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京都地方裁判所 平成25年(わ)489号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第1  本件公訴事実

被告人は,常習として,みだりに,平成25年4月25日午後1時18分頃,A市(以下省略)先路上において,同所を歩行中の被害者(当時13歳)に対し,後方から自転車に乗って接近し,追い越しざまに,その臀部付近を着衣の上から右手で触り,もって公共の場所において,他人を著しくしゅう恥させ,かつ,他人に不安及び嫌悪を覚えさせるような方法で卑わいな行為をしたものである。

第2  争点等  被害者が公訴事実に係る被害(以下「本件被害」という。)に遭ったこと(以下「事件」ともいう。)は証拠上明らかに認められ,当事者間にも格別争いはなく,本件の争点は,被告人と犯人との同一性である。

検察官は,①被害者及び犯行前に犯人を目撃した被害者の友人(以下「目撃者」という。)が,公判廷において,犯人は被告人である旨供述していることや,②その他の間接事実から,被告人が犯人であることは明らかである旨主張するところ,当裁判所は,被告人が犯人であることにつき合理的な疑いが残ると判断したので,以下,その理由を説明する。

第3  被害者の公判供述について

被害者は,公判廷において,被告人が犯人である旨供述するので,その信用性について検討する。

1  前提事実  関係証拠によれば,信用性判断の前提となる事実として,以下の事実が認められる。

(1) 目撃状況

ア 被害者は,事件当日,学校から徒歩で帰宅途中,後方から自転車が近づいてくるのに気付き,左後方を振り返ると,自転車に乗って被害者の左隣を通り過ぎようとする犯人を発見した。被害者は横を向いた犯人と目が合ったが,それと同じくらいのタイミングで本件被害に遭った。その時,犯人は被害者の真横にいて,犯人の顔との間の距離は約55㎝であった。犯人はすぐ前を向き,自転車で前方に走り去った。

イ 本件被害に遭った直後,被害者は悲鳴をあげ,助けを求めるために,すぐに後ろを向いて,被害者の後方を歩いていた目撃者らの方に向かって走っていった。その間,犯人は自転車に乗ったまま被害者と逆方向に進行していった。被害者は,一旦走り始めた後,犯人の特徴をきちんと見ておく必要があると考え,立ち止まって振り向き,犯人の姿を確認した。その後被害者は,目撃者らのところまで逃げて合流し,目撃者から犯人が赤色の自転車に乗っていたことを聞いた。

(2) 犯人選別過程

ア 事件後,110番通報により駆けつけた警察官が,被害者及び目撃者から事情聴取をした結果,犯人の特徴は,「40歳位,男性,頭髪黒色モジャモジャヘヤー,上下黒色ジャージ着用,赤色自転車に乗車」と特定され,現場付近において犯人の捜索が実施された。

イ 同日午後1時45分頃,被告人は,路上において警察官の職務質問を受けた。その際,被告人は,赤色自転車に乗っており,上下黒色の服を着用していた。また,被告人の上衣には背中に斜めの柄が入っており,ズボンはジャージ様で,左太ももや臀部等に白やピンクで英語の文字が書かれていた。

ウ 被害者の1回目の面通しは,事件の約30分後に実施され,被害者は,警察官から,「犯人か分からないが,犯人っぽい人を捕まえて話してるから見て欲しい」などと説明された上で,目撃者らと共に,パトカーの後部座席から,歩道で警察官と会話をしている被告人の姿を見た。被告人の側には赤色自転車が置いてあり,パトカーは被告人の近くをゆっくりとした速度で2回通過した。被害者は,被告人が犯人に間違いないと述べ,確度は90パーセントであると答えた。なお,被害者がこの発言をする前に,パトカーに同乗していた目撃者が被告人を見て,「赤い自転車やし,あれやわ」と言った。

2  信用性判断

(1) 観察条件等について

被害者は,本件被害に遭った際に,犯人の顔を至近距離で観察しているものの,すぐ前を向き自転車で走り去った犯人を観察できた時間はごくわずかであったと考えられ,犯人と面識のない被害者が,犯人の容貌を正確かつ詳細に識別するだけの十分な時間的余裕はなかったと認められる。被害者が,公判廷において,「犯人の顔とかは,はっきりと見た記憶とか印象で残っていることはない」旨供述していることは,被害者が犯人の容貌を明確に認識・記憶できなかったことを物語っている。

