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京都地方裁判所 平成15年(ワ)474号 判決

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告に対し,2053万0305円及びこれに対する平成11年2月24日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

1  本件は,原告が,被告に対し,①原告が知的障害を有しており適切な飲食量を調整できないにもかかわらず,被告従業員の過失により興味本位で原告の許容範囲を超える量の食事をさせられたため,急性胃拡張となり胃の全部摘出手術を受けざるを得なくなったとして,同従業員の不法行為についての使用者責任(民法715条),②原告に関する京都市の入所措置決定により京都市から委託を受けて原告を入所させている被告が,原告の胃潰瘍を看過し,かつ大量の滞留物が胃内に残存して拡張となっていることを看過したため,原告は胃の全部摘出手術を受けざるを得なくなったとして,被告の受託者としての管理責任懈怠による不法行為(民法709条),及び,③被告が原告に対する必要な検査,治療,投薬等を怠ったとして,診療契約の債務不履行(民法415条)にそれぞれ基づき,これらによって生じた損害(2053万0305円)の賠償及びこれに対する平成11年2月24日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。

2  基礎となる事実(争いのない事実及び末尾記載の証拠等によって認定することのできる事実。)

(1)  当事者

ア 原告(昭和25年3月28日生)は,平成7年9月5日,京都家庭裁判所において後見開始の確定審判を受けた,知的障害(知能指数は16,2.6歳児程度の知能)を有する女性である。

イ 被告は,知的障害者更生施設を設置,経営する社会福祉法人である。

Aは,平成11年2月24日当時,被告に雇用されていた指導員であり,現在は被告を退職している。

ウ 原告は,昭和46年2月10日,中京福祉事務所長の措置決定により,被告の設置する更生施設に入所し,現在もそこで暮らしている。

(2)  原告の疾病状況

原告は脂肪肝の疾病に罹患しており,被告の設置する更生施設では,脂肪制限食を与えられていた。

(3)  被告従業員Aの行為

ア Aは,平成11年2月24日,原告及びBを連れて外出し,同日夕刻に帰所するまでの間,昼食や間食を取らせた。

イ 原告は,同日午後5時半ころ,夕食を食べ,午後7時ころ苺を食べた。

ウ 原告は,同日午後9時40分ころ下痢をした。これを認識した被告当直職員は,浴室においてシャワーで原告の体を洗った上で,原告に下痢止めを服用させた。

エ 原告は,翌25日午前2時までに,3回腹痛や口の渇きを訴え,自ら指導員室を歩いて訪れた。

オ 被告職員は,同日午前7時50分に,原告に対して通常の朝食を提供した。

しかし,原告は,そのうちコーヒー牛乳だけを飲んだ。

カ 原告は,同日午前9時ころ,居室ベッドにて少量の嘔吐をし,午前10時55分ころ診療所の待合室においても嘔吐をし,胃液のほか黒っぽい液も混じっていた。

キ 原告は,同日午前11時20分に,被告理事Cの診察を受け,外部受診が必要であると判断され,午前11時40分ころ,第二岡本総合病院に搬送された。

ク 第二岡本総合病院は,同日午後4時ころ,原告に対し,胃の洗浄を行い,午後5時ころに上部消化管ファイバーによる胃内視鏡検査を実施した。その結果,縦走潰瘍が存在し,ところどころ粘膜及び筋層がともに失われていたことが判明した。

ケ 原告は,同日午後7時,第二岡本総合病院において,緊急に胃の全部摘出手術を受けた(以下「本件手術」という。)。第二岡本総合病院外科医師Dは,診断書に,「胃摘出術の前にできうる限りの胃洗浄と胃の内容物の吸引排出を行ったが,正確ではないが,嘔吐された量と合わせると約3000ml以上の内容物が術前の胃の中に存在していたと思われる」と記載した(甲5)。

