大判例

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京都地方裁判所 平成9年(ワ)309号 判決

主文

1  被告京都府は,原告に対し,金880万円及びこれに対する平成8年2月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告の被告京都府に対するその余の請求及び被告社会福祉法人京都社会事業財団に対する請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は,原告に生じた費用の9分の1と被告京都府に生じた費用の8分の1を被告京都府の負担とし,原告及び被告京都府に生じたその余の各費用並びに被告社会福祉法人京都社会事業財団に生じた費用を原告の負担とする。

4  この判決の第1項は仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

1  被告社会福祉法人京都社会事業財団は,原告に対し,1100万円及びこれに対する平成7年6月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告京都府は,原告に対し,6793万0314円及びこれに対する平成8年2月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

1  本件は,被告社会福祉法人京都社会事業財団(以下「被告財団」という。)の開設する京都桂病院(以下「桂病院」という。)で肝細胞癌の疑いがあると診断され,被告京都府の開設する京都府立医科大学附属病院(以下「府立病院」という。)で肝細胞癌切除等のための開腹手術を受け,その後肺癌で死亡したAの相続人(妻)である原告が,被告財団に対しては,桂病院の医師が,Aは,実際には肝臓癌ではなかったのに,肝細胞癌であり,手術の適応があると誤診し,Aに対し,手術の必要性を過大に告げた結果,Aに無用な不安を与えるとともに,府立病院における不必要な開腹手術を招いたとして,被告京都府に対しては,府立病院の医師が,Aについて肝細胞癌との誤診に基づいて無用な開腹手術を行い,胆嚢を摘出し,かつ肺化膿症との病名で無用な肺切除術を行った上,手術後の経過観察において,Aに肺癌があることを見落とし,Aの死亡という結果を生じさせたとして,いずれも不法行為(使用者責任)に基づき,損害賠償及び不法行為の後の日からの民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を,それぞれ請求する事件である。

2  基礎となる事実(全当事者間で争いのない事実及び末尾記載の証拠等によって容易に認定することができる事実(一方の被告との間では争いのない事実を含む。))

(1) (当事者)

ア Aは,大正14年9月6日生まれの男性であり,原告は,その妻である。

イ 被告財団は,京都市内において桂病院を開設している。

ウ 被告京都府は,京都市内において府立病院を開設している。

(2) Aは,平成6年11月12日から同年12月5日まで及び平成7年4月27日から同年5月9日まで,いずれも肺炎治療のため桂病院に入院した。主治医は,B医師であった。Aは,後者の入院中,腹部超音波検査,腹部ダブルヘリカルCT検査等を受け,肝臓に腫瘤があると診断された(乙7,8,弁論の全趣旨)。

(3) Aは,同年5月23日から同月29日まで,肝腫瘤の精密検査のため桂病院に入院した。その際の主治医は,C医師であった。Aは,MRI検査,腹部血管造影検査等を受け,その結果,原告は,C医師から,上記肝腫瘤は肝細胞癌であり,肝切除術を受けさせることを勧められた(乙8,9,弁論の全趣旨)。

(4) Aは,平成7年6月26日,京都府立病院に入院した。Aの肝切除の手術は,当初,同年7月3日に行われることに予定されていたが,Aが同年6月27日に発熱したことから延期された。Aは,主治医のD医師から,肝切除術の外に,肺炎を繰り返している左肺下葉切除術を施行する必要があるとの説明を受け,これに同意し,同年7月12日,左肺下葉の切除術を受け,続いて,同病院のE医師の執刀で,肝細胞癌の摘出のための開腹手術を受けた。ところが,Aの肝臓に細胞癌が見付からなかったため,肝臓が切除されることなく,胆嚢を摘出して,この手術は終了した(以下「本件手術」という。)(丙3の1,弁論の全趣旨)。

(5) Aは,平成7年8月21日,府立病院から退院し,その後,経過観察のため,同病院に定期的に通院を続け,E医師の診察を受けた(丙1,2,弁論の全趣旨)。

(6) 平成8年6月20日,Aが知人の医師に胸部のレントゲン撮影をしてもらったところ,肺癌に罹患していることが判明した。同年7月1日,Aは,京都市内の国立療養所宇多野病院(以下「宇多野病院」という。)に肺癌の治療のため入院したが,同年10月13日,肺癌の全身転移により死亡した(甲9)。

(7) 原告は,遺産分割協議によって,Aの被告らに対する損害賠償請求権を取得した(弁論の全趣旨)。

第3主要な争点及び争点についての当事者の主張

1  桂病院の医師が,Aについて,肝細胞癌の疑いが強く,肝切除術の適応があるとして,手術を受けることを勧めたことの適否

(1) 原告の主張

以下のような事情を考慮すると,C医師が,確定診断の方法である肝生検を実施しないまま,Aが肝細胞癌に罹患している(ないしは罹患している疑いが強い)と診断して,緊急性のない肝切除術を受けるよう勧めたこと(患者に選択権を与えた勧めではなく,指示と見るべきである。)には医学的根拠を有しない。

ア 結果的に,Aに肝細胞癌はなかった。

イ 桂病院における諸検査の結果を総合すれば,Aに肝細胞癌がある可能性は高いとは言えなかった。すなわち,その存在を支持する事実として,腹部超音波検査で肝臓に腫瘤性病変が疑われたこと,腹部ダイナミック・ダブルヘリカルCT検査(早期相)でS6域(肝臓の区域名)に濃染像が,CT-AP検査でS5-6域に門脈血流の欠損像が見られたことが指摘できるが,他方,これを疑うべき事実として,次の事実があった。

(ア) 腹部ダイナミック・ダブルヘリカルCT検査(後期相)では腫瘍が認められなかった。

(イ) MRI検査でも腫瘍が確認できなかった。

(ウ) リピオドールCT検査でリピオドールの特異的集積が見られず,腫瘍が確認できなかった。

(エ) 腫瘍マーカーは陰性であった。

(オ) Aは,いわゆる肝細胞癌のハイリスク群患者(HBS抗原陽性者,HCV抗体陽性者,肝硬変患者等)ではなかった。

(2) 被告財団の主張

ア 府立病院で行われた本件手術において,肝細胞癌が発見できなかったが,だからといって,Aに肝細胞癌がなかったということにはならない。現に,本件手術後の平成7年8月7日に同病院でされたCT検査でも,Aの肝臓に腫瘤性病変が確認されている。

イ 桂病院の医師は,Aにアルコール多飲歴があり,腹部超音波検査において肝臓内腫瘤の存在が認められ,腹部ダイナミック・ダブルヘリカルCT検査(早期相)において濃染像が認められ,CT-AP検査においては門脈血流の欠損像が認められ,血管造影検査においても同じ箇所に腫瘍濃染が造影されるなど,肝細胞癌を支持する所見が得られ,他方,MRI検査で血管腫が検出されなかったことから,Aの病名を肝細胞癌と診断した。そして,その後のリピオドールCT検査でリピオドールの特異的集積が見られなかったことから,肝動脈塞栓術の適応がないと判断し,他方,腫瘍が肝右葉の辺縁に位置していたこと,Aの全身状態に照らし全身麻酔が可能であったことから,根治性の高い手術療法の適応があると判断した。この判断に誤りはない。

ウ これに対し,原告は,①MRI検査において腫瘍が確認できなかったこと,②リピオドールCT検査でリピオドールの特異的集積が見られず,腫瘍が確認できなかったことを肝細胞癌の否定根拠として主張し,また,③肝生検を施さなかったことを過失の根拠事実の1つとして主張する。しかしながら,①腹部超音波検査等において認められたAの腫瘤の大きさは1ないし1.5センチメートルにすぎず,桂病院のMRI検査装置では必ずしも検出可能な大きさではなかったから,MRI検査で腫瘍が確認できなかったからといって,その存在を否定することはできない。②リピオドールCT検査は,癌の進展度診断等に有用とされる検査であり,確定診断に用いられる検査とは異なるから,同検査の結果から肝細胞癌を否定することはできない。③桂病院の医師は,肝生検が肝細胞癌の確定診断に必須のものではなく,逆に播種(癌細胞を他の組織に拡散してしまうこと),サンプリング・エラー等の問題があるため,これを実施しなかったものであって,その判断は正当である。

