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仙台地方裁判所 平成21年(ワ)1048号 判決

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は,原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告に対し,7886万4886円及びこれに対する平成17年11月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要等

本件は,原告の母であるA(以下「本件患者」という。)が,被告の管理,運営に係る福島刑務支所(以下「本件刑務支所」という。)に入所していたところ,本件刑務支所の医師が,本件患者の本件刑務支所入所時における健康診査の際,本件患者の病歴を踏まえて聴診等を行い,本件患者が重篤な呼吸器疾患に罹患していることを疑うべきであるのにこれを怠り,また,本件患者の死亡前日の診察の際,重篤な呼吸器疾患に対する全身管理の措置ないし指示を怠ったことから,本件患者が肺膿瘍に伴う肺出血による窒息を来して死亡したとして,原告が,被告に対し,債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として7886万4886円及びこれに対する本件患者の死亡日(平成17年11月23日)以降の遅延損害金を請求する事案である。

1  前提事実(争いがない事実及び明らかに争わない事実については証拠番号を付さない。)

(1)  当事者等

原告は本件患者の子であり,本件患者は,平成16年12月9日以降,仙台拘置支所に収容され,平成17年11月15日以降,本件刑務支所に収容されていた者である。

被告は,本件刑務支所の管理,運営主体であり,本件刑務支所医務課長B(以下「本件医務課長」という。)及び本件刑務支所医務課非常勤医師(以下「本件医師」という。)は,それぞれ,国家公務員として,本件刑務支所の被収容者に対し,本件刑務支所が実施する診察,診断,治療等の医療行為を行っていた者である。

(2)  本件患者の診療経過

ア 本件刑務支所入所(平成17年11月15日)前後から同月21日までの経過

本件患者は,仙台拘置支所収容中に,中毒性精神障害と診断され,セレネース(抗精神病薬),セルシン(抗不安薬),アーテン(パーキンソン病・症候群治療薬)のほか,バルビツール酸誘導体であるフェノバルビタールやイソミタールを服用していたところ,平成17年11月15日,本件刑務支所に収容されるに当たり,平成18年法務省令第58号による改正前の監獄法施行規則13条に基づく健康診査を受け(以下,この診査を「入所時診査」という。),引き続き,セレネース(4.5mg/日),セルシン(6mg/日)及びアーテン(6mg/日)を処方されたほか,睡眠薬であるベンザリン(10mg/日)を処方された(ただし,バルビツール酸誘導体であるフェノバルビタールやイソミタールについては,本件刑務支所入所後は処方されていない。)。

一方,本件患者は,同月18日に実施された入所時調査アンケートにおいて,「今まで大きな病気やけがをしたこと」は「ない」旨の回答をしていたほか,同月21日に実施された法務省式人格目録(MJPI)においても,「なんとなく,からだの調子が悪い。」との設問に「×」と回答しており,本件刑務支所入所後,上記各調査の実施まで,食事を毎食摂取し,処方された薬も全て服用していた。

イ 同月22日の昼食時から午後9時の就寝時刻に至るまでの経過

本件患者は,同日の昼食時,声が思うように出ず,手に力が入らない様子で,手・腕のコントロールが利かず,食事をうまく運べなかったため,本件刑務支所の職員によって医務課に連れて行かれた。医務課の看護師らは,本件患者が発語せず,頻繁にまばたきをし,喉に何か詰まっているような音をさせていたため,本件患者に水を数口飲ませて背中を軽く叩いたところ,本件患者は,むせって水とともにきゅうりの輪切りを吐き出した。数分後,本件患者は,「あー」と声を出して落ち着き,午後の刑務作業に就いた。その後,本件患者は,夕食を摂取し,抗精神病薬等を服用したが,その際,薬が飲めない旨申し出たため,薬を水に溶かして服用することとなったが,十分に飲み込めない様子で,その水を口からこぼしたり,むせて吐き出すなどした。

本件患者は,同日午後7時から午後8時にかけて,本件刑務支所の夜勤職員に対し,布団が敷けない,よだれが止まらない旨申し出たが,上記職員から自分で布団を敷くよう指導されたため,自分で布団を敷いた。

本件患者は,同日午後8時過ぎ,ベンザリンを水に溶かして服用したが,このときも,その水を口からこぼしたり,むせて吐き出すなどした。その後,本件患者は,就寝時刻である午後9時まで,房室内において,布団上に座ったり,横になるなどしていた。