(4)  原告のその後の状況

原告は,同月25日から同年3月26日まで,第二岡本総合病院に入院し,退院後,京都市a区b町c所在の自宅で母親の療養看護の下静養していたが,体力が回復してきたことから,同年5月9日に被告に戻り,現在入所生活を続けている。

3  争点及び当事者の主張

(1)  Aの原告に対する不法行為の成否

ア 原告の平成11年2月24日(以下「本件当日」ともいう。)の外食での飲食量

(ア) 原告の主張

Aは,原告に対し,午前11時45分ころ,原告が自ら注文した,激辛ラーメン(台湾みそラーメン)と中ライスを食べ尽くさせた。

また,Aは,原告に対し,午後1時6分ころ,京都府城陽市de所在の「ローソン」において,「ナビスコ リッツ ビッツサンド チーズ」,「グリコ クルッピ」及び「カフェオ スペシャル ブレンド」を購入させ,これを全て飲食させた。

さらに,Aは,原告に対し,午後2時37分ころ,京都府京田辺市fg所在のファミリーレストラン「ガスト」において,「ランチドリンク」,「紅茶シフォン」,「苺ケーキ」及び「ハンバーグサンド」を原告に食べさせた。その上,AはBが注文したピザの残りも原告に食べさせた。

原告が日常的に摂取していた飲食物は,正規の食事として被告から提出される三食とおやつのみであり,これらと原告が平成11年2月24日に摂取した飲食物を比較すると,同日の飲食量が大量であることは明らかである。被告は,原告の日常の飲食物摂取量を無視して同日の外出時に大量の飲食物を摂取させた。

なお,Aは,同日帰寮後,同僚に対し,上記原告の外食での飲食量を自慢げに話していた。

(イ) 被告の主張

原告主張の原告の外食での飲食量については,否認する。

原告の外食での飲食量は,午前11時45分ころ,ラーメン(麺のみ3分の2程度)及びライス少量,午後1時6分以降,「カフェオ スペシャル ブレンド」を飲みながら「ナビスコ リッツ ビッツサンド チーズ」,「グリコ クルッピ」の一部,午後2時37分ころ,ファミリーレストランにて,「ランチドリンク」を飲みながら「苺ケーキ」及び「ハンバーグサンド」の各全部並びにBが注文したピザの一部である。その内容は,極めて常識的な菓子類等であり,同行していたBの購入量と同程度かむしろ少ないのであって,大量とは言い難い。

また,仮に原告が原告主張の飲食物すべてを飲食したとしても,それ自体原告の健康を害すべき量とは言い難い。

なお,ピザ以外は,原告自らが購入ないし注文したものであり,Aが原告に購入ないし注文させたものではない。

イ Aの過失の有無

(ア) 原告の主張

Aは,原告が知的障害のため食事の量を調整できないことを知っていたのであるから,Aには,原告が間食を取りたいと言い出したとしても,適切な量以上には与えてはならないという注意義務があった。

また,Aは,原告が脂肪肝に罹患していることから,原告が短時間に多量の食事をすることを回避すべきことを認識し,これを回避すべき義務があった。

にもかかわらず,Aは,上記注意義務を怠り,原告が食欲旺盛で与えたものを全て食べ尽くすことをおもしろがり,原告が知的障害を有することに乗じて,原告に必要以上の食事をさせて弄んだ。

(イ) 被告の主張

原告の主張は否認ないし争う。

そもそも,原告は,平成11年2月当時,自ら適正な飲食量をコントロールすることができたから,原告の主張するような注意義務は生じない。

原告が脂肪肝であることをAが認識していたことは認めるが,Aは原告の摂取量についても相当の注意を払っていた。

また,Aが,本件当日に,原告に対して,その意に反して必要以上の飲食物を摂取させた事実はない。

(2)  被告の不法行為ないし債務不履行の有無

ア 原告の主張

(ア) 民法715条の責任

原告は,上記3(1)のAの所為(加害行為)によって,後述の損害を負い,同加害行為は被告の事業執行につきなされたものであるから,Aの使用者である被告は,民法715条の使用者責任を負う。