2  府立病院の医師がAに対して肝切除のための開腹手術をしたことの適否

(1) 原告の主張

府立病院の医師は,Aに肝細胞癌がなかったのに,あるものと誤診して,肝切除術をした。また,府立病院の医師らは,Aに対して開腹手術をするか否かを決定するに当たり,Aに肝細胞癌が存在するかどうかについて,独自に検査して正しい診断をすべきであったのに,桂病院における肝細胞癌との誤診をうのみにして肝細胞癌が存在すると誤診し,肝切除術の実施を決定した。

そして,1(1)記載の事情を考慮すると,上記の誤りがやむを得なかったということはできない。

なお,Aに肝細胞癌が存在する可能性があったとしても,開腹手術が高齢であったAの身体に与える影響を考えれば,その可能性が極めて高いレベルに達しておらず,緊急性もないのに,患者の自己決定権への配慮もなしに開腹手術をすることは許されない。

(2) 被告京都府の主張

ア 肝細胞癌との診断は誤りではない。本件手術の際,肝細胞癌を確認できなかったが,だからといって,Aに肝細胞癌がなかったことにはならない。現に,本件手術後の平成7年8月7日に行われたCT検査でも,Aの肝臓に腫瘤性病変が確認されている。

イ 桂病院で行われたCT検査,MRI検査,血管造影検査等の諸検査の結果は,いずれも比較的新しく,かつ十分診断可能な良質のものであったことから,府立病院の医師は,Aに無用な身体的・心理的負担等を与えることを避けるため,改めて検査等を実施しなかった。肝生検は,播種の危険性があるため実施しなかった。

ウ 桂病院におけるAに対する諸検査の結果によれば,Aに肝細胞癌があり,手術適応があると判断することには合理的な根拠があった。結果的に肝細胞癌が発見できなかったからといって,開腹手術をしたことが誤りとはいえない。

3  府立病院の医師がAの胆嚢を摘出をしたことの適否

(1) 原告の主張

一般に,医師は,不必要な手術又は患者等の同意のない手術を行ってはならないところ,府立病院の医師は,本件手術の際に,胆嚢摘出についてのAの同意がなく(同意なしに手術するのを相当とするような緊急性もなかった。),摘出の必要もなかったにもかかわらず,Aの胆嚢を摘出した。

(2) 被告京都府の主張

ア 府立病院の医師は,本件手術の際,Aの肝臓に腫瘤を触知できず,術中の超音波検査によっても肝腫瘤を確認できなかったことから,さらに検査の精度を高めるため,右肝動脈から炭酸ガスを注入して行う超音波検査(いわゆるアンギオエコー)を行ったが,なお肝腫瘤を確認できなかった。そこで,再びアンギオエコーを施すこととしたが,その際,胆嚢が炭酸ガスのために空気塞栓を起こして胆嚢炎を発症する危険があったため,胆嚢を摘出したものであって,胆嚢を摘出する必要があった。

イ 府立病院では,Aから肝臓及び左肺下葉切除手術について同意を得た際,同手術に必要な操作及び予期しない拡大行為についても同意を得ている。胆嚢の摘出もこの必要操作または予期しない拡大行為の範疇に含まれる。

もっとも,府立病院は,Aから,「胆嚢摘出」と特定された同意は得ていないが,手術中にアンギオエコーを行うことは事前に予想し得なかった事態であり,特定された同意を得ることができなかったのはやむを得ない。また,当時,迅速な処置を要したから,Aの家族の同意を得ることもできなかった。

4  府立病院の医師がAの肺切除手術をしたことの適否

(1) 原告の主張

ア Aは,肺化膿症には罹患していなかった。Aは,平成7年6月27日に一時的に発熱し,これに伴う炎症検査陽性が1,2日続いたが,大量の喀痰,咳嗽等,肺化膿症の特徴的所見はなく,5回にわたって行われた喀痰培養検査はいずれも陰性で,起炎菌を同定できなかった。したがって,起炎菌に応じた化学療法も行われていない。

イ 府立病院の医師は,肝摘出手術後の合併症回避のため,安易に肺切除を思いついたにすぎない。

ウ Aは,肺切除術に同意した。しかし,この同意は真摯な同意とは言えない。すなわち,Aは,手術直前の平成7年7月10日,D医師から,「肺化膿症があり,放っておくと何度も肺炎を起こすので,肺切除します。」と告げられ,初めて「肺化膿症」という病名を聞かされて同意書の提出をためらっていたところ,同医師から,「B医師も切除に賛同している。」旨伝えられ,それならばやむを得ないと考えて翌11日に同意書を提出した。しかし,B医師が,Aの肺切除に賛成した事実はなく,D医師の上記説明は虚偽であった。

(2) 被告京都府の主張

ア Aは,肺化膿症に罹患していた。肺化膿症とは,細菌感染によって肺実質の壊死を伴う肺の炎症性疾患である。その診断の根拠は,①以前に肺結核症に罹患した形跡があること,②最近8ヶ月間に3回以上の肺炎増悪があったこと,③レントゲン所見で肺に硬化像・浸潤像が認められること,④血痰が見られたこと,⑤急性増悪期には著明な白血球増加(好中球増加と核の左方移動を伴う)やCRP(C反応性タンパク。炎症や組織破壊性病変が発生すると15ないし24時間で患者血清中に急激に増加し,病変の回復とともに迅速に正常に復する)の増加が認められたこと等である。

イ 肺化膿症の手術適応は,①胸部レントゲン写真上,結節性線維化巣のあるもの,②空洞がみられるもの,③化膿線維性硬化症となり発熱,喀痰,咳嗽を繰り返すもの,④続発性気管支拡張症をきたし,血痰,喀血を繰り返すもの,⑤小さな腫瘤陰影を示し,肺癌と紛らわしいもの等であり,Aの場合は,このうち①から④を満たしていた。

ウ 以上に加え,一般に全身麻酔下で消化器外科手術を行った場合,術後肺炎の発症が危惧される。ましてAのように,患者が肺化膿症に罹患している場合,高い確率で術後肺炎の発症が予想され,それを防ぐためにも肺切除術を施す必要があった。

エ D医師が,肺切除についてAの同意を得るに当たり,「B医師も賛同している」旨の説明をした事実はない。

5  府立病院の医師の肺癌の見落としの有無

(1) 原告の主張

Aは,肺炎の既往歴があり,肺の一部を切除されていた上,日常的に咳・痰,呼吸苦,胸痛,不眠,疲れ易さ等を訴えていたこと,平成8年1月30日に撮影した胸部レントゲン写真から肺癌を疑うことが可能であったことからすると,府立病院の医師は,遅くとも平成8年1月30日の時点で,Aに肺癌の発症を疑い治療を開始すべきであったのに,これを見落とした過失がある。

(2) 被告京都府の主張

平成8年1月30日当時,Aから肺癌を疑わせるような症状の訴えはなく,また同日撮影されたレントゲン写真から肺癌を疑うことは困難であったから,府立病院の医師に,過失はない。

6  損害

(1) 桂病院の医師の不法行為による損害(合計1100万円)

ア 原告の主張

(ア) 慰謝料 1000万円

Aは,桂病院の医師から,誤診に基づき,肝切除術の必要がある旨告げられ,精神的衝撃を受けた。更に,桂病院の医師による誤診が府立病院の医師による無用な本件手術を招き,Aは,肉体的精神的苦痛を被った。これらの苦痛を金銭に見積もるときは1000万円を下らない。

(イ) 弁護士費用

原告は,本件訴訟の追行を訴訟代理人に委任し,弁護士費用を支払う旨を約した。被告財団の医師の不法行為と相当因果関係のある弁護士費用の金額は,100万円を下らない。

イ 被告財団の主張

争う。本件手術は,府立病院において府立病院の医師,A及び原告の話合いの結果実施されたものであり,桂病院での診断と,府立病院での手術及びこれによってAが受けた損害との間には因果関係がない。

(2) 府立病院の医師の不法行為による損害(合計6793万0314円)

ア 原告の主張

(ア) 胆嚢切除による損害(慰謝料) 400万円

Aは,府立病院の医師らから,同意なく,医学的必要性もないままに胆嚢を切除された。胆嚢は,濃縮した胆汁を十二指腸に送る重要な消化器官であり,Aは,胆嚢切除によって油分の摂取が困難になるなど食生活に支障が生じた。かような自己決定権を奪われた苦痛及び臓器の損失それ自体による苦痛を慰謝するには,交通事故後遺障害等級表第8級11号に準じ,少なくとも400万円が相当である。

