に死亡する一〇日前ころから、白鳥住宅電気設備工事の竣工間際のころと同じように、帰宅後風呂に入らないですぐに就寝するが、深夜毎晩のように発作が起き、睡眠を取ることができず、朝食もまともにとれない状態になった。

平成元年一〇月二二日、住友電設の行事で家族参加のハイキングがあり、亡龍雄は、三人の娘を連れて参加したものの、体調が悪く車の中で寝ていたことがあった。

Ⅲ 亡龍雄は、平成元年八月下旬に頻繁に起きた喘息発作が同年九月二日まで続き、同日は点滴治療を受けるとともに、投薬内容が従前のものに戻り、さらにリンデロン散、0.6ミリグラムが追加処方されたため、ステロイド剤であるリンデロン散は合計1.2ミリグラム投与されることになった。その後、同月一三日(喘息発作なし。)、同月一九日(喘息発作による点滴治療)、同月二九日(喘息発作なし。)、同月三〇日(喘息発作による点滴治療)と受診し、喘息発作の起きる間隔は少し長くなった。

同年一〇月以降は、同月八日(喘息発作による点滴治療)、同月一一日(同上)、同月一三日(同上)、同月一六日(同上)、同月一八日(同上)、同月二〇日(喘息発作なし。)、同月二二日(喘息発作による点滴治療)、同月二五日(喘息発作なし。)、同月二八日(喘息発作による点滴治療)、同年一一月四日(同上)と受診し、再び頻繁に喘息発作が起きるようになった。

(6) 配置転換の申出(甲第五二ないし第五五号証、第五八号証の一ないし三、一一、乙第一八、第三三号証、証人北村邦雄の証言)

住友電設は、平成元年一〇月中旬から下旬ころ、社員に将来の配置転換希望調査を行ったが、亡龍雄から提出された自己申告書には、「現在の職務に興味や働き甲斐をかんじていますか。」との質問に対し、「あまり興味・働き甲斐を感じない。」として、「(左記の理由)体力が仕事についていけない。」との回答が記載され、また、「配置転換―今後(二年ないし三年以内)経験してみたい仕事について」という質問に対し、「いまの所属の中で仕事を変わりたい。」、「設計業務につきたい。」との理由が記載されていた。

また、亡龍雄は、北村に対し、「現場がそろそろえらくなるし、これ(東郷)が終わったら設計の仕事に戻してくれな。」と話していた。

(八) 亡龍雄の死亡直前の状況(甲第五八号証の一〇、第八一号証、乙第一号証の二、第一二号証の一、二、第一三ないし第一七号証、原告本人尋問の結果)

(1) 一一月四日(土曜日)

亡龍雄は、午前四時か五時ころ起床したが、朝食をとることができず、午前八時ころに自宅を出て、かすがい内科で点滴治療を受けてから、休日出勤した。

亡龍雄は、現場での作業終了後、打合せのため、名古屋市中川区にある兼新電気株式会社に立ち寄った後、午後八時ころ帰宅し、夕食をとって入浴してから、午後九時ころ就寝した。

(2) 一一月五日(日曜日)

亡龍雄は、午前四時か五時ころ起床し、午前八時ころ、朝食はとらずに、自宅近くの大和南小学校で行われたソフトボールの試合に出かけた。

亡龍雄は、前年度のソフトボールクラブの役員であり、同日の試合がシーズン最後の試合となること、メンバーの二人が午後から欠席するという事情があったことから、欠席することができなかった。

亡龍雄は、試合会場には行ったものの、監督に対し、体調が良くないからと言って、試合前の練習や午前の試合には参加せず、フェンスにもたれて体を休めていた。しかし、午後の試合では、メンバーが二人抜けたことから、亡龍雄はやむを得ず、六回裏に打者として出場し、ヒットを打ったがゆっくり走って一塁でアウトになり、七回裏に守備につくなどしたが、試合後、「えらいで帰らせてもらう。」と言って午後二時ころ帰宅した。

(3) 死亡時の状況

平成元年一一月五日、亡龍雄は、ソフトボールの試合から帰宅した後、ほとんど自分の部屋で過ごしていたが、午後四時半ころにうどんを、午後六時半ころに梨を一個食べた後、自分の部屋に戻り、午後一二時過ぎに就寝した。

そして、同月六日午前三時ころ、原告が、亡龍雄に呼ばれて部屋に行くと、亡龍雄は、起座呼吸をし、頭から多量の汗を流していた。亡龍雄は、原告に対し、「車の中に薬があるから探してきてくれ。」と頼み、原告がメジヘラを探してきて渡したところ、亡龍雄は、自ら吸入した。亡龍雄は、背中や脇の辺りが痛いと訴え、「苦しい。」と言ったので、原告が、救急車を呼ぼうかと尋ねたところ、「うん。」と答えたので、救急車を呼んだ。原告が衣類などを用意して背中をさすっていたとき、亡龍雄は、「もう駄目だ。呼吸ができない。」などと言い、救急車が到着し、原告が、「お父さん。救急車が来たからもう大丈夫だよ。」と言うと、亡龍雄は、「うん。」と答えたが、これが最後の言葉となった。

(九) 亡龍雄の既往症等

(1) 亡龍雄の既往症等(甲第八一、第八三号証、乙第一六号証、原告本人尋問の結果)

亡龍雄は、慢性湿疹、じん麻疹等のアレルギー疾患の既往症を有していたが、亡龍雄の実父も気管支喘息に罹患していた。

(2) たばこについて(甲第二〇号証の三、第二二号証の四、第三八、第四四号証、原告本人尋問の結果)

亡龍雄は、喫煙の習慣があり、少なくとも死亡する一五年以上前から毎日一箱程度喫煙していた。

亡龍雄は、山下病院の医師から、少なくとも昭和六〇年五月、昭和六三年四月及び平成元年四月の三回にわたって禁煙指導を受けていたが、たばこをやめることができなかった。

そして、禁煙を勧める北村に対し、「酒はやめても、たばこはやめれん。」などと言っていた。

(3) メジヘラについて(乙第四五、第四六号証、原告本人尋問の結果)

メジヘラは携帯用スプレータイプの気管支拡張剤であるが、その濫用が喘息死増加の一因ではないかとの指摘がなされたことから、昭和四七年に医師の処方箋による要指示薬に指定された。

亡龍雄は、昭和六三年三月ころから、医師に無断で近所の戸塚薬局でメジヘラを購入して使用していたが、平成元年一月以降の購入状況は、別表一「亡龍雄の月別勤務時間、受診状況及びメジヘラの購入本数」のとおりであり、それ以前も購入本数に著しい変動はなかったところ、同表の購入本数合計二八二本を購入期間三〇九日で除すると、一日当たりの購入本数は平均0.914本となる。なお、亡龍雄は、かすがい内科からも吸入薬(サルタノールインヘラー)を二週間に二本ないし四本処方されて、これも右メジヘラと併用していた。ところで、別表二の「時間外労働と喘息の状況」によれば、亡龍雄の労働時間の増減に対応してメジヘラの吸入点数も変動しているように認められるが、これは、労働時間の増加により過労・ストレスが蓄積されて喘息発作が誘発されやすくなったため、単にこれに対応してメジヘラの使用量が拡大した結果にすぎないと認められる。右のとおり、亡龍雄がメジヘラの購入を開始した時期が、白鳥住宅電気設備工事が忙しくなる前の昭和六三年三月ころであったこと、亡龍雄のメジヘラ購入本数は当初から死亡時まで著しい変動がなかったこと、亡龍雄は咳をしていないときでもメジヘラを使用していたことからすると、メジヘラ購入の動機は業務の過重性とは関係がなく、また、通院する時間的余裕がないためメジヘラを大量に使用していたものでもない(このことは、平成元年六月一五日から同月三〇日までのメジヘラ購入本数からも明らかである。)と認められる。したがって、亡龍雄のメジヘラ使用は業務が原因であるということはできない。

2  気管支喘息について

(一) 意義(甲第六二、第六五、第六九号証、乙第四二号証、証人末次勤の証言)

気管支喘息とは、気道の慢性炎症疾患であり、アメリカ胸部疾患学会では、「種々の刺激に対する気管及び気管支の反応性の充進を特徴とし、広範囲な気道狭窄により症状を生ずるが、その程度は自然にあるいは治療により変化する疾患」と定義されている。

気管支喘息は、「アトピー型気管支喘息」と「非アトピー型気管支喘息」に大別できるが、成人の気管支喘息の約六割はアトピー型気管支喘息である。

現在の医学的知見では、気管支喘息の発症因子として、その発症機序が明らかになっているのはアトピー型気管支喘息であり、非アトピー型気管支喘息は、アスピリン喘息を除いて、その発症原因、発症機序はほとんど明らかとなっていない。

(二) アトピー型気管支喘息の発症因子(証人末次勤の証言)

アトピー型気管支喘息は、アトピー素因のある者がアレルゲンに暴露されて感作が成立した後、再度同一のアレルゲンとの接触を持つことによって発症する。

アトピー素因は、先天的・遺伝的素因であり、遺伝する可能性が高い。

アレルゲンとしては、さまざまなものがあるが、タンパク質を含む物質であることが知られており、ハウスダストが最も一般的である。

過労・ストレスは、気管支喘息の増悪因子となり得るが、気管支喘息の発症因子となるとの医学的知見は存在しない。

(三) アトピー型気管支喘息の発作誘発因子(増悪因子)

