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京都地方裁判所 平成7年(行ウ)11号 判決 1999年7月09日

原告

小谷美世子

右訴訟代理人弁護士

村山晃

佐藤克昭

岩橋多恵

被告

地方公務員災害補償基金京都府支部長 荒巻禎一

右訴訟代理人弁護士

石津廣司

主文

一  被告が、原告に対し地方公務員災害補償法に基づき平成三年八月一四日付けでした公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文と同旨

第二事案の概要

一  本件は、養護学校の教員である原告が、頸肩腕症候群及び背痛症に罹患したのは公務上の災害に当たるとして、被告のした公務外認定処分の取消を求める事案である。

二  争いのない事実等

1  原告(昭和二五年八月一八日生)は、昭和四八年四月に京都府に教員として採用され、昭和五五年三月まで府立与謝の海養護学校桃山分校に勤務し、小学部、高等部を担当した(なお、同分校は、その後、府立桃山養護学校に組織改編するとともに名称を変更した。)。

昭和五五年四月からは、府立桃山養護学校しらうめ訪問教育部(以下「本件職場」という。)に勤務し、国立療養所南京都病院のしらうめ病棟に入院している重症心身障害児の訪問教育を担当した(なお、同校は、昭和五七年四月に府立南山城養護学校しらうめ訪問教育部に、昭和五八年四月に府立南山城養護学校城陽分校に、昭和六一年四月に府立城陽養護学校にそれぞれ組織改編するとともに名称を変更した。)。

2(一)  原告は、昭和五六年の定期健康診断で「これ以上肩こりや頭痛が強くなるようであれば要加療」との指示を受け、昭和五八年六月一〇日に岡本外科・整形外科医院(以下「岡本医院」という。)において、頸腕症候群と診断され、昭和五九年一月一三日には京都第一赤十字病院で起立性低血圧症、緊張性頭痛症と診断された。

その後、原告は、同年二月二三日に上京病院で姫野純也医師(以下「姫野医師」という。)の診察を受け、頸肩腕症候群(頸肩腕障害)、背痛症(以下、これらを「本件疾病」という。)と診断された。

(二)  原告は、同年四月から昭和六一年三月まで休職した。

3(一)  原告は、昭和六〇年五月七日に、被告に対し、本件疾病は公務上の災害に当たるとして、地方公務員災害補償法四五条に基づき公務災害認定を請求した。しかし、被告は平成三年八月一四日付けで公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をし、同年九月四日に原告に通知した。

(二)  原告は本件処分を不服として、同年一一月一日に地方公務員災害補償基金京都府支部審査会に対し審査請求をしたが、同審査会は平成六年六月一日付けでこれを棄却する旨の裁決をした。

(三)  さらに、原告は、同年七月一日に地方公務員災害補償基金審査会に対し再審査請求をしたが、同審査会は三か月以上経過しても裁決をしなかったため、平成七年四月一二日に本訴を提起した。なお、同審査会は、同年九月六日に原告の再審査請求を棄却する旨の裁決をした(<証拠略>)。

三  争点

1  原告は本件疾病に罹患したか。

2  本件疾病は公務上の災害に当たるか。

四  争点についての原告の主張<略>

五  争点についての被告の主張<略>

第三争点に対する判断

一  争点1(本件疾病の罹患)について

1  原告の症状、治療経過について

証拠(<証拠・人証略>)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 頸肩腕症候群とは、頸部、肩、上肢、前腕、手指に痛み、重感、こり、しびれ、脱力などの症状を呈する疾病である。

(二) 原告は、昭和四八年四月、京都府に教諭として採用され、昭和五五年四月から本件職場で勤務し、重症心身障害児の訪問教育を担当していた。

原告は、昭和四八年に児童に背後から飛びつかれて腰痛を発症したことがあったが、おおむね昭和五五年度までは腰、頸部、肩の異常を訴えることはなかった。

(三) 原告の昭和五五年度から昭和五七年度までの定期健康診断の結果は別紙<略、以下同様><7>の、昭和五四年から昭和五八年六月までの既往歴は別紙<8>のとおりであり、その間の症状の推移は次のとおりである。

(1) 昭和五五年度

原告は、一〇月ころから、肩こり、背部痛を感じるようになり、同月の定期健康診断で肩こり、腰痛を訴え、頸椎不安定症と診断された。

(2) 昭和五六年度

原告は、五月ころから頭痛、肩こりを感じ、同月から七月まで岡本医院に通院した(診断名は腰椎側弯症、肩こり症)。右症状は夏期休業により一時緩和したが、二学期の開始により再発し、同年一〇月の定期健康診断で、肩こり、腰痛を訴え、医師から様子観察を指示された(医師の所見は「肩こり、腰痛が強くなれば加療のこと」というものであった。)。冬休み、春休みに入ると右症状は緩和した。

(3) 昭和五七年度

原告は、四月から腰痛、肩こりを感じ、二学期には右症状が増悪した。一一月の腰痛等検診で筋・筋膜性腰痛症と診断された。

(4) 昭和五八年度

原告は、昭和五八年四月初めから腰、肩の痺れを感じていたところ、五月ころ、体重四二・一キログラムの児童を教員二名で抱いて車椅子に乗せようとした際、右上腕部に痛みを覚え、六月一〇日に岡本医院で受診したところ頸腕症候群と診断された。その後も背、肩、頸部、後頭部痛が増強し、昭和五九年一月一三日に京都第一赤十字病院で起立性低血圧症、緊張性頭痛症と診断され、通院加療を受けた。二月ころ、体重二二キログラムの児童を抱いてベッドに移そうとした際に、右背から肩、頸部にかけて痛みを感じ、以後、背、肩、頸部、後頭部の痛み、しびれがひどくなったため、同月二三日上京病院で受診し、姫野医師から頸肩腕症候群(頸肩腕障害)、背痛症と診断された。

