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京都地方裁判所 昭和59年(ワ)1702号 判決

原告

藪田秀一

被告

善峰寺

右代表者代表役員

掃部光暢

右訴訟代理人

莇立明

水野武夫

上羽光男

若松芳也

森下弘

山下潔

右訴訟復代理人

坂元和夫

浅井清信

吉田隆行

田原睦夫

浜田次雄

小川達雄

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二〇〇円を支払え。

2  被告は、如何なる名義を以てしても、原告より入山の対価として金員を徴収してはならない。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

(本案前の答弁)

1 原告に対する訴えを却下する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

(本案の答弁)

主文と同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、熱心な仏教信者であり、被告は西国第二〇番及び洛西観音第一番札所寺院である。

2  原告は、昭和五八年一月一六日、被告との間で入山契約を締結し、入山料として金二〇〇円を被告に支払った。

3  右入山契約は、原告が憲法第二〇条一項の、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」との規定により保障されている礼拝の自由を侵害するものであつて、民法第九〇条所定のいわゆる公の秩序、善良の風俗に反する契約であり、無効である。即ち、およそ、社寺の有する仏像、建造物、庭園、その他の有形的施設はもともと信仰の対象そのものとして、あるいはこれを安置し、僧俗の信仰行為の場として、ないしはその附属施設として宗教的雰囲気をたかめるために、それぞれの社寺に設置せられたものであるが、時代を経るにしたがい、それらの施設の中には、文化財的価値を形成し具有するものが認められるようになり、当初の宗教的施設が文化財的側面をも有するようになり、観賞、あるいは文化研究の対象となるにいたつた。即ち、宗教的施設は宗教的側面と文化財的側面とを具有するにいたつたのである。憲法第二〇条に定める信教の自由は宗教的施設の宗教的側面に関するものであり、文化財的側面を対象とした規定ではない。憲法第二〇条の信教の自由は、内心における信仰の自由のみでなく、信仰を発表する自由、宗教を宣伝する自由、更には信仰のために礼拝し、集会し、結社を作る宗教的行為の自由をも含んでいる。以上よりすれば、宗教施設には宗教的側面と文化財的側面とがあり、文化財的側面についての観賞者や研究者から入山料を徴収しても、信教に関わることではないから、違憲問題は生じない。また、宗教施設を公開するか否かは、寺院の自由である。しかし、被告は宗教施設を公開しているところ、礼拝目的の信者からも一律に入山料を強制的に徴収し、これに応じない者には入山を許さないのであるから、これは、礼拝を目的とする者の信教の自由に制約を加える結果となり、その者が憲法で保障されている信教の自由を侵害する行為にあたる。ところで、被告寺への入山者の多くは、経験則上観光目的で入山するものと推定されるが、入山者が礼拝を目的とするのか、観光を目的とするのかの判断は必ずしも容易ではない。しかし、そのことの故に、礼拝を目的とする入山者の信教の自由に制約を加えてもよいとはなし得ない。入山希望者の入山目的がいずれであるかは、その人の服装なり、言動から判断すべきで、判らなければ卒直に聞けば足りることであり、いやしくも御仏に仕える程の者は入山希望者の言動を信ずるべきである。

なお、被告は、入山料をもつて喜捨の心を定額化したものであり、右の喜捨とはお布施や冥加金をさすと主張する。しかし、お布施や冥加金なるものは、本来は個人が宗教心を満足させ、冥加を受けたときに、感謝の気持から喜捨するものであるから、文化財観賞者と礼拝を目的とする信者を区別することなく、お布施や冥加金を意味する入山料を一律に徴収し、入山料を払わなければ入山を許さないとすることは、お布施や冥加金の先払を強制することになり、個人の有する信教の自由を侵害することとなる。

4  原告は、前記2の入山契約に先立つて、被告の入山料徴収係に自らが仏教の信者であることを明らかにし、お参りのためだけに入山したい旨を説明したが、無料で入山することを拒まれたので、巳むなく入山契約を締結したものである。したがつて、本件入山契約は、原告の信教の自由(礼拝の自由)を侵害し、公序良俗に反するから、無効である。

5  そうすると、原告が被告に支払つた二〇〇円は法律上の原因を欠き、被告はこれを不当に利得しているものである。

6  きわめて熱心な仏教信者である原告は、将来にわたり、被告寺に礼拝することを希望している。国民の信教の自由は憲法によつて不可侵であることが保障されているものの、寺院の意思に反してまで強行人山する権利まで国民に与えているものではない。しかし、寺院が公開している場合(厳密には公開されている地域又は施設)については、公開の反射的利益によつて国民(原告)が寺院に入山できるのであり、この場合は、入山料を支払つて民事上の入山契約を締結してはじめて入山が許されるとしても、信者若しくは礼拝を目的としている者から入山料を徴収し、支払わなければ入山を許さないとなると、信教の自由(礼拝の自由)の侵害になるのである。したがつて、前記3に述べたとおり、被告の入山料徴収は憲法第二〇条に違反する違法なものとなる。被告は、今後自発的に入山料徴収を廃止する公算はなく、原告が被告に入山する都度入山料を徴収することは明らかである。