(1) 気温、運動、感冒、粉塵等(証人末次勤の証言)

アトピー型気管支喘息の増悪因子といえるものは、気温の急激な変化、運動、感冒、粉塵など多数存在し、これを特定することはしばしば困難を伴う。

(2) たばこ(乙第四一、第四三号証)

たばこの煙は喘息発作の誘発因子となる。長期の喫煙は慢性気管支炎や肺気腫の合併を引き起こし、喘息を難治化させるものであるから、喘息の治療という観点からは禁煙をすべきである。

(3) メジヘラ(乙第四二ないし第四四号証、証人末次勤の証言)

メジヘラの使用方法は、発作が起きたときに頓用的に使用する場合と、慢性期の治療方法として、発作予防のため定期的にレギュラーコース(一日数回、時間を決めて使用する。)として使用する場合とがある。

メジヘラの適正使用量は、通常一日に三〜四回までとされており、副作用を考慮すると、少なくとも四時間以内の再吸入は避けるよう指導されている。これによると、メジヘラの適正使用量は、一本で約二週間(一か月で約二本)使用する程度である。

ところで、右のような吸入薬に含まれる気管支拡張用薬β2刺激剤は、急性期には強力な効果を発揮するが、長期間大量に使用すると副作用のために気管支喘息のコントロールが困難となり、場合によっては喘息死する可能性がある。すなわち、β2刺激薬を毎日恒常的に使用すると、気管支組織に耐性が生じてかえって発作に対するコントロールができなくなるという副作用が生じるからである。

また、文献(乙第四四号証)によれば、吸入β刺激剤の重篤な副作用として、ロックトラング症侯群があるとの報告もなされている。これは、イソプロテレノールの吸入を継続して行っている喘息性発作重積状態で、吸入により逆に気管支筋れん縮を起こすことがあるというものであり、その機序としては、長期吸入によりその代謝産物としての3―メトキシイソブレナリンが血中に増加し、その遮断作用のため、気管支のβ受容体が抑制され、気道狭窄が生じることなどが考えられている。

3  医師の意見等

本件疾病の発症及び増悪に関する医師の意見等の概要は、以下のとおりである。

(一) かすがい内科春日井将夫医師

(1) 平成三年五月三日付け意見書(乙第八号証の一、二)

① 傷病名 気管支喘息・冠不全(狭心症)

② 初診年月日 昭和六一年七月六日

③ 療養期間 昭和六一年七月六日から平成元年一一月四日まで

④ 主訴及び自覚症

呼吸困難、労作時の息切れ、発作時の咳漱、喀痰、また感冒・気管支炎症等上下気道の感染に罹患した場合の発作、気管支喘息重積発作時の狭心症の場合の胸痛発作の出現

⑤ 治療内容

気管支拡張剤、鎭咳痰喀剤、抗アレルギー剤、重積発作時に点滴静注、吸入器による吸入

⑥ 基礎疾患

気管支喘息以外については、特記すべきものは認めていない。

⑦ 所検査の結果

本院、会社での検診等にて、アルコール性肝障害の瘢痕(γ―GTPのみがやや異常値)と思われる所見のみ

⑧ 最終診療日は平成元年一一月四日、重積発作のため呼吸困難が強く、点滴静注を施行

⑨ 基礎疾患が死亡(呼吸不全)にどのように関与したか

気管支喘息の重篤な重積発作が起こったために呼吸不全に陥り死亡したと思われる。

⑩ 工事現場の環境と気管支喘息との因果関係について

喘息発作のtriggerとなるものとしては、アレルゲン、運動負荷、感染、環境因子、ある種の薬剤、精神的ストレス、職業因子の七つの要因が考えられるが、亡龍雄の場合考えられる原因としては、職業因子(種々のアレルゲンの人体への侵入)、運動負荷(過労)、精神的ストレス等が重積して発作を誘発したと考えられる。したがって、職場での地位が発症の原因と考え得る。

(2) 同医師の証言の要旨

昭和五九年一一月一七日の初診時から死亡に至るまでの亡龍雄の気管支喘息の症状は、不変ではなく徐々に増悪した。受診回数、点滴回数及び治療内容から推測すると、初期のころは軽く、薬物だけでコントロールできていたが、平成元年以降急激に増悪し、同年三月からは気管支喘息重積発作となり、同年七月ないし八月は中等症から重症の境目程度まで増悪していた。

当時は、右の増悪について、肥満体質のため体力を消耗するとともに、よく汗をかき脱水症状となって喘息発作が誘発されたものと考えていた。点滴回数が三回に減少したが、症状が改善された原因は不明である。同年一〇月になって点滴回数が七回に増加したが、その原因も不明である。

亡龍雄の平成元年以降の気管支喘息の症状は、過労と職場でのストレスが加わって増悪したものと考えられる。

過労・ストレスなどの負荷が加わった後、気管支喘息が増悪するまでの間には時間的なずれが生ずることがある。

(二) 中央労災病院服部健蔵医師(平成五年一月二一日付け意見書・乙第四号証)

(1) 死因について

気管支喘息発作による急性呼吸不全と考えられる。

(2) 気管支喘息発症の成因と業務起因性について

気管支喘息とは、種々の刺激に対する気管及び気管支の反応性充進を特徴とし、広範囲な気道狭窄によって生ずる呼吸不全であり、種々の刺激のうち現在アレルゲンとして確立しており、診断可能なものは花粉、真菌胞子、室内塵の三つである。さらに、これらの外的要因に加えて、先天的な喘息素因があって生ずるものである。したがって、個人差が極めて大きく、体質的背景として、喘息素因の他にアトピー素因、易感染性がある。亡龍雄には、死亡前の既往歴に湿疹、じん麻疹、結膜炎があり、不明のアレルゲンが起因するアトピー素因が存在していたことが推定される。また、亡龍雄の父親も呼吸器が弱く、喘息のため病院へ通院しており、このことから、亡龍雄も生来喘息素因を有していたことが強く推定される。さらに春日井医師の問診により、ハウスダストテストが陽性であったという事実が確認された。

以上の事実から、亡龍雄には、喘息素因があり、アトピー性素因もあるほか、アレルゲンとしてハウスダストが同定されており、業務起因性はまったく考えられない。

(3) 亡龍雄の身体的状況について

亡龍雄は、平成元年八月二五日から同月三〇日まで連続六回の発作があり、この発作の緩解には副腎皮質ホルモン剤が毎回必要とされたことから、亡龍雄の重症度は、日本アレルギー学会重症度委員会基準によると重症である。

また、型としては通年型であるが、死亡前一年間を検討すると、六月、七月、八月に多い。

(4) 過去一年間の喘息発作の頻度と労働条件及び労働環境について

平成元年一月 発作〇回 マンション電気設備工事代理人業務

二月 発作三回  同右

三月 発作三回  同右

四月 発作三回  同右

五月 発作二回  同右

六月 発作八回  同右

七月 発作一一回 社内作業、室内での図面書き

八月 発作一二回 六日間夏季休暇、サービスエリア電気工事代理人業務

九月 発作三回  サービスエリア電気工事代理人業務

一〇月 発作六回 同右

一一月 発作二回 同右

右の調査結果から、業務内容及び月別時間外労働と発作頻度との間には、相関関係が認められない。

労働環境については、亡龍雄は直接掘削作業には従事しておらず、現場巡視と工事進行状況のチェック(が主な業務内容)であり、常時現場の粉塵に暴露されてはおらず、現場の粉塵が気管支喘息を悪化させたとは考えにくい。

(5) 結論

亡龍雄の身体的素因、ハウスダストテストの陽性の事実、労働条件、労働環境と喘息発作との非相関性より、亡龍雄の疾病と業務との間に相当因果関係を推定するのは甚だ困難であり、さらに死因についても同様である。

(三) 三重労働基準局地方じん肺審査医滝川寛医師の平成八年三月八日付け鑑定書(甲第四九号証の二)

(1) 本件気管支喘息の発症と業務(ビル建設現場のコンクリート片等の粉塵)との因果関係について

気管支喘息は、気道の広汎な狭窄によっておこる呼吸困難が特徴的であり、その疾病の本態は生体の免疫学的機序にある。産業衛生学の立場では、職業に関係する特定物質が抗原となって惹起される気管支喘息を職業性喘息と呼ぶ。この場合、職業に関連する抗原物質への暴露から一定期間を経て感作され、生体に免疫応答が準備された後、初めて発症する。生体側の応答には、即時型(TypeⅠ、TypeⅢ)・遅延型(TypeⅣ)・混合型などが存在し、抗原の暴露を低減すれば症状は寛解する。

本疾患に対して抗原物質の確定は、労働衛生管理上極めて重要であり、各種の免疫学的診断技法が用いられている。

現在、我が国において、職業性喘息の抗原として認められている物質は九四種類であり、①植物性の微細粉塵、②動物の体成分(排泄物を含む。)、③花粉、胞子、菌糸、④薬剤・化学物質粉塵の四つに分類されている。