(イ) 民法709条の責任

a 被告は,原告に関する京都市の入所措置決定により,京都市から委託を受け,原告を入所させていたのであるから,受託者として原告の生命及び身体の安全を確保すべき管理義務がある。

b 被告は,原告の急性胃拡張の原因となったと思われる胃内容物の滞留を発見できず,原告の胃が巨大な胃拡張になっていたにもかかわらずこれを発見(診断)していないことから原告の急性胃拡張を看過している。また,仮に原告の胃に発症していた潰瘍を平成11年2月25日まで発見していないとすれば,胃潰瘍も看過した過失が被告にある。なお,被告診療所における原告の診療録を見る限り,原告が平成11年2月24日以前に胃潰瘍(胃裂創)に罹患していたり,胃拡張となっていた旨の記載はない。

c よって,被告は上記管理義務を怠った過失があるから,民法709条に基づく不法行為責任を負う。

(ウ) 診療契約の債務不履行責任

a 被告は入所者である原告に対し,入院措置における受託者として健康管理義務を負うことの他に,被告が設置した診療所において原告を診療する関係で原告との間で診療契約が成立している。

b そして,被告は,以下のとおり,本件当日までに,原告の診療行為において原告の急性胃拡張及び縦走潰瘍を発見せず,その後の原告による多量の飲食物摂取によって,胃の破裂という極めて危険な状態を惹起させたのであるから,診療契約上の債務不履行責任も負う。

すなわち,被告は,平成10年8月4日に原告の腹部を診察し,その時点で原告に胃潰瘍のおそれがあるとして,同月29日に胃のレントゲン検査を実施しているが,その時点では,原告には胃潰瘍が確認されなかったとして特に胃潰瘍に対する治療(投薬)は実施されていない。

また,被告は,同年11月10日に原告が腹部の痛みを訴えていたにも拘わらず,心疾患のおそれがあると診断し,心臓の検査を実施しているものの,胃に対しては触診を行ったのみで検査を実施せず何らの治療(投薬)も行っていない。

イ 被告の主張

(ア) 原告の主張(ア)(使用者責任)については,被告がAの使用者であること(使用関係),Aの本件行為が被告の事業の執行につきなされたものであることは認め,Aの不法行為を前提とする使用者責任の主張は争う。

(イ) 原告の主張(イ)(民法709条責任)について

a 同a(被告の管理義務の存在)は認める。

b 同b(急性胃拡張及び胃潰瘍の看過)の主張は否認ないし争う。

(a) 原告の胃拡張は,食物残さの長期的にわたる貯蔵によって引き起こされたものであり,「急性胃拡張」とは言えない。胃拡張は胃が通常より拡張しているという状態を示すに過ぎず,それ自体が何かの治療を要する病変ではない。

(b) また,原告の胃潰瘍は「トレンチ潰瘍」と呼ばれる胃の上部に見られる潰瘍であって,自覚症状に欠けるため,発見が極めて困難であり,巨大化してから発見されることが多いという特徴を有する。

c 同cは争う。

(ウ) 原告の主張(ウ)(診療契約の債務不履行)について

a 同a(診療契約の成立)は認める。

b 同b(診療契約の債務不履行)について

(a) 第1文(急性胃拡張及び胃潰瘍の看過の点)については,被告主張(イ)bと同じ。

また,被告においては,他の社会福祉施設に比して十分な健康管理体制をとるべく,入所者に対して健康診断(血液検査(1回/3か月),便検査(1回/1年),体重(1回/1月),胃透視(1回/1年)を行っている。

そして,原告は,平成10年当時上記健康診断を受診したが,その結果は,平成10年5月実施の腹部超音波検査及び便検査において,脂肪肝を除いて異常が見られず,平成10年8月に実施した胃透視においても異常は認められず,平成10年11月及び平成11年2月実施の血液検査にも出血所見等は見られず,何ら胃潰瘍の存在を疑わせるものはなかった。

