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仙台高等裁判所 平成2年(行コ)7号 判決 1993年3月19日

控訴人(被告) 宮城県知事

参加人 小野寺幸男

被控訴人(原告) 三浦ちよこ 外一名

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人らの請求を棄却する。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

控訴人は主文同旨の判決を求め、被控訴人らは「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の主張は、次のとおり付加するほかは原判決事実摘示のとおり(但し、原判決二枚目裏四行目の「昭和五七年」を「昭和五七年一月九日」と、同三枚目表二行目の「二項」を「二項三号」と、同四枚目表三行目及び四行目の「原告」をいずれも「原告ら」と、それぞれ改める)であるから、これを引用する。

一  控訴人及び参加人の主張

1  農地法の究極の目的は、農地法一条に定めるとおり「耕作者の地位の安定と農業生産力の増進とを図る」ことにあるが、昭和二七年農地法制定当時においては、地主的土地所有が支配的であったことから、いわゆる自作農の創設の促進と残存小作地の小作農の地位の安定を図ることを主たる目標としていた。しかし昭和四五年の改正によって、この立場に、農地の生産性向上、効率的利用を図ることが主たる目標として加えられ、その後、農地流動化を促進することにより経営規模の拡大を図る政策が積極的に進められてきていた。したがって、同法二〇条二項三号の許可事由の有無を判断するに当たっても、従来の小作権保護という社会政策的要素に、農業生産力の維持、向上の確保という公的、政策的要素を加えて比較衡量して判断すべきこととなり、行政庁には、その農業政策的観点からの広範な裁量権を認められるべきであるから、裁判所は、行政庁が、その裁量権の範囲内で、賃貸人と賃借人のどちらに農地を耕作させた方がより農地の効率的利用につながり、ひいては農業経営規模の拡大の促進、生産性の向上、農業経営の近代化、合理化という農業政策的目的にかなうかどうかについてした相当性の判断を尊重すべきである。

2  被控訴人ちよこ本人は、原審及び当審において、同被控訴人の夫庄吉が参加人の母はるみから本件農地の代わりに譲ると言われて開墾した本件農地の近くの津谷舘岡一四五番の山林の返還を求められた際、その代償として同女との間で、本件農地の永久耕作が約された旨供述するけれども、右一四五番の山林を被控訴人方で開墾した事実はないし、そのような永久耕作が約された事実もない。仮にそのような約束がなされたとしても、それが永小作権であれば、農地法二〇条の適用がなく、期間の定めのない永小作権として被控訴人方で耕作を始めた昭和一八年から三〇年の経過で期間が満了していると見られるし、永小作権ではないとすれば、そのような約がなされていることを理由にその契約関係の解消を制限することは、弱者たる小作人の保護という社会政策的目的を維持しながらも、農業生産力の増進という農業政策的目的に重点を変遷させてきた、現在の農地法の趣旨から導かれる同法二〇条二項三号の解釈から見て妥当でない。

二  被控訴人の主張

1  控訴人及び参加人の主張は争う。

2  控訴人は、農地法二〇条二項三号に該当する事由があるかどうかは、賃貸人と賃借人のどちらに農地を耕作させた方が、より農地の効率的利用につながるかによって判断すべきものと主張するところ、本件の場合、賃貸人たる参加人の主たる職業は、その所得の殆どが営業所得であることや工場の規模等から明らかなように、農業ではなく工場経営であり、参加人において本件農地を効率的に利用することなど到底期待できない。本件農地を参加人に返還した後の参加人による本件農地の耕作状況と被控訴人方農地の耕作状況を比較すれば、むしろ賃借人たる被控訴人に本件農地を耕作させた方が、より本件農地の効率的利用が図られることが明白となっている。

理由

一  控訴人は、参加人からなされた昭和五六年五月二五日付農地法二〇条一項による本件農地の賃貸借解約申入れの許可申請に対し、昭和五六年一一月二七日付宮城県迫農指令第七五八号をもって本件許可処分をしたこと、被控訴人両名は、右許可処分を不服として昭和五七年一月一九日農林水産大臣に対し審査請求をし、控訴人が右審査請求において、本件許可処分事由を農地法二〇条二項三号該当と主張しその理由を開示したところ、右審査庁は、昭和五八年五月一六日、右処分事由の存在を認め、被控訴人らの右審査請求を棄却する裁決をしたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