本件気管支喘息の業務起因性を証明するためには抗原の検索が必須であるが、受診した各医療機関の診療録には、免疫学的診断の未実施、若しくは結果が未記載であり、過去のカルテの一つにハウスダストが抗原という本人の申し出のみが残されている。コンクリート粉塵等の抗原性について考えた場合、このような無機性物質は分子量が小さく単独で抗原とはなり得ない。メッドラインによる過去一〇年間の文献検察の結果、世界の学術誌に掲載された気管支喘息に関する一万六〇〇〇余編の論文中にも、無機粉塵を抗原として取り上げた報告はみられなかった。

したがって、本件の気管支喘息は、家族歴、既往歴から考えて、アトピー素因の上に、ハウスダストが抗原として感作し、発症したものと推定される。このため、業務との間に相当因果関係は認められない。

(2) 本件疾病発生後の症状経過(増悪)と業務との因果関係について

医学的資料によれば、疾病発生より死に至る一二年の間に、漸次症状が悪化したことが推定される。その間、虚血性心疾患、気道感染症に罹患しており、喘息の発作誘発に関与した事が推測される。しかし、平成元年には、気道の感染を証明する記述はみられない。また、その発作は年間を通じて認められており、平成元年六月から九月に頻度が高い。

亡龍雄の業務から考えると、環境要因中に粉塵、寒冷、騒音などの物理・科学的因子の存在が考えられる。コンクリート等の無機粉塵は、前述したように気管支喘息の抗原とはなり得ないが、気管支粘膜の反応性が充進している状況では、発作の誘発因子となり得る。しかし、業務内容から判断して、常時高濃度の粉塵に暴露されていたとは考え難い。また、寒冷刺激も喘息発作の誘因となるが、本件の場合、気温との間に強い関連はみられない。

作業要因として、作業時間、作業密度、作業強度、緊張などの諸因子がある。亡龍雄の場合、技術管理的業務が主体をなしており、作業打合せ、図面作成、職場巡視、事務的諸業務からなり、業務の自主管理が可能な立場にあると考えられる。したがって、労働過負荷の持続は考え難い。また、メンタルストレスは、個々人のストレス耐性の大小によって異なるため、客観的にストレス量を評価することは困難である。

健康管理として、私傷病の場合、産業医の指導・助言の下に自己管理されるべきものである。本件の場合、医療機関の変更はあったものの、発症以来ほとんど継続して病院等で医学管理されており、その間、各主治医より健康管理上の適切な指導や指示がなされていたものと考えられる。

以上の経緯より、亡龍雄の気管支喘息の増悪と業務との間に因果関係は認められない。

(3) その他参考となる事項

平成元年の記録によると大量のメジヘラの購入が認められており、濫用による健康への影響が懸念される。

メジヘラは、気管支拡張剤イソプロテレノールを主剤とするものであり、本品の誤用は生命にかかわる場合がある。

喘息死は、呼吸不全が第一の原因であるが、β交感神経作動薬の過剰投与による心停止の可能性も報告されている。また、低酸素下の心筋に対して、異常律動を招くといわれており、虚血性心疾患患者への投与は慎重でなければならない。さらに、ステロイド剤と併用する場合もミネラルバランスを乱すことがあり、特別の注意が必要である。

亡龍雄の場合、その購入と吸入は本人の自主管理の中にあり、それが適切に管理されていたかどうか疑問が残る。喘息発作時の不安からの回避のため、過剰吸入された可能性も否定できない。

(四) 協立総合病院高木弘己医師

(1) 平成四年七月一日付け意見書(甲第五七号証)

亡龍雄の喘息の重症度を「日本アレルギー学会重症度判定基準」でみると、発作強度と発作頻度の組合せでは、「中発作が少なくとも一週間に平均四日未満」になり中等症と位置づけられるか、あるいは「救急車を呼ぶ必要があると思われる大発作」が起こっており、重症とも位置づけられる。

しかし、かすがい内科初診時には、既にリンデロン散(ステロイド剤)を0.6ミリグラム服用しており、その状態でデザイン博の仕事に従事し、なお、発作沈静化のコントロールが十分にはできず、抗アレルギー剤のリザベンの投与と各月平均で三ないし八日間のアミノフィリンを含む点滴静注を受けている。さらに、その後、リンデロン散の追加投与を受け、一日量1.2ミリグラムの内服(プレドニン換算で一二ミリグラム)をしている。これらの事実により、アレルギー学会重症度判定基準の「付記」で明記された「プレドニン換算量一日一〇ミリグラム以上のステロイド依存症のある場合は、発作頻度の如何にかかわらず重症とする。」に該当し、重症と位置づけられる。

したがって、このような重症喘息患者を、本人からの配置転換の願いが出されているにもかかわらず、白鳥住宅電気設備工事、東郷サービスエリア電気設備工事の現場責任者として勤務させることに問題がある。

職場における過重な責任のある労働と長時間労働は、強いストレスを与え、喘息発作の原因及び誘因、さらには重症化・難治化の原因となる。

亡龍雄の白鳥住宅電気設備工事での長時間労働及び大きな仕事の責任者としての立場から生ずるストレスは、疲労回復としての睡眠を削り、極めて強いものであったといえる。デザイン博の最中は、それでも喘息発作を必死に押さえていたが、その仕事を終えるとさらに悪化し、ステロイド剤の増量をせざるを得ない状況となった。

亡龍雄のかすがい内科の診療録をみると、平成元年七月には一一日間の点滴、同月三日にはストメリンインヘラーの追加使用、同年八月には一二日間の点滴、同年九月には三日間の点滴、そして、同月二日からはリンデロン散0.6ミリグラムの追加使用(合計1.2ミリグラム)が行われ、同年一〇月には七日間の点滴、同月一八日には発作コントロール不良のためベコタイドインヘラーの追加使用、同月二〇日にはサルタノールインヘラー二本処分、同月二五日にはサルタノールインヘラー二本処方となっている。右のとおり、一〇月二〇日から一一月六日までのわずか三週間に、実に六本のサルタノールインヘラーを使用している。この間の事態は、過剰適応のために生体の防御機能を低下させ、能動的、受動的労働強化により、自己健康管理の受診時間まで削られる状態を明らかにしているといえる。

以上により、亡龍雄の喘息発作による死亡と業務との関係は明らかである。

(2) 平成一〇年三月一七日付け補充意見書(甲第六五号証)

Ⅰ 過労・ストレスと気管支喘息の増悪

① 気管支喘息の基本的な病態

気管支喘息の病態は、従来の気管支の反応性の亢進及び可逆的な気道狭窄を主体とする定義から、気道の好酸球を中心とするリンパ球その他の細胞による慢性炎症である「慢性剥離性好酸球性気管支炎」があり、その病態を基礎に気道の過敏性が存在し、喘息発作が誘発されるという病態が明らかになり、この病態把握は既に世界的に一致をみているといえる。

この基本的な病態は、遺伝的要因(過敏性・アトピー・その他)に、その後の成長による後天的、環境的要因(ストレス、過労、アレルギー、感染、大気汚染、生活の事件、過剰適応など)が加わって発症するもので、この意味で、気管支喘息は遺伝的・後天的要因が関与する疾患といえる。

② 疫学的研究における過労・ストレスと喘息

疫学的研究は、過労・ストレスが気管支喘息と密接な関係があることを明らかにした。また、過労・ストレスが気管支喘息の発症にとどまらず、喘息死の原因としても重視されることを明らかにした。

③ 実験におけるストレスと喘息

過労・ストレスが、感染に対する抵抗性や免疫機能を低下させ、気管支喘息の悪化をもたらすことはよく知られており、人や動物についての多くの報告があり、明らかな医学的常識となっている。

④ ホメオスターシスの破綻と喘息

本来、人間が持っているホメオスターシス(平衡状態)を、過労・ストレスが不安定にすることによって、気管支喘息が発症あるいは悪化することがあきらかになってきている。生体には、このホメオスターシスを維持するための働きとして、大きくは交感神経・副腎髄質系と視床下部・下垂体・副腎皮質系=HPA系の二つの機構が存在するが、外界からのストレッサーによって体内にストレスが生ずると、これらの系が作動してホメオスターシスが維持されることになるが、ストレッサーが慢性的にあるいは断続的、持続的に作用して過重な負荷を受けたり、急激な過負荷を受けることになると、これらの系は破綻しホメオスターシスが保てなくなる。ホメオスターシス維持のための過剰な適応の状況下では、炎症の一層の進行とともに防御機能の働きが強まり、交感神経緊張優位でアドレナリン・カテコールアミン分泌を亢進させ、バランスを保とうとする。さらに、慢性ストレッサーの加えられている状態は、正常な相互関係を失いつつあるホメオスターシスが完全な破綻へと進行する。この間、気道では、神経ペプチドを中心とする神経原性炎症が増強し、気道過敏性のさらなる亢進と喘息発作増強をもたらす。