よって,原告の健康状態について被告は十分な診療義務を果たしている。

(b) 第2文(胃潰瘍の治療の不存在の点)については,事実としては認め,それが被告の債務不履行との主張は争う。

(c) 第3文(腹部痛みの訴えに対する治療不十分の点)については,否認する。

被告は,触診をはじめとして必要な治療を行っており,この点に過失はない。

原告は,腹部の痛みを訴えているにもかかわらず,心臓の検査を実施した点を指摘するが,医学的に腹部の痛みの鑑別診断のために心臓検査をするのは何ら不当ではない。

(3)  因果関係

ア 原告の主張

原告の診療録の各記載(平成11年1月8日,22日,29日の各欄には,「安定している」「良好」との記載,同年2月5日の欄には「異常なし」)からすると,原告は,平成11年2月23日までには急性胃拡張とはなっていなかったとみるほかなく,Aの行為による大量摂取によって,急性胃拡張となり,胃の全部摘出手術を受けざるを得なくなった。

また,仮に,平成11年2月24日の摂取量が本件裂創の直接の発症原因でなかったとしても,原告の胃に既に発症していた胃潰瘍が同日の大量摂取によって急激に悪化し,破裂の危険性を惹起するまでに急激に悪化させたことは明らかである。

被告は,原告の胃潰瘍を看過し,かつ大量の滞留物が胃内に残存し胃拡張となっていることを看過したため,平成11年2月25日になり原告は胃の全部摘出という緊急手術を受けざるを得なかった。

イ 被告の主張

原告の胃には,従前から胃食道接合部直下から長さ8㎝の縦走潰瘍(胃上部から縦走する潰瘍で通常「トレンチ潰瘍」と呼ぶ。)があり,時間をかけて徐々に大きくなり,巨大化してから発見されることが多い。巨大な縦走潰瘍が生じると,胃の本来の機能が低下し,食物が消化されずに滞留したままの状態になって,胃の拡張状態が生じる。

原告には,数日前から貯留していた食物残さが徐々に貯留し,胃拡張を生じたものであって,原告の2月24日の摂食のみで胃拡張になったわけではない。

原告が胃を全部摘出しなければならなかったのは,長期にわたり潰瘍が慢性化し,消化機能が低下したことにより,多数の食物残さが胃内に貯留したため,細菌感染の増殖を起こして,穿孔する可能性があったからであるが,平成11年2月24日の飲食物の量とは無関係である。

そうすると,胃の摘出と原告の2月24日の摂取量の関連性は全くない。

(4)  損害

ア 原告の主張

原告の被った損害は下記合計2053万0305円である。

(ア) 付添料(信愛看護婦家政婦紹介所) 32万4400円

(イ) 室料(第二岡本総合病院) 20万0655円

(ウ) 診断書料(第二岡本総合病院) 5250円

(エ) 慰謝料 2000万円

イ 被告の主張

争う。

第3争点に対する判断

1  争点1(Aの加害行為,過失の有無)について

(1)  原告の平成11年2月24日(本件当日)の外出時の飲食量について

ア 証拠(甲2の1ないし3,証人A)によれば,原告は,午前11時45分ころ,京都府城陽市hi所在のラーメン屋「屋台」において,台湾ラーメンとライスを注文したこと,午後1時6分ころ,同市de所在の「ローソン」において,「ナビスコ リッツ ビッツサンド チーズ」,「グリコ クルッピ」及び「カフェオ スペシャル ブレンド」を購入したこと,午後2時37分ころ,京都府京田辺市fg所在のファミリーレストラン「ガスト」において,「ランチドリンク」,「紅茶シフォン」「苺ケーキ」及び「ハンバーグサンド」を注文したことをそれぞれ認めることができる。