そして、右裁決の理由は、原判決の理由(四枚目裏三行目から六枚目裏七行目まで記載のとおりである(乙八の二)。

二  そこで、先ず本件許可処分の許可事由である農地法二〇条二項三号該当の事由があるかどうかについて判断する。

1(一)  本件証拠(甲一五の二、四、乙二、三の各一、九の一ないし三、一〇、一一、一二の一、一九、二〇の一、二、丙九、一〇、原審証人三浦忠治(一回)、原審参加人本人(一回)、弁論の全趣旨)によれば、本件許可処分時における、参加人方及び被控訴人方双方の家族構成、職業、収入、農地保有及び営農状況、参加人が昭和五六年五月頃から津谷電子工業の商号で電子部品製造業を開始した事実、南三陸海岸地方の農家の平均耕作面積、兼業農業率、本件農地を参加人に返還することによる被控訴人方の生計維持に及ぼす影響、参加人による本件農地の効率的利用の可能性等について、前記認定の裁決の理由のとおり認定判断することができる。

(二)  被控訴人らは、参加人の主たる職業は農業ではなく工場経営であって、本件農地の効率的利用は全く期待できず、むしろ被控訴人らに耕作させた方が、より本件農地の効率的利用が図られると主張するところ、本件証拠(甲一三、一五の一、三、二〇ないし二七、三〇ないし四一、丙一、一〇、六二の一ないし五、六三の一、二、六七、六八、八九、九〇、九五ないし九九、原審証人佐々木哲郎、原審(一ないし三回)及び当審証人三浦忠治、原審(一回)及び当審参加人本人)によれば、参加人は、右にも認定のとおり、農業の傍ら、昭和五六年五月に若柳電子工業の下請企業である津谷電子工業の商号でトランスコイル巻事業の操業を開始し、同年の営業所得こそ僅か三二万六六五七円に過ぎない(年度途中の開業であったためと必要経費として右開業準備費用を要したためと推量される)が、本件許可処分後の昭和五七年以降の右事業による参加人の営業所得は一五〇万ないし三〇〇万円に上り、一方農業所得は概ね一万ないし二五万円程度に過ぎないこと、しかも参加人は昭和五七年三月に工場の規模を拡大し、その後多い時で二〇名ほどの従業員を雇用することもあったこと、また参加人は、昭和五五年に右工場の敷地としてその所有の畑一三一平方メートルを農地から転用したうえ、昭和五七年八月頃には三浦直人に小作させていた田一一九〇平方メートルを同人に売り渡しており、さらにその後右事業等のため多額の借金をし(平成四年四月の時点で、土地取得に伴う借金を含め約二六〇〇万円)、その返済等のため一部農地を売却していること、被控訴人方の畑は手入れが行き届き、野菜等の成育も比較的良いのに対し、参加人が本件許可処分がなされたことにより被控訴人らから返還を受けて耕作している本件農地は、雑草が多かったりして被控訴人方の畑に比し手入れも良くなく、野菜等の成育も被控訴人方のそれに比し芳しくないこと、などの事実が認められる。

(三)  しかしながら、本件許可処分当時においては、参加人はトランスコイル巻事業を開始したばかりで右事業による営業所得も僅少であったことは右認定のとおりであるし、その後経営が順調になり営業所得が大幅に増加し、従業員も多数雇用した時期があったものの、丙九九、一〇二ないし一〇四、当審参加人本人の供述によれば、平成四年秋の時点では、景気の低迷でパート従業員二名を雇用するだけとなっていることが認められる。

また丙八ないし一〇、原審(一、二回)及び当審参加人本人の供述によれば、参加人の行っているトランスコイル巻事業は、主たる機械設備を若柳電子工業から貸与され、生産資材も同社から供給されているものであって、その存立の基盤を全面的に同社に依存している極めて脆弱な小規模の事業に過ぎないうえ、対外的に参加人名義で右事業を営み、同人名義で営業所得の申告をなしているものの、参加人は、資金繰りや、時に従業員の送迎を手伝うだけで、工場の生産管理等は、参加人の妻や、長女、次女が、次女の結婚後は次女夫婦が主体となって行っており、参加人自身は一貫して農業中心に稼働してきたことが認められる。