(イ) 左肺切除による損害(慰謝料) 500万円

Aは,肺化膿症と誤診されて無用な肺切除手術を受け,左肺下葉を広汎に切除された。Aは高齢であり,同手術に伴う強い身体侵襲によって呼吸機能の慢性的低下を招いた。かような肉体的精神的苦痛を慰謝するには,交通事故の後遺障害等級表第7級4号に準じ,少なくとも500万円が相当である。

(ウ) 肺癌見落としによる損害

平成8年1月30日の時点で,Aの肺癌は,Ⅰ期ないしⅡ期であった。肺癌の病期別5年生存率は,Ⅰ期で65パーセント,Ⅱ期で43パーセントであるから,府立病院の医師が肺癌を見落とさず,適切な治療を施せば,Aが5年以上生存した可能性は高い。

そうすると,Aは,上記不法行為によって次の損害を被ったことになる。

a 逸失利益 2075万3121円

(a) 平成8年の減収

Aは,平成8年10月13日に死亡するまで,京都大学の名誉教授,倉敷芸術大学の教授及び立命館大学講師として数学の教鞭をとっていた。Aの死亡前年度の大学からの給与,年金等収入の合計は1146万0437円であったところ,平成8年に死亡退職したことにより,Aの年収は合計386万1333円の減収となった。

(b) 平成9年から平成11年3月までの減収

Aは,平成11年3月31日まで倉敷芸術大学に教授として勤務予定であり,立命館大学についても同日までの就労は可能であったから,平成9年から平成11年3月まで,少なくとも合計2578万5983円(1146万0437円×(2+3/12)=2578万5983円)の減収となった。

(c) 上記(a)及び(b)の合計2964万7316円から30パーセントの生活費相当額を控除した差引金2075万3121円が逸失利益となる(2964万7316円×0・7=2075万3121円)。

b 葬儀費用 197万7193円

原告は,Aの葬儀費用として,197万7193円を支出した。

c 死亡慰謝料 2500万円

Aは,無用な開腹,胆嚢摘出術及び肺切除術をされて全身状態が悪化し,体力が衰弱している中で,更に肺癌の見落としにより,死亡するに至った。これによって,Aが受けた甚大な身体的・肉体的苦痛を慰謝するには2500万円が相当である。

d 原告固有の慰謝料 500万円

原告は,Aの平成7年4月の桂病院への入院以降,平成8年10月の死亡に至るまで,ほぼ毎日Aの診療及び入院に付き添い献身的な努力をしてきたが,結局,Aの死亡により老後を一人取り残されることになった。原告の精神的苦痛を慰謝するには,500万円が相当である。

(エ) 弁護士費用 620万円

原告は,本件訴訟の追行を訴訟代理人に委任し,弁護士費用を支払う旨を約した。府立病院の医師の不法行為と相当因果関係のある弁護士費用は,620万円を下らない。

イ 被告京都府の主張

争う。

なお,仮に,平成8年1月30日の時点でAの肺癌を発見したとしても,次のとおり,Aに延命効果のある治療法は存在せず,同年10月13日における死亡の結果は避けられなかった。

(ア) 全肺癌患者の5年生存率は15パーセント以下で,肺癌は,極めて予後不良な難治癌である。

(イ) Aは,すでに左肺下葉がなかったから,癌が存在した左肺上葉を切除すると,片肺全切除という結果になるが,Aにおいてその手術をするのは不可能であり,Aに対して外科手術は施行できなかった。

(ウ) 肺癌の場合,化学療法(抗癌剤の投与)及び放射線療法は延命効果がない。

第4当裁判所の判断

1  事実経過等

前記基礎となる事実に証拠(甲7の1ないし3,甲8,9,12,19,乙7ないし10,丙1,2,3の1,2,丙6,10,証人B,同D,同C,同E,原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すると,次のとおりの事実が認められる。

(1) Aには,20代のころ,肺結核を患って京大病院に10か月間ほど入院した既往歴があった。

(2) (平成6年11月12日から同年12月5日までの入院)

ア Aは,平成6年10月24日,咳と発熱を訴え京都市立病院で診察を受けた。その際の胸部レントゲン検査では異常が認められなかったものの,肝機能の異常を指摘された。

イ Aは,同年11月11日,39度まで発熱し,近所の医院で診察を受けたところ,胸部レントゲン検査で異常陰影が認められ,桂病院を紹介された。

ウ Aは,翌12日,桂病院で肺炎と診断され,即日入院した。入院時のCT検査では,右肺のS4,S6,S9,S10域及び左肺のS9,S10域に浸潤陰影が認められ,WBC(白血球)検査及びCRP検査において高い炎症反応が認められた。B医師が肺炎の治療として抗生剤を投与したところ,Aのレントゲン写真上の浸潤陰影は徐々に縮小し,自覚症状も改善され,同年11月28日の時点では,WBC検査値及びCRP検査値とも低くなった。

エ この入院中に行われた喀痰細胞診において,扁平上皮癌を疑わせるレベルⅢの細胞(レベルⅠ,Ⅱは正常,レベルⅣ,Ⅴは癌と考えられている)が検出され,B医師は,経過観察が必要と判断した。

オ Aは,前記アのとおり,既に肝機能の異常を指摘されていたため,同年11月17日,桂病院で肝臓など臓器の超音波検査を受けた結果,同病院の馬場医師より,肝臓のS2域に直径16.2ミリメートルの嚢胞の存在を指摘されるとともに,慢性肝障害と診断された。

カ Aは,同年12月5日,桂病院を退院した。

(3) (平成7年4月27日に入院するまでの経緯)

Aは,上記退院後も桂病院への通院を続け,B医師に対し,咳や痰の症状を訴えた。その間,B医師は,Aについて,喀痰細胞診を数回実施したが,癌細胞を疑わせる細胞は検出されなかった。

(4) (平成7年4月27日から同年5月9日までの入院)

ア Aは,平成7年4月27日,桂病院で診察を受けたところ,39度の発熱があり,胸部レントゲン検査において右肺上葉に浸潤陰影が認められ,WBC検査値,CRP検査値が上昇していたことから,肺炎と診断され,即日,同病院に入院した。

イ 入院後,Aに対して抗生剤が投与されたところ,WBC検査値が低下し,右肺上葉の浸潤陰影も消失したが,このときされた喀痰細胞診では,腺癌様のレベルⅢの細胞が検出されたため,B医師は,肺癌についてなお経過観察を要すると考えた。

ウ B医師は,前記(2)アのとおり京都市立病院で肝機能の異常が指摘されていたこと,Aから入院したついでに肝臓の方も一応診てほしい旨の申し出を受けていたことから,同年5月2日,腹部超音波検査を受けさせた。検査を担当した桂病院のF医師は,「肝臓右葉のS5域に1.3センチメートル大の低エコー病変があり,腫瘤が疑われる。慢性肝障害はありそうだが,肝硬変を疑わせる所見はない。肝腫瘍が疑われ,肝細胞癌を除外する必要がある。」と指摘した。

エ Aは,同月9日,桂病院で上腹部のダイナミック・ダブルヘリカルCT検査を受けた。検査を担当したG医師は,「肝臓のS5-6域に早期相で直径1.5センチメートルの造影を受ける腫瘤が認められるが,後期相では周囲の肝実質と等濃度で検出できない。造影パターンからは,この腫瘤が肝細胞癌であることを第一に疑う。」と指摘した。

オ Aは,同日,桂病院を退院した。

カ B医師は,Aについて肺癌及び肝細胞癌の発症を疑い,喀痰細胞診を頻回行うこと及び消化器科を受診させることを今後の治療方針とし,同月12日,Aに対し,同病院消化器センター内科のC医師の診察を受けるよう指示した。

(5) (平成7年5月23日から同月29日までの検査入院及びこれに至る経緯)

ア Aは,平成7年5月16日,桂病院でC医師の診察を受けた。C医師は,上記超音波検査及びダイナミック・ダブルヘリカルCT検査の結果から,肝臓の右葉に肝細胞癌が疑われる腫瘤性病変があると診断し,Aに対して精密検査のための入院を勧めるとともに,原告に対しては,「肝臓に1.5センチメートル位の大きさの出来物ができていて,これは肝臓の癌です。手術をしなければ3年はもちません。」と説明した。

イ Aは,同月23日,上記腫瘤性病変の精密検査のため,桂病院に入院した。同日,C医師はAに対し,腫瘍マーカーと呼ばれる物質であるアルファフェトプロテイン(AFP)及びPIVKA-Ⅱの検査を行ったが,いずれの検査値も正常であり,悪性腫瘍の発症を示す所見は得られなかった。また,Aの肝臓部分の触診によっても,腫瘤に触れることはできなかった。同日,Aに対し,単純MRI検査が行なわれたが,肝臓のS5-6域内に占拠性病変は描出されなかった。翌24日,C医師は原告に対し,「やはり肝臓癌に間違いないですね。外科的手術が必要ですね。手術をしないと3年はおろか,半年いいえ1年はもちませんよ。」と説明した。