7  よつて、原告は、被告に対し、前記5の不当利得金二〇〇円の支払い、及び右6の入山料徴収の禁止を求める。

二  請求原因に対する被告の認否

1  請求原因1のうち、被告が西国第二〇番及び洛西観音第一番札所寺院であることは認め、その余の事実は不知。

2  同2のうち、原告と被告との間の入山契約締結の事実は否認する。原告が昭和五八年一月一六日に金二〇〇円を入山料として被告に交付したことは認めるが、右は入山「契約」によるものではない。その理由は以下のとおりである。

(一) 古来、日本人は、宗教材に参拝し、宗教心を満足し冥加を受けるとき、これに対し清浄な心で物や金銭を施す「お布施」や「冥加金」を喜捨する習慣がある。先祖供養等の回向料なども同じである。寺院は、この布施や冥加金の喜捨で寺院自体を支え、また宗教材を管理し護持相続する。

入山料は、この日本人に潜在的に存する喜捨の心を定額化し、予め入山に際し、これを明示して徴収するものである。喜捨する気持ちは、宗教材に参拝しようとする人々の信心の中に当然存在するものである。入山料の徴収は、これの意思を受け入れようとする寺院の意思表示であつて、この行為は入山して参拝しようとする人々の意思と合致するものである。

(二) 入山料は、喜捨を定額化したものである。喜捨は、宗教材を通して仏教思想に接して得た心のやすらぎ、喜び、満足に対する財物の寄進である。仏教では、古来から喜捨、寄進は、仏、法、僧の三室を護持することと解かれ、在家の者が、財物への執着を離れて悟りに近づく功徳のある行為と認識されている。寺院は、信者から冥加金の供与や喜捨を信者の信仰活動の発露としてこれを受け入れて来たものである。一方、信者は、仏教思想に接した喜び、満足に感謝報恩して財物を寄進するのである。

これは、伝統的に宗教社会において培れてきた習慣である。この習慣は、仏教思想と日本人の心に潜在する喜捨の心によつて基礎づけられる。寺院に参拝した者は、本堂や仏像の前で誰でも自然に賽銭を奉納して合掌する心が生じる。この賽銭の奉納が喜捨の現われである。また僧侶が宗教行為を司掌した際、信者は当然のようにお布施を差し出すが、これもその心の顕れである。この心は寺院として整備された宗教体(宗教思想、宗教材、僧侶)の前だけでなく、野道や街角に建立されている地蔵さんや祠の前に賽銭を奉納して現すこともある。その行為は、仏教思想に接した喜び、仏による日常の平安に対する感謝報恩と、先祖に対する追善供養の心からである。このような心は誰にでも潜在する。それ故、喜捨は、宗教思想に接した時、自発的且つ自然に行われるものである。

(三) 寺院は、宗教材を維持管理し、そして次の世代に護持相続する。これは寺院の宗教者としての使命であり、義務である。このために費用が要することは自明の理である。

入山料を定額化して徴収することにより、この維持管理を計画的に行うことができ、且つ次の世代に護持相続することができる。

寺院が維持管理を計画的に行うことにより、宗教材の持つ荘厳は保持され、宗教的雰囲気が高められることは言うまでもない。これはとりもなおさず、入山者、参拝者に、より心の安らぎを与え、宗教心を満足させるものである。つまり入山者、参拝者が求めた信仰がより満たされることになる。また、これが次の世代に護持相続されると、次の世代の信仰に寄与されることは言うまでもない。

(四) 入山料を受ける行為は、贈与その他いかなる契約にも関係のない宗教行為である。

贈与は、自由平等な、対等な法的人格者間における贈与、受贈の合意によつて成立する契約である。入山料は、参拝者が寺院に捧げる寄進(喜捨)であり、帰依するものに捧げる金銭である。帰依するものに捧げるというところに世俗的な契約の介在する余地はない。

寺院が入山料を受ける行為は、拝観行為が宗教的行為であるのに対応した宗教的行為である。拝観者の一方的行為である喜捨という語が、その間の事情を的確に表現している。喜捨は、凡そ契約にはなじまない用語である。拝観者が入山料を寺院に捧げ、捧げられた入山料を寺院が受ける行為はすべて宗教的行為であつて、宗教社会の伝統、慣習によつて律せられる。そうすると、元来、こういつた宗教的行為を贈与とか有償契約とかいう世俗社会の法律概念でもつて律することはできないものである。拝観者が寄進(喜捨)する金銭が寺院の所有になるのは、宗教社会を支配する宗教規範によつてそれを受ける寺院の所有物になる、というので十分である。

(五) しかし、これをあえて世俗社会を基盤とする法律概念で説明するならば、入山料の支払(喜捨)は、入山者の一方的行為である所有権の放棄である。寺院はこれを収受して原始的に所有権を取得する。入山料の支払が、定額化された喜捨であり、喜捨の本質が前述のとおりである以上、入山料の支払と寺院の収受行為をこのように構成するのが法的説明としてはおそらく事柄の実体にもつとも近いのではないだろうか。

更に強いて他の法的構成を試みるならば、本件入山料の支払は入山者が寺院への入山に際し定額の金銭を贈与するものである。なお、寺院が入山者の寺院の境内に立入り宗教行為たる拝観を許すことは、何ら入山料支払の対価ではないのである。あえて言うならば拝観を許すという負担を伴うところの負担付贈与にすぎないのである。