右認定の事実に照らすと、参加人が兼業として行っているトランスコイル巻事業による営業所得が農業所得に比し著しく多く、また右事業に多数の従業員を雇用した時期もあったなどの本件許可処分後の事情を考慮しても、参加人の主たる職業が工場経営であって農業ではないとみるのは相当でないと言わねばならない。

また参加人において工場敷地として農地を転用し、また工場経営による借金等のため農地を処分している点であるが、本吉地方は、耕作面積が狭小で農業だけでは生活できないため兼業農家が極めて多く、参加人もトランスコイル巻事業を兼業せざるを得なかったものであることは前記1(一)認定のとおりであって、その兼業のため一三一平方メートル程度の農地を転用し、あるいは兼業により生じた借金の返済のため農地を処分せざるを得なかったとしてもやむを得ない事態と言うべきであるから、この点も、直ちに参加人の主たる職業が工場経営であって農業ではないとか、参加人による農地の効率的利用が期待できないことの証左とすることは相当でない。なお参加人が三浦直人へ売り渡した農地は、前掲証拠によれば、同人の先代が生活に困っていずれ買戻しする約束のもとに参加人の養父市治が買い受け、これを右三浦方に引き続き小作させていた農地であって、参加人は右買戻しの約束によって売り渡したものであることが認められるから、この点も参加人による農地の効率的利用を否定する根拠とはならない。

さらにまた被控訴人らの畑の方が参加人の耕作している本件農地に比し手入れが行き届き成育が良いとしても、それは被控訴人らが僅か九九一平方メートルの畑を家庭菜園的に耕作している結果と認められるのであって、単純に両者を比較することは妥当でなく、また被控訴人らの畑の方が生産性が高いと言えないのはもとより、直ちに農地を効率的に利用しているものと評することもできない。そして、被控訴人方が生計の基礎を給与所得に置いていることは、前記1(一)認定のとおりである。一方本件許可処分後における参加人耕作の本件農地が被控訴人の畑に比し手入れが行き届かない面があったにしても、参加人は、前記1(一)認定のとおり、自作地田畑合わせて七六四〇平方メートルを有し、トラクター、管理機、精米機等の相当の農業機械を装備していたうえ、本吉町農業協同組合の営農指導職員としての技術と経験を有し、水田及び畑作に畜産を取り入れた複合経営の具体的営農計画も持っていたのであるから、参加人であれば、本件農地の返還を受け、他にも農地を取得して経営規模を拡大し、農地の効率的な利用を図ることが可能であり、また期待できると判断することに、十分な根拠があったということができる。

(四)  そうすると、被控訴人らの前記主張は理由がなく採用できない。

2  ところで、本件証拠(甲一九、乙一五、一七、丙二ないし七、一〇、当審証人三浦庄八、原審及び当審被控訴人ちよこ、原審参加人本人(一回))によれば、被控訴人方で本件農地を耕作するに至った経緯、事情等について次のとおり認められる。

(一)  被控訴人ら、被控訴人ちよこの夫三浦庄吉、参加人及び参加人の母はるみ等の身分関係、参加人の家督相続については原判決の理由(七枚目表九行目から同裏末行まで記載のとおりである。

(二)  庄吉、被控訴人ちよこ夫婦は、昭和一六年頃まで本吉町一三浜(当時の地名は、本吉郡一三浜町)に居住し、庄吉は近くの鉱山で働いていたが、休山となり、一家は庄吉の実家である兄庄治方に身を寄せ世話になっていたが、二年ほど経過した昭和一八年秋頃、庄吉が市治から貰い受けた畑(被控訴人らが現在居住している場所で、当時の表示は津谷町津谷字舘岡一四七番の二畑一反二四歩)の一部に家を建てて住み、庄治から貰い受けた畑(同所一四八番畑)や本件農地を借り受けて耕作するとともに、庄治方や市治方の農業を手伝い、庄吉は他に本吉の病院の小使をして生計を立てていた。市治から贈与された右土地の所有権移転登記は昭和二八年一月二三日市治から参加人への相続登記を経由したうえ、同日庄吉に対してなされ、庄治から贈与された土地についても右同日所有権移転登記がなされて、右一四八番の土地に一四七番の二の土地が合筆された。