(なお,証人Cは,「原告に対し,適応があれば手術となる旨を説明したが,手術をしない場合の死期については話していない。」旨供述する。しかし,原告の陳述書(甲7)は,その内容が詳細かつ具体的であり,また,当時原告が毎日のように記載していたメモをまとめたものであると認められる(原告本人)から,その信用性を高く評価することができ,その記載に照らして,証人Cの郎の上記供述は採用することができない。)

ウ C医師は,翌25日,Aに対して血管造影検査(足の付け根の動脈に針を刺し,造影剤を注入して肝臓を撮影する方法による検査)を施行し,併せて,肝臓のCT-AP検査を行うとともに,リピオドールの注入を行った。

その結果,血管造影検査では,通常のレントゲン写真及びコンピュータを用いた写真(「DSA」という。)の双方で,S5-6域付近に1センチメートル余りの明瞭な濃染像が認められ,CT-AP検査では,S5-6域に門脈血流が欠損した像が認められた。

エ Aは,同月29日,桂病院を退院した。

(6) (Aが府立病院に入院するまでの経緯)

ア Aと原告は,C医師から手術を勧められた(C医師は,原告に対しては肝細胞癌であると説明したが,Aに対しては,癌の告知を避け,「肝臓に出来物ができているので,これを取ったほうがよい」と説明した。)が,原告は,Aが手術を嫌がっていたこと,桂病院には肝臓癌の専門医がいないと聞いていたことから,Aにこのまま桂病院で手術を受けさせることに不安を感じた。原告は,知人の医師に相談し,その医師から,府立病院第一外科の山根医師の紹介を受けた。原告は,C医師に対し,H医師への紹介状の作成を依頼し,同年6月1日C医師は,原告の求めに応じてAの紹介状を作成した。この紹介状には,「造影CT検査,血管造影検査,CT-AP検査等から肝細胞癌を考えている。アルコール多飲の病歴はあるが,HBS抗原,HCV抗体,肝予備能は十分であり,単発であれば手術にて期待できる症例かもしれない。経過観察,CT検査(リピオドールCT検査)にて,他に明らかなものがなければ,手術をと考えている。」旨の記載があった。

イ 同月6日,原告は,C医師作成の上記紹介状及び桂病院で撮影した各種フィルムを携えて府立病院を訪ね,同病院のE医師の所見を尋ねた。E医師は,上記フィルムを見て原告に対し,「おそらく肝細胞癌であろう。今なら小さいので,もし1個だけなら手術を行うのがもっともよいと考える。」との所見を示した。

ウ 同月13日,桂病院において,Aに対するリピオドールCT検査が行われたが,肝臓内に肝細胞癌特有のリピオドールの集積所見が認められなかった。同日,C医師は,A及び原告に対し,再び手術を勧めた。

エ 同月20日,原告とAは,府立病院でE医師の診察を受けた。E医師は,原告及びAに対し,入院して早く手術を受けることを勧めた。Aは,C医師のみならず,E医師からも手術を勧められたことから,手術を受ける決心をした。

(7) (府立病院入院から本件手術までの経緯)

ア Aは,平成7年6月26日,肝切除術を受けるために府立病院第一外科に入院した。主治医は,当初はH医師,7月1日からはD医師であった。入院時において,既に同年7月3日に肝細胞癌の切除手術を行うことが予定されされていた。

イ Aは,翌27日,突如39・8度まで発熱し,咽頭の痛みを訴えた。翌28日に行われた胸部レントゲン検査の結果,両肺に胸膜の肥厚が,左肺下葉に浸潤性の硬化像が認められ,D医師は,肺炎ないし肺胸膜炎と診断した。

ウ D医師は,同日,B医師に電話をかけ,Aの肺の状態について,既往症である結核の瘢痕のためにブラ(薄い上皮がはった肺の空洞)を形成しており,痰の喀出能力が低下しているために肺炎を起こしやすいこと等の情報の提供を受けた。

エ Aの熱は同日の午後にはほぼ平熱に戻った。しかし,D医師は,翌29日,Aの身体状況を考慮して翌月3日に予定していた手術を延期することとした。

オ E医師は,同年7月2日ころ,D医師に対し,肝切除術を施行する際に,肺の左下葉を切除するのが相当ではないかとの提案をした。D医師は,Aの肺疾患の病名について,それまでは「肺炎ないし肺胸膜炎」と診断していたが,そのころ行われたE医師との協議の中で「肺化膿症」ではないかと考えるようになり,①肝切除術後の合併症予防のために有効であること,②肺化膿症としての手術適応もあると判断したことから,肝切除術と同時に左肺下葉の切除術を施行することとした。

カ 同月10日,A及び原告は,D医師から肝切除術及び左肺下葉切除術について説明を受け,翌11日,これらの手術について,同意書(以下「本件同意書」という。)を提出した。なお,本件同意書中には,「(左肺下葉切除と肝細胞癌後下区域切除の)実施中に必要な操作と,これらの目的にかなった全身,又はその他の麻酔を受けることも併せて同意しました」との記載部分がある。なお,手術前,原告及びAは,桂病院や府立病院の医師から,肝細胞癌の存在について消極的な所見があること(腫瘍マーカー検査結果,MRI検査結果,リピオドールCT検査結果等)及び肝細胞癌の治療方法として,肝切除術以外に内科的治療方法があることについての説明を受けていない。

(8) (本件手術及びその後の入院の経緯)

ア 平成7年7月12日,本件手術が施行された。まず,午前中,I医師の執刀で,左肺下葉の切除術が実施された。左肺下葉の外側から背側にかけての癒着が強く,その部位の胸膜は石灰化が著しい上,肥厚も強かった。

イ 引き続き同日午後,E医師の執刀により,肝細胞癌の摘出のため,皮膚切開が腹腔部分にまで延長された。Aの肝臓は,色調,形,辺縁,硬度ともに正常で,腫瘍を触知できなかった。E医師は,術中超音波検査を行ったが肝腫瘤を発見できず,続いて右肝動脈から炭酸ガスを注入しつつ超音波検査を行ういわゆるアンギオエコー検査を行ったが,それでも肝腫瘤を発見することができなかった。E医師は,再度アンギオエコー検査を実施しようと考えたが,炭酸ガスによって空気塞栓が生じ,術後胆嚢が壊死して胆嚢炎を生じる危険があることから,2度目のアンギオエコーに先立って胆嚢を摘出した。その後,2度目のアンギオエコーを実施したが,腫瘤の発見に至らなかった。E医師は,事前の諸検査で腫瘤があると判断した像は,肝細胞癌ではなくてAPシャント(動脈門脈瘻,通常よりも上流で動脈と門脈がつながった奇形)であり,肝細胞癌はないと判断し,手術創を縫合閉鎖して,手術を終了した。

(これに対し,証人Eは,アンギオエコーを実施した後も,APシャントよりも肝細胞癌である可能性が高いと考えており,S6域を切除するか否か迷ったが,肝細胞癌を具体的に把握できない以上,これを取り残す危険があること,切除ラインに癌があった場合には癌細胞を散布させる結果になること,肝細胞癌がまだ小さいので,今後厳重にフォローすれば,改めて切除できること等から切除を断念した旨供述する。しかしながら,カルテ中の,手術記録には「肝細胞癌がないと判断した」旨,手術診断欄には「肝細胞癌の証拠なし」とそれぞれ記載されていること,E医師らがC医師やB医師に送付した報告書では,「少なくとも腫瘍性のものはないと判断し」「腫瘍性病変は存在しないと判断し」「我々はAPシャントと考えており」と,退院サマリーにも「手術診断 肝細胞癌なし」と記載され,退院後の通院カルテの病名は「APシャント」とされていることからすると,E医師は,アンギオエコーの結果から,肝細胞癌の可能性を捨てきれないまでも,少なくともAPシャントの可能性の方が相当高いと考えたと推認でき,同証人の上記供述部分は採用することができない。)

ウ 同月20日,Aの切除肺部分についての府立病院病理学部の病理報告がされた。これによると,①石灰化された箇所,②リンパ節のある箇所,③無気肺の箇所が指摘され,①ないし③の箇所には繊維化領域が認められるが,壊死組織は認められないとした上,切除左肺下葉について単状繊維性瘢痕と診断されている。