3  同3は争う。

憲法上の信教の自由の保障は、公権力によつてこれらの自由が制限されないことであり、信者、又は拝観者と社寺との間には、信教の自由侵害の問題は原則として生じない。宗教施設を公開するかどうか、その額をどうするかは、それ自身宗教活動に属し、社寺の自立的判断に委ねられており、それが参詣人の宗教的行為に抑止的効果をもたらすことがあるとしても、それは事実上の制約にとどまり、憲法により保障された信教の自由の侵害をもつて目すべきものではない。したがつて、原告と被告間における本件入山料の授受の問題は、信教の自由を侵害する憲法上の問題として論議すべきではないのであつて、本件入山料の徴収は、憲法第二〇条に反するとの原告の主張は主張自体失当というべきである。

4  同4の事実は不知、法律上の主張を争う。

5  同5の事実は否認する。

6  同6の事実は不知、法律上の主張は争う。

三  被告の抗弁

1  本案前の抗弁

(一) 本件入山料の交付と受領は、宗教行為、信仰活動の発現としてなされるものであつて、宗教活動そのものであるから、宗教への不介入を原則とする国家の司法判断の対象とならないので、本案審理に入るまでもなく本件訴は却下されるべきである。

即ち、本件入山料の交付と受領は、契約に基づくものでもなく、いかなる法律行為でもなく、宗教行為又は事実上の行為であるから、裁判所法第三条にいう「法律上の争訟」に該当しないのである。裁判所がその固有の権限に基づいて審判できる対象は、当事者間の具体的な権利義務、ないし、法律関係の存否に関する紛争であつて、且つそれが法令の適用による終局に解決することができる「法律上の争訟(裁判所法三条)」に限られるところ、本件入山料の交付と受領は、かかる「法律上の争訟」に該当しない(最高裁昭和五六年四月七日判決)。以下その理由を明らかにする。

(1) 被告寺がいかなる方法手段によつて宗教活動をするかが、被告の自由に属することは憲法第二〇条によつて保障されている。したがつて、被告は、宗教活動の一つとして、宗教施設の公開、非公開の態様を任意に選択し、決定することができ、これは公権力が介入すべきことではない。裁判所といえども、かかる宗教活動の可否や是非について判断することは許されない。入山料の徴収の是非の問題は、被告の宗教活動と深くかかわる問題であつて、その宗教活動の深奥まで介入して分析して判断することになるから、必然的に公権力による信教の自由への干渉を許すことになり、公権力の宗教への介入を禁止した政教分離の原則に反することになる。このようなことは、信教の自由を保障した憲法第二〇条の許容するところではない。

(2) 入山料と寺院の公開

(イ) 寺院は、仏教思想表現の方法論の一つとして存在している。この寺院は、当然布教を行う布教伝導資材として利用される。仏教における布教は、人々を「さとり」に至らしめるためになされるが、それは釈尊の対機説法と同じく、そのあり方は各寺院、各僧侶の自由な方法がとられる。積極的に僧侶が説法を行うことも布教活動ならば、寺院の中で礼拝、読経等宗教儀礼を行うことも布教活動である。

また、寺院境内を開放し、多くの人々に布教伝導資材に接しさせるという布教方法がとられることも重要な布教活動である。

仏教は、信仰の自覚の有無に関係なく、すべての人々に仏性(仏となる性質)があるとみなし、したがつて、すべての人を「さとり」に至らしめることができるとしている。それ故、寺院を開放しているのである。入山者は、仏教思想に接して心の安らぎを自覚し、「さとり」に至る動機を与えられるのである。いわゆる結縁(ケチエン)である。

(ロ) 信者に信仰の態様を取捨選択することの自由が存する様に(例えば、参拝をすることなく自宅で読経を行うことが信仰であると考え、あるいは門前で手を合わせて拝むことで参詣したと考えるなど、その態様は千差万別である)、寺社にとつても、寺院を公開することが布教につながると考え得るか否かは、その寺院の宗教(布教)の在りかた(教義)、その他の事情に依存するところである。

寺院の公開は、寺院の布教活動であるから寺院がどのような方法で公開するかは寺院の自由である。寺院にある宗教材のどれを公開させるかも寺院の自由である。

拝観者は寺院の指定にしたがつて、拝観するのである。制限された範囲しか拝観できなかつたとしても、それは寺院の意思によるものである。

入山者が公開された寺院内を自由に拝観できるのは寺院が布教活動として寺院を公開しているからであり、入山者と寺院の契約によるものではない。

(ハ) 寺院が寺院の公開を布教上必要と考えても、その公開方法を如何にするかは、教義上その他の事由によつて基本的には寺院の自由であり、自己の宗派の信者のみに入山していただくか、一定の期間のみ入山していただくか、一定の場所のみ入山していただくか、一定の人数のみ入山していただくか、本件の如く入山に際して快く喜捨(入山料の支払)をしていただける者のみ入山していただくかは、当該寺院の教義その他の自由に依存するものであって、基本的には寺院の自由に属する問題なのである。