ウ 同日午後9時の就寝時刻後の状況及び午後10時45分ころの診察から午後11時にかけての診療経過

同日午後9時の就寝時刻後,夜勤職員が本件患者の房室付近を巡回した際,本件患者は,敷き布団に横になり,喉に痰の絡まったような音を立てながら就寝していたものの,目を見開いて視察窓から様子をうかがう夜勤職員の方へ視線を向け,同職員と目が合っても視線をそらすでもなく,まばたきをするだけであった。そのため,上記職員は,本件患者の状態が異様であると感じ,巡回の度にこの状況が継続していたことから,同日午後10時45分ころ,本件医務課長に本件患者を診察させた(以下,この診察を「本件診察」という。)。その結果,本件医務課長は,本件患者の血圧が130/70mmHg,体温36.8度であるものの,動作も緩慢で,応答に対するレスポンスも低い上,本件患者が,「調子がよくないです」などと訴え,処方された薬も飲めていない旨話したことから,本件患者の症状の原因が,処方されている薬を摂取していないことによるものかもしれないと判断し,精神科の専門医と相談した上,同日午後11時ころ,「二次性パーキンソン病」の疑いにより,ヒベルナ(抗ヒスタミン・抗パーキンソン剤)25mgの筋肉注射を行った(乙A1の1・2,乙A9,弁論の全趣旨)。

エ 本件診察後,死亡に至るまでの経過

本件刑務支所の職員は,同日午後11時35分ころ,本件患者を房室に戻し,引き続き動静を観察した。その際,本件患者は,同月23日午前2時20分ころまでは痰が絡んだような呼吸をしていたものの,同日午前2時30分ころの巡回の際には,静かに眠っていた(乙A6の2)。

その後,同日午前3時20分ころ,本件刑務支所の夜勤職員が,本件患者の布団が上下していなかったことから,本件患者の状態を確認したところ,呼吸,脈拍等を確認できなかったため,直ちに心肺蘇生等の救命措置を講ずるとともに,同日午前3時50分,救急車の出動を要請し,福島第一病院に搬送したが,同日午前4時25分,同病院において,本件患者の死亡が確認されるに至った。

なお,本件患者の死因については,司法解剖の結果,肺膿瘍を原因とする肺出血のための血液吸引による窒息であるとされた。

2  争点及び争点に関する当事者の主張

本件の争点は,①本件医師が,入所時診査時において,本件患者に誤嚥性肺炎等のリスクが少なくないとの医学的知見に基づいて聴診をすべき注意義務を負っていたにもかかわらずこれを怠り,又は,聴診したにもかかわらず,重篤な呼吸器疾患の疑いを看過した過失があるか否か(争点1),②本件医務課長は,本件診察時において,本件患者の症状に基づいて,重篤な呼吸器疾患の可能性を予見して,本件患者の死亡を回避するために必要な呼吸管理等の全身管理の措置及び全身管理を行うのに必要な指示等を本件刑務支所の職員に指示ないし伝達すべき注意義務を負っていたにもかかわらず,これを怠った過失があるか否か(争点2),③争点1に係る過失と本件患者の死亡との間の因果関係の有無(争点3),④争点2に係る過失と本件患者の死亡との間の因果関係の有無(争点4),⑤原告が被った損害の有無及びその額(争点5)であり,これらの点に関する当事者の主張は,以下のとおりである。

(1)  争点1(入所時診査時における過失の有無)について

(原告の主張)

本件患者については,平成17年7月15日の集団健康診断の時点では,肺のX線写真の画像上,特段の異状が認められなかったところ,同年11月23日の司法解剖時における本件患者の各症状(肺胞内に出血,浮腫,菌塊及び炎症性細胞浸潤があり,気管支肺炎に罹患し,気管支肺炎が顕著な部位では肺胞も破壊され,膿瘍があり,一部気管支内には膿があったこと)や出血による肺の変色部分の状況,気管支肺炎から肺膿瘍への進行速度等に照らせば,同月15日の入所時診査の時点において,本件患者は,既に上記各症状により重篤な呼吸器疾患(気管支肺炎及び肺膿瘍)に罹患していたことが明らかである。