右症状の発症時における原告の自覚症状は、背・両肩・右腕・頸部の痺れ・痛み、後頭部痛、腰のだるさであり、児童を抱き続けていることができず、前かがみの姿勢をとるだけでも痛みを感じるというもので、字を書いたり、包丁で物を切ったり、雑巾を絞ったり、髪を洗うために手を頭に挙げる等の日常生活における動作にも支障が生じていた。

(四) 岡本医院での初診時(昭和五八年六月一〇日)における主訴及び他覚的所見は、「頸部から右肩にかけていわゆる肩凝り状症状、右上腕部にかけての疼痛を主訴とし、右側頸部から僧帽筋部の圧痛、右三角筋、右上腕二頭筋長頭腱部等に著明な圧痛あり。」というものであり、レントゲン写真・その他の検査上の所見は、「頸椎レントゲン写真上外傷による骨折あるいは脱臼、厚発性あるいは転移性悪性腫瘍を疑わせる所見、加齢による退行性病変等は認めず、背屈位側面像でC2ないし5間での軽度の配列の乱れを認めるのみであった。初診時に施行した血液生化学検査、リウマチ反応、血液一般検査等にても異常値を示したものはなかった。」というものであった。

(五) 姫野医師による初診時における所見は、「後頸部、肩胛上部、両側肩胛骨骨間部(背部)の筋緊張、圧痛を認める。握力右二九キログラム、左二九・五キログラムで右軽度低下を認める。頸椎レントゲン所見は側面像でC4/5/6間に生理的前弯の減少を認めるが、正常範囲であり、胸椎レントゲンも著変を認めない。アレンテスト(一)イートンテスト(一)スパーリングテスト(一)肩押し上げ試験(一)モーレイテスト(一)知覚異常なし。貧血(一)CRP(一)RA(一)ASLO一六六以下、尿蛋白(一)ウロビリノーゲン正常であり、ガングリオンも認めない。これらの点から、胸郭出口症候群、脊椎異常、ロイマ、ガングリオン等が否定される。」というものであった。

(六) 原告は、昭和五九年四月から休職し、投薬、マイクロ、ホットパック、首の牽引、マッサージ、湿布、塗り薬、針治療、水泳療法等の治療を受け、半年後には職場復帰訓練を開始し、通院も当初週三回であったが一年後には週二回に、その後週一回となり、昭和六一年四月には病弱教育部に復帰した。

2  ところで、被告は、姫野医師の前記診断について、(一)原告には頸肩腕症候群に重要な他覚的所見である筋硬結が認められず、筋緊張のみが存したとされているに過ぎないこと、(二)原告の握力について、左右〇・五キログラムの差は有意な差ではなく、握力低下とはいえないこと、(三)CRP、RAがマイナスでもリウマチを完全に否定できるものではないこと、(四)胸郭出口症候群を否定するための鑑別診断に必要なルースの三分間テストを行っておらず、同疾病を否定することはできないことを理由に誤りであると主張し、岩破康博医師(以下「岩破医師」という。)はその意見書(<証拠略>)及び証人尋問において、これに沿う供述をするが、以下に検討するとおり、右供述をそのまま採用することはできない。

(一) 筋硬結について

筋硬結とは触ってみると硬くなっている状態、筋緊張とは触ってみると緊張している状態であり(証人岩破)、両者の差は触打診による硬さの程度の差に過ぎないと考えられる。そして、筋硬結は頸肩腕症候群を鑑別する際に不可欠な症状であるが(<証拠略>、証人垰田)、筋緊張も筋硬結に至らないながらも頸肩腕症候群と診断すべき他覚的所見の一つとして取り扱われていることは、地方公務員災害補償基金補償課長が発した昭和五〇年三月三一日付けの「『キーパンチャー等の上肢作業に基づく疾病の取扱いについて』の実施について」(地基補第一九二号、<証拠略>)において、頸肩腕症候群の他覚症状として「当該部位の諸筋に病的な硬結もしくは緊張又は圧痛を認め」と記載されていることからも明らかである。

また、姫野医師はその意見書(<証拠略>)で、初診時の所見の筋緊張は、正常な弾力性を持つ筋ではなく、硬く張った筋を触知したことを表したもので、筋硬結という表現を使うことも可能であったとしており、筋硬結ではなく筋緊張との表現が用いられていることをもって姫野医師の前記診断を疑う理由とはならない。

(二) 握力差について

左右の握力差については、握力測定の結果を頸肩腕症候群の鑑別診断に用いる文献は見あたらず、むしろ、客観性が乏しいため筋疲労の指標とはなり得ないとする文献(<証拠略>)も存することからすると、握力に関する姫野医師の所見に頸肩腕症候群の鑑別診断として特段の意義を見いだすことはできないというべきである。

(三) リウマチについて

原告は、昭和五七年に林医院で慢性リウマチ性関節炎と診断されている(弁論の全趣旨)。しかし、昭和五八年六月の岡本医院での初診時の検査でリウマチ反応は認められなかったことは前判示のとおりであり、また、姫野医師は、原告にCRP、RAの両検査を行い、指・手・肘・肩等を直接診断した上で、慢性関節リウマチではないと診断しており(<証拠略>)、リウマチの可能性は否定できる。

