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仙台地方裁判所 昭和39年(わ)417号 判決

被告人 車興佶

昭一〇・六・二六生 無職

主文

被告人を無期懲役に処する。

理由

(被告人の略歴と本件犯行に至るまでの経緯)

被告人は、仙台市堤通一二一番地において、警察官であつた父大八、母きよしの長男として生まれ、一人息子であつたため両親から可愛がられて生育した。仙台市上杉山通小学校に入学し、父親の転勤にともなつて加美郡中新田小学校に転校し、そこで終戦を迎え、父親の公職追放という事態にあつたが中新田中学校に進み、その間学業成績も良好であつた。昭和二三年一二月頃父親が結核で死亡し、母親とともに仙台に戻り、しばらく間借生活をしたのち現在の住居地に落着き、学校も仙台市上杉山中学校に転校した。仙台に戻つてからしばらく母親が幼稚園に勤めて働いたがその後は貯金をおろしたり家財を売つたりして生活するようになり、また被告人自身結核にかかつて度々学校を休むようになつて学業成績も低下し、ついには入院するようになり、中学校卒業後仙台高等学校に入学したが一年間休学するような状況であつた。一方、被告人の母親は燃料商を営んでいる穴田議次郎と事実上の結婚生活を開始し、住居地に三人で同居することになつた。被告人は二年生に進級後も病弱で度々学校を休んだため三年生に進級することが困難となり、更に映画俳優になりたいと思つたことや穴田が母親と同居しているのを心よからず感じたことなどの理由も加わつて、東京の私立高等学校に転校するとともに一人で下宿生活を始め、間もなくそこも事実上退学して東京芸術学院に入学した。この間、日本舞踊の教師中村冠子に見込まれてその内弟子となり、中村方に住込んで修業し、三代目天津七三郎を襲名して盛大な襲名披露を為し、その後昭和三二年頃から新東宝に入社して映画に出演し、更に翌年松竹に入社し、昭和三七年頃までの間時代劇やテレビドラマに出演したり、日本舞踊の指導をするなどはなやかな生活を送り相当の収入もあげたが、出費もまた相当にかかり、仙台の母親から経済的援助を仰がねばならなかつた。被告人の母親は、同棲していた穴田に多数の借財を残して逃げられ母親自身収入とてなく、貯えもなくなつていたので借財を重ねては被告人に送金する始末で、このようにしてできた借財は約二〇〇万円になつた。この頃、被告人は女優をしていた朝海圭子こと古見三恵子と肉体関係を結び、結婚を約束して子供を懐胎するまでに至つたが中村冠子や母親に反対されて別れさせられた。このような借財や堕ろした胎児のあと始末と被告人自身の心労による衰弱のため、昭和三七年暮頃、被告人は母親につれられて仙台の住居地に戻り、母親の勧めにより当分仙台で生活しながら借財の整理に当ることになつた。被告人は生活の立て方などについて高校時代の友人に相談した結果、昭和三八年初め頃、友人と一緒に紅洋実業株式会社を設立して水産物の販売をしたがうまく行かず更に貿易会社を設立したがこれも失敗し、その後は自分で不動産売買の仲介をしたり、不動産会社に入社して土地売買の斡旋に従事したりしたが、いずれも他人にだまされたりして失敗をくり返し、借財が増大するのみであつた。昭和三九年春頃、被告人は取引先の者から手形の支払期日の延期について手形所持人である菅原光太郎に交渉方を依頼され、菅原方をおとずれて始めて金融業を営む同人と知り合い、その目的を達したが、その折、手形債務者や菅原から、担保になつている北海道の土地の処分方の依頼をうけ、現地をみたりして奔走したが成功せず費用倒れになつた。その後二、三回手形の割引依頼に菅原方をおとずれたが軽くあしらわれ、相手にされなかつた。一方、被告人は、当時バーのホステスをしていた現在の妻幸子と知り合つて親しくなり、しばらく同棲した後、昭和三九年三月頃から事実上の結婚生活に入り、同年一二月には正式に入籍し、間もなく生れる子供も出来るまでになつた。被告人方の借財は昭和三九年一二月頃には総額約四〇〇万円、債権者は銀行から親族に至るまで二〇名以上に及び、債権者からの返済請求がきびしくなり、特に叔父早坂弘清、知人の高橋新一、堀見洋等の催促がきびしく、毎日のように電話、訪問などで返済をせまられていた。そしてついに被告人は、苦しまぎれに一二月一九日までに都合するとか、同月二一日までには必ず返済するなどとあてのない云訳をしてその場を逃れていたが、約束の期日が近ずくにつれてますますその金策に苦悩し、追いつめられていた。