ここでは、神経失調状態・ホルモン抑制・免疫機能低下となり、寒気・食欲不振・不眠・抑鬱・顔色不良・易疲労などの症状を生じさせる。

このホメオスターシスの破綻状態は、防御機構の破綻、喘息の悪化を導き、また、過剰適応状態から、「ほっと」して過剰適応に対応した防御機構が弱まることにより、バランスは崩れ、副交感神経優位と防御機構の低下・破綻、そして発作重積状態を誘発する。非常に仕事の忙しい時期には必死に発作を抑え、帰宅後、あるいは翌日などに発作で医療機関を訪れる患者が多いことは、臨床の場面でよく経験することである。

⑤ まとめ

以上により、過労・ストレスが気管支喘息の発症・増悪因子であることは、既に確立された医学的知見であるといえる。

Ⅱ 亡龍雄の病状の推移と業務の関連性

① 白鳥住宅電気設備工事以前の症状

亡龍雄は、かすがい内科初診時には既にリンデロンのステロイド剤を0.6ミリグラム服用しており、その状態で著しい発作もなく一定の安定があったと考えられる。

かすがい内科のレセプトから判断した受診回数は、昭和六二年は二月が三回、三月が四回、四月が二回、五月が三回、六月が二回、七月が三回、八月が二回、九月が四回であり、点滴の投与や発作による受診は一度もない。昭和六三年一月は、六回の受診で五回の点滴が投与されたが、その後もそれ以外は点滴の投与はなく、この間にサルタノールMDIを一か月当たり二本投与された状態であった。ステロイドの上記量を中心とする治療状況及び原告の証言をもとにした亡龍雄の症状から、一応仕事を含め日常生活を送ることができていたと判断することが可能であり、当時の喘息の重症度は中等症と指摘するのが妥当である。

② 白鳥住宅電気設備工事開始後の症状

亡龍雄は、昭和六三年四月の白鳥住宅電気設備工事開始のころからメジヘラを購入し始めたと考えられ、このころから同年七月までの間は、メジヘラを使用しつつも大きな発作もなく業務と日常生活を送っていた。

昭和六三年八月八日には、帰宅途中に発作を起こし、救急車で運ばれ一日入院し、点滴を六回投与され、同年冬ころには、運転中の発作で交通事故を起こし、電柱にぶつかるなどの状況が発生した。こうした状況にもかかわらず、引き続き仕事を継続し、昭和六三年の末から平成元年二月までの間、寒い現場事務所で仕事を行い、このころには自宅への持ち帰り残業までしていた。

平成元年一月以降は、メジヘラの使用量が明らかとなっているが、治療内容を計数的に見ると、平成元年一月はメジヘラ二〇本、ステロイド点数一六八であり、同年二月は点滴三回とメジヘラ三六本、ステロイド点数一九二、三月は点滴三回とメジヘラ三三本、ステロイド点数一九二であった。なお、ステロイド点数とは、内服薬や点滴に含まれているステロイド剤の投入量を評点として合算し、喘息発作や日常生活・睡眠の遂行度とそれらの症状の背景となる薬剤の服用回数、治療法を統一的に点数化し、喘息の重症度を客観的に評価しようとする方法に基づいて計算されたものである。

このころの亡龍雄の症状は、次第に過剰適応というべきメジヘラの使用回数の増加と、それでも完全には発作をコントロールできないで点滴を受ける状態が時々見られる。

③ 喘息の悪化

平成元年四月四日から同年五月二〇日までの間、佐川が大阪へ研修に派遣されたが、当時、工事はピークを迎え、同年四月は点滴三回とメジヘラ二三本、ステロイド点数二七六、五月は点滴二回とメジヘラ三六本、ステロイド点数一八四と、次第にメジヘラの多量使用あるいはステロイド剤の増量投与による無理な発作の抑制下での労働の継続が行われた。

亡龍雄は、平成元年五月九日から同年六月一七日までは、一日休んだのみで、休日出勤を含み一日一時間から最高七時間の時間外労働に従事しており、このころは、十分通院する時間もとれないし、疲労困憊していたことは明白である。

このころの亡龍雄は、外部環境に対してうまく適応しているように見えても、本人は無理に過剰適応し、そのために疲労し、生体の防御機能を低下させている状況であった。

そして、平成元年六月は点滴八回とメジヘラ五三本、ステロイド点数三一六となり、極限ともいえる無茶な過剰適応が行われている。

平成元年六月中旬ころ、公団の竣工検査において厳しい指摘を受けた以後、一挙に発作状況は悪化したことが、同年六月に受けた点滴八回のすべてが一五日以降であることからも肯ける。これは、過剰適応からホメオスターシスが破綻し、防御機能が低下した状態に至り、発作重積状態に陥ったといえるとともに、食欲低下・抑鬱・顔色不良・易疲労などが生じている。

④ デザイン博以降から死亡に至るまで

平成元年七月に白鳥住宅電気設備工事の現場を離れた後も、佐川証言によれば、亡龍雄は、「目が充血し、具合が悪そうで、赤紫っぽいようで顔色がかなり悪い、どす黒い顔色で、目の周りがむくんでいた」状態であったが、これはホメオスターシスが破綻し、発作が繰り返されたためであった。同年七月は点滴一一回(月内の偏りなし)とメジヘラ一四本、サルタノール二本、ストメリンD一本、ステロイド点数二五六となり、八月は点滴一二回(前半が三回、後半が九回)とメジヘラ二六本、サルタノール二本、ステロイド点数二三三となっている。六月後半以降七月一杯、かすがい内科で発作沈静のための点滴治療を受け、八月上旬には症状がやや小康状態とも考えられる状態となっていた。

ところが、平成元年八月のお盆明けに東郷サービスエリア電気設備工事の現場代理人に従事するようになり、再び発作を誘発するようになり、点滴治療を受ける回数が急増した。そして、同年九月は点滴三回とメジヘラ二五本、ステロイド点数三二八の状態となった。この時期は、発作をメジヘラ、経口ステロイド剤、ステロイド剤入りの点滴で抑制してきた状況で、やっと勤務を果たすというように、生体のホメオスターシスが引き続き崩壊した状態で、完全にはまだ回復していない状況であった。

平成元年一〇月は点滴七回(ほぼ偏りなく増加してきた。)とメジヘラ二六本、サルタノール二本、ステロイド点数三〇〇で、点滴も増え、再び喘息発作自体も増加してきた。

そして、平成元年一一月は点滴一回、ステロイド点数一九二となり、死亡に至っている。

Ⅲ 亡龍雄の喘息の誘因としての過労・ストレス

① 過労・ストレスと喘息の経過

右の経過のとおり、亡龍雄の病状は、白鳥住宅電気設備工事以前は中等症であったものが、白鳥住宅電気設備工事の進展とともに喘息の病状は悪化し、特に平成元年四月以降は悪化の一途をたどり、ほぼ生体の防御機能とホメオスターシスは破綻に至った。

さらに、この破綻が癒えずに疲弊した状態の中、十分な回復を待たずに東郷サービスエリア電気設備工事に従事した結果、その仕事の負荷に耐えられずに喘息死に至ったといえる。

喘息の増悪の原因は、第一に、残業・休日出勤に超過労働時間の延長、期日の迫った仕事の労働密度の増加・労働強度の増加、現場監督の責任と工期の期限などからの精神的緊張の増加、すなわち過重労働の量的、質的負荷による過労・ストレスであり、第二に、工事中のほこりや寒い冬の環境の中での仕事などの労働環境である。特に、平成元年四月から六月にかけての過重労働に従事した期間を通して、喘息の病状が短期間では回復不可能な「生体のホメオスターシス・防御機能の破壊」状況に到達した経過を明らかにしている。

② いわゆる「ずれ」について

生体は、ストレスに対し適応しようと努力するものであり、破綻は、過剰適応の過程の中、その極限で起きてくるものであり、喘息発作の起こり方は、過剰適用の中では、時間的に「ずれ」を生ずるものであり、臨床的にはよく経験されることである。起こった発作が重積状態となり、長引くことはよくあることである。このストレス負荷と喘息発作による影響から回復に要する時間は、決して一日や二日の短期間ではない。すなわち、ストレス負荷により免疫能力は相当長く影響をうけるものであり、ましてやストレス負荷に対する過剰適応の中で、生体の防御機能が破綻された状態からの回復はさらに長期の期間を要すると考えられることから、亡龍雄が白鳥住宅電気設備工事を通じて気管支喘息を著しく悪化させ、自ら配置転換を申し出ているのに再び東郷サービスエリア電気設備工事に従事させたことは、いまだ回復し得ない状況でやっと耐えている亡龍雄に致死的作用を与えたといえる。

(3) 平成七年(ワ)第四三六八号事件の同証人の証人尋問調書の要旨(甲第六五、第六七、第八八号証)

気管支喘息の増悪因子としては、風邪等の感染、ストレス、肺機能の低下が考えられる。過労・ストレスは、生体の免疫機能を低下させ、通常よりも重篤な症状を出現させる。過重な業務により過労・ストレスが非常に強くかかっているときは、生体の防御機構が働いてなんとか耐えられるが、過重な業務が解消されほっとしたときに、防御機構の働きが止まり大発作に移行することがある。亡龍雄の過労・ストレスの原因としては、長時間労働、検査に向けての現場監督の責任、工期の迫り、冬の寒さ、階段上がりの負担等が考えられる。なお、建築現場における粉塵は、発症という点では直接の関連性はないが、発作の誘発因子とはなりうる。