(四) 胸郭出口症候群について

証拠(<証拠略>)によれば、頸肩腕症候群と区別すべき素因等による疾病として胸郭出口症候群があること、胸郭出口症候群とは、なで肩、頸肋など体形の異常等によって胸郭出口部で腕神経叢と鎖骨下動・静脈が圧迫される病態をいうこと、その鑑別には、モーレイテスト(鎖骨上窩の斜角筋部を圧迫し、局所の圧痛、上肢への放散痛の有無をみる。)、アドソンテスト(頸部を伸展し、患側に回旋し、深呼吸をさせ呼気時の橈骨動脈の減弱あるいは消失をみる。)、ライトテスト(前腕を九〇度前方挙上して外分廻し九〇度したときに橈骨動脈の拍動をみる。)、アレンテスト(ライトテストの姿勢で頸部を動かして行う。)、エデンテスト(坐位で気をつけの姿勢をとり、両上肢を後下方へ引いた姿勢で橈骨動脈の拍動の変化を調べる。)、ルースの三分間挙上試験(ライトテストの姿勢で、両手指を開いたり握ったりの動作を三分間行わせ、症状の再現があるかどうかをみる。)等の試験が行われていることが認められる。

この点について、岩破医師は、姫野医師がルースの三分間テストを行っていないから、胸郭出口症候群を否定することはできないとしているが、同疾病を鑑別するための主なテストとして、アドソンテスト、ライトテスト、気をつけ姿勢テストの三つを挙げる文献(<証拠略>)や、モーレイテスト、アドソンテスト、ライトテストの三つを挙げる文献(<証拠略>)もあり、結局、ルースの三分間テストが胸郭出口症候群の鑑別診断に必要不可欠であるとまでは認めがたい。

姫野医師は、モーレイテスト、アレンテスト、アドソンテスト(後に実施)を実施し、いずれも陰性の結果を得ているのであるから(<証拠略>)、胸郭出口症候群の可能性は否定できる。

3  また、被告は、原告の症状は、(一)自律神経失調症、(二)低血圧症、(三)頸椎不安定、(四)リウマチを原因とする可能性が高いと主張し、岩破医師は、その意見書(<証拠略>)及び証人尋問においてこれに沿う供述をするが、以下に検討するとおり、右供述をそのまま採用することはできない。

(一) 自律神経失調症について

原告は、昭和五九年一月一三日に頭痛を主訴として京都第一赤十字病院を受診し、起立性低血圧症と診断されている(弁論の全趣旨)。

証拠(<証拠略>、証人岩破)によれば、起立性調節障害とは、自律神経失調を基盤にした循環器症状が目立つ症候群であり、立ちくらみ、めまいを起こしやすい症状や、立っている時に気持ちが悪くなる症状、すなわち起立性低血圧を主たる症状とし、また、頭痛をしばしば訴えることもその診断基準となるものと認められているところ、岩破医師は、原告の右症状を自律神経失調症であるとしている。

一方、証拠(<証拠略>)によれば、頸肩腕症候群からは、(1)頸椎の運動制限、圧痛、筋痙直などの局所症状、(2)知覚異常、運動麻痺、腱反射異常、神経伸展試験などでみられる神経症状、(3)橈骨動脈拍動異常、血圧の左右差、レイノー症候群などでみられる血管異常、(4)不定愁訴と目される自律神経症状が生じること、主な自律神経症状は後頭部痛、項部痛、めまい等であること、これらの症状はいずれも患者の愁訴が中心で他覚的所見が乏しいことが認められる。

とすれば、頸肩腕症候群からも、めまい、後頭部痛等の自律神経失調症と同様の症状が生じるのであるから、原告が頭痛を訴えていたことを理由に原告が頸肩腕症候群であることを否定することはできないというべきである。また、原告に生じていた、肩、頸のしびれ、痛み等の症状は、自律神経失調症に通常伴う症状ではないから、自律神経失調症に起因するものとは考えがたい。

(二) 低血圧症について

原告は、昭和五一年度の職員健康診断以降、一貫して最高血圧が一一〇mmHg以下であり、一〇〇mmHg以下のこともあった(弁論の弁趣旨)。

証拠(<証拠略>)によれば、低血圧とは、収縮期圧が一一〇ないし一〇〇mmHg以下のものを指し、健康者における患者の頻度は一一〇mmHg以下であれば四〇パーセント程度であること、自覚症状、他覚的異常所見のない例も多いこと、自覚症状は不定愁訴というべきものが多いことが認められるところ、前判示のとおり、頸肩腕症候群からも低血圧の場合と同様の不定愁訴が生じるのであるから、原告が頭痛やめまい等を訴えていたことを理由に頸肩腕症候群であることを否定することはできない。また、原告に生じていた、肩、頸のしびれ、痛み等の症状は、低血圧に通常伴う症状ではないから、低血圧に起因するものとは考えがたい。

(三) 頸椎不安定について

証拠(<証拠略>)並びに弁論の全趣旨によれば、原告は、昭和五五年一〇月の腰痛検診で頸椎不安定と診断され、また、岡本医院でのレントゲン写真上の所見において第二ないし第五頸椎間に軽度の配列の乱れがあったことが認められる。