(三)  そして、本件農地は、戦後も引き続き庄吉、被控訴人ちよこ夫婦が参加人から借り受けて耕作してきた。

被控訴人ちよこは、原審及び当審本人尋問において、以上の認定と異なり、昭和二一年頃参加人の母はるみから津谷舘岡一四五番山林一五八六平方メートル(約一反六畝)を譲るから開墾して欲しい、開墾したら本件農地を返して貰いたいと頼まれ、五年ほどかかって雑木が生立している右山林約一反位を開墾した昭和二六年春頃に、はるみから、右開墾した土地を返して欲しい、その代わり本件農地は永久に耕作させるというので、右山林を返還した旨供述するけれども、右被控訴人ちよこ本人の供述によると、庄吉は、昭和一三年出兵して重傷を負い、十分働けない身体であったことが認められ、この事実に庄吉による開墾の事実を否定する内容の乙一八、丙四九、五〇の記載、当審証人菅原ちよ子、同三浦庄八の各証言並びに原審参加人本人(一回)の供述と照らし合わせると、そもそも庄吉夫婦が右一四五番山林の開墾を行ったとは認め難く、また一旦譲った土地の返還を求める代償として本件農地を永久に耕作させるという約束をするというのも不自然であって、右乙一八、右証人の証言等とも照らし合わせると、右被控訴人ちよこ本人の供述は俄かに信用できない。

3  庄吉死亡後参加人方が被控訴人両名に対し本件農地の返還を求めてきた経緯は、原判決の理由(九枚目表四行目から一〇枚目表六行目まで記載のとおりである。

4  なお昭和四五年の農地法の改正で、土地の農業上の効率的な利用を図るための土地の利用関係の調整も、農地法の目的の一つに加えられて以後、利用関係の調整として借地等による農地流動化を進め、それによって経営規模の拡大を図る積極的な政策が次々と打ち出されており(乙二三ないし二五、丙二三ないし二八)、農地法二〇条二項三号該当事由の有無を判断するに当たっても、右農地流動化促進による経営規模拡大と、これによる農地の効率的利用の時代的要請を、無視することはできない状況にある。

5  以上認定の諸事情を合わせ考えると、被控訴人らが本件許可処分により本件農地の耕作権を失うとしても、これによって被控訴人らの生計が格別悪化するものとは認め難く、また被控訴人方が参加人方から本件農地の永久耕作を約されていた事実も認められないから、被控訴人らにおいて、原判決が説示していたような、賃借権を失う以上の財産的損失を被るということもあり得ない。

一方参加人は、兼業として工場を建設し、トランスコイル巻事業を行っているが、現状の耕作面積、農業収入からすれば、右兼業もやむを得ないと認められるところ、その工場の生産管理等については妻や長女等に任せ、自身は農業を主として行っており、また参加人の農業に関する経験、知識、技術等に照らすと、本件農地の返還を受けても、決してその経営能力を超えるようなことはなく、むしろ既に保有している農地と合わせ、効率的な利用を図ることが可能とみることができるし、また参加人方が被控訴人らに対し長年本件農地の返還を求めてきた経緯からして、農業経営に対する参加人の熱意のほどが看取されるから、その経営規模の拡大により本件農地を含めたその保有農地の効率的利用が期待できる。

そして、経営規模の拡大による農地の効率的利用による生産性の向上が緊要な農業政策の課題となっている現状をも踏まえると、本件農地は、賃貸人たる参加人に自作させるのが妥当と言うべきであるから、農地法二〇条二項三号に該当する事由があると言わなければならない。

三  そうすると、本件許可処分は適法であって、被控訴人らの本訴請求は失当であると言うべきであり、本件控訴は理由があるから、これと結論を異にする原判決を取り消して、主文のとおり判決する。

(裁判官 石川良雄 山口忍 佐々木寅男)

原審判決の主文、事実及び理由

主文

一 被告が昭和五六年一一月二七日付宮城県迫農指令第七五八号をもって、参加人に対し貸主参加人、借主原告両名間の「本吉郡本吉町津谷舘岡一四七番一畑一五八六平方メートル」の賃貸借契約の解約申入許可申請を許可した処分を取消す。