そして,その内容を見るのに,証拠(甲2の1ないし3,証人A)及び弁論の全趣旨によれば,ラーメン及びライスの料金が850円であることからしても通常一般の昼食の量である上に原告の日常の飲食量と比較しても大量とは言い難いこと(甲1,甲3),また,その後の間食についても,「カフェオ スペシャル ブレンド」は内容量190グラムの缶コーヒーであること,「ナビスコ リッツビッツサンド チーズ」は内容量は全部開けたとして片手のひらに乗る程度の菓子であること,「グリコ クルッピ」は内容量83グラムの菓子であること,「ランチドリンク」はコーヒー一杯分であること,「苺ケーキ」は両手の親指を重ねてこれと人差し指とで三角形を作った程度の大きさのケーキであること,「紅茶シフォン」は前記「苺ケーキ」と同程度の大きさのケーキであること,「ハンバーグサンド」は三角形に切ったサンドイッチ状のもの(中にハンバーグをはさんでいる)が2切れほど乗っているものであることをそれぞれ認めることができ,これらの内容量は,品数としては多数にわたるものの,同行していたBの飲食量(乙4の1ないし3)との比較においても,成人女性の1日の飲食量として,原告に急性胃拡張や胃の破裂を生じせしめるほど異常に大量の飲食物とは言い難い。

イ 原告は,上記飲食物及びBが注文したピザの残りをすべてAが原告に飲食させたと主張する。

しかし,本件当日原告に同行したAは,レシート(甲2の1ないし3)記載の飲食物全部を原告は食べてはおらず,持ち帰ったものもある旨証言していることに加え(原告が,月に一度の外出の際に,購入した菓子等の一部を寮で飲食するために持ち帰ることがあるのは不自然とはいえず,Aの証言は信用できる。),本件当日後まもなくである平成11年4月7日に被告が原告後見人宛に作成した書面(甲3。特に原告の飲食量について虚偽を述べる合理的理由は見いだしがたい。)の内容を見ても,Aが原告に対して上記飲食物すべてを飲食させたとまでは認めることができない。

(2)  以上のとおり,原告が本件当日外出時に飲食した量(仮に,原告主張のとおりであったとしてもその量)は,原告に胃潰瘍や胃の破裂を生じせしめるほど異常な量とまではいえないことに加え,原告は,2.6歳児程度の知的水準しかなかったとはいえ,満腹になればこれ以上の飲食物は要らない旨,言葉(「ええわ」等という発言)ないしジェスチャー(手を振って嫌という意味を示す。)で意思表示できたこと(証人A),仮に原告が自らの飲食量を調節できなかったとしても,胃は,内部に大量の飲食物が貯留した場合において,本人の意思とは無関係に反射で嘔吐してしまうため,飲食物の経口摂取では急性胃拡張や胃の破裂を来す程の量の飲食をすることはできないこと(被告代表者本人,証人E),及び,原告の本件手術直前における約3リットルの胃の内容物の量は,胃の容量をはるかに超えて胃の破裂を来すほどの量とまではいえないこと(乙1,被告代表者本人,証人E)等を総合すると,原告が知的障害を有することに乗じて,Aが,原告に必要以上の食事をさせて,原告に急性胃拡張ないし胃潰瘍を発生させたと認めることはできない。

(3)ア  次に,原告は,原告が本件当時脂肪肝に罹患していたことから,Aには,原告が短時間に多量の食事をすることを回避すべき注意義務があった旨主張する。

確かに,原告が上記時点に脂肪肝に罹患しており,被告から脂肪制限食を与えられていたことは前記基礎となる事実(2)記載のとおりであるが,かかる注意義務を認めるに足りる証拠はなく,むしろ,原告の脂肪肝は,脂肪の少ない食事を提供するという食餌療法で十分コントロール可能なもので,飲食量までも制限するものではないことからしても(甲1,乙3,乙10,被告代表者本人),この点の原告の主張は採用できない。