エ 同年8月7日,Aについてダイナミック・ヘリカルCT検査が行われたところ,やはり早期相において,肝臓のS6域に濃染像が認められ,放射線科の医師は,APシャント又は肝細胞癌の可能性を指摘した。

オ 同月21日,Aについてドップラーエコー検査がされたが,結果は不明瞭だった。

カ Aは,同日,府立病院を退院した。E医師は,退院時,Aに対し,経過観察のため定期的に通院することを指示した。

(9) (退院後の経過観察)

ア 退院後のAの診察は,E医師が担当した。Aは,同年9月5日,府立病院を受診し,E医師に嚥下障害を訴え,同年11月14日には,咳と痰の症状を訴えた。また,平成8年1月9日にも,吐き気があり胆汁が上がってくると訴えたが,痰については例年より少ないと述べた。

イ Aは,同年1月30日,府立病院を受診し,胸部レントゲン検査を受けた。E医師及び同病院の放射線科医師は,その画像に特に問題を認めなかった。

ウ Aは,同年2月27日,府立病院を受診し,朝に吐き気があり週一回ほど胆汁を嘔吐すると訴え,同年3月26日,発熱はないが咳と痰は出ると訴えた。

エ Aは,同年3月22日,上腹部のダイナミック・ヘリカルCT検査を受けた。これは同年1月9日に行われた血液検査の結果,肝機能が悪化していることが判明したので,E医師が指示したものである。検査の結果,放射線科の医師は問題を認めなかったが,E医師は,S6域に静脈相での陰影欠損があると判断した。なお,退院後,Aに対し,採血による肝機能検査はしばしばされたが,画像診断がされたのはこの時のみである。

オ 同年5月28日,Aは,府立病院を受診し,2週間前から咳が出て,左肩が痛いと訴え,胸部レントゲン撮影を受けた。その結果,左肺上葉に2個の貨幣状の陰影が認められたため,E医師は,肝細胞癌の肺転移を疑い,Aに対し,即日入院を勧めたが,Aは,はずせない仕事があるとして,これを断った。

(10) (Aの肺癌治療)

ア Aは,同年7月1日,宇多野病院に入院し,肺癌(腺癌)のⅣ期と診断された。同月10日に実施された骨シンチでは,全身骨転移が認められた。同病院では一度化学療法が試みられたが効果なく,その後は対症療法のみが施された。

イ 同年10月13日,Aは,肺癌の全身転移で死亡した。その病理解剖は行われなかった。

2  桂病院の医師が,Aについて,肝細胞癌の疑いが強く,肝切除術の適応があるとして,手術を受けるよう勧めたことの適否(争点1)

(1) 肝細胞癌の検査方法

証拠(甲1,4の1,2,乙1,2,5,6,証人E)及び弁論の全趣旨によると,肝細胞癌の検査方法等について,次の事実が認められる。

ア 肝細胞癌の診断のための検査手段としては,アルファフェトプロテイン(AFP)及びPIVKA-Ⅱといったいわゆる腫瘍マーカーに代表される血液生化学検査,超音波断層検査,CT検査,MRI検査,血管造影検査等の画像診断検査及び肝生検があり,これらの組み合わせによって,腫瘤が存在するか否かの存在診断のみならず,その腫瘤の性質を判断する質的診断が可能となる。

イ 血液生化学検査(特に腫瘍マーカー)について

a アルファフェトプロテイン(AFP)

血液中のAFPの濃度を検査する方法である。AFPは,健常な成人では血液中にごく微量しか存在しないが,肝細胞癌が発生すると,その濃度が高くなる。もっとも,小さな肝細胞癌の場合には,AFPの検査値が高くならないことがある。

b PIVKA-Ⅱ

血液中の血液凝固因子プロトロンビンの異常なものであるPIVKA-Ⅱの濃度を検査する方法で,肝細胞癌の50ないし60パーセントで濃度の増加がみられる性質を利用するものである。

ウ 画像診断検査

a 超音波検査

超音波検査は,無侵襲で手軽にでき,腫瘤性病変を立体的に描出ないし理解することが可能である。肝細胞癌の超音波像は,その大きさによって種々であるが,直径2センチメートル以下の場合は,ほとんどが低エコーを呈する。

b CT検査

(a) 単純CT検査

単純CT検査では,肝細胞癌は低吸収域として描出される。

(b) ダイナミック・ヘリカルCT検査

ダイナミックCT検査は,造影剤を急速に静脈注射して断層写真を撮影するものである。螺旋状にスキャンする機器を用いてこのダイナミックCT検査を行う方法をダイナミック・ヘリカルCT検査という。

正常な肝細胞は,血液の多く(約75パーセント)を門脈血流に依存しているが,癌細胞は血液の多くを肝動脈血流に依存している。そして,肝動脈血流が門脈血流よりも先に肝臓に到達するので,造影剤を注射すると,肝細胞癌の部分は,まず周辺の正常肝組織よりも高濃度域になり,次いで正常肝組織と同じ濃度になり,最後に正常肝組織よりも低濃度域になる。

したがって,早期相(動脈相ともいう)では,正常肝組織が造影剤で染まる前に肝細胞癌が造影剤で染まり,後期相(晩期相,平衡相ともいう)では,肝細胞癌が正常肝組織よりも低濃度となる。これによって,腫瘤の質的診断が可能となる。

(c) リピオドールCT検査

リピオドールCT検査とは,血管造影を施す際に油性のリピオドールを動脈注射して,その数週間後にCT撮影を行うものである。腫瘍の新生血管は,正常な血管に比してリピオドールを排出しにくい性質があるため,この撮影をすると,肝細胞癌の部分にリピオドールが残留(集積)していることを示す像が得られる。これによって,他の画像診断方法では識別できない小さな肝細胞癌の病巣を発見することができる。血管腫などにもリピオドールが集積すること,血管に乏しい肝細胞癌では陽性所見を得られにくいこと等に注意を要する。

(d) CT-AP検査

CT-AP検査は,門脈の上流に位置する上腸間膜動脈に造影剤を注入し,造影剤が門脈に達したころにCT撮影を行う検査方法である。造影剤によって,正常な肝細胞は染まるが,上記のとおり,癌細胞は動脈血に支配されているので,染まらず,門脈血流の欠如を示す。これによって質的診断が可能となる。もっとも,肝細胞癌以外にも門脈血流の欠如を示す病態があり,APシャントはその一つである。

c MRI検査

これは,身体の外から強い磁気をかけて,様々な方向からの断層写真を撮影する検査であり,CTでは見つけにくい肝臓の小さな変化や,病変の位置を知るのに役に立つ手法である。

しかし,MRIの機種,性能によっては,1・5センチメートル以下の小さな腫瘍が描出されないことがあり得る。桂病院のMRIではその可能性がある。

d 血管造影検査

これは,股の付け根から挿入したカテーテルの先端を肝動脈まで送り込み,このカテーテルを通じて造影剤を注入した後に,レントゲン写真撮影を行う検査方法である。

エ 肝生検

これは,肝臓に細い針を突き刺して組織の一部を採取し,採取した組織を組織検査するものであり,癌細胞が確認できれば確定診断となる。この方法は超音波ガイドを用いてされることが多いが,直接当該肝組織を見ているわけではないので,止血などの点で難があるほか,腫瘍組織を破壊して癌細胞を周囲に撒き散らす(播腫)危険がある。また,非常に分化した肝細胞癌の場合には,正常な肝組織との区別が困難なことが少なくない。

(2) 肝細胞癌の治療法及び手術適応

証拠(甲1,4の2,乙2,5,証人E)及び弁論の全趣旨によると,肝細胞癌の治療法及び手術適応について次の事実が認められる。

ア 肝細胞癌の主たる治療法としては,①エタノール注入療法,②肝動脈塞栓法,③外科手術等がある。

イ ①は,癌組織に直接アルコールを注入して壊死させる方法であり,癌の大きさが3センチメートル以下で,数が3個以内の場合に適応があり,患者への負担も少ない。

ウ ②は,肝動脈に塞栓物質を入れ,癌細胞に血液が行かないようにしてこれを壊死させる方法である。門脈本幹ないしは一次分枝に腫瘍塞栓がないことが条件になる。

エ ③は,①②に比して,侵襲の程度が高いが,根治性が高いという利点を有する。腫瘍が単発であること,全身状態が良好であること,残存肝予備能があること,腫瘍が切除しやすい位置にあること等が条件となる。