亡龍雄が白鳥住宅電気設備工事に従事する以前の昭和六三年二月の症状は、ステロイド剤の使用状況から見て中等症であったが、平成元年四月から六月ころの症状は、ステロイド剤の使用状況、メジヘラの使用頻度、点数治療の回数から判断すると重症に移行していたといえる。例えば、平成元年五月には、受診回数が減っているのに対し、メジヘラの購入本数が増えていることなどからみて、亡龍雄は全体として発作を抑えるための努力を日常的に必死に行っているものの、症状は少しずつ蓄積して悪化していったものと考えられる。

メジヘラの使用頻度、点滴治療の回数等から見ると、平成元年七月一一日ころから同年八月一〇日ころまでの間は、一時的に落ち着きを取り戻したものと認められる。

亡龍雄の平成元年九月及び一〇月の症状は、ステロイド剤による強力な治療をしたが、メジヘラの本数が徐々に増えていることから、次第に悪化している段階といえる。

要するに、亡龍雄の気管支喘息の平成元年四月から六月ころの症状は、業務の過重性のため中等症から重症に移行し、かすがい内科を受診する余裕もないためメジヘラを中心とした治療であったが、右の業務が終わると、受診する回数が増えて、連日のように点滴をするようになり、これは、右の時点で過剰適応の中の防御機構のバランスが崩れて破綻したことによるものであると考えられるところ、右の症状はいったん内勤に戻り少し改善されたが十分に回復しないまま、東郷サービスエリア電気設備工事に従事し、再び発作が増強され、ステロイド剤の増量、メジヘラ多用により発作を抑制する努力が必死になって行われている中で、死亡に至ったものと考えられる。

なお、気管支喘息の軽症患者は一週間くらいで回復するが、重症患者が回復するには一か月程度の期間を要すると考えられる。

亡龍雄が喫煙していたことは、亡龍雄の喘息症状を増悪させる一つの問題因子ではあるが、昭和六三年ころと平成元年以降の亡龍雄の喘息の増悪については、喫煙では説明がつかない。また、アルコールが気管支喘息に与える影響は個人差があり、亡龍雄の喘息の増悪因子となったかは不明である。

一般論として、重症喘息、慢性喘息の状態にある患者にとって運動による負荷はマイナスであり、発作を誘発する要因となる。亡龍雄が平成元年一一月五日にソフトボールの試合に出場したことは、喘息を増悪させる要因とも考えられるが、当日の状況からして、亡龍雄は体に負担とならないようにコントロールしていたと考えられる。

(五) 藤田保健衛生大学医学部呼吸器・アレルギー内科末次勤医師

(1) 平成一〇年八月一八日付け意見書(乙第四一号証)

Ⅰ 発症時期についての考察

原告は、亡龍雄が元来健康であったが、昭和五二年九月二三日、原告の知る限りでは初めて喘息発作を起こし、翌日堀田病院で診察を受けた旨述べていること、堀田病院の堀田義弘医師の意見書によれば、同月二四日から気管一支喘息により入院したという記載があることから、亡龍雄の気管支喘息の発症は、昭和五二年九月ころと推定するのが妥当である。

Ⅱ 気管支喘息の発症の原因について

一般的に気管支喘息の発症の原因は、決して単純なものではなく、いろいろな要因が複雑に絡み合って、気管支喘息発症につながっていくとされるが、アレルゲンなど特に明らかな原因が認められない患者では、病因を特定すること自体が困難である。

亡龍雄の場合、山下病院の診療録に、父親が気管支喘息であったとの記載があることから、気管支喘息の遺伝的素因から発症した可能性はある。

一方、亡龍雄が気管支喘息を発症した当時、亡龍雄が設計業務及び現場副代理人業務に従事していた平和ビル新築工事の作業現場から発生する粉塵に、気管支喘息発症の原因となる物質(アレルゲン等)が含まれていたかの特定は、現在では粉塵分析などが不可能であるため困難であるし、同じ作業に従事する作業員に気管支喘息が発症した事実もないことから、亡龍雄の発症に関して、当時の業務が原因であったと特定または推定することは困難である。

Ⅲ 昭和五二年九月から昭和六二年までの間の気管支喘息の増悪の有無、程度及び原因について

亡龍雄の診療歴によれば、昭和五二年から昭和六二年までの間の診療実日数は増加傾向にあり、また、堀田病院の昭和五二年一一月のレセプトによれば、当時はステロイド剤は常用されていなかったようであるが、小柳津医院のレセプトによると、昭和五九年一月から昭和六一年五月までプレドニゾロン散の記載があり、かすがい内科のレセプトでは昭和五九年一一月から平成元年一一月までリンデロン散の記載があり、ステロイド剤が常用されている。日本アレルギー学会気管支喘息重症度判定委員会基準によれば、気管支拡張薬のみでコントロールできる場合は軽症、ステロイドを経口又は注射で必要とする場合を中等症以上とするとしているが、一般にステロイドを常用せざるを得ない気管支喘息は、常用しなくてもいい場合に比べて症状が重いといえるから、このようにステロイドを常用する必要が生じた場合ということは、増悪したと推定できる。

そして、昭和六二年ころの症状はステロイド剤を必要とする状態であるから、中等症以上である。

なお、現在の資料によって、増悪の原因を推定することは困難である。

Ⅳ 昭和六三年から平成元年にかけて、亡龍雄の気管支喘息の症状の急激な増悪の有無及びその原因について

① 昭和六三年一月から平成元年一月にかけては、かすがい内科のレセプトによれば、昭和六三年一月及び同年八月にそれぞれ静脈注射を受けているが、それぞれの月の翌月である同年二月及び九月は静脈注射を受けていないことから、気管支喘息としては、一時的に症状の悪化をみたが、一段と増悪したとは考えられない。

これに対し、平成元年二月からは、毎月静脈注射を受けていることからみて、このころより、症状が増悪したことが推定できる。特に、平成元年六月以降、診療実日数及び静脈注射の回数は一段と増していることから、症状が急激に悪化していったことが推定できる。

② 亡龍雄は、昭和六三年二月から白鳥住宅電気設備工事の現場代理人業務に従事しているが、気管支喘息の症状が増悪したと考えられる平成元年二月前後で勤務時間は大きく変化していない。また、平成元年六月の気管支喘息の急激な増悪については、発作回数、静脈注射回数は、勤務時間が長時間におよんだ同月一四日以前よりも以後に増加しており、同月一八日以降についてみると、気管支喘息発作と勤務時間には特に関係がみられない。

一方、亡龍雄は、遅くとも平成元年一月よりメジヘラを過剰使用した事実があり、原告の本人調書によれば、さらにその二年前から使用していた可能性がある。仕事中気管支喘息発作が起きた際に、メジヘラを吸入して再び仕事をすることを繰り返していくことによって、吸入回数が増えていったことが推定される。

一般的に、気管支喘息治療薬としての吸入β刺激剤は、急性期には強力な効果を発揮するが、長時間大量に使用すると副作用のために気管支喘息のコントロールが困難となり、場合によっては喘息死する可能性がある。

本件の場合、主治医春日井将夫医師は、亡龍雄が過量のメジヘラを使用していた事実を知らず、気管支喘息の症状を充分把握していない可能性があり、また、亡龍雄自身もメジヘラに対する過度の依存性を獲得し、メジヘラの副作用が発現していた可能性がある。

したがって、メジヘラの過剰使用のみに原因を特定することはできないにしても、平成元年六月以後は、気管支喘息に対するコントロール不良の状態となり、病状が悪化していった可能性がある。

③ 気管支喘息は完治することが困難であり、治療も目的は症状の発現を抑制することにあり、気管支喘息のコントロールとはこの症状の発現を抑制することをいう。したがって、コントロール不良とは、気管支喘息発作などの症状を抑制できない状態にあること、すなわち、治療の目的を達成していない状態を意味している。

一般的にβ刺激剤を長期に使用すると耐性がおこるとされ、効果が弱くなって発作が抑えられなくなる可能性がある。亡龍雄は、発作を抑えるためにメジヘラを使用していたと推定されるが、長期に多量に使用したため、従前は治まっていたと推定されるが、長期に多量に使用したため、従前は治まっていた喘息発作が次第に治まらなくなってきた可能性がある。

④ 以上により、亡龍雄の気管支喘息の増悪と業務との関連性については、平成元年六月において症状が急激に悪化した原因は、喫煙習慣や多量のメジヘラ使用による気管支喘息のコントロール不良による可能性もあり、明らかに業務が病状を悪化させる原因となったと判断することは困難である。むしろ、平成元年七月以降の症状は、気管支喘息自体のコントロール不良によると考えた方が、業務との関連性を考えるよりも理解しやすい。