要するに寺院が公開するに当たつては、入山料を徴収するか、否かもまた寺院の自由な判断である。入山料は、冥加金や喜捨を定額化したものである。この入山料は拝観の対価ではない。冥加金は、仏教思想に接して得た、心の喜びに対する寄進である。それは仏・法・僧の三宝を護持することであり、また財物への執着を離れるという意味で、仏教では功徳ある行為とする。寺院は、冥加金や喜捨によつて宗教体(宗教思想、宗教資材、宗教者)を維持し、それによつて布教活動を行い、入山者の宗教的情操を高めることができる。宗教体を維持することは、これを後世に護持継承させることであり、これ自体も宗教活動にほかならない。冥加金や喜捨はこのような意義を有するものであるから拝観の対価でないことは明白である。

(3) 原告は、被告寺に入山した際の入山料二〇〇円を払つているが、信者より入山料を取るのは、憲法の保障する信教の自由に違反するから、その二〇〇円を返還せよと主張している。しかし、このような訴え自体も、本来的に司法判断の対象にならないのである。原告の右入山料の支払と被告の入山料の受領は、売買契約や贈与契約や入場契約等に類するような契約関係、又は法律行為に基づくものではない。被告寺は入山料を喜捨として受領しているものである。原告もかかる入山料の趣旨を理解し、これを受容して、入山料を交付して入山したものである。かかる入山料の授受は、仏教においては供養、喜捨、寄進と称する財物の供与として、宗教行為又は宗教活動の一環としてなされるものであつて、法的評価になじまないのである。供養、喜捨、寄進等の行為は、交付する信者(入山者)からみれば信仰行為の発現であつて、無条件の捧げ物であるから、本来的に返還請求の対象となりうるものでない。供養、喜捨、寄進等の行為を寺院からみれば信者に対する布教活動の一環としてとらえられるものである。このようにして信者及び寺院の宗教活動の自由が実現し展開されるのである。

このように考えると、仏教における供養、喜捨、寄進等の行為は、むしろ、信者及び寺院の宗教行為の自由を確保する機能を有していることが明らかとなり、信者の信仰の自由をなんら制限するものでないことが理解されるのである。被告寺が門前で定額の入山料を受領したからといつて、喜捨としての本質は変わることはなく、且つ原告の信仰の自由をなんら侵害したことにはならないし、現に、原告はなんらその信仰の自由を侵されていないのである。原告は、入山料二〇〇円を払つて当日の計画通り被告寺の境内に入り、本堂を拝んで帰つているのである。右二〇〇円の授受はいかなる信教の自由も侵す可能性はなく、本来的に信仰の自由の発現として容認されるべきものであり、むしろ、一般的な信仰の自由を確保するために必要なものと言うことができるのである。

以上述べたとおり、本件入山料の授受は、信者及び寺院に対して保障されている信教の自由を背景に、信者及び寺院が一体となつて展開している宗教行為の発現としてなされるものであつて、それは、何人の容喙をも許されないものである。それは宗教団体の自律権のみによつて自主的に解決されるべきものである。国家は、このような宗教活動の深奥に介入してはならない。よつて、本件入山料返還請求の訴えは、裁判所の判断の対象とならないものとして不適法な訴えであるから、すみやかに却下されるべきものである。

(4) 寺院は宗教活動の一つとして、その管理支配する宗教施設を公開する自由と公開しない自由を有する。何人もかかる公開非公開の自由を侵すことはできない。国家もかかる自由を制限できない。宗教施設の公開、非公開の自由は、全て、その宗教組織内の自律活動に任されるべきものである。これは憲法第二〇条で保障された信教の自由と政教分離の原則から導き出される当然の帰結である。したがつて、国家(裁判所も含む)は、寺院に対して信仰の対象、又は、基盤たる宗教施設を公開せよとか、公開するなとか、公開するならば無料又は有料にせよとか、ということを指示命令することはできないし、また、このようなことをなしてはならない。このようなことは、国家が終局に解決すべきものではなく、したがつて、法律上の争訟になり得ないものであり、宗教組織体内部において自律的に解決すべきものである。

被告寺は、天台宗に属し、西国二〇番札所として千手観世音菩薩を本尊とし、本堂を中心に多くの堂塔を有して、仏教の布教、僧の修養等に供している仏教の寺であり、当然に憲法で保障する信教の自由を亨受できるところ、その宗教施設の公開、非公開、又は公開の態様は、被告寺において自主的に判断し、自由に施行できるのである。これは被告寺を組織する役員や檀家等が自主的に判断し決定することであつて、第三者が容喙できる道理がない。したがつて、何人も、国も、被告寺に対して、公開するなとか、公開せよとか、公開する場合は有料又は無料にせよとかいう干渉をできる道理がないから、かかる宗教活動の可否や是非について司法判断を及ぼすことはできない。仮に、第三者よりかかる干渉が認められるとするならば、被告寺の宗教活動の自由は根源から崩壊し、収拾がつかなくなるであろう。その不当なることは多言を要しない。よつて、原告の被告に対する「入山料徴収禁止」の請求は、不適法な訴えであるから却下されるべきである。

(二) 原告には、訴えの利益はない。

(1) 原告は、本件入山料の徴収は、憲法第二〇条に反すると確信して、被告からの入山料返還の提供を強いて拒絶して、本訴を継続しているものであつて、訴えの利益はない。以下その理由を明らかにする。