証拠(<証拠略>、証人垰田、同岩破)によれば、頸椎不安定とは、頸椎の並びが崩れている状態を指すところ、姫野医師は原告の頸椎の生理的前弯減少(頸椎不安定と同じ状態を指すと思われる。)は異常というほどのものではなかったと診断し、垰田和史医師(以下「垰田医師」という。)は頸椎不安定から肩、上腕から指にかけての痛み、しびれの症状が生じることはないとしており、これらの医学的知見を覆す証拠はないから、原告に生じていた症状は、頸椎不安定に起因するものとは考えがたい。

(四) リウマチについて

リウマチの可能性が否定できることは前判示のとおりである。

4  右1認定の事実に、原告の本件症状が被告の主張する疾病によるものであることを否定できること、頸肩腕症候群の呈する症状と原告の本件症状が符合すること及び後記原告の従事してきた業務の内容等を総合考慮すると、原告は、昭和五八年五月ころ、本件疾病に罹患したものと認めるのが相当である。

二  争点2(公務起因性)について

1  公務上の疾病の意義

地方公務員災害補償法にいう公務上かかった疾病とは、公務を原因として発症した疾病をいい、そのためには公務と疾病との間に相当因果関係があることを要すると解すべきである。

2  公務上外の認定基準について

(一) 証拠(<証拠略>)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 労働省労働基準局長の通達等による認定基準

労働省は、頸肩腕症候群の業務上外の認定基準を、昭和五〇年二月五日付け「キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について」(基発第五九号)と題する労働基準局長通達において示していたが、平成九年一月の頸肩腕症候群等に関する専門検討会による「頸肩腕症候群等に関する検討結果報告書」を踏まえて、同年二月三日付けで「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」(基発第六五号)と題する労働基準局長通達により、右基準を改定した(新認定基準)。この改定は、作業方法の変化等により上肢作業者に発症する疾病も多様化していることから、対象疾病の範囲、対象業務等について全般的に見直しを行い、頸肩腕症候群以外の上肢障害をも含めるものである。

右改定に伴い、地方公務員災害補償基金は、同年四月一日付け「上肢業務に基づく疾病の取扱いについて(通知)」(地基補第一〇三号)及び「『上肢業務に基づく疾病の取扱いについて』の実施について(通知)」(地基補第一〇四号)を発し、地方公務員の災害補償についても新認定基準と同様の認定基準が用いられることになった。

(2) 新認定基準の内容

新認定基準による、頸肩腕症候群を含む上肢障害の業務起因性の認定要件は、次のとおりである。

<1> <1>上肢等に負担のかかる作業を主とする業務に相当期間従事した後に発症したものであること、<2>発症前に過重な業務に従事したこと、<3>過重な業務への従事と発症までの経過が医学上妥当なものと認められることのいずれをも満たす場合には、当該上肢障害を業務上の疾病として取り扱う。

右「上肢等に負担のかかる作業」とは、<1>上肢の反復動作の多い作業、<2>上肢を上げた状態で行う作業、<3>頸部、肩の動きが少なく、姿勢が拘束される作業、<4>上肢等の特定の部位に負担のかかる状態で行う作業のいずれかに該当する、上肢等を過度に使用する必要のある作業をいう。

「相当期間」とは、原則として六か月程度以上をいう。

「過重な業務」とは、上肢等に負担のかかる作業を主とする業務において、医学経験則上、上肢障害の発症の有力な原因と認められる業務量を有するものであって、原則として、<1>当該事業場における同種の労働者と比較して、おおむね一〇パーセント以上業務量が増加し、その状態が発症直前三か月程度にわたる場合、または、<2>業務量が一か月の平均又は一日の平均では通常の日常の範囲内であっても、一日の業務量が一定せず、通常の一日の業務量のおおむね二〇パーセント以上増加し、その状態が一か月のうち一〇日程度認められる状態又は一日の労働時間の三分の一程度にわたって、業務量が通常の業務量のおおむね二〇パーセント以上増加し、その状態が一か月のうち一〇日程度認められる状態が発症直前三か月程度継続している場合をいう。そして、「過重な業務」の判断に当たっては、業務量の面から過重な業務とは直ちに判断できない場合であっても、通常業務による負荷を超える一定の負荷が認められ、<1>長時間作業、連続作業、<2>他律的かつ過度な作業ペース、<3>過大な重量負荷、力の発揮、<4>過度の緊張、<5>不適切な作業環境といった要因が顕著に認められる場合には、それらの要因も総合して評価する。

<2> 新認定基準の運用に関して労働省労働基準局補償課長は、「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準の運用上の留意点について」を発しているが、右通知においては、「上肢等の特定の部位に負担のかかる状態で行う作業」の例として、「保育、看護、介護作業」が挙げられている。

<3> また、新認定基準は、上肢障害について、業務から離れ、あるいは業務から離れないまでも適切な作業の指導・改善等を行い就業すれば、症状は軽快するとし、留意点として、適切な療養を行うことによっておおむね三か月程度で症状が軽快すると考えられ、手術が施行された場合でも一般的におおむね六か月程度の療養が行われれば治癒するものと考えられるとしている。