二 訴訟費用は被告及び参加人の負担とする。

事実

第一原告の請求

主文第一項同旨

第二争いのない事実

一 参加人(所有者)は、原告両名に対し「本吉郡本吉町津谷舘岡一四七番一畑一五八六平方メートル」(以下「本件農地」という。)を期限の定めなく賃貸していたところ、昭和五六年五月二五日、農地法(以下単に「法」という。)施行規則一四条一項に基づき、本吉町農業委員会を経由して被告に対し、法二〇条一項の規定により本件農地賃貸借解約申入れの許可申請をし、被告は主文一掲記の日に同記載の指令をもってその許可(以下「本件許可処分」という。)をした。

二 原告両名は本件許可処分を不服として昭和五七年農林水産大臣に対し審査請求をした。右審査手続において被告は本件許可処分事由を法二〇条二項三号該当と主張しその理由を開示した。審査庁は昭和五八年五月一六日、原処分事由は理由があり、かつ他に本件許可処分を違法不当とすべき事由は存在しないと判断して、審査請求を棄却した。

なお参加人は、右審査請求にも参加した。

第三争点

被告は、

一 参加人と原告らの各家族構成、職業、収入、農地保有及びこれの経営状況を比較考量し、参加人が法二〇条二項にいう「賃借人の生計、賃貸人の経営能力等を考慮し、賃貸人がその農地を耕作の事業に供することを相当とする場合」にあたると主張する。

二 また、本件訴訟に至って、次のとおり本件許可処分事由を追加した。

1 本件農地賃貸借の当事者は、以前は貸主が参加人の母小野寺はるみ、借主がその実兄で原告ちよこの夫にして同みさほの父である亡三浦庄吉であったが、庄吉は昭和一八年頃はるみに対し本件農地の耕作を申入れ、これを断わられるや、強引に耕作を始め、飲酒酩酊してはるみ方に至り家族を脅迫したりしており、昭和二四年頃には本件農地を返すから同所一四七番二畑を贈与せよなどと迫るので、これを断ったため、そのまま、本件農地の賃貸借の形だけが残ったものである。

2 また、参加人は本吉町農業協同組合の営農指導員として二〇年間勤務したが、健康を害し昭和五五年一〇月三一日に退職した。しかるに、原告両名及び原告みさほの夫三浦忠治は、参加人が退職したのは、農協に来た補助金の使途不明金があったことに対し引責辞職したのであるとか、補助金を使込んだため解職されたなどと言い触らし、理由なき中傷をした。

3 はるみは、昭和三二年一一月二九日本吉町農業委員会に対し本件農地賃貸借解約申入許可申請をし、一旦は同委員会の調停が成立したが、原告らは一夜にして飜意し不調にした。参加人は昭和五二年一〇月二五日にも同委員会に同様解約申入調停あっせん願を提出し、五回に亘って話合が続けられたが、原告らが理由なき抗争をしたため同年一一月一五日不調となった。

以上の事実に照らすと、原告両名は法二〇条二項一号の「賃借人が信義に反した行為をした場合」に該当し、そうでないとしても参加人の本件解約申入は同項五号の「その他正当な事由がある場合」にあたるから、本件許可処分は正当である。

原告は、以上の主張を全面的に争う。

なお、原告は、争点二の2の事実につき、本件係争に至り争訟手続の中でそのような発言をしたことはあるが事実に基づくものであり、世間に言い触らしたことはない、被告が争点二の如き主張をすること自体、参加人の主張を鵜呑みにして本件処分をした証左であり、甚だ不公平である、という。

理由

一 本件許可処分に対する原告両名からの審査請求に対し、農林水産大臣は、次の理由により、法二〇条二項三号該当を事由とする許可処分を是認し、審査請求を棄却する裁決をした(乙第八号証の一)。しかして、本件訴訟提起時における被告主張の本件許可処分事由も、この裁決の理由以上に出るところはない(甲一五号証の一、二、乙一九号証、本件訴訟における被告の答弁書)。

(1) 調査したところによれば、賃借人ら方は、世帯主三浦忠治四八歳、妻みさほ四六歳、三女千代美一七歳、みさほの母ちよこ六四歳の四人家族で、忠治は大工、みさほは林繊維工業株式会社本吉工場の工員であって、いま昭和五五年の所得の状況をみれば、家族全員で二四六万〇五一二円で、当該所得は総べて給与所得であることが認められる。