(2) 被告が、原告の本件紛争を知つたのは、本訴が新聞報道されたからである。それまでは、原告が、いつ入山をしたのか、入山料を払つたのか、入山料を払つたことについて不満を有していたのか否か、等を全く知る由もなかつたのである。

被告は、新聞報道により本件訴えを知るや、直ちに原告に電話して二〇〇円を返還すべく申し入れたところ、原告はその受領を拒否した。このように、原告は訴え提起前になんらの私的交渉をすることもなく、また、私的交渉すれば請求が実現される可能性があるのに、被告にとつては不意に訴訟手続に及んでいるのである。むしろ原告は、訴え提起前に被告に事情を話したならば、直ちに原告の支払済の入山料が任意に返還されてしまい、返還されてしまうと本件の訴えが提起されなくなるので、故意に被告になんらの事前要求もしないで本訴に及んだものと推測される。

このようなことは、紛争のないところに敢えて訴訟を利用するものであつて、法の保護に値しないものと言うべく、訴えの利益性が存しない。前記のとおり、原告の本訴の真の目的は、入山科返還請求という財物の給付を受けることにあるのではなく、入山料徴収自体が憲法に反するという裁判所の判断を得ることにある。原告自身も、勝訴して二〇〇円の返還を受けたら、改めてその二〇〇円を被告に喜捨すると被告への葉書で明言している。したがつて、本件は財物の争いとしての訴えの利益自体存しないことが明らかであるから、この点からも、本件訴えは却下されるべきである。

(三) 原告の本件訴えは、動機において不当であり、権利濫用であるから却下されるべきものである。

被告は、入山料徴収につき、宗教者としての配慮をなしている。

被告は、なるべく入山料の徴収が入山者の負担とならないよう宗教者として、常日頃より心掛け、その額を定額とするとともに、病人、貧困者等特別の事情の存する者からは、その者の申出があれば入山料を徴収しない配慮をなしているのである。

被告は、寺院の維持管理のために、昭和五六年四月一日より「寺院整備維持管理」と明示して入山料を入山者より収受することを山門の看板に掲示して協力を求めたことがあるが、これは入山者の負担をおもいはかったものである。

このように、被告としても、寺院を護持していく必要上、入山者に入山料として喜捨をいただいているのであるが、宗教者として、より多くの信者に参拝していただくべく、適宜柔軟に対応しているのであつて、入山者全てから入山料の徴収を行つているのではないのである。被告は、本件訴訟提起後に初めて原告の入山料に対する見解を聞き及ぶや、原告に対して、貧困等入山料に支払えない事情が存したのか否かの問い合わせの電話をしている。

原告は、入山料の徴収について、被告が入山者全てから入山料を徴収しているとし、貧者・病人等の例を挙げてこれを非難しているが、これは全く誤つた事実認識にもとづく主張といわれなければならない。

更に、原告が、自己の信仰心を開陳することもなく突如として訴訟を提起するなどは、およそ和を以て貴しとする仏教を信仰する者のとる態度ではない。

しかも、原告は、抽象的な違憲判断を求めているといつた次元に終始し、簡易裁判所を軽視した印象を免れない。いわゆる「好訴癖」のたぐいというものである。

更にまた、原告は、被告より入山料の返還を申し入れられても、これを固くなに拒絶し、被告に対して、「よい物体(不動産)があつたら世話をしてほしい」等と、暗に不動産を幹旋してくれるならば本件訴訟を取り下げてもよい旨を仄めかすなど、本件訴訟を信仰目的以外に利用していることは明白であつて、嫌がらせ、若しくは不動産の斡旋目当てに本件訴訟を提起したとしか考えられないものなのである。けだし、被告は、原告に対して、本件入山料の返還を申し入れ、また、今後の入山については、その入山時の原告の収入、信仰の程度等を詳しく聞き、入山料の徴収をするか否かにつき話合いをなしたい旨真摯な態度で申し入れたにもかかわらず、原告はこれを拒否し本件請求をしているのであるから、本件請求の趣旨は既に理由が存在しなくなつているものというべきである。

したがつて、このような者に信仰を語る資格はなく、本件訴訟の提起自体、権利の濫用といわなければならないのである。

第三  証拠〈省略〉

理由

第一まず、被告主張の本案前の抗弁について判断する。

一本訴請求の当否について裁判所に審理し、裁判をする権限があるかについて

1  裁判所が法律上の争訟(裁判所法第三条一項)に当たるものとして審理、判断することができるのは、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であつて、且つ、それが法令の適用によつて終局的に解決することができるものに限られることは云うまでもない。そして、宗教法人は宗教活動を目的とする団体であり、宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものであるから、かかる団体の宗教的行為に関する事項については原則として当該団体の自治を尊重すべく、宗教上の教義にわたる事項については、国の機関である裁判所がこれに立ち入つて実体的な審理、判断をなすべきものではないが、右のような宗教活動の自由ないし自治に対する介入にわたらないかぎり、裁判所が宗教法人の宗教活動に関連を有する事項につき審理判断することは何ら差支えないところというべきである。