Ⅴ 死亡の業務起因性

死亡前二週間の勤務状況における勤務時間及び休日の取得状況からみて、特に過剰な勤務とは考えにくく、また、受診状況からみても業務により受診が抑制される状況ではないことから、重積発作により死亡した主原因が業務であるとは考えにくい。むしろ、メジヘラの大量使用による気管支喘息のコントロール不良から生じた可能性の方が考えやすい。前述した吸入β刺激剤の重篤な副作用であるロックトラング症侯群が発症すれば、喘息死する可能性がある。

Ⅳ たばこが気管支喘息に与えた影響について

亡龍雄の喫煙習慣が気管支喘息の増悪に関与した可能性はある。

また、亡龍雄が毎日一箱から二箱喫煙していたことが、直ちに重積発作の原因となったか否かについては、亡龍雄の喫煙本数と気管支喘息の症状との関係に関する資料がないので不明であるが、気管支喘息のコントロール不良の原因の一つとなった可能性はある。

(2) 同医師の証言の要旨

Ⅰ 一般的に建設現場でのコンクリート粉塵にアレルゲン物質が含まれているとの文献はない。建築現場で気管支喘息が発症したとの報告もない。したがって、コンクリート粉塵がアレルギー性気管支喘息の発症因子となったとは考えられない。

亡龍雄の父親には気管支喘息の罹患歴があり、また、亡龍雄の診療歴には慢性湿疹、じん麻疹、急性結膜炎といったアレルギー疾患が存在していることから、亡龍雄にはアトビー素因があったと判断できる。

そして、かすがい内科においてハウスダストが抗原であるとの問診結果があることから、亡龍雄はアトビー素因の気管支喘息であり、ハウスダスト、ダニなどの抗原が原因になって気管支喘息が発症したと考えるのが普通である。

Ⅱ 気管支喘息は、発症そのものが感作という期間を経て発症するものであり、引き続いて感作が起きるような患者の場合には、徐々にアレルゲンに対する反応性が敏感になり、自然経過で症状の増悪が日常的に起こりうるといえ、亡龍雄の気管支喘息も自然経過で増悪した可能性もある。

亡龍雄がたばこを日常的に吸っていたことは、気管支喘息の症状を増悪させる要因になった可能性が非常に高い。また、喫煙習慣は、気管支喘息のコントロール不良を招きやすい。

Ⅲ 亡龍雄は、平成元年二月以降毎月静脈注射を受けていることから、このころより気管支喘息の症状がさらに増悪したと認められるが、乙第二三号証の勤務報告表によれば、平成元年二月及び三月の超過勤務時間と昭和六三年六月及び七月のそれを比較しても、前者が特に多いとは判断されなかったし、平成元年六月一八日以降は、残業時間が減って勤務時間が少なくなっているのに、発作、点滴回数がむしろ増えていることから、発作と勤務時間との間に相関関係を認めることはできない。

勤務時間の多い少ないと病状の推移を見比べてみて、相関関係が非常に緊密に認められれば、仕事が過重であったから喘息が悪化したと推認できるが、亡龍雄の場合はその相関関係がはっきりしていない。

Ⅳ メジヘラの適正用法は、乙第四四号証によると、通常一日に三回から四回までとし、副作用を考慮すると少なくとも四時間以内の再吸入は避けるべきとされているから、一回に二押しするとしても、二週間から最大でも一週間に一本までが使用量の限界である。このことからすると、亡龍雄は、一か月当たり概ね三〇本ずつ一年間継続使用しており、これは常識的な使い方からすると並外れた過剰投与であるといえる。

Ⅴ 亡龍雄の気管支喘息の症状からすると、いつ発作が起きてもおかしくない状態であり、亡龍雄が勤務についていなかったとしても喘息死が起きる可能性があった。高木医師の見解は、そういう論法で喘息死の原因を特定することになれば、喘息の患者はすべて過労・ストレスが原因であるとの説明ができるわけで、あいまいな表現すぎて受け入れ難い。亡龍尾の喘息死については、過労・ストレスがすべてを説明するに十分な原因とはいえない。

過重な業務と気管支喘息の増悪との間のずれについても、あり得ない論法ではないが、亡龍雄の場合にそれを当てはめてよいかというと、それだけの根拠はないと思う。なお、入院患者については、重症の気管支喘息でも二週間程度で治まり、その後は徐々に良くなっていくのが一般である。しかし、気管支喘息が重症となった場合、過労がなくなっても症状が改善せずに悪い状態が続くことも稀にはある。

過重労働は、気管支喘息の本来の原因ではなく、気管支喘息の状態を悪化させる条件づくりをする因子であるところ、亡龍雄についていえば、過重労働が一つの条件づくりになった可能性はあるが、主な原因であったとはいえない。

Ⅵ 亡龍雄の病状を判断するに際しては、かすがい内科の受診回数等を根拠にしたが、受診回数は必ずしも症状の程度にはつながらないので、かなり荒っぽい推測をしたといわれても仕方がない。亡龍雄が受診が必要なのに受診できなかった可能性もあり得るが、息が詰まるほどの非常にひどい発作が起きれば受診せざるをえないから、受診していない期間中は最重症の発作までは起こっていなかったと考える。

Ⅶ 亡龍雄の喘息死の原因は、気管支喘息の自然的経過による増悪及びメジヘラの過剰使用の可能性が極めて高く、過労・ストレスは全く関与しなかったとは言い切れない程度である。

4  右1ないし3に認定の事実を総合すると、亡龍雄の気管支喘息の発症及び増悪と業務との間の相当因果関係の存否について、次のとおり認めることができる。

(一) 気管支喘息発症の業務起因性について

(1) 服部医師は、前記3(二)(2)のとおり、亡龍雄には湿疹、じん麻疹、結膜炎の既往歴があり、アトピー素因が存在していたと推定されること、亡龍雄の父親も喘息のために病院へ通院していたことから、亡龍雄も喘息素因を有していたことが強く推定されること及び春日井医師の問診により、ハウスダストテストが陽性であったという事実が確認されたことを根拠として、亡龍雄の気管支喘息の発症と業務との関連性を否定し、また、滝川医師も、前記3(三)(1)のとおり、服部医師と同様の理由で、亡龍雄の気管支喘息は、アトピー素因のうえにハウスダストが抗原として作用して発症したものと推定し、業務との間に関連性はない旨判断し、さらに、末次医師も、前記3(五)(1)Ⅱのとおり、服部医師と同様の理由から、亡龍雄の気管支喘息は遺伝的素因から発症したアトピー型気管支喘息の可能性がある旨判断しているところ、これらの所見はいずれも合理的なものと認められるから、亡龍雄の気管支喘息はアトピー型の気管支喘息であり、ハウスダストがアレルゲンとなって発症したものと推認するのが相当である。

したがって、亡龍雄の気管支喘息の発症には業務起因性がないというべきである。

(2) ところで、原告は、亡龍雄の気管支喘息の発症は、平和ビル受変電設備工事における過重な業務及び多量の粉塵への暴露が原因である旨主張している。

しかし、右の工事は比較的順調に進行し、亡龍雄はほぼ定時に帰宅しており、竣工期日の一か月前ころに二時間ないし三時間の残業をしたことがあったが、それも連日ではなく合計して五日間程度にすぎなかったから(1(三)(1))、右の工事における亡龍雄の業務が過重であったとは認められない。

また、右の工事現場の粉塵についても、滝川医師は、前記3(三)(1)のとおり、①コンクリート粉塵等の無機性物質は分子量が小さく単独で抗原となりえないこと、②メッドラインによる過去一〇年間の文献検索の結果、世界の学術誌に掲載された気管支喘息に関する一万六〇〇〇余編の論文中にも、無機粉塵を抗原として取り上げた報告はみられないことを根拠として、右の工事現場の粉塵は亡龍雄の気管支喘息発症の原因とはなり得ない旨判断しているし、高木医師も、前記3(四)(3)のとおり、粉塵は発作誘発因子にはなり得ても、気管支喘息の発症因子にはならないとの意見を述べているところ、前記1(三)(2)のとおり、右の工事現場において大量の粉塵が発生するのは、コンクリート打ち用の仮枠撤去直後の一斉清掃の際であり、亡龍雄は右の大量の粉塵の発生する一斉清掃には三回程度参加したにすぎないこと、右の工事現場におけるそれ以外のほこりは大したものではないこと、住友電設の現場代理人の中では亡龍雄以外に気管支喘息を発症した者はいないことからすると右の工事現場の粉塵が亡龍雄の気管支喘息の発症原因であるとは認められないというべきである。

したがって、原告の右の主張は採用することができない。

(二) 亡龍雄死亡原因の業務起因性について

(1) 亡龍雄の業務内容と気管支喘息増悪の経過

Ⅰ 亡龍雄が気管支喘息を発症した昭和五二年九月から、白鳥住宅電気設備工事の現場代理人となった昭和六三年三月までの間に、亡龍雄が担当した工事は、三洋岐阜GI棟建設電気設備工事(ただし、現場副代理人)と恵那市まきがね公園体育館建築工事を除き、規模も小さく期間も短い比較的楽な仕事ばかりであった(1(四)(1))。

亡龍雄の気管支喘息は、発症当初はステロイド剤の投与はなく軽症の部類であったが、昭和五九年ころから喘息発作の回数が増加し、複数の病院に通院してステロイド剤の投与を受けるようになり、中等症の段階まで進行した(1(四)の(2)、(3)、3(四)(1)、3(四)(2)Ⅱ①、3(五)(1)Ⅲ)。