昭和三九年一二月一九日朝、被告人は仙台ドライブクラブより借りていた自動車ダツトサンブルーバードを運転して当時勤務していた明実不動産へ通う途中前記菅原光太郎方の前にさしかかつた際車をとめ、恥をしのんで金策方を頼んでみようと考えた。しかし過去のいきさつなどからみて相手にされないのみであると思い迷つているとき、同人方から、菅原光太郎の三男菅原智行(当五才)が幼稚園の制帽をかぶり黄色のカバンを肩にして出てくるのが目に止り、右幼児が菅原光太郎の子供で白百合幼稚園に通つているものであることを知り、菅原方には五億円もの資産があるという噂や吉展ちやん事件のことなどを思い浮べ、右智行を誘拐して親に身代金を出させようということを思いついた。更に翌二〇日にも自動車を運転して菅原方の前を通つたりしながら、これを実行するかどうか、うまく行くか、どんな方法がよいかなどと考えをめぐらしていたが、ついに夜になつてこれを実行する決心をした。

翌二一日午前八時三〇分頃、被告人は、自動車内に幼児の手足をしばるための布製腰ひも、猿轡の代りに用いる絆創膏、幼児の防寒用のかくまき、変装用のジヤンバー、ひもを切るナイフなどを積み込んで自宅を出発し、菅原方とその近くの白百合幼稚園との中間附近に停車し、約三〇分にわたり、右智行が幼稚園に通うため出てくるのを待ち伏せていたが一向に出て来ず、そのうち幼稚園が既に冬休みに入つていることを聞き知り、一旦自宅に引返した。しかし、最初の計画はあくまで実行する考えを捨てず、再び家を出て喫茶店に行つたり、勤め先に行つたりなどして幼児をおびき出す方法を考えた結果、幼稚園名を使い、女の神父が外国に行くことになり記念写真をとるからということを架電し幼児をおびき出すことにした。

(罪となるべき事実)

被告人は

第一  前同日午前一一時五五分頃、菅原智行(当五才)の安否を憂慮するその両親の憂慮に乗じてその財物を交付せしめる目的をもつて、仙台市花京院通交差点附近の公衆電話から仙台市花京院通四五番地菅原興業株式会社社長菅原光太郎方に電話をかけ、電話口に出て来た同社事務員加藤政子に対し「こちらは白百合幼稚園ですが、急にマドレーさんが外国に行くことになつたので、休み中ですが一緒に記念写真をとりたいから、写真屋が来る一二時半迄に校庭まで子供をよこして下さい。来るのは子供さんだけで結構です。」と虚構の事実を申し向けたうえ花京院通所在白百合学園正門前に自動車をとめて智行を待ち受け、右同女から電話内容を伝え聞いた母親菅原貴美子が午後〇時三〇分頃右智行に餞別を持たせて送り出し、智行が自宅を出て約二〇〇メートル東方にある白百合学園前にさしかかるや同幼児に対し「みんな先にバスで行つてしまつたからお兄ちやんがつれて行つてやる」などと申し向けて自己の運転する自動車に乗車させて拉致し、もつて拐取した。