2  これを本件についてみるに、原告が被告に対し、入山料名下に金二〇〇円を支払つたとして、その金員の返還請求権の存否等が争われているものであつて、その返還請求権の存否に関する争点の核心は、被告の入山料徴収行為が被告の宗教活動に該るか、また、被告の右行為によつて原告の信教の自由(礼拝の自由)を侵害するものであるか否かに存するものであるところ、後者の点については、被告の宗教的教義の内容について判断するものではないから、裁判所が審理、判断することに何ら妨げないものである。

3  そこで、被告の入山料徴収行為の実態について検討する。

(一) 被告が西国第二〇番及び洛西観音第一番札所寺院であることは当事者間に争いがない。

(二) そして、〈証拠〉を総合すると、次の(1)ないし(5)の各事実を認めることができる。

(1) 被告は、長元二年(西暦一〇二九年)に開山した天台宗山門派の寺院であつて、従前は被告所有地からの収入、あるいは被告の経営する民宿等の収入を被告の境内に存する建造物・樹木等の宗教施設の維持管理等の費用の財源にあてていたため、被告の境内に入山する人々に対して入山科名下の金員を徴収していなかつたところ、被告の境内に所在する多宝塔が国の重要文化財に指定されたことを契機に、右境内に所在する他の多数の建造物に対しても防火設備を設置する必要に迫られ、また、その建造物、樹木等を維持管理する費用が年間約二、〇〇〇万円も必要とするため、その財源を得るのに苦慮し、昭和五三年から同五四年にかけて、被告の信者代表一〇名、檀家総代、住職、副住職が会合してその財源を得る方法について検討した。その結果、信者に右維持管理費用等を負担させるには、信者が高齢であつて負担能力も不足していたことから、被告に入山する人々から金員を徴収することを決定し、昭和五六年四月一日から入山料名下に被告への入山者に対して金二〇〇円を徴収して今日に至つている。

(2) そして、被告寺への入山者は年間約一五万人、被告が入山者から得る金員(入山料)は年間約三、〇〇〇万円程に達し、被告の宗教施設等を維持管理するための必要不可欠の財源となつている。

(3) 被告の境内への入山者の入山から退出までの形態については、被告の山門付近に拝観料受付所が設置され、「入山料 大人二〇〇円(高校生以上)、小人一〇〇円(小、中学生)」との記載がなされた入山料金の看板が掲げられており、入山者は信者、信仰の有無の如何を問わず、また、山登りのため被告の境内を通過する人に対しても同所で所定の金額を支払つて入山券を購入しない限り、境内への入山を許されないことになつている。その際、入山者は、「西国二十番札所 西山善峰寺 松の寺」と表記され、被告の沿革、参拝順路、案内図、諸堂案内等を記載したパンフレットの交付を同所において受けている。なお、被告の境内への入山者のうち、被告の檀家(九軒)に対しては被告の裏口から出入りしていて、入山料の徴収を行つていない。

(4) 被告の境内には、本堂をはじめ、多宝塔(重要文化財)、釈迦堂等二〇に及ぶ建造物が所在し、本堂には千手観音、十一面観音、釈迦堂には釈迦如来が安置され、更に、昭和七年に天然記念物に指定された「遊龍の松」と名付けられた樹齢六〇〇年、全長五四メートルに達する五葉松、薬湯場などが存しており、これらはいずれも被告の宗教施設を構成している。被告への入山者はこれらの宗教施設を参拝し、あるいは観賞した後出口より退出するものであつて、境内における案内説明は、特に団体の入山者がこれを求めた場合に被告の副住職が行つている。

(5) そして、被告は、年間約一五万人の被告への入山者に対し入山目的を一々問い質してはおらず、入山者の中には、参拝目的の者も、文化財観賞その他参拝以外の目的の者もいる。

(三) 右(二)の(5)の点に関し、証人掃部光昭は、入山者は被告への参拝目的とするものであつて、西国札所参りの人々、月参りの信者、一般の参詣者に分けられる旨供述している。しかし、前記認定のとおり、被告の境内へ、年間約一五万人にものぼる入山者があることからすると、その中には、参詣者以外にも、例えば、仏像、建造物、庭園等の文化財の観賞者、研究者、遊龍の松の植物学研究者等がいることは容易に推認しうるところであり、更に入山者の本来の目的が被告への参拝、礼拝を目的とするものか、文化財等を観賞する等の目的を有するものであるかは、その目的が内心の心理的意思事実であるからその者の告白がなければその有無を知ることができないものであつて、被告が何らかの方法によつてその目的を確認したものと認められる証拠がない以上、入山者の入山目的が参拝にあると断定するとはできないものである。そうすると、証人掃部光昭の前記供述部分は採用できない。他に前記(二)の認定を左右するに足る証拠はない。

(四)  前記(一)、及び(二)の判示の事実によれば、被告がその宗教施設を公開して入山希望者に参拝の機会を与え、もつて入山者の宗教的情操を高めることを期待することは、被告の宗教行為の一環とみるのが相当であり、入山料を徴収して宗教施設の維持、承継に充てることは宗教活動の一助ともなろうが、入山者の入山目的はさまざまである筈にもかかわらず、入山希望者にはその目的の如何を問うことなく全て入山を認めているのであるから、入山料を納め、徴収することは、これを全面的に宗教行為、あるいは宗教的活動ということはできず、これに関連する行為にすぎないものと認めるを相当する(右判断に抵触する乙第四、第五号証の記載内容は採用しない)。