イ  また,原告は,Aが同日外食からの帰寮後,同僚職員に原告の外食時の飲食量を自慢げに話していた旨主張するが,これを認めるに足りる証拠はなく,障害者との共生をキーワードに障害者福祉に取り組んでいた本件当時のAの勤務状況等に格別問題とすべき点が見当たらないことに照らしても(乙7,乙9,乙10),上記主張は採用できない。

ウ  さらに,原告は,原告が日常的に摂取していた飲食物は,正規の食事として被告から提供される三食とおやつのみであり(甲1,甲4),それまでの外食時に原告が摂取していた飲食物もごく一般的な量にとどまっているところ,これと比較して本件当日外出時に飲食した量は多量である旨も主張する。

しかし,仮に,原告が本件当日外出時に飲食した量が,原告の日常の飲食量より多かったとしても,原告に胃潰瘍や胃の破裂を生じせしめるほど異常な量であるとまではいえないことは前記認定と判断のとおりである。

(4)  以上のように,Aには,原告主張の不法行為に該当する行為や過失を認めることができず,原告の主張は理由がない。

2  争点2(被告の不法行為ないし債務不履行の成否)

(1)  使用者責任の有無について

前記争点1での判断のとおり,Aには原告主張の不法行為が成立しないから,これを前提とする使用者責任の主張は理由がない。

(2)  民法709条責任の有無について

ア(ア) 被告は,京都市の入所措置決定により京都市から委託を受けて原告を入所させていたことから,受託者として原告の生命及び身体の安全を確保すべき管理責任があることは当事者間に争いがない。

(イ) そして,原告は結果的には胃潰瘍に罹患していたものの(争いがない。),被告が作成した原告の診療録には,原告が本件当日迄に胃拡張ないし胃潰瘍になっていた旨の記載は認められないことから(甲10),これらの点からすると,被告は,本件当日まで原告の急性胃拡張ないし胃潰瘍を看過して上記管理責任を懈怠したようにも思われる。

イ しかしながら,証拠等(各項末尾等に掲げる。)によれば,以下の事実を認めることができる。

(ア) 原告の平成10年4月1日から平成11年2月23日(本件当日の前日)までの間の健康状態について

原告自身が上記期間内において特記すべき自覚症状を訴えてきたのは以下の3回であり,その余については,体調について安定した状態であり,異常を訴えることはなかった(甲3,甲10,乙10,被告代表者本人,証人E)。

a 平成10年8月4日,Cに対し,左奥歯が痛い旨の愁訴をしたが,その後の経過観察によって愁訴は消失した(なお,本件の原告の胃の病変との関連性はない。)。

b 平成10年10月17日,Cに対し,しんどい旨の愁訴をしたが,診察の結果,咽頭炎と診断され,投薬によって数日後に症状は消失した。

c 平成10年11月10日,内科嘱託医F対し,「お腹が痛い」と訴え受診したが,ショック症状を伴うような激痛ではなかった。

Fは,血圧,脈を測定し,胸の音,心臓の音を診察をし,腹部所見として「やわらかくて正常」「腸雑音正常」「圧痛なし」という診察をした。この診察所見及び平成10年11月2日の血液検査の結果を踏まえて,経過観察を行い,その後原告が自覚症状を訴えることなく経過した。

(イ) 被告における原告の諸検査状況等

(甲10,乙10,被告代表者本人)

a 被告においては,利用者の健康管理として下記の体制で実施しており,原告に対しても,下記bないしeのとおり検査等を実施していた。

・血液検査 1回/3ヶ月

・便検査 1回/1年

・体重測定 1回/1年

・胃透視検査 1回/1年

・腹部超音波検査 1回/1年

b 平成10年5月16日,平成7年6月ころに発見された脂肪肝に対し経過観察をするために,腹部超音波検査を行ったところ,軽度の脂肪肝以外には異常所見は見られなかった。

c 平成10年8月29日,年1回の健康管理の一貫として胃透視検査を行ったところ(前回実施は平成9年5月),異常なしとの結果であった。

d 平成10年10月21日に脳波検査,同年11月21日に心臓超音波検査等をそれぞれ行ったが,本件の胃潰瘍や胃拡張に関連する異常所見は見られなかった。

e 平成10年5月11日,同年8月3日,同年11月2日,平成11年2月1日にそれぞれ血液検査を行ったが,いずれも高脂血症が認められるのみで,本件の胃潰瘍や胃拡張に関連する異常所見は見られなかった。