なお、前記「頸肩腕症候群等に関する検討結果報告書」では、慢性化した頸肩腕症候群は比較的難治になる場合があるとしている。

(二) ところで、頸肩腕症候群の発生機序は多種多様であり、その医学的解明が十分なされているとはいえないから、新認定基準をそのまま形式的に当てはめて公務起因性を判断することは相当ではないので、これを参考するにとどめ、以下原告が従事した重症心身障害児教育業務と疾病との関連性、原告の担当した業務の具体的内容・負担の程度等を具体的に検討し、原告の業務と本件疾病との間の相当因果関係の有無を判断することとする。

3  重症心身障害児教育業務と疾病について

証拠(<証拠略>、証人玉村)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 重症心身障害児とは、一般には、心身障害の程度が極めて重かったり、重い障害を併せ持ち、医療や看護を特に必要としている子供のことをいう。

昭和五四年四月一日から、学校教育法の養護学校の義務制に関する部分が施行され、従前、就学猶予・免除の措置がとられることが多かった重症心身障害児に対する学校教育が始まった。

重症心身障害児は、多くは寝たきりの状態で、筋緊張が強く、変形や拘縮を伴っていることもあるため、食事・排泄・更衣・入浴・洗面などの日常生活全般にわたって介助が必要となる。また、重い精神発達障害があり、その多くがてんかん、呼吸器系の弱さ・嚥下困難、視覚障害・聴覚障害・内臓疾患など他の障害を合併していて、刺激の多さによって熱発や発作を起こすことから、これらに留意した教育を組み立てていかなければならない。

重症心身障害児教育においては、教員は子供に合わせた姿勢をとらざるを得ない。また、顔を子供の顔に近づけて、腕で子供を支持して中空で静止させたり、徐々に体位変換を行うなど、子供の反応を見ながらアプローチする必要がある。特に授業では、教員は、全体の進行と合わせながら、一人一人へのアプローチを、教材・教具を運用しながら行わなければならず、複雑な姿勢と動きを強いられる。

(二) 心身障害児教育に従事する養護学校の教員には、頸肩腕症候群や腰痛が多発している。これを受けて、京都府教育委員会は、昭和五二年度から腰痛にかかるアンケートを、昭和五三年度から「府立盲聾・養護学校腰痛検診」をそれぞれ実施している。そして、昭和六〇年度からは、「府立盲・聾・養護学校教職員頸肩腕・腰痛検診」に順次切り替えて実施している。

4  本件職場の概要、原告が担当した業務内容等について

(一) 本件職場の概要

証拠(<証拠略>、証人西根、原告本人)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 本件職場は、昭和五四年の養護学校義務化に伴い、同年四月に、国立療養所南京都病院の重症心身障害児施設しらうめ病棟の入院児の訪問教育をする府立桃山養護学校しらうめ訪問教育部として開設され、その後、昭和五七年四月に府立南山城養護学校に移管されて府立南山城養護学校しらうめ訪問教育部となり、昭和五八年四月に府立南山城養護学校城陽分校となった。

その教育内容は、集団学習を中心として、教科指導、生活指導、養護訓練であり、昭和五八年四月に分校化されたことに伴って、授業時間数を増やすために授業内容等が変更された。

(2) 本件職場における各建物の配置は、別紙<9>の「国立療養所南京都病院配置図」のとおりである。

昭和五八年当時は、重心病棟から約一五〇メートル離れた旧結核病棟(昭和一四年築、木造)が教員控室(職員室)として使用されていた。集団授業の教室としては、昭和五五年九月に病棟の横にプレハブ教室一室と教材庫が設置され、昭和五八年四月三〇日に病棟から約一二〇メートル離れたやや高台にプレハブ教室四室と教材室、便所が増設された。

(3) 昭和五五年度から昭和五八年度までの、本件職場の教員数、在籍児童数は別紙<2>のとおりであり、昭和五八年度の児童数は六七ないし七二名、教員数は二三名であった。本件職場では、京都府下の他の養護学校と比べて、発達障害の程度の高い児童の割合が多かった。

(二) 原告が担当した業務の内容

証拠(<証拠・人証略>)並びに弁論の全趣旨によれば、本件職場における昭和五五年度から昭和五八年度までの重症心身障害児教育の日課、週学習時間、授業場所は別紙<2>のとおりであり、昭和五八年度における原告の一日の主な業務の内容は次のとおりであったことが認められる。

(1) 朝の申し継ぎ・個別指導〔八時三〇分から九時一〇分〕

病棟で行われる朝の申し継ぎに、各病棟ごとに教員一名が交替で参加していた。その間、他の教員は、担当児童にベッドでの個別指導を行い、児童にあいさつ、呼名、握手、話しかけ等の働きかけをする。

(2) 授業の打ち合わせ〔九時一〇分から九時二〇分〕

職員室で申し継ぎの報告を聞き、授業の打ち合わせをする。

(3) 授業準備〔九時二〇分から九時三〇分〕

職員室または教材庫から教室まで、授業に必要な教材(マット、パネル、トランポリン、玄米等)を運び、ハンモックを取り付ける等の準備を行う。右教材のうち、常時使用するもの、重いものは教室横の教材庫に収納していたが、職員室から台車で運搬することもあった。台車での運搬は、主に男性教員が担当していた。

(4) 午前の集団授業〔九時三〇分から一一時〕

午前の集団授業は、月曜日から金曜日まで毎日行われた。約七〇名の児童を一五のグループ(一グループ四ないし六人)に分け、グループごとに一つの教室に入り、四人の教諭が一グループの授業を担当していた。集団授業の内容は次のとおりである。