これに対し被告は、入山料は喜捨を定額化したものであつて、拝観の対価ではない旨を主張するけれども、参拝以外の目的で入山する者が宗教的に意味づけされた喜捨をすることは通常はないわけであるし、参拝目的で入山する者においても、喜捨はその者の宗教的感動の有無・深浅と経済的能力に基づいて自発的になす筈であるのに、被告は、入山者が未だ宗教的体験を得ていない入山前に、貧富の差を設けず、定額の入山科を徴収し、それを収めない者には入山を許さないのであるから、入山料をもつて喜捨と認めることは困難である。もつとも、被告が、入山者の内心の如何にかかわらず、入山料を全て喜捨と受取ることは、あるいは被告の自由であるかもしれないけれども、右は、いわば、被告の内心の、入山料を徴収する際の一方的な心構え、意義づけにすぎないのであつて、これが右徴収に際し、外部的に表示されている(勿論、この表示は喜捨として受取るにふさわしい態様、行為をなすことを要することは、云うまでもない)ことは認め難いので、入山料の授受という社会的事象を、客観的、法律的に評価することの妨げになるものではない。

また、被告の入山料徴収行為一般ではなく、原告が参拝目的で入山したことを前提とすると、双方ともに宗教的行為として入山料を授受したと解すべきかが一応問題とされうるけれども、前認定のとおり、被告は入山目的の如何を問わず、多数の者から一律に入山料を徴収しているものであつて、入山者の内心の如何によつて、入山料の授受の法的評価を異にすることは、意思表示の解釈のあり方としても相当ではない。

4 前記3の(四)に判示のとおり、被告の入山料徴収行為は、被告の宗教活動それ自体ではなく、単に宗教活動に関連する行為と解されるものであるから、本件訴訟における原告の被告に対する金二〇〇円の不当利得返還請求権の存否は、原・被告間の入山契約等私法上の契約の存否、その効力の有無の判断によつて決することができるし、右判断にあたつて、宗教上の教義を判断したり、宗教団体である被告の内部自治の是非を判断する必要はないのであるから、裁判所において、これらの点につき審理判断することになんらの妨げはないものといわなければならない。

5  次に、被告は原告の入山料徴収禁止の請求は、被告の宗教活動の自由を侵害するものであつて、国家(裁判所)が介入すべき問題ではなく、宗教団体内部において解決すべき事項であるから司法権の対象外である旨主張する。

しかし、前項に述べたとおり、被告の入山料徴収行為が被告の宗教活動そのものではなく、それに関連する行為とみられるにすぎないものであり、しかも原告の被告に対する入山料徴収禁止の請求権の存否については後に判示するとおり宗教上の教義等につき判断するまでもなく、その当否を判断し得るから、裁判所においてこれを審理、判断することになんらの妨げはないものである。

6  以上判示のとおり、被告の前記裁判権に関する主張はいずれも理由がなく、採用できない。

二原告の訴の利益の欠缺、及び訴権の濫用について

1  被告は、原告は被告が返還を申出た二〇〇円の受領を拒絶して、入山料徴収行為自体が憲法に反するという裁判所の判断を得ることを目的として本件訴えを提起したものであつて、紛争のないところに敢えて訴訟を利用するものであるから、法の保護に値しないとして、原告には訴えの利益がなく、また、原告の本件訴えの提起は権利の濫用である旨主張する。

2  しかし、仮に被告が原告に対して任意に入山料二〇〇円を返還する意思があり、且つ返還を申出たにもかかわらず、原告がこれの受領を強いて拒絶したことが認められるとしても、被告は、本件訴訟において、原告の二〇〇円の返還請求を認諾せず、返還請求権はない旨の主張をなしているのであるから、結局、被告は、法的な義務はないけれども、原告が二〇〇円の返還を要求するのであればこれに応じてもよい旨主張しているものと認められる。してみれば、原告が被告の右態度に納得せず、法的な権利の実現として二〇〇円の返還を求めるのであるから、その請求には訴の利益がある。また、原告が二〇〇円の返還を求めるにあたって、裁判所に憲法判断を求める目的を有しているとしても、これは、訴の利益の存否とは無関係であり、右目的により訴の利益を欠くことになるものではない。更に、被告は、原告が嫌がらせ、あるいは、不動産の斡旋目当てに本件訴え提起をなした旨主張し、乙第三号証を提出しているが、右書証のみをもつてしては、被告主張の権利の濫用の事実を認めるのに十分とは云えず、その他本件訴えが権利の濫用であることを基礎づける事実を認めるに足る証拠はない。

三以上の次第で、被告主張の本案前の抗弁は、いずれも採用できない。

第二そこで、進んで、原告の各請求について判断する。

一不当利得返還請求について

1  被告が西国第二〇番及び洛西観音第一番札所寺院であること及び原告が、昭和五八年一月一六日被告に対し入山料名下に金二〇〇円を支払い、被告がこれを受領した事実は、いずれも当事者間に争いがない。