(ウ) 原告の病変や胃潰瘍等についての医学的所見等について

a 原告の胃の病変は,トレンチ潰瘍と呼ばれ,胃の上部に見られる潰瘍であって自覚症状に欠けるため,発見が極めて困難であり,巨大化してから発見されることが多いという特徴を有するととともに(被告代表者本人,弁論の全趣旨),原告の潰瘍は高齢者潰瘍であり(知的障害者の場合,健常者と比べ加齢速度10年早いと言われており,本件当時51歳の原告もこれに当たる。),腹痛症状などの出現頻度が低く,また,その程度が軽い傾向にあること,穿孔例においても自覚症状に乏しいとの特徴もあった(乙6,乙8,乙10,被告代表者本人)。

b 原告の胃に生じた病変は,再生上皮が形成され,粘膜筋板の肥厚が見られたことから,慢性胃潰瘍であった。そして,通常の慢性潰瘍と大きく異なるのは,その潰瘍病変に感染を主体とする二次的な修飾が見られることであった。貯留していた胃内容物が,大きな修飾因子になって,その結果,組織の融解壊死が加わり,潰瘍の深さが漿膜にまで達するようになったが,その原因は,潰瘍性病変を細菌が修飾し蜂窩織炎を呈していたことにあった(証人E,調査嘱託の回答結果)。

c 原告の胃の病変の原因としては,胃に物理的負荷が加わったことによって,嘔吐に伴い裂創が生じるマロリーワイズ症候群が考えられるが,原告の胃に出血所見が認められなかったため,マロリーワイズ症候群の可能性はないと考えられる(甲5,証人E,調査嘱託の回答結果。)。

d 原告の胃は遅くとも本件手術時点において胃拡張が生じていたところ(もっとも,急性か慢性か,その発生時期等は不明である。証人E),胃拡張は病態であって病名ではないから,胃拡張をもって直ちになんらかの治療が必要となるわけではない(被告代表者本人。なお,第二岡本総合病院における原告の看護記録(甲9)等には,診断名として,急性胃拡張との記載があり,「急性胃拡張」という用語は慣用的に使用されることがあるが(被告代表者),上記認定を覆すものではない(胃拡張をもって直ちに何らかの治療を施すべきということを認めるに足りる証拠はない。)。

e 大量の飲食によって,胃に裂創を生じることはない(証人E。この点,甲9号証の3頁(入院経過記録)には,「おそらく消化性潰瘍→力学(大量の飲食)的力にての裂創との解答」との記載があるが,外科のD医師の誤解と考えられる。)。

f 胃の潰瘍性病変は,出血を伴わなければ何らの他覚症状も見られず,たとえ出血しても大量でなければ診断は困難という性質のものであった(証人E)。

g 本件で原告に発生したような胃潰瘍ないしその原因となる病変を発見するには,胃透視や胃内視鏡検査(以下「胃透視等」という。)を行うのが一番早いが,胃透視等は,一般に,定期的な検診目的か緊急性を要する場合に行われるものである(証人E)。

ウ(ア) 以上の認定事実からすると,まず,胃拡張については,それ自体何らかの治療を要する病気でなく病態であるから,原告の胃拡張をもって直ちに被告の管理懈怠責任を認めることはできない。