また,本件患者は,平成16年12月9日に仙台拘置支所に入所後,中毒性精神疾患の疑いによりセレネース,アキネトン,イソミタール,デパス,フェノバルビタール,ベゲタミンなどの向精神薬の服用を開始したが,その後間もない時期(同月21日ないし28日)から,息苦しさ,ふらつき,胸や喉の苦しみ,熱っぽさ,痰の絡みなど,投薬の副作用と疑われる症状を訴えていた。

そして,本件患者に投与された各薬品には,嚥下中枢の機能低下による嚥下障害などの重大な副作用があったのであり,本件患者の病歴(中毒性精神疾患)のほか,肺膿瘍の原因の多くは誤嚥であり,誤嚥には,むせりや咳き込みなどの外部的症状の現れない不顕性のものが含まれていることから,常に嚥下反射の低下による不顕性誤嚥の可能性を念頭に置くべきであり,本件患者について,嚥下障害の症状が外部的に明らかに発現したのが平成17年11月22日の昼以降であったとしても,一日で気管支肺炎から肺膿瘍まで進行することは医学的にあり得ないことなどを踏まえると,本件医師は,入所時診査時において,誤嚥性肺炎等のリスクを考慮し,聴診を行い,又は聴診を行った上で重篤な呼吸器疾患の疑いを発見すべき注意義務があったというべきであり,これを怠った本件医師には上記注意義務違反による過失がある。

(被告の主張)

原告は,本件医師が本件患者の聴診等を実施しなかったことを過失として主張するが,入所時診査時において,本件医師は,本件患者に対し,胸部の聴診及び打診や腹部の触診を行っており,その際,異状所見が認められなかったのであるから,聴診の実施等に係る過失は認められない。

また,原告は,本件患者につき,入所時診査当時において嚥下障害による誤嚥性肺炎が発症しており,その程度は重篤なものであった旨主張するが,薬物中毒患者であることや抗精神病薬等を含む向精神薬を服用していることは,誤嚥を来しやすい条件の一つにすぎないのであって,これらの条件によって必ずしも誤嚥性肺炎を来すとは限らない。そして,本件患者には,本件刑務支所収容以前から,仙台拘置支所において,あらかじめ錐体外路症状を防止するための投薬を行い,嚥下障害等のリスクについても考慮した上で投薬に当たっていた上,本件患者に嚥下障害を疑わせる症状が出現したのは,平成17年11月22日の昼であって,同日以前に嚥下障害を疑わせる症状が現れたこともない。また,同月15日の時点において,本件患者について,気管支肺炎を疑わせる症状や肺膿瘍の症状である咳,発熱,血痰などがなかったことは明らかであり,同日に本件患者の肺内の血管から出血が見られたことを裏付ける証拠も存在しない。

このように,入所時診査当時,本件患者が重篤な呼吸器疾患に罹患していたとは認められず,聴診によって,これが確認可能であったとの原告の主張は前提を欠くから,入所時診査当時の本件医師の行為に注意義務違反はない。

(2)  争点2(本件診察時における過失の有無)について

(原告の主張)

本件患者については,本件刑務支所に入所した平成17年11月15日以降,嚥下困難や呼吸音から呼吸器疾患に罹患している可能性が容易にうかがわれた(現に嚥下困難を原因とする重篤な気管支肺炎及び肺膿瘍に罹患した状態であった)上,舌根沈下による気道閉塞を強く疑わせる痰の絡まったいびきのような異常な呼吸音もあり,さらに,本件診察後も,巡回していた夜勤職員が,もし呼吸音が聞こえなくなった場合には何らかの異常があるかもしれないと危惧するほどの呼吸の異常が続いていた。

したがって,本件医務課長は,本件患者の異常な呼吸状態やそれまでの投薬歴(嚥下困難の副作用がある向精神薬が投与されていたことに加え,これらの向精神薬及びヒベルナと併用禁忌・注意の関係にあるバルビツール酸誘導体の投与歴があること)に照らし,まず嚥下困難による嚥下性肺炎等の重篤な呼吸器疾患の可能性を念頭に置きつつ,聴診等により呼吸器の異状の有無を確認し,痰を観察し,確定診断のための血液検査,CT画像撮影,さらに,大出血が発生した場合には,呼吸管理等(吸引や人工呼吸器による呼吸補助など)の全身管理を行うとともに,本件刑務支所職員らに対し,本件患者の全身管理に必要な対応(緊急時の吸引,人工呼吸器使用の準備,病状が急変した場合における救急車両の出動要請など)を指示,伝達すべき注意義務を負っていたというべきである。しかし,本件医務課長は,呼吸器疾患の診察の基本である聴診や打診を全くしなかった上,薬剤の重大な副作用による死亡を回避するための全身管理をせず,肺膿瘍治療及び救命のための措置を何ら講ずることなく,本件患者を房室に戻したのであるから,本件医務課長には,上記注意義務に違反した過失がある。