(3) Aの肝細胞癌罹患の有無

ア 本件手術の際,Aの肝臓に腫瘤を発見することができなかったE医師は,術前に肝細胞癌と診断した画像がAPシャントであった可能性が高いと判断した。また,本件手術後,Aが死亡するまで,府立病院に及び宇多野病院において,Aについて原発性の肝細胞癌(その可能性も含めて)が指摘されたのは,平成7年8月7日及び平成8年3月22日に行われたダイナミック・ダブルヘリカルCT検査の各結果しかなく,これらもAPシャントを否定するものではない。

イ もっとも,本件手術前の腫瘤画像は,APシャントの典型的な像ということもできない(弁論の全趣旨)。

ウ そうすると,本件手術前の画像がAPシャントを描出したものであって,肝細胞癌ではなかった可能性が強いというべきであるが,Aの遺体の解剖が行われなかった本件において,Aに肝細胞癌がなかったと断定することはできない。

(4) 桂病院の医師が,Aについて,肝細胞癌の疑いが強く,肝切除術の適応があるとした判断について

ア ダイナミック・ダブルヘリカルCT早期相でS5-6域に濃染像がみられたこと,血管造影検査でも同じ部位に濃染像がみられたこと,CT-AP検査でも同じ部位に門脈血流の欠損像がみられたことに照らせば,C医師がした腫瘤が存在する旨の診断のみならず,その腫瘤が肝細胞癌であると疑った質的診断も相当な理由のあるものというべきである。

イ これに対し,原告が肝細胞癌を否定すべき根拠として主張するものについて検討する。

(ア) 腫瘍マーカーが陰性であったことについては,AFPは肝細胞癌が小さい場合(上記各画像が肝細胞癌であるとすれば,これに当たる)は陽性にならないことがあること,PIVKA-Ⅱは,肝細胞癌の半分近くのケースで陽性にならないことに鑑みると,上記判断を覆さない。

(イ) MRI検査で腫瘍が描出されなかったことについては,MRIの機種,性能によっては,1・5センチメートル以下の小さな腫瘍が描出されないことがあり得るところ,桂病院のMRIではその可能性があるから,上記判断を覆さない。

(ウ) リピオドールの集積所見が認められなかったことについては,血管に乏しい肝細胞癌では陽性所見を得られにくいことを考慮すると,上記判断を覆さない。

(エ) Aが,いわゆる肝細胞癌のハイリスク群患者(HBS抗原陽性者,HCV抗体陽性者,肝硬変患者等)でなかったことについては,証拠(乙4)によると,日本肝癌研究会の肝癌追跡調査報告によれば,肝細胞癌患者について,HBS抗原及びHCV抗体共に陰性の症例が11.1パーセント,併存肝病変を有さない症例が5.8パーセントと,それぞれ少ないながらも存在したことが認められるから,上記判断を覆さない。

(オ) ダブルヘリカルCT検査(後期相)で低濃度となる像が描出されなかったことについては,門脈血流に運ばれた造影剤が肝実質に浸透する時期の読み違いの可能性があるから,上記判断を覆さない。

ウ 以上のとおり,C医師が,Aについて肝細胞癌を疑ったことには十分な根拠があったというべきである。また,リピオドールCTによって複数の腫瘍があることが明らかにならなかったこと,Aに肝機能障害がなく,肝予備能に問題がなかったこと,肝切除がもっとも根治性の高い治療方法であること等を考慮すると,C医師が,治療方法について肝切除術を第1選択と判断したことにも合理的な理由があったというべきである。

確かに,C医師が,原告に説明した内容(1の(5)のア,イ)は,すべての検査が終わっていない段階での発言であり,腫瘍マーカーやMRI検査等,肝細胞癌の存在について消極的な所見も存在したことを考慮すると,断定的にすぎ,かつ,肝切除術以外の治療法について全く触れない点において不適切な面があることは否定できないが,その診断及び外科手術の適応とする説明は上記のとおり合理的な根拠を有するものである上,最終的に手術を決定する段階での説明ではなく,いわば問題提起段階での説明でるから,これが社会的相当性を逸脱して違法であると解することはできない。

なお,C医師は,肝生検を実施することなく肝細胞癌との診断をしたものであるところ,なるほど肝生検による組織検査で癌細胞が確認できれば,それによって確定診断が下せることになるが,上記のとおり,ダイナミック・ダブルヘリカルCT検査,血管造影検査,CT-AP検査等でも質的診断が可能である一方,肝生検には,播種等の危険があるから,これを実施することなく診断をしても,これに落ち度があるということはできず,この点を考慮しても,前記判断に影響はしない。

3  府立病院の医師がAに対して肝切除のための開腹手術をしたことの適否(争点2)

(1) Aが肝細胞癌に罹患していなかったと断定することはできないことは上記のとおりである。

なお,原告は,府立病院の医師がAについて肝切除術を実施するか否かを決定するに当たり,Aに肝細胞癌が存在するかどうかについて,独自に検査して正しい診断をすべき義務を負っていた旨主張する。

しかしながら,一般に,手術を実施する医療機関がその患者の病名を診断し,治療方法等を決定するに当たり,独自に実施した検査結果だけをその資料として診断,決定するべき義務があるとは解せられず,他の医療機関が実施した検査結果であっても,その実施時期,画像の鮮明度等から,価値がある限り,診断,決定の資料とすることはできるというべきであるし,患者の身体に対する無用な侵襲を避ける見地(血管造影等は侵襲を伴う。)からもそれが要請されるというべきである。

そして,桂病院における検査は直近になされたものであること,検査結果は良質のものであったこと(証人E,弁論の全趣旨)等の事実に鑑みると,府立病院においてAの病名を診断し,治療方法を決定するに当たり,これらを資料としたことは相当であったというべきである。

(2) 次に府立病院の医師の判断内容について検討する。

ア 上記のとおり,ダイナミック・ダブルヘリカルCT早期相における濃染像,血管造影検査における濃染像及びCT-AP検査における門脈血流の欠損像(以下,これらを総称して「本件積極所見」という。)は,肝細胞癌の存在を疑うに足りる根拠となるものである。他方,原告が,これを否定するべき根拠として主張する事実(2のイの(ア)ないし(オ),以下,これらを総称して「本件消極所見」という。)は,上記のとおり,いずれも肝細胞癌が存在する事実と矛盾するものではない。そうすると,E医師がAについて肝細胞癌との診断を下したことには合理性があったというべきである。

イ 次に,肝細胞癌との診断を前提としても,その治療方法の選択については,慎重な考慮を必要とする。すなわち,①本件消極所見が肝細胞癌の存在と矛盾しないとはいえ,多くの肝細胞癌の場合,これらの検査においても積極所見が出るのが普通であり,本件消極所見のそれぞれは,肝細胞癌の存在と矛盾するものではないにしても,これらが複数あることによって,肝細胞癌の存在について一定の疑いは生じること,②本件積極所見によって肝細胞癌の存在を疑う合理的な根拠があるとしても,これを断定できるものではなく,肝細胞癌以外にも,APシャント等,本件積極所見と同一の所見を示す病像があること,③肝細胞癌の確定診断のためには,播種等の危険があるとはいえ,なお肝生検という方法が残されていたこと,④肝細胞癌に対する治療方法としては,肝切除術のほかに,エタノール注入療法,肝動脈塞栓法等の内科的治療方法があったことを考慮すると,Aの状態が,医師として,急いで肝切除術を実施するしか選択肢のなかった事例であったとは解されない。すなわち,①の事実からすると,桂病院で用いられたものよりも精度の高い機種によるMRI検査,経過観察等によって肝細胞癌の存否をさらに確認する方法を採る(弁論の全趣旨によると,府立病院の医師が肝細胞癌と判断した肝臓の腫瘤の大きさは小さく,多少の時間をおいても肝切除術による治療は可能と判断されるものであったことが認められる。)ことが考えられるべきであり,肝細胞癌との判断を前提としても,内科的治療方法を試みる等の,いくつかの選択肢があったというべきである。そうすると,府立病院の医師としては,Aに対し(Aに対して癌の告知ができないのであれば原告に対し),診療契約上の義務として,上記①ないし④の情報を提供した上で自らの意見をも述べ,Aの自己決定権を保証するとともに,手術を実施する限りは,これらの知識を前提とする真摯な同意を得て手術を実施するべき注意義務があったというべきである。とりわけ,Aのような高齢者の場合,手術という侵襲によって受ける身体的ダメージが大きい上に,仮に手術が成功しても必ずしも長い余命が期待できるわけではないから,残された人生をいかに選択するかについては本人の意思を尊重すべきであることも考慮すると,正確な情報提供と,それに基づく判断の機会の提供の必要性が高かったと言わなければならない。