そして農業経営の状況をみれば、自作地畑九九一平方メートル本件小作地畑一五八六平方メートル計二五七七平方メートルの畑を、トラクター一台、耕耘機一台の農業機械で麦、大豆、野菜等を作付けしているが、それら作物の収穫物の多くは自家消費用で販売に仕向けるものは少なく、その農業労働力はちよこが中心で、忠治は大工就業のかたわら、また、みさほは工場勤務のかたわら農繁期に農作業に従事しているに過ぎないことが認められる。

以上認定の事実に徴すれば、賃借人ら方は、生計の基礎も給与所得に置いていることが明らかであり、農業は主として自家消費用穀物及び蔬菜の収穫のためと判断するのが相当とすべく、だとすれば、本件小作地一五八六平方メートルの返還をしても、残る自作地畑九九一平方メートルをもってして自家消費用の穀物及び蔬菜の確保にさして困難が伴うものとも思料されず、その相当の生計維持に大きな影響をもたらすものとは到底判断できない。

(2) 他方賃貸人は、本人世帯主小野寺幸男四〇才、妻ヒテ子四〇才、長女史真一八才、二女せい子一六才、長男賢一〇才、母はるみ六七才の六人家族で、賃貸人は昭和五五年一〇月三一日まで地元本吉町農業協同組合の営農指導職員として勤務していたが、故あって同日付けで退職したところ、いま昭和五五年の所得の状況をみれば、農業所得一七万〇四〇五円給与所得一五二万七二〇〇円(農協営農指導職員としての給与)計一六九万七六〇五円となっていて、請求人らの所得二四六万〇五一二円を大幅に下回っていることが認められ、家族人員等を併せ考慮すれば賃貸人の生計は賃借人らに比しゆとりがないと判断するのが相当である。ちなみに、給与所得がなくなった昭和五六年の所得をみれば、僅かに営業所得三二万六六五七円農業所得二二万七八四〇円計五五万四四九七円であることが認められる。

そして農業経営の状況をみれば、自作地田三六〇〇平方メートル畑四〇四〇平方メートル計七六四〇平方メートルを、本人と妻二人でトラクター、管理機、除草機、脱穀機、精米機など相当の農業機械を装備して経営に当っており、外に和牛二頭も飼育していることが認められる。しかして、本件小作地の返還を受けたあかつきには、本吉町農業協同組合の営農指導職員としての経験技術を生かし、水田及び畑作に畜産を取り入れた複合経営の具体的営農計画をもって経営に当たるとしていて、その確実性も十分窺知できるところであり、本件小作地の返還後の効率利用ももとより期待できると思料される。

なお、賃貸人は、昭和五六年五月宮城県栗原郡若柳町に所在する株式会社若柳電子工業の下請企業として津谷電子工業を設立しトランスコイル巻事業の操業を開始したが、本件処分当時は従業員七人、トランスコイル巻機一〇台程度であって、これが前記の昭和五六年営業所得三二万六六五七円であるが、元来当地方は太平洋に面した南三陸海岸地帯で平坦地が少なく、平均経営規模も七〇アールと宮城県全平均一二八アールのおよそ五五パーセント程度で、したがって兼業農家が極めて多くその兼業農家率は九六パーセントにも達している状況であり、このため賃貸人も兼業としてトランスコイル巻事業を行っているものであって、請求人ら主張の如くその生業が工場経営であって農業ではなく、本件小作地の返還を受けても効率的利用が期待できないとする主張は採用できない。

以上によれば、賃貸人は明らかに兼業農家ではあるが、本件小作地の返還を受けてもその農業に関する経歴、技術、さらには農業経営に対する計画と熱意等に照らし効率的に利用して行くことが可能と判断するのが相当である。

しかして、右裁決書の説示(1)(2)の結論部分を除く、原告方及び参加人方の家族構成、職業、収入、農地保有及び営農状況、参加人が昭和五六年五月以降電子部品製造業を開始した事実、南三陸海岸地方の農家の平均耕作面積、兼業農業率については、甲一五号証の二、四、乙二、三号証の各一、九号証の一乃至三、一〇号証、一二号証の一、一九号証及び弁論の全趣旨によってこれを認めることができる。ただし、右裁決によって認定された参加人方の収入は、参加人の本吉町農業委員会宛所得(昭和五五年分)証明願に対する同委員会の証明書及び昭和五六年分の所得税確定申告書のみを根拠としており、参加人の資産及び津谷電子工業の経営状況に照らし、疑問のあるところである。