第二  右智行を一旦仙台駅前につれて行つた後「みんなお山に行つたのかも知れないね」などと云つて更に市内青葉山ゴルフ場から宮城町芋沢大沢街道に出、次いで市内八幡町を経て北六番丁、宮城野原、霞の目飛行場附近など市内及びその周辺を走行し、その間飛行場でヘリコプターをみせたりして智行をあやし乍ら、一方では身代金を要求するため市内の公衆電話から二、三回菅原方へ電話したが、電話が通じなかつたり母親が不在だつたりしてうまく行かず、目的を達するまでには翌日までかかると判断し、智行を眠らせようと考え、通りがかりの楽局から催眠薬ハイミナールを購入して頭痛予防のためだと称し二錠を智行に服用させ、催眠薬が効いてくるのを待つため更に自動車を運転して北の方に向う間に智行に射撃場でもみせてあやそうと考え、午後三時四〇分頃、黒川郡富谷町一の関川又山一番地富谷町営常設射撃場北側にある駐車場に到つたのであるが、自動車助手席にいた智行が家に帰ると云つて暴れ出し、なだめてもきき入れず、布製腰ひもでその両手をしばつたところ痛いと云つて泣き出し、それを解いて絆創膏を口に貼つたところそれをはぎとつてしまうなどどうにもならなかつたので、ともかく自動車を発車させようとしたところ、智行が助手席に立ち上つて泣き叫び、折柄他の自動車が接近してくるような音が聞えたので、他人に見付かつては大変だと思い「さわぐな」と云い乍らその頸部を両手でつかんで強く左右にふり廻したところ、智行は失神しおとなしくなつたので、所携の角巻にこれを包み、自動車の後部トランクに押し込んで蓋をしめたが、運転中智行が目をさましてさわぐかも知れないとか又は排気ガスで中毒するかも知れないとの不安感から、再びトランクの蓋をあけたのであるが、その際、智行をもはやあやし切れないという気持のうえに、かつては華やかな生活を送つたことがあるのに比較して現在の自分のみじめな境遇などを想い廻らし、自分をだました者達に対する憎しみが生じ、果ては自分の母親や世間全体に対する憎悪心がつのり、ついに目の前にいる智行に対する殺意を生じ、矢庭に所携の布製腰ひもを二重にしたものを智行の頸部に二巻きにしてその両端を強く引張つて緊縛し、よつて智行を同所において窒息死せしめた。

第三  右智行の死体を隠匿するため、これを自動車後部トランクに押し込んで蓋をしめ、前記射撃場駐車場から自動車を運転して、午後四時三〇分頃仙台市北三番丁七一番地被告人方住居地に到り、被告人方住家の西北側にある物置内にこれを放置して遺棄した。

第四  その後もさらに身代金取得の目的を捨てないで、同日午後五時四〇分頃、仙台市内大学病院附近の公衆電話より前記菅原方に電話をかけ、前記菅原貴美子に対し、智行を殺害したあとであるにかかわらず、「子供を預つている。お金と引換に返す。仲間が五人いるので五〇〇万円欲しい。札は古い方がよい。警察には絶対届けるな。今夜五〇〇万円できなければ、あるだけを新聞紙に包んで持つて来てくれ。目印に新聞紙をまるめて右手に持ち、市立病院前から東二番丁を河北新報社の方に歩いて行くように」と申し向け、かようにして智行の安否を憂慮する同女の憂慮に乗じて身代金を要求する行為をなした。

かくして、同女の姿を求めて、指示した東二番丁を何回となく往復したり、菅原方に電話して同女が出かけたことを確かめたりして同女を探しまわり、午後九時一〇分頃同市東三番丁一四八番地先道路上において、同女から、同女が携行した現金一〇万七千円、定期預金証書七通、婦人用腕時計一個在中の新聞紙包みを奪取しようとしたところを待機していた警察官に逮捕されたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法第二二五条ノ二第一項に、判示第二の所為は同法第一九九条に、判示第三の所為は同法第一九〇条に、判示第四の所為は同法第二二五条ノ二第二項に各該当するところ、判示第一の罪と第四の罪との間には手段結果の関係があるので同法第五四条第一項後段、第一〇条により一罪として犯情の重い判示第四の罪の刑で処断することとなるが、先ず判示第二の殺人罪につきその所定刑中いかなる刑を選択すべきかについて考察する。

一  被告人が身代金取得の目的で誘拐した幼児を殺害した行為はそれ自体悪質であるのに加えて、本件においては幼児が一旦失神状態におち入つておとなしくなつていたのにかかわらず、あえて首に布ひもをまきつけて殺害したという点は天人ともに許さざる非道の行為であり残酷である。

二  更に、幼児を殺害した後においてもなお同人が生存している如く装い、かつ多数共犯者を装つてその母親に五〇〇万円という多額の身代金を要求し、子を案ずる親の気持をかきたて、これを利用して多額の身代金を交付させようとした点もまた極めて悪質である。

三  殺害された幼児智行は当時五才、末つ子として両親の愛情を受けてすくすくと育ち、明るく勝気な性質であつたという。親としての子供に対する愛情、特にその安否を憂慮する気持は殊のほか強かつたと云わなければならない。被告人に対する宥恕の気持が全くないことは親の心情として真に当然である。

四  被告人が本件犯行を決意するに至つた動機は、つもりつもつた借財の返済を迫られ、その資金に窮して一獲千金を夢みた点にあるが、被告人が虚心坦懐に債権者に窮状を訴え、誠意をもつて交渉する等他にとるべき道がなかつたとは思われないのに手段を選ばず本件犯行に及んだことはその性格の悪性を推測させるに足るものがある。しかも、被害者である幼児智行やその両親は被告人から危害を加えられるべき何らのいわれもなかつたものである。