しかるに,E医師及びD医師は,Aないし原告に対して上記情報を提供せず,Aの肝臓に肝細胞癌が存在し,これを速やかに切除する必要がある旨の説明のみをし,本件同意書に基づく同意を得て本件肝切除術を施行したものであり,上記同意は正確な情報を前提としない同意であって,真実の同意とは評価できない。そうすると,本件肝切除術は,患者の真実の同意に基づかない手術として違法との評価を免れないものである。

4  府立病院の医師が,Aの胆嚢を摘出をしたことの適否(争点3)

上記のとおり,本件で府立病院の医師が肝切除術を実施したのは違法であるところ,これを実施しなければ胆嚢の摘出もなかったから,胆嚢が摘出されたことによって原告が被った損害は,上記違法行為と相当因果関係があるというべきである。

なお,仮に,肝切除術の実施自体が違法でないとしても,胆嚢の摘出については,Aないし原告の同意を得ていないから,違法であるというべきである。

被告京都府は,胆嚢の摘出を余儀なくされたのは,事前に予想し得なかった事態であり,同意を得ることができなかったのはやむを得ない旨主張する。しかしながら,手術前の検査では,肝細胞癌があるとの確定診断をするに足る所見はなく,逆に消極的所見もあったのであるから,府立病院の医師としては,開腹しても肝細胞癌が見あたらず,これを探すために,術中エコー検査やアンギオエコー検査の実施を余儀なくされる事態があり得ることは事前に予想するべきであり,これを予想していれば,Aないし原告に対し,開腹しても肝細胞癌が見当たらない場合に,胆嚢切除が必要となるアンギオエコー検査をしてまで肝細胞癌を探すか,そこまでしないで手術を終えるかについて,自己決定の機会を与えることができたのである。よって,被告京都府の上記主張を採用することができない。

更に被告京都府は,胆嚢切除は,本件同意書の「(肝切除に)必要な操作及び予期しない拡大行為」に当たる旨主張するが,上記のように,胆嚢摘出が手術前に予想できる事態であるから,具体的に説明して同意を得る必要があるというべきであって,同意書中にこのような抽象的な文言があるからといって,それによって本件の胆嚢摘出の違法性が阻却されるとは解することができない。

5  府立病院の医師が肺切除手術をしたことの適否(争点4)

(1) 証拠(甲10,11,丙4,5)によると,次の事実が認められる。

ア 肺化膿症とは,細菌感染によって肺実質の壊死を伴う肺の炎症性疾患をいう。発病後6週までを急性期,12週までを亜急性期,それ以降を慢性期とするが,急性期には発熱,悪寒,胸痛等を訴え,亜急性期に移行するに従い,喀痰量の増加,腐敗性悪臭を認めるようになる。ときに血痰,喀血を訴える。胸部レントゲンで浸潤影を示し,気管支と交通がある場合は鏡面像を示す。治療の第1選択は抗生物質の投与であり,起炎菌を同定して,これに応じて適切な抗生物質を選択する。

イ 肺化膿症における外科手術の適応についての考え方は,成書によって異なるが,次のような考え方が示されている。

(ア) ①初診時径6センチメートル以上の巨大膿瘍,②2週間以上持続する発熱と中毒症状,③6ないし8週間以上の遷延例で,膿瘍壁の肥厚例,局所の拡張性変化,癌の陽性所見が認められる症例,④繰り返す喀血例,⑤気管支肺胞瘻,膿胸の合併例等(丙5)

(イ) 治療開始から2か月後の所見で,①胸部X線写真上,結節性線維化巣のあるもの,②空洞が見られるもの,③pyofibrosisとなり発熱,喀痰,咳嗽を繰り返すもの,④続発性気管支拡張症をきたし,血痰の多い例,喀血を繰り返すもの,⑤小さな腫瘤陰影を示す肺癌と紛らわしいもの等(丙4)

(ウ) ①内科的治療が奏功せず,6ないし8週間が経過するもので,病変が限局性のもの,②癌性腫瘍またはその可能性が考えられるもの,③肺化膿症の続発症,後遺症で外科的治療の効果が期待できるもの,④内科的治療により経過した場合にもたらされる肺機能障害が外科治療によりもたらされるそれよりも上回ると予想されるもの,⑤肺化膿症の原因が奇形や除去困難な異物などで,肺化膿症の再発が予想され,外科的治療によらなければ治癒が望めないもの(甲10)

(エ) ①肺癌が否定できない場合,②大量喀血,気管支胸腔瘻,膿胸の場合(甲11)

(2) 1で認定した事実に証拠(乙7,丙3の2,証人B,同D,同E)を総合すると,次の事実が認められる。

ア Aは,平成6年11月12日から同年12月5日まで,平成7年4月27日から同年5月9日までの2度にわたり,肺炎で桂病院に入院した。主治医は,2度ともB医師であった。前者の入院の際,Aの左右の肺に浸潤陰影が認められたが,その退院時にはかなり縮小しており,その後の通院によって肺炎は治癒したと判断された。2度目の入院の際,Aの右肺に浸潤陰影が出現したが,退院時には,消失しており,肺炎は治癒したと判断された。なお,前者の入院の際には,喀痰細胞診で扁平上皮癌に似た細胞が,後者の入院の際には腺癌に似た細胞がそれぞれ検出されたが,いずれもレベルⅢであり,B医師は,経過観察が必要と判断した。

イ Aは,府立病院に入院した日の翌日である平成7年6月27日夜間に高熱を発した。当夜当直であったD医師は,これに対し,肺炎ないし胸膜炎と診断し,一般に肺炎に対してもっともよく用いられる抗生物質であるペントシリンを投与した。翌28日,D医師は,B医師から,「Aの肺は,既往症である結核の瘢痕のためにブラを形成しており,痰の喀出能力が低下しているために肺炎を起こしやすい」との情報提供を受けた。Aの症状は,28日には解熱傾向を示し,同日午後以降は37度以下となった。Aに対する治療としては,同年7月4日までペントシリンが投与された外,上気道炎に対する投薬が3日間続けられた。なお,細菌の培養検査では,常在菌以外は検出されなかった。

ウ 同月2日ころ,E医師は,J医師に対し,肝切除の際に左肺下葉を切除するのがベターではないかと示唆し,これを受けたJ医師は,D医師に対し,E医師の上記示唆の内容を伝えると共に,自らの意見として,左肺下葉の切除をすれば,術後肺炎が回避できるのではないかとの意見を述べ,E医師と相談するよう指示した。その後,D医師はE医師と相談の上,同月6日ころまでには,Aは肺化膿症に罹患していると診断すると共に,肝切除の際に,左肺下葉を切除するのが相当であるとの判断を固め,同月10日ころ,A及び原告に対し,その旨の説明をした。

(3) 被告京都府は,Aについて,肺化膿症に罹患しており,かつ手術適応を満たしていた旨主張する。しかし,仮にAが肺化膿症に罹患していたとしても,肺化膿症における手術適応の基準は,(1)で認定したとおり,成書によって異なるものの,Aの場合,投与された抗生物質が著効を示し,6月27日の発熱は翌日には治まり,抗生物質の投与も同年7月4日には打ち切られたのであるから,内科的治療が速やかに奏功した事例であると言うべきであること,前々回(平成6年11月12日から同年12月5日までの入院時)の肺炎発症時の浸潤陰影は左右の肺であり,前回(平成7年4月27日から同年5月9日までの入院時)の肺炎発症時の浸潤陰影は右肺であり,今回(平成7年6月27日)の肺炎発症時の浸潤陰影が左肺下葉であるから,3回の肺炎が同じ部位の膿瘍を原因とするとは言えないこと,肺癌の疑いがないではないが,経過観察が必要な程度であること等の事実に鑑みると,D医師ら府立病院の医師らがAの左肺下葉の切除が相当であると判断したのは,肝切除術による術後肺炎の発症を恐れたことが主たる理由であって,もし,肝切除術が行われなければ,左肺下葉の切除術も行われなかったと認めるのが相当である。

(4) 前記のとおり,本件における肝切除術の施行は違法であった。そうすると,肝切除術が行われなければ左肺下葉切除術も行われなかったのであるから,その余について検討するまでもなく,被告京都府は,Aの左肺下葉切除によってAに与えた損害についても賠償する責任があると言わなければならない。