たばこは喘息発作の増悪因子であるところ(2(三)(2)、3(五)(1)Ⅵ、3(五)(2)Ⅱ)、亡龍雄は長年にわたり一日一箱程度の喫煙をしていたこと(1(九)(2))及び山下病院の昭和六一年二月二一日のカルテには、「喘息のトリガーとしては、運動負荷、タバコ、食事の食べすぎのとき。」と記載されていること(1(四)(3)Ⅳ)からすると、亡龍雄の気管支喘息が軽症から中等症に増悪したのは、喫煙等の日常生活が主な原因であり、業務との関連性はないものと認められる。

Ⅱ 昭和六三年三月に白鳥住宅電気設備工事の現場代理人となってから、当初はほぼ定時に退社していたが、同年五月後半から同年七月にかけて次第に残業時間が増加し、同年八月及び九月は少し減少したが、同年一〇月には再び増加し、同一一月及び一二月も同様の状態であった(1(五)(5)Ⅰ)。

亡龍雄は、昭和六三年八月八日、帰宅途中に喘息発作を起こして救急車で堀田病院に搬送され、また、同年一〇月末か一一月初めにも帰宅途中で喘息発作を起こしたが(1(五)(5)Ⅳ)、右は一時的に喘息症状が悪化したものにすぎず、一段の増悪ではなかった(3(5)(1)Ⅳ)。

メジヘラは、長期間、大量に使用すると、その副作用により、かえって気管支喘息のコントロール不良となり、喘息発作が抑えられにくくなるが(2(三)(3))、亡龍雄は、昭和六三年三月ころから医師に無断でメジヘラを購入するようになり、激しく咳き込むときだけでなく、咳をしていないときにも使用し、その使用量の平均は適正使用量の約一五倍であって、乱用といわざるを得ない状態であった(1(九)(3)、1(五)(5)Ⅱ、3(五)(2)Ⅳ)。なお、亡龍雄がメジヘラの使用を開始したのが、業務の多忙な時期ではなかったこと、全期間を通じてメジヘラの使用量が著しく変動したことはなかったこと及び咳をしていないときにも使用していたことからすると、部分的にはともかく全体的にみれば、亡龍雄は、かすがい内科に通院する時間的余裕がないためにメジヘラを使用せざるを得なかったのではなく、簡便なため安易にこれを使用していたものと認めるのが相当である(1(九)(3))。

Ⅲ 平成元年一月前半は正月休みもあり労働時間は少なかったが、同月後半から再び残業時間が増加し、特に同月三一日から同年二月一七日までの一八日間は、その間に一日の休みしかなく、労働時間は合計一五三時間に及んだ。同年二月後半は残業時間が大きく減少したが、同年三月三〇日に中間検査が行われる予定であったため、同年三月には再び残業時間が増加し、同年四月は少し減少した(1(五)(5)のⅥ、Ⅸ)

亡龍雄は、平成元年二月、三月、四月とそれぞれ三回ずつ喘息発作を起こして点滴治療を受け、同年四月九日からは従前の投薬内容に加え、抗アレルギー喘息発作予防剤であるリザベン3Kが投与されるようになり、このころから気管支喘息の症状が悪化しだしたものと認められる(1(五)(5)のⅥ、Ⅸ、3(五)(1)Ⅳ②)。

平成元年二月ないし四月の労働時間は、全体的にみれば、昭和六三年六月、七月や同年一〇月の労働時間と比べて大差がない(乙第二三号証)ことからすると、右の喘息症状の悪化は、亡龍雄の喫煙習慣や長期間、大量のメジヘラ使用による気管支喘息のコントロール不良によるものと考えるのが合理的であるが、平成元年二月二〇日から二二日までの連続発作が、一八日間で合計一五三時間におよぶ勤務をして、二日間の休みを取った直後に発症していること(すなわち、3(四)(2)1で高木医師が述べているように、集中して仕事をした後で、ホッとして喘息発作が発症したものと認められること。)及び全体的な労働時間は同じでも、中間検査の直前は、作業密度、作業強度及び精神的緊張が強まり、過労・ストレスの度合は平成元年三月当時の方が高かったものと推認されることを考慮すると、かなりの時間外勤務を含む右機関中の業務が、右の喘息症状の悪化にある程度の悪影響を及ぼしたものと認めるのが相当である。

Ⅳ 平成元年五月からは、同年六月一二日及び一三日の竣工検査に向けて仕上げの段階となり、残業時間及び休日出勤が増加したが、特に、同年五月九日から同年六月一七日までの四〇日間は、その間に一日の休みしかなく、労働時間は合計四一一時間にも及んだうえ、自宅への持ち帰り仕事も多くなっていた(1(五)(5)Ⅸ)。しかも、右の期間は、デザイン博を控えていて特に期限の遵守を要求される竣工検査の直前であり、そのため、亡龍雄も本来職人が行うべき軽易な現場作業を手伝わざるを得なかったほどであるから(1(五)(3)Ⅰ)、その期間の作業密度、作業強度及び精神的緊張は強く、中等症の気管支喘息に罹患していた亡龍雄はもとより、通常人にとっても極めて過重な業務であったと認められる。

そのため、亡龍雄は、帰宅しても疲労がほとんど回復せず、深夜に喘息発作で目が覚め、そのまま朝まで眠れない日が多くなり、食欲も減退し、朝食もとれず温めた牛乳を一杯飲むのがやっとという状態であった(1(五)(5)Ⅹ)。

亡龍雄は、平成元年五月は、同月一日と八日に喘息発作による点滴治療を受けたが、同月九日から同年六月一五日までは、五月二三日と六月六日に受診したのみである。しかし、右の期間中の受診回数が少ないのは、気管支喘息の症状が軽快したためではなく、多忙な業務により受診する時間的な余裕がなかったことによるものと認められる(1(五)(5)Ⅸ)。

そして、亡龍雄は、仕事が一段落し、ほぼ定時に帰宅できるようになった平成元年六月一六日から同月三〇日までの一五日間に、合計八回受診し、いずれも喘息発作により点滴治療を受けた(1(五)(5)Ⅸ)。

右の診療日数を点滴回数によれば、亡龍雄の気管支喘息は、そのころ急激に悪化し重症となったものと認められる(3(四)(3)、3(五)(1)Ⅳ②)。

ところで、過重な業務による過労・ストレスは、生体の免疫機能を低下させて通常よりも重篤な症状を出現させるものであるし(3(四)(3))、強度の過労・ストレスが継続し、その継続時期が経過した後に症状が一層増悪したり、喘息発作が頻発することは臨床上よく認められることである(3(四)(1)Ⅲ②)ところ、前記説示のとおり、平成元年五月九日から同年六月一七日までの業務は、中等症の気管支喘息に罹患していた亡龍雄にとっては極めて過重なものであったこと、右過重な業務が一段落した直後から、頻繁な喘息発作による点滴治療が開始されていること等を考慮すると、亡龍雄の気管支喘息が重症となり難治化したのは、右過重な業務、喫煙習慣及び長期間、大量のメジヘラ使用による気管支喘息のコントロール不良が相乗的に影響し合った結果ではあるが、その中でも右過重な業務の影響力は相当に大きかったものと認めるのが相当である。

Ⅴ 亡龍雄は、体調がすぐれないことを理由にして配置転換を希望し、平成元年七月一日から同年八月二〇日までデスクワークに従事し、その間はほぼ定時に退社するとともに、所定休日やお盆休みをすべて取得したことにより、同年七月及び八月はいずれも一一日間の休みを取った(1(六)(1))。

しかし、亡龍雄の症状はなかなか回復せず、顔色も悪く、声もしゃがれた感じであり、平成元年六月後半に引き続き、同年七月一日から同月一〇日までの間に七回受診し、いずれも喘息発作により点滴治療を受け、その後は、同月一五日(喘息発作による点滴治療)、同月二三日(同上)、同月二六日(発作なし)と少し喘息発作の間隔があくようになったが、同月二八日に風邪をひいてから、同日、同月二九日、同年八月二日、同月九日、同月一一日、同月一九日、同月二一日、同月二三日と再び頻繁に喘息発作を発症するようになり、いずれも点滴治療を受けた。そして、同月二三日に投薬内容が変わり、ステロイド剤であるリンデロン散0.6ミリグラムが処方されなくなるとともに、同月二五日から同月三〇日まで連続六日間、喘息発作により点滴治療を受けた(1(六)(2))。

右の期間の亡龍雄の症状については、平成元年七月一〇日ころまでは加重な業務による過労・ストレスの影響力がまだ強く残っており、その後少し改善をみたが、同月二八日に風邪をひいてから同年八月二日まで再び悪化したものと認められる(3(四)(2)のⅡ④、Ⅲ①)。

しかし、平成元年八月一九日以降の症状については、喫煙習慣によるものか、メジヘラの長期間、大量使用による気管支喘息のコントロール不良によるものか、変更された投薬内容が亡龍雄に合わなかったことによるものか、肥満体質のため体力を消耗するとともに、よく汗をかき脱水症状となったことによるものか、あるいはそれらが複合したものか、いずれとも断定することができない。