2  そこで、右同日、原告と被告との間において入山契約等の契約の締結がなされたか否かについて検討する。

(一) 原告主張の入山契約の内容については、必ずしも明確ではないが、前記第一の一、3、(二)で認定した事実、及び原告本人尋問の結果、並びに弁論の全趣旨によると、原告は、右同日、被告への参拝の目的で被告寺を訪れたが、山門の入口には拝観料受付所と入山料金の看板が設置されており、入山料を払う者に対しては特段の事由のない限り入山を許していたこと、原告は右受付所において受付業務に就いている従業員に対して、参拝目的だけであつても入山料名下の金員の支払いを要するか否か問い直したところ、右従業員は被告寺へ入場するには入山科を支払わなければ入場できない旨返答したこと、その結果、原告は入山料として金二〇〇円を右受付において支払い、その際パンフレットの入山券の交付を受けたこと、被告の境内へ入場する者はその目的が参拝にあるか否かを問わず、一律に金二〇〇円を徴収していること、の各事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

(二)  そこで、以上の事実を法律的にみれば、入山料の看板を掲げて受付所を設けたことは、入山料の支払を条件に入山を許容することを目的とする契約の誘引であり、これに対し原告が入山を願い出たことは契約の申込であり、入山料を受領して入山券を交付したことは申込に対する承諾と評価するのが相当である。右契約は、民法に規定する典型契約のいずれにも該当せず、入山して宗教施設に接し得る有償の無名契約である(以下これを「入山契約」という)と認めるを相当とする。

被告は、右入山料の徴収が定額化した喜捨の収受であつて、これを法律的に評価することはできない旨を主張するけれども、入山科を喜捨とみることができないことは既に判示したとおりである。

また被告は、仮定的に、入山科の支払は入山者の金員の放棄であり、これを収受することは放棄された金員の原始的取得(無主物先占)である旨を主張するが、右は入山科の支払を喜捨であることを前提としている点で相当でないばかりか、前記一連の行為を分断して、入山者と被告の一方的行為の連鎖として評価するものであつて、到底採用し得ない。

更に仮定的に、被告は入山料を贈与、又は負担付贈与である旨を主張するけれども、入山希望者は入山を許されるからこそ入山料を払うのであつて、入山と入山料の支払は明らかに対価関係にあり、無償契約である贈与、あるいは基本的に無償の負担付贈与と解することは相当でない。

3  次に入山契約の効力について検討する。

(一) 憲法の保障する信教の自由に関する規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国、又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。しかしながら、私人相互の関係において、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害、又はそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、私的自治に対する一般規定である民法第一条、第九〇条の適用によつて、一面で私的自治原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し、基本的な自由や利益を保護し、その間の適切な調整を図ることができるものと解される。

(二)  そこで、右の見地より、本件における原告、被告間の入山契約ないし被告の入山料の徴収行為が公序良俗に反するものであるか否かについて考えてみる。

原告は、被告はその寺院の宗教施設を公開しているのに、信者若しくは礼拝を目的としている者からも強制的に入山料を徴収すべく民事上の入山契約を締結せしめ、入山料を支払わなければ入山を許さないなら、信教の自由(礼拝の自由)の侵害になる旨主張する。

しかし、被告はその宗教施設につき財産権を有するのであるから、これを非公開とすることも、公開して他人に利用を許すことも自由であり、公開する場合にどのような条件を設けても、原則として自由である。そうして、公開する場合、利用者に金員の交付を求め、契約した者に対してのみ利用を許すことも、私的自治として当然に許される。もともと原告は、被告の財産権である宗教施設につき、利用し得る私法上の権能を何ら有してはいなかつたのであつて、当然、右施設内に入つて、これを参拝する権利や信仰する自由を有していたわけではない。また被告がこれを公開したからといつて、原告が被告から何らの権利を与えられたことにもならない。原告が入山し得るためには、被告と契約を締結し、その債権的効力として、入山する権利を主張し得るにすぎない。本件の入山契約がまさに右の目的に奉仕するものであつて、原告は入山契約によつて、二〇〇円の支払と引換えに、入山する権利を取得したのである。そうすると、入山契約によつて原告が信教の自由を制約されたことは何もなく、むしろ、二〇〇円の出捐によつて、参拝の便益を得たのである。原告は、被告が入山料を払わなければ入山させないことをもつて信教の自由を制約する行為である旨を主張するけれども、被告に対し、当然、入山料をとらずに入山させることを強制できる法的根拠があることは全く見い出し得ない(信教の自由権は右の法的根拠となり得ない)から、原告の右主張は、法的根拠もなく、宗教施設の公開の仕方につき宗教者である被告のとつている方法を非難しているにすぎないとの謗りを免れない。以上判示したとおり、原告は本件入山契約によつて何ら信教の自由に制約を受けておらず、入山契約が公序良俗に違反するとの原告の主張は理由がない。

4  そうすると、前記入山契約ないし入山料の支払は有効であり、被告が法律上の原因なくして右入山料を不当に利得したとは云えない。

二入山料徴収禁止請求について

原告は、右請求の根拠として自己の信教の自由権を主張しているものと解されるが、前記一の3に判示のとおり右自由権は右請求を理由づけることができる根拠となり得ず、他に原告において、右請求を根拠づけることができる実体法上の請求権の内容及びその請求を基礎づける具体的事実の主張は何らなされていないので、右請求は主張自体理由がない。

第三結び

よつて、原告の請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山崎末記 裁判官杉本順市 裁判官玉越義雄)

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