6  府立病院の医師の肺癌の見落としの有無(争点5)

(1) 鑑定の結果及び弁論の全趣旨によると,Aは,平成8年1月30日までには肺癌に罹患していたこと,同日に撮影されたAの胸部レントゲン写真(検丙3)では,左肺門上極が腫脹していて,これが肺癌であったこと,胸部疾患の専門医であれば,上記写真を見て肺癌を強く疑い,更にCT検査,気管支鏡等による生検等の検査を行うべきであり,それによって肺癌を発見することができたことが認められる。

(2) そして,E医師は,消化器(肝臓)外科医であり,胸部疾患については専門外であるが,そのE医師が退院後のAのフォローを担当したのは,その主眼が肝細胞癌についての経過観察にあったためであったと考えられるものの,E医師は,本件手術においてAの左肺下葉を切除したこと及びそれ以前からB医師によって肺癌が疑われていて経過観察を要するとされていたことを知っていたこと,通院中,Aは,嚥下障害,咳,痰等の呼吸器系の症状を訴えていたこと,府立病院は医科大学の附属病院である総合病院であるから,胸部疾患の専門家も多く,E医師はその助言,援助を受け得たこと(弁論の全趣旨)を考慮すると,E医師は,必要に応じて府立病院の胸部疾患の専門医の助力を求めるなどしてAの呼吸器についても充分な注意を払うことが要請されていたというべきであって,E医師がAの肺癌を見落としたことはその過失によるものと認められる。

7  損害(争点6)

以上のとおり,被告京都府は,民法715条に基づき,府立病院の医師の不法行為によってAないし原告に対して与えた損害を賠償する責任があるというべきである。そして,上記不法行為と相当因果関係のある損害について,次のとおり判断する。

(1) 違法な肝切除術の施行により,Aを開腹し,胆嚢を切除し,左肺下葉を切除したことによる損害

Aは,肝細胞癌についての各種の検査結果について正確な情報を与えられず,肝細胞癌が存在し,治療方法としては手術しかないと思いこまされ,高齢の身でありながら,手術を受けることを承諾したものであって,自らの意思で残された余命を如何に生きるかについての自己決定の機会を奪われたものである(なお,Aは,医師から肝細胞癌の告知を受けておらず,腫瘤があるのでこれを切除する旨の説明を受けていたものであるが,告知を受けていた原告の態度等からこれを内々察していた可能性は充分あり,癌の告知がなかったことが被告京都府に有利な事情として働くことは相当でないから,公平の見地から,原告にされた説明は,Aに対してなされたものとみなして損害額を評価するべきである。)。そして,予想もしていなかったのに胆嚢を摘出され,その後,胆汁が食道を通って口腔内に上がってくる不快感にしばしば悩まされた。更に,左肺下葉も摘出された。

これらの事情を総合勘案すると,府立病院の医師による上記行為の結果Aが被った精神的苦痛を慰謝するためには400万円が相当と認められる。

(2) 肺癌の見落としによる損害

ア 肺癌についての医学的知見

証拠(甲3,丙19ないし25)によると,肺癌に関し,次の事実が認められる。

(ア) 原発性肺癌の大部分は,非小細胞癌(扁平上皮癌,腺癌及び大細胞癌)及び小細胞癌に分けられ,非小細胞癌が肺癌の80ないし85パーセントを占める。

(イ) 病期は,Ⅰ期からⅣ期に分けられる。Ⅰ期及びⅡ期では,太い期間に発生した場合に気管の刺激症状としての咳,痰が出現し,気管支粘膜に浸潤し毛細管を損傷すると血痰が出現し,気管支の狭窄が生じた場合には,勢鳴,呼吸困難が現れる。末梢発生の場合には,比較的症状が少ない。Ⅲ期になると,腫瘍の浸潤が周囲の組織に進出する。胸膜に及ぶと胸痛が生じ,上腕神経叢に浸潤すると上肢の疼痛が生じ,上大静脈への浸潤によって同静脈が閉塞されると上肢,顔面の浮腫が生じ,心外膜へ浸潤すると心のう炎が生じる。Ⅳ期になると,全身に転移する。

(ウ) 平成7年ころにおいて,全肺癌患者の5年生存率は15パーセントに満たない。それは,非小細胞癌の第1選択の治療法は手術であるが,相当程度進行するまでは症状の現れないことが多いため,症状の診断時に進行癌になっている場合が多く,外科治療の適応になりにくいこと,なりえても再発する例が多いこと,手術不能の場合の化学療法には,著効を示すものがまだ開発されておらず,その治癒成績は満足のいくものではなく,予後好転に効果を示さない例も多いこと等による。

(エ) 平成6年ころにおいて,非小細胞癌の手術後の5年生存率は,50パーセント弱であり(腺癌のそれも同様である),病期別に見ると,Ⅰ期で手術がされた場合は約75パーセント,Ⅱ期で手術がなされた場合は約45パーセントであったとの報告もある。

イ 府立病院の医師の肺癌の見落としとAの死亡との因果関係の有無

(ア) 1で認定したとおり,平成8年7月1日,Aが宇多野病院に入院した当時,既にAの肺癌はⅣ期に達しており,同月10日には全身に骨転移していることが確認されたものである。

(イ) 同年1月30日当時のAの肺癌の病期については,これを認めるに足る証拠がない。すなわち,1で認定したように,その当時,Aが訴える呼吸器の症状は,咳,痰,嚥下障害程度ではあったが,上記認定のとおり,肺癌には相当程度進行するまで無症状のものも多いこと,Aの症状は,上記当時から相当進行したと見られる同年5月28日の時点においてすら2週間前からの左肩痛と咳が見られたのにとどまり,それまでは特段の症状を訴えていないこと,それにもかかわらず,同年7月10日には全身の骨転移が認められ,同年10月13日には,全身転移のために死亡するに至っていることからすると,同年1月30日ないしそれから所要の検査を行って肺癌と診断され,治療を開始することが期待される同年2月初旬ないし中旬ころにおいて,Aの肺癌は相当程度進行していたことがうかがえるものの,なおその病期を確定することはできない。

(ウ) 以上の事情を考慮すると,府立病院の医師が,平成8年1月30日の時点で,肺癌を疑い,検査によってこれを確認したとしても,その肺癌の手術の適応があったと認めることはできず,その他の治療を行うことによって,Aが同年10月13日より後までも延命を図ることができた高度の蓋然性があったとまでは認めることができない。したがって,府立病院の医師の肺癌の見落としとAの死亡との間に相当因果関係を認めることはできない。

ウ そうすると,原告が主張する損害のうち,府立病院の医師の上記過失とAの死亡との間に相当因果関係があることを前提とする損害(逸失利益,死亡慰謝料,Aの死亡による原告固有の慰謝料,葬儀費用)は,これを肯認することができない。

もっとも,Aは,府立病院の医師の上記過失がなければ,延命し得た蓋然性は皆無ではない上,結果的には延命が図れなかったとしても,医師による医療水準に則った適切な治療を受け得るという期待ないし地位を有しており,延命に対する期待,適切な治療を受ける期待ないし地位は,法的保護に値する。そして,Aは,肝細胞癌切除のための開腹と胆嚢摘出,左肺切除術を受け,術後の経過観察のために定期的に通院していたのであり,もともと桂病院において肺癌を疑われていたという経緯もあるだけに,肺癌を発症すれば,速やかにこれを発見して最善の治療を受け得るもの,その結果,あるいは延命が図れたかもしれないというと期待していたはずであって,これを裏切られた精神的苦痛は,慰謝料の支払をもって慰謝されるべきである。原告の慰謝料の請求には,その趣旨も含まれると解することができる。

そして,本件に現れた一切の事情を勘案し,その慰謝料としては,400万円をもって相当と認められる。

(3) 府立病院の医師らの不法行為と相当因果関係のある弁護士費用としては,本件事案の性格,審理経過,認容額を総合勘案すると,80万円をもって相当と認められる。

8  結論

以上のとおりであって,原告の本訴請求は,被告京都府に対し金880万円及びこれに対する各不法行為の後である平成8年2月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し,被告財団に対する請求及び被告京都府に対するその余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し,訴訟費用の負担につき民訴法61条,64条本文,65条,仮執行の宣言につき同法259条1項にそれぞれ従い,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 水上敏 裁判官 井戸謙一 裁判官 吉田静香)

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