二 ところで、原告方で本件農地の耕作を始めたのは昭和一八年に遡る。その経緯をみるに、丙二乃至七号証、一〇号証の一部、甲一九号証、乙一五号証、原告ちよこ本人尋問の結果によると、次のとおり認められる。

1 原告ちよこ(大正五年生)の夫三浦庄吉(明治三七年生、昭和二九年没)は、三浦庄左衛門(明治四〇年没)、きん(明治九年生)夫婦の三男である。その母きんは、庄左衛門死亡後の明治四二年小野寺市治(明治五年生、昭和一九年没)の後妻となり、長女ちよ子(他家に嫁す。)、二女はるみ(大正三年生)、長男富雄(大正六年生、昭和一七年一一月二日戦死)の二女一男を儲けたが、自らは三浦の戸籍に入ったまま市治と夫婦生活をしていたので、子は皆きんの婚外子として庄吉の長兄庄治の戸籍に入り、昭和七年四月一日市治と婚姻届をしたことにより、同人との間の子は嫡出子として市治の戸籍に入った。

2 きんは市治の後妻に行く時、庄吉が幼なかったので、これを小野寺の家に連れて行って育てた。庄吉は一三才頃まできんと暮し、その後は他に奉公に出されたのち兵隊に行き、除隊後の昭和一二年原告ちよこと婚姻した。したがって、庄吉とはるみは異父兄妹である。参加人(昭和一五年生)は、はるみの婚外子であるが、市治、きんの長男富雄が戦死した後の昭和一八年、市治、きん夫婦の養子となり、同一九年市治死亡によりその家督を相続した。

3 庄吉、原告ちよこ夫婦は昭和一七、八年頃本吉町十三浜(当時の地名は本吉郡十三浜町)に居住し、庄吉は近くの鉱山で働いていたが、昭和一八年頃はるみが来て、弟の富雄が戦死して百姓をする者がいなくなった(なお、富雄の嫁は子がなかったので実家へ戻った。)ので帰ってくれと頼まれ、庄吉の出生地に戻り、原告らが現在居住している所に家を造って住み、本件農地を借受けて耕作するとともに、市治、きんら小野寺家の農事に従事した。戦後庄吉はほかに本吉の病院の小使をして生計を立てていた。かような事情があったため、庄吉は市治及びきんから、前記の家を建てた敷地である畑(当時の表示は津谷町津谷字舘岡一四七番ノ二畑一反二四歩)を贈与された(ただし、所有権移転登記は昭和二八年一月二三日市治から参加人への相続登記を経由したうえ、同日庄吉に対してなされた。そして、同日庄吉が兄庄治から贈与された同所一四八番畑に合筆された。)。

4 また、庄吉、原告ちよこ夫婦は、昭和二一年頃はるみから、津谷舘岡一四五番山林一五八六平方メートル(約一反六畝)を譲るから開墾してほしい、開墾したら本件農地を返してもらいたいと頼まれ、五年程かかって雑木が生立している右山林中約一反位を開墾した昭和二六年春頃作付けしようとしたところ、はるみから、右開墾した土地は返してほしい、その代り本件農地は永久に耕作させるというので、右山林を返還した。はるみは右開墾地をその後他に貸し、昭和二九年頃にはここに杉を植林した。

5 この頃には庄吉及び参加人の当事者間においても、地元農業委員会においても本件農地の貸借を賃貸借として取扱っていたようである。

右3、4の認定に反し、被告及び参加人は争点二の1のとおり主張し、参加人本人尋問の結果及び報告書(乙一一、丙一〇号証)は、右主張に沿うばかりでなく、それ以上に庄吉の行為を非難する。しかし、参加人の年令を考えれば、その主張は伝聞乃至憶測によるもので、適確な根拠を欠く。前記1乃至3の事実からしても、原告ちよこ本人尋問の結果の方が信用できる。

三 庄吉死亡後参加人方では原告両名から本件農地を返還させようとして、何回も行動を起した。甲二乃至四号証、五号証の一乃至三、六号証、乙一号証の一、二、一二乃至一四号証の各一、二証人三浦忠治の証言、原告ちよこ本人尋問の結果によると、次のとおり認められる。