(被告の主張)

原告は,平成17年11月15日以降,本件患者につき,重篤な呼吸器疾患の罹患を容易に疑い得る状況があった旨主張するが,本件患者の司法解剖を担当した医師は,肺臓の内部所見において気管支肺炎や肺膿瘍の存在には全く言及せず,病理組織学的所見(肺臓等の小片の病理学的検査)において初めて気管支肺炎像や肺膿瘍が認められたとしているのであり,本件患者の気管支肺炎や肺膿瘍が重篤なものであったとは認められない。

本件患者の投薬歴に関しても,同日以降,本件刑務支所において本件患者に処方した薬剤は,本件患者の病歴を踏まえて仙台拘置支所収容中と同様に継続して処方したもので,処方量も適正であった。そして,錐体外路症状などの副作用を持つセレネースについては,その副作用を抑えるために,抗パーキンソン剤であるアーテンを投与し,嚥下障害,誤嚥による細菌感染を予防するなど組合せを工夫して処方していた(なお,セレネース等の抗精神病薬については,覚せい剤による精神症状の治療に当たり,寛解後も長期的に服用することが望ましいため,その処方を継続した。)。そして,これらの抗精神病薬等の処方を前提にしても,本件患者に嚥下障害を疑わせる症状が認められたのは,同月22日の昼食時以降のことであり,それまで,本件患者には,嚥下障害等の副作用や誤嚥性肺炎発症の徴候が認められなかったのであるから,本件医務課長が,本件患者の投薬歴に照らし,嚥下困難による誤嚥性肺炎等の呼吸器疾患に罹患することが予見可能であったとは認められない。

本件患者の呼吸状態に関しても,本件医務課長は,本件診察時における本件患者につき,発熱がなく意識障害もほとんどなかったこと,肺膿瘍の症状である悪臭のある痰の喀出もなかったことから,重篤な呼吸器疾患(気管支肺炎及び肺膿瘍)や,異常高熱などの自律神経症状,意識障害,錐体外路症状などが主要症状である悪性症候群も否定的とし,処方薬が服用できていないことなどによって,セレネースの副作用の錐体外路症状(二次性パーキンソン症候群の症状)が出現しているものと診断し,錐体外路症状の改善や不眠にも効果があるヒベルナの筋肉注射を実施したものであって,いずれも適正な医療行為であるといえる。

以上のとおり,原告の主張は,本件診察時における本件患者の呼吸器疾患が重篤なものであったという点で前提を欠いている上,本件診察当時,本件患者の投薬歴や呼吸状態に照らし,気管支肺炎ないし肺膿瘍の発症を予見することも困難であるから,本件診察時の本件医務課長の行為には何ら注意義務違反はない。

(3)  争点3(争点1に係る過失と本件患者の死亡との間の因果関係)について

(原告の主張)

本件医師が,入所時診査時において,本件患者を聴診し,重篤な呼吸器疾患の疑いを看過しなければ,肺膿瘍の確定診断のための措置や点滴投与,肺葉切除(場合によっては,肺全摘出等の外科的治療)を施すなどの医療上の措置を講ずることで,本件患者の死亡を回避することができたので,争点1に係る過失と本件患者の死亡との間には因果関係がある。

(被告の主張)

否認ないし争う。

(4)  争点4(争点2に係る過失と本件患者の死亡との間の因果関係)について

(原告の主張)

本件医務課長が,本件患者に対する全身管理を行い,必要に応じて痰,膿,出血した血液などを吸引し,あるいは人工呼吸器によって呼吸を補助するなどしていれば,本件患者が肺出血により窒息する事態を避けることができたのであるから,争点2に係る過失と本件患者の死亡との間には因果関係がある。

(被告の主張)