また,被害者が事件直後いったん後方に走り,振り返って犯人を再び観察した際には,被害者は,自転車をこいでいる犯人の後ろ姿を確認したにとどまる。しかも,関係証拠によれば,悲鳴を聞いた目撃者が急いで約9mほど移動する間に,被害者は一旦後方に走り,立ち止まって振り返り,犯人を観察した上,再び後方に走り出すという一連の動作を終えていたと考えられるから,被害者が犯人の後ろ姿を観察できた時間はごく短かったと認められる。そして,被害者は本件被害に遭った後,犯人と逆方向に走り出してから二,三秒くらいで犯人の方を振り返った旨供述しており,振り返ったときには自転車に乗っていた犯人と被害者との間には相当程度(少なくとも十数m)の距離が開いていたと推認できること,被害者の視力は右目が0.3未満,左目が0.3ないし0.6であったこと,観察の際に泣いていたことからすれば,被害者が犯人の後ろ姿を観察した際の条件も良好であったとはいえない。

(2) 被害者の供述経過について

被害者は,公判廷において,犯人の特徴について,大要,「黒髪,前髪はちょっと真ん中に分かれている感じでおでこが見えていて,後ろの髪の毛はちょっと散らばっているような感じ,40歳位,服は上下黒のジャージっぽい服で,背中に斜めの柄があり,左太ももの方に白かピンクの何かの文字が入っていた。」などと供述する。そして,被害者の供述する犯人の特徴は,被告人の髪型や年齢とよく一致するほか,着衣が上下黒色であることや,背中に斜めの柄があり,ズボンに白やピンクの文字が入っている点など,事件直後に職務質問を受けた際の被告人の服装ともよく一致している。

しかしながら,被害者は,①背中にあった斜めの柄に関しては,警察署での取調べの際に被告人の写真を見せられて初めて思い出した,②事件直後に警察官に事情聴取を受けた際には,犯人の服装や髪の毛の色について聞かれたが,犯人のズボンに白やピンクの文字が入っていたこと等は説明していない旨供述している。そして,面通し以前の被害者の初期供述の内容は明らかではないものの,事件直後,警察官が被害者及び目撃者から事情聴取した際,犯人の特徴は「40歳位,男性,頭髪黒色モジャモジャヘヤー,上下黒色ジャージ着用,赤色自転車に乗車」と特定されていたことに照らすと,被害者は事件直後の事情聴取で犯人の髪型や衣服の柄等につき,その詳細を述べなかったものと推認される。

以上のような供述経過をみると,被害者が公判廷において供述する犯人の特徴に関する記憶の一部,とりわけ,犯人を識別するうえで重要な役割を果たす髪型や衣服の柄等の詳細は,事件後の面通しや取調べの過程において付加,具体化されたものである疑いが強い。

(3) 犯人選別手続の状況について  被害者の1回目の面通しは,事件から間もなく行われているものの,いわゆる単独面通しであり,警察車両の中から路上で警察官と話をしている被告人の姿を見るという比較的暗示性の強い方法が採られている。また,被害者は,被告人を犯人と同定する以前に,同乗する目撃者が被告人と犯人が同一人物であるかのような発言をするのを聞いており,目撃者の発言が被害者に不当な予断を与えた疑いも否定できない。

(4) 犯人であると識別した根拠について

被害者は,公判廷において,被告人を犯人であると識別した根拠について,「上下黒のジャージっぽい服と,髪の毛と,前髪の感じ(分けている感じ,おでこが出ている)と,ズボンで,この人やと思った。」「ズボンには模様があった。同じやと思った」などと供述する。しかしながら,①被害者がすれ違いざまの一瞬で犯人の髪型を上記程度に具体的かつ明確に認識できたのかは大いに疑問であるし,②視力の良くない被害者が,しかも目に涙を浮かべた状態で,少なくとも十数m先を自転車で移動中の犯人のズボンの模様を認識できたとは考え難い。被害者の上記供述は,かえって,犯人の前髪の特徴やズボンの模様等,被告人を犯人と識別する際に重要な役割を果たす部分の記憶は,単独面通しで被告人を見たことにより,犯人の特徴として付加,具体化されたことを強く示唆するものである。