<1> 児童のおむつ替え、着替え、移動〔九時三〇分から九時四〇分〕

病棟で児童のおむつ替え・着替えを行う。着替えは、腰を曲げて、ベッド(高さ七〇ないし七五センチメートル)又は床に寝かせた児童の体を持ち上げて行い、おむつ替えは、ベッドの横に立ち、片手で児童の尻を浮かせて腰まで持ち上げて行った。

児童の移動に際しては、教員が腰を曲げながら児童の体の下に手を入れ、腕で児童を支えながらベッドから抱きあげ、中腰の姿勢から、バギー(坐位のもの)やストレッチャー(臥位のもの)に降ろして移動させる。このとき、児童が反り返ったりすることもあり、精神的、肉体的緊張を強いられる。バギー等への移動の際には、児童一名を複数の教員が担当することもあった。その後、児童を乗せたバギー等を押して教室へ移動する。病棟・教室間はおよそ一二〇メートル離れており、教室までは坂道で未舗装の砂利道もあり、段差のある場所では前輪を浮かせる必要があった。バギーの操作は原則として児童一名を教員一名が担当し、ストレッチャーは複数の教員が操作していた。

<2> 教科指導〔九時四〇分から一〇時五〇分〕

始めに児童を抱きかかえて水分補給を行った後、「からだ」、「ふれる・えがく・つくる」、「うた・リズム」、「みる・きく・はなす」の授業を行う。

<1> 「からだ」の授業は、寝返り・四つ這い・座位・歩行などの運動能力を高める指導である。シーツブランコの授業の場合、児童をバギーから抱きあげてシーツに寝かせ、教員二人ないし四人でシーツの隅をつかんで、曲に合わせて左右に振って揺らす。大球乗りの授業の場合、児童をバギーから抱きあげて硬質ビニールの大球にうつ伏せにのせ、両腕で児童の体を支えながら、球を上下左右に揺らす。トランポリンの授業の場合、児童をバギーから抱きあげ、両腕で児童を抱きかかえ、児童の様子を見ながらトランポリンを揺する。

<2> 「ふれる・えがく・つくる」の授業は、紙・粘土・小麦粉などの素材を使って手指の感覚を豊かにし、その操作性を高める指導である。児童をバギーから抱き下ろし、座位、うつ伏せ又は側臥位の姿勢を取るのを教員が保持し、素材に触れさせる。児童が安定した形でいろいろな素材に触れることができるように、一人の教員が児童の体を支え、他の一人が前から関わるようにすることが多く、教員一人で関わるときには片腕で児童を支えながら自分の体を前かがみにして、もう一方の手で児童が素材に関われるよう働きかけた。

<3> 「うた・リズム」の授業は、歌声や楽器演奏を聞いてリズム感や音感を高め、楽器で音を出して楽しめるようにする指導である。楽器遊びの授業の場合、片腕で児童の体を支えながら、もう片手で楽器を保持し、楽器に触れさせる。

<4> 「みる・きく・はなす」の授業は、物の動きや光を見たり、音に耳を傾けたりして感情を表情や発声で表現する力を培う指導である。みる活動の授業の場合、児童をバギーから抱き下ろし、教員の足の上に乗せて片腕で児童を支えつつ、他方の腕を児童の前方にのばして教材を提示する。

授業の始めと終わりには、児童を抱きかかえてあいさつを行い、児童が授業中におむつを汚した場合は、その着替えを授業後に行う。

<3> 児童の移動〔一〇時五〇分から一一時〕

児童を再びバギー等に乗せて病棟へ移動する。児童を抱きあげて、床からバギー等に移動させる作業は、前記作業と同様である。帰路は坂を下ることになるため、速度を調節しながら移動する。

(5) 食事指導〔一一時から一二時〕

児童に合わせた姿勢で行う。児童をベッドに寝かせたまま食事を与える場合は、教員はベッドに腰掛けて、左腕で児童を抱き起こして立て抱きにし、手首を曲げて児童の頭と首を支えながら、右手でスプーンを保持し、食物を口に入れ、口からこぼれないように補助する。食事指導は平均三〇分程度かけて行ったが、児童により個別差があった。

(6) 授業反省会、午後の授業の打ち合わせ〔一二時三〇分から一三時〕

(7) 午後の授業準備〔一三時から一三時一五分〕

教材庫から教室まで、授業に必要な教材を運ぶ。作業は午前と同様である。

(8) 午後の集団授業〔一三時一五分から一五時一五分〕

午後の集団授業は、月曜日、火曜日、金曜日に行われ、水曜日の当該時間には各種会議、木曜日は養護訓練(体の変形を改善したり、不要な緊張を和らげたりすることを主なねらいとした指導)が、それぞれ行われていた。集団授業の内容は次のとおりである。

<1> 児童のおむつ替え・着替え、移動〔一三時一五分から一三時二〇分〕

病棟で児童のおむつ替え・着替えを行い、バギーに乗せて教室に移動する。作業は午前と同様である。

<2> 教科指導〔一三時二〇分から一五時〇五分〕

授業の始めにおやつ介助を行う以外は、作業は午前と同様である。

<3> 児童の移動〔一五時〇五分から一五時一五分〕

児童を再びバギーに乗せて病棟へ移動する。作業は午前と同様である。

(9) 授業の後かたづけ〔一五時一五分から一五時三〇分〕

(10) 授業反省会〔一五時三〇分から一五時四〇分〕

(11) 各種会議〔一五時四五分から一六時三〇分まで〕

教育内容の検討(方針の検討、教材作り)、教材の研究会、合同行事のための打ち合わせ、父母や地域との連携に関する会議等、各種会議に参加する。

右認定の事実によれば、原告は、一日を通して、上肢、頸肩腕部等にかなりの負荷のかかる、(1)重症心身障害児を抱きあげ、抱きおろす作業、(2)病棟・教室間の坂道を、児童を乗せたバギー等を押して移動する作業、(3)片手で児童を支えながら、体を前かがみにして、もう片方の手で子供に関わる作業、(4)前かがみや中腰になったり、片腕で児童の体を支える作業を多く行っていたことが認められる。