否認ないし争う。

(5)  争点5(原告が被った損害の有無及びその額)について

(原告の主張)

ア 本件患者に生じた損害(原告において相続)合計6936万4886円

(ア) 逸失利益  3936万4886円

本件患者は死亡当時29歳であったから,賃金センサス平成17年産業計,企業規模計,学歴計,女性労働者の全年齢平均の賃金額343万4400円を基礎収入とし,35年間(67歳まで稼働可能とした上で,本件患者の服役期間を考慮)就労可能であったものとして(35年間に相当するライプニッツ係数16.3742),生活費控除率30%とすれば,逸失利益は3936万4886円(343万4400円×16.3742×0.7。小数点以下切捨て)である。

(イ) 慰謝料  3000万円

イ 原告固有の損害  合計950万円

(ア) 葬儀費用  150万円

(イ) 慰謝料  300万円

(ウ) 弁護士費用  500万円

ウ 上記ア,イをまとめると,原告の損害は7886万4886円となる。

(被告の主張)

争う。

第3当裁判所の判断

1  本件と関連する医学的知見

後掲証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の医学的知見が認められる。

(1)  中毒性精神障害

アルコール,睡眠薬,麻薬,覚せい剤等の物質の中毒により生じる精神障害であり,病状は外因反応型を呈し,せん妄,もうろう状態,錯乱などの意識障害のほか,健忘症状群,過敏情動性衰弱状態などが現れる。治療としては,ハロペリドール(製品名セレネース等)を中心とする抗精神病薬の投与とされており,寛解した後も,精神病症状の再発防止のため,比較的長期にわたるハロペリドール等の抗精神病薬の少量維持投与が望ましいとされている(以上につき,乙B1の1,乙B2,3の1)。

(2)  肺膿瘍

肺膿瘍は,限局性の膿を特徴とする壊死性感染症であり,肺に入り込んだ細菌が炎症を起こし,その炎症が組織壊死を引き起こして膿瘍の形成に至るものであり,意識不明かアルコール,違法薬物,麻酔,鎮静薬又はオピオイド系薬物によって感覚が鈍っている患者に歯肉炎があるか,又は同患者が口腔衛生不良な場合に,口腔分泌物を誤嚥した後に生じる。最もよく見られる病原体は嫌気性細菌であり,同細菌による肺膿瘍における主要な症状としては,湿性の咳,発熱,発汗,体重減少などがあり,典型的には特有の悪臭痰による腐敗臭や酸っぱい味の自覚が認められる。肺膿瘍の徴候は,非特異的で,肺炎の徴候と似ており,硬化や胸水を示す呼吸音の減弱や,発熱(39.4℃以上),病変部上の断続性ラ音,やぎ声,胸水が存在する場合の打診時の濁音などがある(以上につき,甲B1,乙B5)。

(3)  二次性パーキンソン病・症候群

セレネースの副作用として挙げられており,錐体外路症状(パーキンソン症候群の症状である筋強剛や嚥下障害,振戦等,筋肉がこわばって動かなくなるなどの症状)が見られる(乙B4)。

2  争点1(入所時診査時における過失の有無)について

(1)  上記1の医学的知見等を前提に,まず,争点1について検討するに,前記前提事実のほか,後掲証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

ア 本件医師は,平成17年11月15日の入所時診査において,本件患者に対し,胸部の聴診及び打診を行い,胸部に異状が認められないか確認するとともに,腹部の触診を行い,腹部にも異状がないか確認したところ,いずれも異状所見が認められなかったことから,診査結果として,診療録に「chest np(nothing particular)」(胸部異状なし),「abdomen np」(腹部異状なし)と記載した(乙A1の1,乙A19)。

イ 本件患者が本件刑務支所に入所した際に実施された身体状況の調査においても,本件患者は「現在の心身的訴え」について「特になし」と回答していた(乙A14)。

ウ 本件刑務支所における診療録,調査・アンケートの結果及び身体状況票には,平成17年11月15日の時点で,本件患者に咳,発熱,血痰,嚥下障害等の各症状が見られたことを示す記載はない(乙A1の1・2,乙A4,5,14)。

エ 本件患者は,同月18日に実施された入所時調査アンケートにおいて,「今まで大きな病気やけがをしたこと」は「ない」旨の回答をしていたほか,同月21日に実施された法務省式人格目録(MJPI)においても,「なんとなく,からだの調子が悪い。」との設問に「×」と回答していた(前記前提事実(2)ア)。