Ⅵ 亡龍雄は、現場代理人が不足していた時期であり、かつ、親しく交際していた北村の要請であったため、東郷サービスエリア電気設備工事の現場代理人を引き受け、平成元年八月二一日から住友電設中部支社内でその準備作業を行い、同年九月一日から現場事務所に勤務するようになった(1(七)の(2)、(4)Ⅰ)。

右工事は、そのうち売店について平成元年一二月末日までに竣工させることが強く要請されていたうえ、いわゆる官庁工事であり、図面の書き直しが多く、細かいチェックも必要であるなど、精神的なストレスの溜まる仕事であつた(1(七)の(1)、(4)Ⅱ)

亡龍雄は、平成元年八月二一日以降残業時間が増え始め、同年一〇月は連日のように一八時ないし一九時まで残業するようになり、同月七日は休日出勤し、同月一一日から一三日までは連続して二〇時まで残業した。そして、同月二八日と二九日は休みを取ったが、同年一一月三日と四日は連続して休日出勤した。右休日出勤は、工事が二日程度遅れていたためと、一一月六日から本格的な工事に入るために職人や材料の手配をすべて完了させるためであった。なお、亡龍雄の死亡直前一か月間の労働時間は合計二四二時間であり、白鳥住宅電気設備工事の平成元年三月当時と同じ程度の労働時間であった(1(七)(4)のⅢ、Ⅳ)。

右の程度の業務は、通常人には過重なものではないが、重症の気管支喘息に罹患していた亡龍雄にとっては過重なものであり、亡龍雄は、平成元年九月ころの三女の運動会に行けなかったり、同年一〇月二二日の社内ハイキングに車内で横になっているほどに体調が悪く、死亡する一〇日前ころからは、深夜毎晩のように発作が起き、睡眠を取ることができず、朝食もまともにとれない状態になっていた(1(七)(5)のⅠ、Ⅱ、1(八)の(1)、(2))。

そして、亡龍雄は、平成元年一〇月中旬から下旬ころ、住友電設に提出する自己申告書に、体力が仕事についていけないため、設計業務への配置転換を希望する旨記載した(1(七)(6))。

亡龍雄は、平成元年八月下旬からの喘息発作が同年九月二日まで続き、同日は点滴治療を受けるとともに、投薬内容が従前のものに戻り、さらにリンデロン散0.6を追加処方された。その後、同月一三日(喘息発作なし。)、同月一九日(喘息発作による点滴治療)、同月二九日(喘息発作なし。)、同月三〇日(喘息発作による点滴治療)と受診し、喘息発作の起きる間隔は少し長くなった。しかし、同年一〇月八日(喘息発作による点滴治療)以降は、同月一一日(同上)、同月一三日(同上)、同月一六日(同上)、同月一八日(同上)、同月二〇日(喘息発作なし。)、同月二二日(喘息発作による点滴治療)、同月二五日(喘息発作なし。)、同月二八日(喘息発作による点滴治療)、同年一一月四日(同上)と受診し、再び頻繁に喘息発作が起きるようになった(1(七)(5)Ⅲ)。

右の各事実によれば、九月二日に投薬内容が変更された後、亡龍雄の気管支喘息の症状は少し改善されたが、一〇月八日以降は再び悪化し、いつ重積発作が起きてもおかしくない状態になっていたものと認められる(3(五)(2)Ⅴ)。

亡龍雄が右のような状態になったのは、東郷サービスエリア電気設備工事を担当するようになってからの、亡龍雄にとっては過重な業務と、喫煙習慣や、長期間、大量のメジヘラ使用による気管支喘息のコントロール不良が相乗的に影響し合った結果であり、前記説示の治療経過に徴すると、その中でも気管支喘息のコントロール不良が大きな要因であったと考えられるが、他方、亡龍雄は重症の気管支喘息に罹患しており、本人も希望していたように内勤への配置転換が必要であったところ、現場代理人が不足していたため右の現場業務に従事せざるを得なかったこと、また、売店については平成元年一二月末日までの竣工期日の遵守が要請されていたところ、工事が予定よりも二日程度遅れていたこともあって、一一月三日、四日、と連日して休日出勤をしなければならなかったこと、すなわち、亡龍雄は、一〇月下旬の時点では、重症の気管支喘息の治療に専念するために早急に休養を取るべき状態であったのに、それが取れない実状にあったことを考慮すると、右の過重な業務もかなりの影響力を及ぼしていたものと認めるのが相当である。

(2) 亡龍雄の死亡と業務との相当因果関係

Ⅰ  右(1)で説示したとおり、亡龍雄は、同人の基礎疾病(気管支喘息)が、過重な業務、喫煙習慣及びメジヘラの長期間、大量使用による気管支喘息のコントロール不良の相乗効果によって重症化し、その状態の中で発生した重篤な発作による呼吸不全により死亡したものであるが、気管支喘息が重症化したのは、白鳥住宅電気設備工事における極めて過重な業務が相当大きな要因となっていたこと、そして、短期間の内勤では右の症状が十分に改善されないまま再び現場代理人となり、死亡直前の頻繁な喘息発作の発症についても、東郷サービスエリア電気設備工事における亡龍雄にとっては過重な業務がかなりの影響を及ぼしていたことを総合的に考慮すると、亡龍雄の死亡は、業務が基礎疾病をその自然的経過を著しく超えて悪化させたことにより発生したものと認めるのが相当である。

したがって、亡龍雄の死亡と業務との間には、相当因果関係の存在を是認することができる。

なお、付言するに、亡龍雄の死亡については、亡龍雄にも、度重なる医師の禁煙指導に従わなかったり、医師に無断でメジヘラを安易に乱用するなどの重大な過失が存在するから、労災保険法一二条の二の二の二号により、保険給付の全部又は一部を行わないことができる場合に該当する(なお、労基法は、遺族補償については重過失であっても給付制限をしていないが、同法八四条により、労災保険法による補償が行われる場合は、使用者は補償責任を免れると規定しているから、労災保険法により給付制限がなされても、使用者は残額について補償責任を免れることになり〔最高裁判所昭和四九年三月二八日判決・判例時報七四一号一一〇頁〕、重過失であっても給付制限をしない旨の労基法の規定は、実質的に存在意義を失っている。)。労働基準監督署長は、通達により、遺族補償等については給付制限をしない取扱いのようであるが(甲第一〇一号証)、原告代理人から、「民事損害賠償は過失相殺、あるいは割合的な因果関係論により賠償額の調整が可能であるが、労災補償給付はこのような調整ができないことを理由に因果関係の判断を厳しくしようとする。」との指摘がなされているところでもある。右の指摘が杞憂であればよいが、当裁判所としては、疾病等の発症、増悪に複数の要因が関与している場合は、むしろ因果関係の判断を緩やかにして、前記労災保険法一二条の二の二の二号により給付制限をすべきであると考える。

Ⅱ 末次医師は、亡龍雄の気管支喘息の発作回数、点滴回数は、平成元年六月前半の業務が過重であった時期よりも、同月後半の業務に余裕のあった時期に増加しているから、業務と気管支喘息の増悪との間には相関関係が認められない旨述べている。

しかし、末次医師の指摘する発作回数、点滴回数は、かすがい内科での診察結果にすぎず、前記説示のとおり、平成元年六月前半は、それ以外にも喘息発作が起きていたものと推認されるし、また、同年六月後半の喘息発作は、六月前半の過重な業務による過労・ストレスが回復していないことから発症したものと認めるのが相当であるから、末次医師の右の見解は採用できない。

Ⅲ 服部医師は、亡龍雄の業務内容及び月別時間外労働と発作頻度との間には相関関係が認められない旨述べている。

しかし、服部医師は、表面的な数字によって右の判断をしているにすぎず、亡龍雄が平成元年五月後半及び同年六月前半は、かすがい内科に通院する時間的余裕がなかったことや、同年六月後半及び同年七月前半には、それ以前に蓄積された過労・ストレスがいまだ残っていたことを考慮していないから、同医師の右の見解も採用できない。

Ⅳ 滝川医師は、亡龍雄の業務は自主管理可能であるから労働過負荷の持続は考え難いとして、気管支喘息の増悪と業務との間に因果関係は認められない旨述べている。

しかし、現場代理人の業務は竣工期日の厳守を要求されるものであるところ、工事は多くの人間の協同作業であり、亡龍雄の一存で日程を決められるものではなく、竣工期日の直前はどうしても時間外労働が多くならざるを得ず、現に白鳥住宅電気設備工事において、竣工期日直前に極めて過重な労働状況となったことは前記認定のとおりであるから、滝川医師の右の見解も採用できない。

第四  結論

以上によれば、亡龍雄の気管支喘息の増悪とそれによる死亡には業務起因性が認められるから、本件処分は違法である。

よって、原告の請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官林道春 裁判官山本剛史、鈴木昭洋は、転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官林道春)

別表一亡龍雄の月別勤務状況、受診状況及びメジヘラの購入本数<省略>

別表二時間外労働と喘息の状況<省略>

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