五  身代金目的拐取の対象として幼児が選ばれる場合、その実行が容易であることから模倣性、伝播性を生じ易く、そしてそれが殺人行為にまで発展し易いという大きな危険性をはらんでいる。本件においても正に被拐取者を死に追いやつているのである。本件犯罪が小さい子を持つ親に大きな衝撃を与え、社会に及ぼした影響は極めて大きいと云わなければならない。

六  本件が、被告人が当初に想起したいわゆる吉展ちやんの誘拐事件が未解決の間、しかも同事件の発生を契機として一般警戒のため法の改正が行われた後の犯行であること、本件の後において同種事犯が頻発していることも重視されなければならない。

叙上の諸点から考察すると本件は正に極刑に値するとの考え方もあり得ると思われるのであるが、飜つて被告人の生活歴や被告人が経済的苦境に追いつめられた原因等を探究するに、

(イ)  父親が生存中は、一人息子として幸福に育ち学業成績も良好友達とのつきあいも円満であつたのに、父親の死亡、被告人自身の病気、母親の再婚など重なる不幸に見舞われ乍ら、道路交通法違反で処罰を受けているだけで、他に何らの非行におち入ることもなく俳優として再起し、一応は成功の道を歩んで来たものと推認されるが、母親の勧めにより仙台に戻つて来るまでの借財は被告人の将来に過大な期待をかけた母の盲愛による思慮のない生活態度によるものが多く、しかもその借財を始末しようとして現実の厳しさをわきまえずになれない事業に手を出したことが更に借財を重ねる原因となつたのであり、それは被告人自身の軽率さ、無計画性もさることながら、被告人のみの責任とは断じ難いものがあると同時に、二九才の被告人にとつて頼りになる相談相手がいなかつたことも一因をなしている。そのことが被告人をして一人で思いつめ、苦慮するような境地にまで追い込んだものと考えられる。

(ロ)  また、幼児殺害の行為は判示のように全くの偶発的犯行である。しかも悶々の間冷静さを失い尊敬して来た亡父の名を呼びつつ、慟哭しながら自暴自棄となつての犯行であつて、このことは固よりいささかも被告人の行為を正当化するものではないが、決して平然として尊貴な人命を断つことのできる悪虐非道の人間でなかつたことを思わせるものがあり、なお残された人間性の片鱗をうかがうことができる。

(ハ)  本件は捜査当局が迅速に活動した結果、犯行後数時間を経た当日の夜被告人が逮捕され、死体も発見されて早急な解決を見世人の不安を一掃することができたのであるが、このことは警察当局の適切な行動による功績とは云え、この種事件の一般予防上極めて大きな効果があつたものというべく、被告人にとつても幸であつたといわなければならない。

(ニ)  しかも逮捕時からその後の取調べ段階における被告人の態度はその罪を悔い改めたもののそれで、一切を自供し、非常に協力的であつたことがうかがわれるばかりでなく、被告人は当公判廷においても卒直に犯行を認め「自分の行為は被害者に対しては勿論世間に対して誠に申訳がない。幼児の側に行つて御詫びするほかないと考える。極刑を望む。」旨述べてその覚悟の程の並々ならぬものが見受けられ、改悛の情は極めて顕著である。

以上のような諸般の情状に公判廷で明かにされた一切の事情を彼此勘案すると、被告人の一連の犯行はその罪質の点において極めて悪質であり、その罪責の点において重く、かつ大なるものがあるが、しかしながら今ここに被告人の一命を断つてその罪の償をさせることのみが死して帰ることのない被害者智行の霊を慰める唯一の方途であるとは限らない。むしろ遅きに失したとは云え真実の人間性に立ち返つた被告人に対し罪一等を減じ永くこの世に生を保ち、その罪の重大なることを認識すると共に、日夜故人の冥福を祈つてその罪の償をなさしめることを以て必ずしも不当に軽い処置とも認められないので、判示第二の殺人罪についてはその所定刑中無期懲役刑を選択すべきものとする。

しかして以上の各罪は刑法第四五条前段の併合罪であるから同法第四六条第二項により他の刑を科さず、被告人を無期懲役に処することとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 佐々木次雄 高井清次 斎藤清実)

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