(2)  以上の事実を基に検討するに,本件医師は,入所時診査において,本件患者の腹部及び胸部に対する聴診等を実施して異状がないことを確認している(上記(1)ア)から,本件医師には聴診の実施等を怠った過失は認められない。

そして,入所時診査において,本件患者の胸部や腹部には異状が認められず,身体状況に関する調査でも本件患者が特段心身に関する不調を訴えていないこと(同ア,イ),入所時診査の行われた平成17年11月15日当時,本件患者には呼吸器疾患を疑わせるような咳,発熱,血痰等が認められなかったこと(同ウ)に加え,入所時診査後に実施されたアンケート等においても,本件患者が身体の不調を訴えていないこと(同エ)に鑑みれば,入所時診査時において,本件患者が重篤な呼吸器疾患に罹患していたとは認められないから,本件医師には,重篤な呼吸器疾患の疑いを看過した過失も認められない。

したがって,争点1に係る過失は認められない。

(3)  これに対し,原告は,司法解剖時に本件患者の肺に見られた大小の黒い箇所(甲A6の1・2)は,肺にある血管から出血した血液が数日間かけて黒く変色したものであり,死亡直前の出血ではないとして,本件患者が入所時診査の時点で重篤な呼吸器疾患に罹患していた旨主張する。しかしながら,司法解剖を担当したC医師(以下「本件解剖医」という。)の所見によれば,原告の上記主張に係る本件患者の肺の変色部分は,出血後,時間の経過したものではなく,単に血液量が多いことから黒ずんで見えているものであって,同部分に係る血液は,凝固及び変色をしていないことから出血後間もないものであり,かつ,一気に出血したものであると認められる(乙A17)から,原告の上記主張は採用できない。

また,原告は,肺膿瘍の多くは誤嚥に起因し,誤嚥には,むせりや咳き込みなどの外部的症状の現れない不顕性のものを含むことから,本件患者について,常に嚥下反射の低下による不顕性誤嚥の可能性を念頭に置くべきであり,嚥下障害の症状が外部的に明らかに発現したのが平成17年11月22日の昼以降であったとしても,一日で気管支肺炎から肺膿瘍まで進行することは医学的にあり得ないので,本件医師には誤嚥性肺炎や肺膿瘍への罹患を疑うべき注意義務を怠った過失がある旨主張する。確かに,肺膿瘍の発生機序(前記1(2))に鑑みれば,同日以前に肺膿瘍が進行していた可能性も否定することはできないが,入所時診査の時点において,肺膿瘍等の呼吸器疾患の存在を示す所見が認められなかった本件の事実関係の下では,本件医師において,本件患者が呼吸器疾患を罹患していたことを予見することができたとは認められないから,原告の上記主張も採用できない。

その他,原告が縷々主張する点は,本件患者が入所時診査の時点で呼吸器疾患に罹患していたことについての一般的,抽象的な予見可能性を指摘するにとどまるものであって,前記過失の有無に関する認定を左右するに足りない。

3  争点2(本件診察時における過失の有無)について

(1)  次に,前記1の医学的知見等を前提に,争点2について検討するに,前記前提事実のほか,後掲証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

ア 本件患者の死因は,肺膿瘍を原因とする肺出血のための血液吸引による窒息であった(前記前提事実(2)エ)。

イ 本件患者については,本件診察時までに,食事や薬をうまく飲み込めずに,むせて吐き出すなどの症状が見られたほか,本件診察前の同日午後9時の就寝時刻後に,夜勤職員が本件患者の房室付近を巡回した際,喉に痰の絡まったような音を立てながら就寝していたということはあったものの,本件診察の時点では,呼吸が苦しいとか喉に痰が絡まって困っているとか胸のあたりが重苦しいといった訴えはなく,呼吸の度に喉に痰が絡まったような音がすることもなく,吐く息から異臭がするといったこともなかった(前記前提事実(2)イ,乙A1の1・2,乙A15)。

ウ 本件患者の死因となった肺膿瘍については,司法解剖時の鑑定書上,内部所見では言及されておらず,病理組織学的検査において初めてその存在が認められている(甲A2)。