1 参加人が未成年時であった昭和三二年一一月二九日、親権者はるみは本吉町農業委員会へ本件農地の賃貸借解約許可申請を提出したが、これが調査中の昭和三四年五月一一日原告ちよこから委員会に、はるみが本件農地に大豆を勝手に蒔き付けたと提訴があり、委員会は同月二一日はるみに対し、その農地取上げにつき警告書を発し、はるみが委員会に対し陳謝したので治った。

2 参加人は昭和五二年一〇月二五日右委員会に対し原告ちよこを相手方とする和解の仲介の申立てをしたので、委員会委員長の熊谷厚志ほか三、四名が原告方に出向くなどして、数回仲介が試みられたが、昭和五五年一一月二五日仲介は打切りとなった。

3 参加人は昭和五六年一月二六日気仙沼簡易裁判所に対し、原告ちよこを被告とする本件農地明渡訴訟を提起したが、同年六月二九日原告両名が本件賃貸借契約に基づく賃借人たる地位を庄吉から相続承継したことを確認する旨、及び法二〇条による知事の許可がなされ、本件賃貸借解約申入れの効力が生じたときは、その解約申入れの効力が生じた日から一年を経過後直ちに本件農地を明渡す、但し原告両名は本件解約申入れにつき法二〇条所定の許可事由には該当しない旨主張する旨の訴訟上の和解が成立した。

4 参加人は右和解前の昭和五六年五月二五日右委員会を経由し被告に対し法二〇条一項の規定による本件賃貸借契約の解約許可申請をなし、右和解成立の日の翌日である同年六月三〇日、右委員会総会において本件賃貸借契約解約許可につき検討がなされたうえ、被告は同年一一月二七日本件許可処分をした。原告らは昭和五七年一二月一日本件農地を取り上げられたため、以後耕作ができなくなった。

四 甲一五号証の一、丙一、一〇号証、証人佐々木哲郎の証言、参加人本人尋問の結果によると、参加人は昭和五五年中自己所有の畑一三一平方メートルをその経営にかかる津谷電子工業の工場敷地にするため、農地から転用し、昭和五六、七年頃三浦直人に小作させていた田一一九〇平方メートル(昭和四年頃市治が買受けたものである。)を同人に売渡し、右津谷電子工業の経営もその後順調になり、昭和六二年に従業員二〇名を使用している、との事実が認められる。

五 叙上の事実関係に照らして判断するに、本件農地の賃貸借は一般にみられる地主と借地人間のそれと著るしく性質を異にし、親族関係にある参加人方と原告方の先代以来の複雑な人間関係、生活財産関係の胖が賃貸借の形をとって現在に至っているもので、原告方から見れば、本件農地の賃借権は昭和一八年以降戦争のため働き手のいなくなった参加人方への農作業への協力、戦後五年間にわたる参加人所有の雑木山の開墾の代償として得た永小作権ともいうべきものである。そして、原告方の資産収入及び生計の手段を考えると、原告方において本件農地の耕作によって得ているものは自家用の蔬菜、雑穀類であるとはいえ、これの耕作ができないために生計への圧迫があるのは免れないのみならず、賃借権以上の重要な財産の喪失をもたらすことになろう。したがって、被告のように、原告方と参加人方の現金収入及び農業経営の状況を比較し、原告方の生計の基礎は賃金収入であって農業は自家用穀物と蔬菜の収穫に過ぎないのに、参加人方の現金収入が原告方を大幅に下廻る(果して参加人方の収入が実際にそのように低額であるとすること自体、前述一のように疑問である。)が、営業経営能力が勝るから、参加人が本件農地を自ら耕作するのが相当である、ということはできない。のみならず、前記四に認定した事実をも参酌すれば、参加人の本件農地賃貸借解約申入れに法二〇条二項三号に該当事由があると判断することはできない。

被告の法二〇条二項一号、五号該当の主張は、その前提事実たる争点二の1を認めるに足りる証拠がないから失当である。

六 以上の次第で、被告の本件許可処分にその主張にかかる処分要件事実を認めることができないから、該処分は違法であってこれを取消すべきである。

よって、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

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