(5) 結論

以上のとおり,被害者が犯人の顔や後ろ姿を観察した際の条件が良好であったとはいえないこと,1回目の面通しは暗示性や誘導の危険性の高いものであったことや,犯人の重要な特徴に関する被害者の記憶は面通しや取調べの過程で変容,具体化した疑いが濃厚であることに照らすと,被害者が1回目の面通しの際に被告人を犯人であると思い込んだ疑いは否定できないから,被告人が犯人である旨の被害者供述は直ちには信用できない。

第4  目撃者の公判供述について

目撃者は,公判廷において,被告人が犯人である旨供述するので,その信用性について検討する。

1  観察条件等について

目撃者は,事件直前に自転車に乗った犯人が目撃者の横を通り過ぎ,曲がり角で左折するまでの間に,自転車に乗る犯人の姿を目撃している。目撃者が犯人の顔を見たのは,犯人が目撃者の右横を通り過ぎる際の一瞬であるから,犯人の顔貌の特徴を識別するだけの十分な観察時間はなかったと認められる。現に目撃者も,「顔はぱっと見しか見れなかった。顔の特徴とか,何か見て思ったことはない」と供述する。その一方で,目撃者は,犯人が目撃者の横を通り過ぎた後,曲がり角を左折するまでの間に,犯人の後ろ姿を観察しており,その際,犯人の自転車が赤色であることや,犯人が左足の太ももに英語の筆記体が書かれた黒いジャージを履いていたことから,当日朝の学活で話題にされていた不審者と同一人物かもしれないと思い,隣を歩いていた友人にそのような話をした旨供述する。目撃者は,主に後方から,しかも,友人と何をして遊ぶかなどと会話を続けながら犯人を見たというのであり,それほど注意深く観察をしていたとは考えにくいし,視力が両眼ともに0.3ないし0.6であることや後記2の供述経過からすると,自転車をこいでいる犯人の太ももに英語の筆記体が書かれていたことまで認識できたかは疑問が残るものの,曲がり角までの約16.5m走行するには普通の速さの自転車で三,四秒要すること,上記のとおり友人と話したという供述内容は具体的であり,記憶違いや思い込みであるなどとは考えにくいことに照らせば,犯人が赤色の自転車に乗っており,そのズボンが黒色であったこと,朝の学活で話に出た不審者はあれではないかと友人に話したという限度では,十分に信用することができる。

2  供述経過について

目撃者は,公判廷において,犯人が右横を通り過ぎた後に観察した犯人の特徴について,40歳位の男性,英語の筆記体が書かれている長ズボンの黒いジャージを着用していた旨述べるところ,この点は,前記のとおり,職務質問時の被告人の着衣等の特徴と一致している。しかしながら,目撃者は,被害直後に警察官から事情聴取を受けた際,犯人の特徴について詳細な説明をしておらず,犯人の服装等の特徴についても,「赤い自転車に,黒い服装である」と説明したにとどまり,犯人のズボンに英語の筆記体があったという特徴は話していない旨供述している。目撃者は,事件当日の朝,学校の先生から,赤い自転車に乗った黒い服装の男が不審な行為をしている旨聞いたほか,級友から,黒いズボンに英語が付いている旨も聞いていたというのであるから,仮に目撃者が犯人のズボンに英語の筆記体が書かれていたことを事件当初から明確に記憶していたのであれば,警察官に英語の点についても話すのが自然であり,上記の点に関する記憶は,事件後の面通し等の過程において,付加された疑いが残る。

3  1回目の面通しの状況について

面通しの状況についてみると,1回目の面通しはいわゆる単独面通しの方法により行われたことに加え,目撃者は,警察官から「犯人の顔をもう1回見て欲しい」というようなことを言われて,パトカーの後部座席から,職務質問を受けている被告人の姿を見ており,暗示や誘導が生じる危険性の高い面通しの方法であったといえる。

4  犯人であると識別した根拠について

被害者が公判廷において,目撃者が被告人を犯人と同定する際に「赤い自転車やし,あれやわ」と述べたのを聞いた旨供述していることからすれば,目撃者は,被告人の側にあった自転車の色を最大の根拠として,被告人を犯人であると判断した疑いもある。