(三) 原告の勤務状況

証拠(<証拠・人証略>)並びに弁論の全趣旨によれば、昭和五五年度から昭和五八年度までの、本件職場の担当授業の時間割は別紙<3>のとおりであること、右時間割中のグループ名のAからDは児童の発達の程度を表しており、Dが最も障害の重いグループであること及び原告の右期間中の担当業務は次のとおりであることが認められる。

(1) 昭和五五年度

三D(担任)、三C、二Dグループの児童(平均体重一五・七キログラム)を担当した。校務分掌では、三病棟担当で、研究部、「うた・リズム」を担当した。

(2) 昭和五六年度

三D(担任)、三C二、三C一、三B、三Aグループの児童(平均体重一五・四キログラム)を担当した。校務分掌では、三病棟担当で、研究部長、「かく・つくる」を担当した。

(3) 昭和五七年度

三C三(担任)、三C一、二D、二B二グループの児童(平均体重一四・六キログラム)を担当した。校務分掌では、三病棟担当で、研究部長、「ふれる・えがく・つくる」担当、教育実習生担当、病弱養護学校準備委員、近病連大会実行委員を務めた。

(4) 昭和五八年度

三C三(担任)、二A二、一Dグループの児童(平均体重二〇・七キログラム、最高四二・一キログラム)を担当した。原告が主に担当していた三C三グループの四名(H・A、A・T、T・S、T・K)、二A二グループのT・F、一Dグループの二名(N・K、N・S)の状態は別紙<1>のとおりである。校務分掌では、三病棟担当・代表で、「うた・リズム」担当、教育実習生担当、近病連大会実行委員、運動会実行委員、教務部、行事打ち合わせ担当、重心運営委員、実践報告会委員を務めた。

同年度には、授業時間が長くなり、授業回数は従来の午前一回・午後二回から午前一回・午後一回に変更され、児童数より教員数が少ない状態で授業をする「マイナス体制」も行われるようになった。また、食事指導も週五日に増えた。さらに、プレハブ教室四室が増設されたことに伴い、教室までの坂道を児童をバギー等に乗せて移動したり、教材等を運搬する作業が増えた。

5  本件職場の教員配置状況

証拠(<証拠略>)並びに弁論の全趣旨によれば、昭和五八年度の京都府立養護学校及び全国の公立養護学校の児童数、教員数は別紙<4>のとおりであり、本件職場では教員一名当たり二・九一から三・一三名の児童を担当しており、全国(三・〇一名)及び京都府の他の養護学校(二・三八から三・一三名の間に分布)と対比してその負担は大きく、京都府の養護学校の中では最も高かったことが認められる。

6  本件職場における教員の発病の状況

証拠(<証拠略>)並びに弁論の全趣旨によれば、本件職場における昭和五五年から昭和六〇年までの間の教員の発病状況は別紙<5>のとおりであり、原告の他に、昭和五八年度に腰痛により二名、昭和五九年度に腰痛により二名、昭和六〇年度に頸肩腕症候群により二名、腰痛により一名が、それぞれ病休(特別休暇)を取得していることが認められる。

7  業務起因性についての医師の所見

(一) 姫野医師の所見

姫野医師による原告の初診時における所見は、「当該患者の労働態様は障害児童の介助で相当な体力を必要とし、しかも突然反り返ったりするので危険防止のために、かなり無理をしなければならないことも起る。その労働態様と、発症の経過を見ると、頸、肩、背、上肢の災害的損傷と労作そのものによる疲労の蓄積とが相まって発症したものである。その後休業し、加療することにより症状軽減し、現在復帰訓練も順調に進んでいる。このようなことから本疾病は業務起因性を有すると判断する。」というものである。また、同医師は、実際に本件職場に視察に行き、不自然な体勢や動作を余儀なくされている様を検分した上で、教員は、(1)頸部、肩、上肢に大きな負担がかかること、(2)休憩がほとんどとれない状況にあること、(3)季節ごと、年ごとに、仕事の波と症状の経緯が一致すること、(4)他にこのような症状を引き起こす原因となるものが見あたらないことから、本件疾病は業務に起因するものであると診断している(<証拠略>)。

(二) 垰田医師の意見

垰田医師は、前記姫野医師の診断書及び他の医療機関の診断書を検討した結果、原告に対する鑑別診断は十分に行われており、原告の労働負担、症状経過と労働負担との関係、本件職場における安全衛生管理の欠如から、原告の本件疾病は業務に起因するものであると判断している(<証拠略>、証人垰田)。