(イ) そして,胃潰瘍の点については,前記認定事実のとおり,原告の胃潰瘍の原因としては,嘔吐に伴うマロリーワイズ症候群ではなく,慢性的な潰瘍性病変が細菌によって修飾された,自覚症状に乏しい性質の胃潰瘍であるところ,原告には,胃について,本件当日以前において何ら異常所見が認められず,出血等の他覚所見が何ら認められなかったこと,被告は原告に対し定期検診等必要な検査を行っていたが,特に胃潰瘍に結びつく病変が認められなかったこと等を総合すると,被告が原告の慢性胃潰瘍を見逃したとして過失があるとまでは言い難い。

エ(ア) この点,原告は,まず,原告が知的障害を有することから,原告に自覚症状がないことをもって被告の治療義務を否定する理由にはならない旨主張する。

しかし,2.6歳の患者が自分の症状を的確に伝えることが困難な場合があるとしても(証人E),原告自身,体が痛い場合には,自ら痛みを意思表示をしていることは入院記録等(甲9ないし甲11)でも多数顕著に見受けられるところであり,原告に痛覚を表現できない障害があるとまでは認めることはできない。

そして,被告において,必要な定期検査等を行った上で,何ら異常所見が見られない以上,原告の知的障害が上記ウの判断を妨げるものではない。

(イ) また,原告は,平成10年11月10日に痛みを訴えたが,被告は胃透視等の検査をしなかった点についても,被告に過失が認められると主張する。

しかしながら,胃透視等の検査は定期検診や緊急性を要する場合に行われるのが通常であるところ(前記認定事実イ(ウ)g),同年8月の胃透視検査の結果では何ら異常が見られなかったこと,原告の腹痛の訴えはショック症状を訴える等緊急の対応を要するような激痛であったとは認められないこと,同年11月2日の血液検査を踏まえたその後の経過観察の結果,原告から腹部の痛みの訴え等の異常所見が見られなかったことからして,かかる被告の態様に過失を認めることはできない。

(ウ) なお,今回の原告の胃の病変との関係で,医者として防止可能な措置としては,便通と食欲と嘔吐の有無の確認が考えられるが(証人E),原告に本件当日以前に食欲不振や嘔吐の事実は認めることはできず(甲3,弁論の全趣旨),経過観察の過程で特に異常の見られない原告に定期検診のほか直ちに便通の検査を行う必要性も見いだしがたいことからして,この点についても被告に過失を認めることはできない。

オ よって,被告の管理懈怠責任(民法709条)の主張は理由がない。

(3)  診療契約の債務不履行責任の有無について

原告と被告の間に診療契約が成立していること,被告が原告に対し胃潰瘍についての何らかの治療を施していないことは当事者間に争いがなく,原告が胃潰瘍に罹患していたことは上記(2)で認められるところ,(2)で検討したとおり,被告は必要な定期検診等を行った上で,原告には何ら治療を要する異常所見が見あたらなかったのであり,自覚症状,他覚所見がないと発見困難な原告の胃潰瘍の特徴も併せて考えれば,被告が原告の慢性の胃潰瘍を発見せず,原告に対し何らの治療を施さなかったことをもって被告に債務不履行があったとはいえない。

3  争点3(因果関係について)

(1)  以上のとおり,被告には何らの責任原因も認められないが,なお,念のため因果関係の点も検討する。

(2)  原告が胃を全部摘出しなければならかったのは,長期にわたり潰瘍が慢性化し,消化機能が低下したことにより,多数の胃内容物が貯留したため,細菌感染の増殖を起こして,穿孔する可能性があったからであり,原告の本件当日の飲食量が大量であったから本件手術を緊急に行う必要性が生じたと認めることはできないから(前記認定事実(2)イ(ウ)b,甲3,証人E,被告代表者本人,弁論の全趣旨),原告の本件当日の飲食量と原告の胃の摘出との間に関連性はないといわざるを得ない。

したがって,同日の飲食量と原告の胃の摘出との間には因果関係は認められない。

4  よって,原告の請求はその余の点について判断するまでもなく認められず,訴訟費用の負担について,民事訴訟法61条に従い,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中村隆次 裁判官 福井美枝 裁判官 国分進)

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