5  自転車の前籠について

目撃者は,犯人の自転車は前籠が古かった,自転車が左折する際に籠が見えたと供述する。そして,この供述は,被告人の自転車の特徴ともよく一致している。しかしながら,目撃者の供述を前提とすれば,左折時の自転車と目撃者とは9ないし16mも離れていたはずである。被告人の自転車を写真で見ても,同自転車を斜め前から見たときには前籠が錆び付いていて古いことが分かるが,斜め後ろから見たときには前籠の古さが一目瞭然とまではいえない。目撃者の視力や自転車との距離を考えれば,左折時に前籠が古いことを観察するのは至難の業というほかない。前籠に関する目撃者の供述は,客観的事実と一致する供述というよりも,面通し時やその後警察で見た被告人の自転車の記憶と,犯人の自転車の記憶が混同した疑いを強く示唆する供述というべきである。

6  結論

以上のとおり,目撃者の供述のうち,①犯人が赤色の自転車に乗っていた,②黒いズボンのジャージを履いていたという部分については,十分に信用できるものの,1回目の面通しは暗示性や誘導の危険性の高いものであったこと,犯人のズボンの模様や自転車の前籠に関する供述部分は,面通しや取調べの過程で付加され,記憶が変容したとの疑いが払拭できないこと,目撃者が自転車の色を決め手に犯人を識別したと解釈できる発言をしたことに照らせば,目撃者は1回目の面通しの際に被告人を犯人であると思い込んだ可能性は否定できず,被告人が犯人である旨の目撃者の公判供述を直ちには信用することができない。

第5  被害者及び目撃者の公判供述により認められる犯人の特徴について

前記のとおり,犯人の特徴に関する被害者及び目撃者の公判供述は,1回目の面通し以降に変容,具体化された疑いが多々あり,その部分については,事件当時目撃した犯人の特徴を述べたものであるとはいえないから,その信用性を認めることはできない。

もっとも,1回目の面通しを行う以前に警察官が被害者及び目撃者から聴き取っていた,「40歳位,男性,頭髪黒色モジャモジャヘヤー,上下黒色ジャージ着用,赤色自転車に乗車」という犯人の特徴に関しては,事件直後であって単独面通しの前に採取されていることから記憶の変容を来している可能性は低く,前記のような観察条件においても観察,記憶をすることは十分に可能であったと認められる程度の内容であり,その信用性に疑問を差し挟ませるような事情もうかがわれない。被害者及び目撃者の公判供述は,犯人に前記の特徴があったという限度においては信用できる。

そして,事件当日の被告人と犯人の特徴は,上下黒色の衣服を着用,ズボンはジャージ様で,赤色の自転車に乗車,40代の男性という点において共通していることが認められるものの(なお,事件当日の被告人の髪型が「モジャモジャヘヤー」と表現し得るものであるかについては疑問が残る。),いずれも一般的な特徴にとどまり,被告人と犯人とを強く結びつけるものとはいえない。

そこで,被告人が犯人と認められるか否かは,検察官の主張するその他の間接事実も総合して検討することとする。

第6  検察官の主張するその他の間接事実について

1  検察官の主張について

検察官は,①被告人は事件発生から約10分後に,事件現場から約1.3㎞離れたコンビニ(以下「本件コンビニ」という。)に立ち寄っているところ,本件被害後,警察により重点警戒が実施されたのにもかかわらず,事件現場付近で被告人以外に犯人と思われる人物が発見されていないこと,②被告人は,事件後に警察官から取調べを受けた際,事件現場を聞いていないのに,自ら「8街区団地方面には行っていない」などと,犯人でなければ知り得ない事実を述べていること,③被告人の事件当日の行動に関する説明は極めて不合理であることを指摘し,被告人が犯人であることは優に認められる旨主張する。

2  ①についての検討

被害者及び目撃者の公判供述により認められる犯人の特徴は,前記のとおり一般的なものにとどまることに加え,関係証拠によれば,本件コンビニは被告人の自宅から比較的近い位置にあることが認められる。そうすると,前記の限度で認められる犯人の特徴と矛盾しない被告人が,事件直後に現場近くの本件コンビニにいたという事実は,被告人においても本件犯行を行うことが可能であることを示す事実であるとはいえるものの,それ以上に,被告人の犯人性を強く推認させる事実であるとまではいえない。