エ 本件解剖医によれば,肺出血した原因につき,容態が急変する数分前に何らかの原因で急速に出血し,血液が肺全体を埋め尽くして窒息,呼吸不全になったものと考えられ,内服薬や投薬が出血原因になったとは認められないとされている(乙A15,弁論の全趣旨)。

(2)  以上の事実を基に検討するに,本件患者の死因となった肺膿瘍の症状としては,特有の悪臭痰による腐敗臭が特徴的であるところ(前記1(2)),本件患者については,本件診察時において,吐く息からの異臭が認められず,喉への痰の絡まりや呼吸の苦しさといった症状もなかった上(上記(1)イ),本件患者の肺膿瘍は,内部所見では認められず,病理組織学的検査で初めて判明するほどに発見困難なものであったこと(同ウ),肺膿瘍による肺出血についても,本件患者の容態が急変する数分前に急速に起こったものと考えられること(同エ)からすれば,本件医務課長が,本件診察時において,本件患者につき,肺膿瘍を含む呼吸器疾患への罹患を予見することは困難であったといわざるを得ない。

したがって,争点2に係る過失があるとは認められない。

(3)  これに対し,原告は,本件診察時までに本件患者にむせり等の嚥下障害を疑わせる所見が見られたこと等の本件患者の呼吸状況に照らせば,本件患者につき,気管支肺炎や肺膿瘍への罹患を予見することができた旨主張する。

しかしながら,本件医務課長は,本件診察時において,本件患者の嚥下困難等の症状を二次性パーキンソン病によるものと診断し,その治療に効果のある薬剤アーテンを併用するなどして対応しているところ(前記前提事実(2)ア,ウ),二次性パーキンソン病・症候群の症状である錐体外路症状の一つとして嚥下困難が挙げられていること(前記1(3)),本件患者が,二次性パーキンソン病・症候群を引き起こすとされているセレネース等の抗精神病薬を継続処方されていたこと(同(3),前記前提事実(2)ア)に加え,本件診察時に本件患者には肺膿瘍特有の悪臭痰による腐敗臭が認められなかったこと(前記1(2),上記(1)イ)に鑑みれば,本件医務課長が,本件診察時において,本件患者の症状を二次性パーキンソン病によるものと診断したことには,医学的に見て合理的な根拠が存在したということができ,原告が主張する本件患者の呼吸状況から気管支肺炎や肺膿瘍への罹患を予見することができたとはいい難いので,原告の上記主張は採用できない。

また,原告は,本件患者の投薬歴(嚥下困難の副作用がある向精神薬)に照らせば,気管支肺炎や肺膿瘍への罹患を予見することができた旨主張するが,本件患者に処方されていた薬物の副作用として嚥下困難等が記載されているからといって,必ずしも気管支肺炎や肺膿瘍に罹患するとは限らない上,実際に本件患者が罹患していた肺膿瘍は,病理組織学的検査によらなければ発見困難なものであったこと(上記(1)ウ)に鑑みると,上記投薬歴から直ちに気管支肺炎や肺膿瘍への罹患を予見することができたとはいえないから,原告の上記主張は採用できない。

さらに,原告は,被告の過失を基礎付ける事実として,本件医務課長が,ヒベルナと併用禁忌・注意の関係にあるバルビツール酸誘導体の服用歴のある本件患者に対し,ヒベルナを筋肉注射した事実を指摘するが,ヒベルナが併用禁忌とされているのはバルビツール酸誘導体の強い影響下にあるときであること(甲B3),本件患者に対し,バルビツール酸誘導体であるイソミタールの投与が中止されてからヒベルナが注射されるまで7日間が経過していること(前記前提事実(2)ア,ウ),バルビツール酸誘導体(フェノバルビタール)が服用後数日間尿中に排出され続けること(乙B3の5)等に照らせば,本件患者に対するヒベルナの注射が併用禁忌の状況下で行われたとは認められないから,原告が指摘する上記事実は,本件医務課長の過失の有無を左右しない。

その他,原告が縷々主張する点も,結局のところ,本件患者が本件診察の時点で呼吸器疾患に罹患していたことについての抽象的,一般的な予見可能性を指摘するにとどまるものであって,前記過失の有無に関する認定を左右するに足りない。

第4結論

以上の検討によれば,その余の点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 関口剛弘 裁判官 小川理佳 裁判官 吉賀朝哉)

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