8  判断

以上の事実を前提にして、原告の頸肩腕症候群の公務起因性の有無について検討する。

(一) 重症心身障害児教育業務の作業内容について

原告の従事していた重症心身障害児教育の業務は、集団授業、食事・おやつの介助、着替え、おむつ替え、授業の準備・片づけ、会議への参加など多様な労作を含むものであり、長時間にわたって同一の姿勢を維持したり、同一の作業を反復したりする性質のものではないものの、児童を抱きあげたり、抱きおろしたりする等の腕を使う労作や、児童を支える等の無理な姿勢で腕を中空に保持する労作が多く、上肢、肩、頸部に負担のかかる状態で行う作業であるというべきである。

また、養護学校教員の中には頸肩腕症候群や腰痛を発症している者が多いことをも考慮すると、一般的に重症心身障害児教育業務は、上肢等に過度な負担のかかる頸肩腕症候群発症の危険性のある作業を主とするものであると認めるのが相当である。

この点について、岩破医師は、上肢等に負担のかかる作業に従事したとしても、頸肩腕症候群発症の危険性が生じるのは一日六時間ないし七時間、一週間で連続六日ないし七日間、右業務に従事するような場合に限られる旨供述するが、その根拠は明らかでないから、右供述をそのまま採用することはできない。

(二) 原告の業務の過重性について

(1) 本件職場では発達障害の程度が高い児童の割合が高かったこと、教員一名当たりの担当児童数が全国及び京都府内の他の養護学校と比して多く、本件職場における業務量及び業務による負荷は他の養護学校に比べて重かったこと、昭和六〇年度には他の教員二名が頸肩腕症候群により病休を取得していることを考慮すると、本件職場は頸肩腕症候群の発症する危険性の高い職場であったということができる。

(2) 原告が昭和五八年度に担当した児童は、特に重い障害を持つ児童であり、児童らの平均体重が二〇・七キログラム、最高四二・一キログラムであったことを考えると、これが原告の上肢に相当の負担を及ぼしたことは明らかである。

これらの事実を総合すると、原告が昭和五八年度に従事した業務は、他の養護学校の教員の業務と比較しても、また、本件職場における他の教員と比較しても、負荷の重い業務だったと認めるのが相当である。

これに対し、被告は、発症直前の原告の休暇の取得状況、時間外勤務の状況を考慮すると、原告の業務には過重性が認められない旨主張するところ、証拠(<証拠略>)並びに弁論の全趣旨によれば、原告の昭和五七年度及び昭和五八年度の休暇取得状況は別紙<6>のとおりであり、昭和五八年度の原告が児童を指導した日数は一九一・五日であること、また、原告は、昭和五五年度から昭和五八年度までの間、職務命令による時間外勤務をしたことはないことが認められる。しかし、昭和五八年度における原告の休暇取得日数は前年度と比して多いものの、多日数に及ぶとまではいえないし、また、時間外勤務をしなかったことをもって、業務による負荷の過重性を否定することはできず、被告の主張は失当である。

(三) 業務と発症までの経過の対応関係について

原告は、本件職場に配置された約半年後から肩こり等を訴え始め、夏休み等の休業により一時症状は軽減したものの、業務に伴って症状も増悪し、業務が特に厳しくなった昭和五八年度に頸肩腕症候群を発症し、その後の休職により改善しているのであって、右症状と原告の業務による負荷はほぼ対応しており、原告の業務と発症までの経過は医学上妥当なものと認められる。

(四) 他の要因について

被告は、原告にはなで肩という素因があり、家事、育児の負担も大きかったと主張する。

弁論の全趣旨によれば、原告がなで肩であり、また、発症当時四歳と七歳の子がいて家事育児に従事していたことが認められるところ、猫背、なで肩体型と頸肩腕症候群との間に相関関係を認める文献もみられる(<証拠略>)が、本件全証拠によるも、原告のなで肩の程度は明らかではなく、また、なで肩と家事育児が原告の頸肩腕症候群の発症に具体的影響を及ぼしたことを認めることはできないから、右主張は失当である。

(五) 治療期間について

この点、被告は、原告の療養期間が長期化したことを業務起因性を否定すべき事由として指摘する。確かに、頸肩腕症候群の治療に必要な期間は三か月ないし六か月であるとする見解(<証拠略>、証人岩破)も存在し、新認定基準も、前判示のとおり、一般的におおむね六か月程度の療養が行われれば治癒するものと考えられるとしている。しかし、右三か月ないし六か月の期間は必ずしも十分な根拠があるとは認められないうえ、頸肩腕症候群の症状が進行して慢性化してから治療する場合には相当長期間にわたることもあるとの見解もあり(証人垰田)、また、前記「頸肩腕症候群等に関する検討結果報告書」でも、慢性化した頸肩腕症候群は比較的難治になる場合があることが指摘されているところであり、治療期間を一律に設定することは相当でない。

そして、前判示のとおり、原告は昭和五五年度から肩の痛みを感じ、昭和五八年六月には「頸腕症候群」と診断され、休職を開始した昭和五九年四月には症状は進行していたと認められるから、休職後、治療に二年間を要したからといって原告の頸肩腕症候群が業務に起因することを否定する理由にはならない。

(六) 結論

以上のような、原告の従事した重症心身障害児教育業務の内容、原告の担当した業務の過重性、原告の症状の推移と姫野医師らの所見等を総合すると、原告の従事していた重症心身障害児教育業務と本件疾病の罹患との間に相当因果関係を認めるのが相当である。

三  結論

以上の次第であるから、被告の本件疾病を公務外の災害であるとした本件処分は違法であって、その取消しを求める原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結の日 平成一一年三月二六日)

(裁判長裁判官 大谷正治 裁判官 山本和人 裁判官 平井三貴子)

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