そして,重点警戒が実施された点についても,重点警戒のための人員等の配備が完了したのは平成25年4月25日午後1時38分であり,本件被害(同日午後1時18分頃)から約20分も経過していたこと,犯人の自転車はその20分間で五,六㎞は移動することが可能であり,事件現場付近には建物が多数林立していることに照らせば,約20分の間に犯人が重点警戒区域から離れたり,建物内に移動して隠れるなどして,重点警戒をすり抜けた疑いも否定できない。したがって,事件後に現場周辺で被告人以外に犯人と思われる人物が発見されなかったことは,被告人の犯人性を強く推認させる事実であるとまではいえない。

3  ②についての検討

(1) 被告人は,公判廷において,取調べの際に「8街区団地方面には行っていない」などと発言をした理由について,職務質問の際に警察官から「近く「北の方」で痴漢事件があったと言われ,職務質問を受けた位置の北の方角にある地域のうち,(ア)6街区は近すぎるし,(イ)9街区は建物が一つだけで範囲が狭く,(ウ)10街区は方向が少し違い,建物も二つだけであるし,(エ)8街区よりもさらに北の地域は,C川との間に田んぼや畑,中学校があるにとどまり,C川の向こうでは距離が遠すぎることから,いずれも犯行現場ではないと思い,犯行現場が8街区であると思った旨供述する。

(2) まず,職務質問の際に警察官から「近く」「北の方」で痴漢事件があったと言われたか否かを検討する。被告人が職務質問を受けた際に,犯行現場が「近く」であることを聞いたこと自体は証拠上明らかであるところ,約10分間にわたる職務質問の中で,警察官が,事件については身に覚えがない旨を述べていた被告人に対し,距離だけではなく事件現場のおおよその方角を話したというのも,格別不自然ではない。したがって,被告人が警察官から「近く」「北の方」という示唆を受けた可能性は否定できない。

(3) もっとも,事件現場付近の地図によれば,被告人が,「近く」「北の方」であることを聞いただけで,警察官から誘導されることもなく,事件現場として8街区方面を連想したというのは,やや不自然の感を否めない。

しかしながら,現に8街区は職務質問を受けた場所の北方向に存在するのであるから,被告人が説明するような思考過程で8街区を連想することが全くないとはいえない。

したがって,被告人が取調べの際に「8街区団地方面には行っていない」旨発言した事実は,被告人が犯人でなければ説明が極めて困難な事実であるとまでは評価できず,被告人を犯人と認めるに足りる決定的な事情であるとはいえない。

(4) これに対し,検察官は,被告人の平成25年4月30日付け警察官調書には,「方向的なもんで,私がその日に自宅を出て,B団地の外周南側しか通っていないので,その経路上では痴漢事件が起こった様子がなく,起こっているとすれば,北の方の8街区付近かと思って,そこには行っていないと説明した」と記載されており,被告人は合理的理由もなく供述を変遷させているから,職務質問時に警察官から犯行現場は「近く」「北の方」と聞いて8街区方面を連想した旨の被告人の公判供述は信用できない旨主張する。

しかしながら,被告人は,公判廷において,取調べの際に,職務質問時に警察官から事件現場の方角を聞いたことを説明しなかったのは,取調べが続いたことによりうつ病の症状が出て,いらいらするなどして思い出せなかったからである旨述べているところ,(ア)被告人は,捜査段階において,職務質問時に警察官から犯行現場の方角を聞いたことを積極的に否定する発言まではしていないこと,(イ)供述調書には,職務質問時に犯行現場が「近く」であることを聞いた旨(弁1において,警察官がその旨話したことを報告している。)も記載されておらず,このことは,被告人が取調べの際に職務質問時のやり取りについて失念していた可能性を裏付けているともいえること,(ウ)被告人には平成14年から平成20年までうつ病による通院歴があることからすれば,取調べの際に職務質問時の警察官の発言を失念していた旨の被告人の公判供述が,不自然であると断定することはできない。

(5) 以上によれば,被告人が「8街区団地方面には行っていない」と述べた事実は,被告人の犯人性を強く推認する事実とまではいえない。

4  ③についての検討

被告人は,公判廷において,事件当日の行動につき,午後1時10分過ぎ頃,見ていたテレビ番組のコマーシャルが流れ始めてから身支度をし,それが済んだ後に家を出て,寄り道をすることなく本件コンビニに行き,買い物をした後,行きとは異なる経路を通って帰宅しようとしたところ,職務質問を受けた旨供述する。

そこで検討するに,関係証拠によれば,被告人の供述する走行経路をとると被告人の自宅から本件コンビニまでの距離は約1.86㎞で,その間に信号交差点が6か所あり,本件コンビニから被告人が職務質問を受けた地点までの距離は約1.44㎞で,その間に信号交差点が1か所あること,被告人は,午後1時28分頃に本件コンビニの駐車場に到着し,午後1時37分頃に本件コンビニを出発して,午後1時45分頃に職務質問を受けたことが認められる。

そして,被告人の平成25年4月30日付け警察官調書には,①家を出発した時間は,見ていたテレビ番組のコマーシャルが流れたタイミングであり,午後1時10分前後だった,②本件コンビニへの行き帰りは同じ速度で走行し,行き道の信号で信号待ちをした記憶はなく,青だったので止まることなく進んでいる,帰り道には信号がない旨の供述記載がある。この供述が信用できるものとすれば,被告人が午後1時10分過ぎに自宅を出て,本件コンビニまでの約1.86㎞を約18分かけて移動し,本件コンビニから職務質問の現場までの約1.44㎞を約8分間で移動していることとなり,これは一見不自然に思われる。

しかしながら,まず,被告人は,市営住宅の7階に居住しており,自宅を出た後,エレベータで1階に下りて自転車に乗るまでの間に若干の時間を要したはずである。また,被告人は,公判廷において,信号待ちしたか否かは捜査段階から記憶していなかったが,捜査官から「信号待ちした記憶はあるの」と聞かれ,記憶がなかったために「ないです」と答えたところ,「それじゃ,信号待ちはしていないんだね」と聞かれた,長い取調べを終わらせるために「はい」と返事をしてしまった旨供述する。この公判供述は,前記調書の記載内容や当日の取調時間(弁18によれば,平成25年4月30日の取調べは4時間3分にわたり,休憩がなかった。)と矛盾しないし,事件から五日後に「信号待ちをしたか否か」につき記憶していなかったという内容にも特段不自然な点はない(被告人は,本件コンビニから職務質問を受けた地点までの間に信号が一つあったことも記憶していなかった。)。したがって,被告人の上記公判供述には一定の信用性が認められ,これを前提とすれば,被告人が本件コンビニまでの間にある6か所の信号交差点で何回か信号待ちをするなどして数分の時間を費やした可能性も否定することはできないというべきである。

そうすると,被告人の事件当日の行動に関する説明が積極的に虚偽であると認定することはできないから,その説明内容は,被告人が犯人であることを積極的に推認させる事情であるとまではいえない。

第7  総合評価

以上のとおり,事件当日の被告人と犯人の特徴が,上下黒色の服を着用,ズボンはジャージ様で,赤色の自転車に乗車,40代の男性という点において共通していることが認められるものの,いずれも一般的な特徴にとどまり,被告人が犯人であることと矛盾しないという程度の推認力しかない。また,被告人が事件直後に現場近くの本件コンビニに立ち寄っていることは,被告人に犯行可能性があることを示すものの,被告人と犯人とを強く結びつける事実であるとまではいえない。そして,被告人が捜査段階で「8街区団地方面には行っていない」と述べた点についても,被告人が犯人でなければ説明が極めて困難な事実であるとまではいえず,被告人を犯人であると認めるべき決定的な事情であるとはいえない。さらに,事件当日の行動に関する被告人の説明内容も,被告人を犯人であると積極的に推認させる事情ではない。

各間接事実の推認力の程度からすれば,これらの事情を総合しても,被告人が犯人であると認めるにはなお合理的疑いが残るというべきである

第8  結論

以上によれば,本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから,刑事訴訟法336条により被告人に無罪の言渡しをする。

(求刑懲役1年)

(裁判長裁判官 後藤眞知子 裁判官 髙橋孝治 裁判官 板東純)

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