京都地方裁判所 平成13年(ワ)338号 判決
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,71万1358円及びこれに対する平成12年12月12日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
1 本件は,原告が,被告との間で締結していた保険契約を解約したとして,その解約返戻金131万2437円及び社員配当金3476円の一部71万1358円並びにこれに対する訴状送達の日の翌日である平成12年12月12日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事件である。
2 基礎となる事実(争いのない事実,末尾記載の証拠等によって認定することができる事実)
(1) 原告は,平成5年3月1日,被告との間で,原告を被保険者,保険金2400万円とする定期保険特約付普通終身保険契約(以下「本件保険契約」という。)を締結し,平成12年11月20日,本件保険契約を解約した(争いのない事実のほか,甲14号証の7)。
(2) 本件保険契約についての普通保険契約約款(以下「約款」という。)によると,保険契約者は,被告の定めるところにより返戻金の範囲内で貸付け(契約者貸付け)を受けることができ(約款18条1項),その利息は被告の定めた利率によって計算し(約款18条2項),その貸付金があるときは,保険契約が消滅したときに支払われるべき金額から貸付元利金を差し引くものとされていた(約款18条5項)(乙3)。
(3) 上記解約時における返戻金は131万2437円であり,社員配当金は3476円であったが,被告は,平成12年8月7日に契約者貸付制度に基づき70万円を貸し付けていた(以下,この貸付けを「本件貸付け」ということがある。)として,その元金70万円及び利息1万1358円(平成12年8月9日から同年11月20日までの被告所定の利率年5.75パーセントの割合による利息11358円。乙4)を差し引いて60万4555円を原告に支払った。
(4) Aは,平成12年8月7日,原告の入院先の第一岡本病院において,原告のいわゆる実印,印鑑登録カード,市町村共済組合任意継続組合員証(いわゆる健康保険証)等を盗み出した(弁論の全趣旨,甲5,7,10の1,17)。同人は,同月9日,被告の京都支社を訪れ,原告を装って,原告の実印,上記印鑑登録カードを利用して交付を受けた印鑑登録証明書,健康保険証を提出するとともに,保険証券の再発行請求書を提出して,保険証券の証書の再発行手続をして,70万円の契約者貸付けを受けた(争いのない事実,甲6,12)。
(5) 原告は,被告から「Asahi Life Card」(朝日ライフカード。以下「カード」という。)の発行を受けていた。カードの発行を受けた保険契約者は,カードと現金自動預け払い機(ATM)等を用いることによって契約者貸付けを受けることができる。なお,被告の窓口でカードを提示し,暗証番号を照合することによって,保険証券及び印鑑がなくても契約者貸付けを受けることができる(甲19)。
3 争点及び争点についての当事者の主張
被告の行った契約者貸付けは,民法478条の類推適用によって原告に対して効力を生じるかどうか。
(1) 被告の主張
ア 生命保険会社が,契約者貸付制度に基づき保険契約者と称する者の申込みによる貸付けを実行した場合において,保険契約者と称する者を本人と認定するについて相当の注意義務を果たしたときは,生命保険会社は,民法478条の類推適用によって,保険契約者に対して,上記貸付けの効力を主張することができるところ,被告京都支社の担当者は,平成12年8月9日,被告京都支社の窓口に原告と名乗って訪れ,契約者貸付制度に基づく貸付けを申し込んだ者(以下「来店者」ということがある。)が,原告と認定するについては,次のとおり,相当の注意義務を果たしており,本件貸付けの効力を原告に対して主張することができる。
(ア) 来店者(A)が,貸付けの申込みの際,申込書に原告の実印を押捺するとともに,印鑑登録証明書及び健康保険証を提出している。
(イ) 来店者の年格好が原告の年齢と似かよっていた。
(ウ) 来店者は,被告京都支社において,①「承り書〈受付票〉」,②「貸付請求書」及び③「保険証券再発行請求書」を作成して被告の担当者に提出しているが,①には,原告の住所,氏名,生年月日,電話番号をすらすらと正確に記載し,②及び③にも原告の氏名を正確に(姓も「▲○」ではなく「△○」と正確に)記載している。
(エ) 来店者は,原告名義の預金通帳を所持していた。
イ 確かに,上記の者は,保険証券を提出していない。しかし,契約者貸付けを受けるためには,保険証券の提出は必須の要件ではない。契約者貸付けを受けることは,保険契約者の権利であるので,被告としては,正当な理由もないのに貸付けを拒否することはできないところ,保険契約者が保険証券を紛失することはまれなことではないから,保険証券の紛失届を提出するとともに契約者貸付けの申込みがあった場合に,保険証券を所持していないことは,契約者貸付けを拒絶する正当な理由とはならない。
なお,被告においては,保険証券を紛失した者が解約をする場合には,保険証券の再発行の手続は必要としていない。
ウ また,被告は,カードの交付を受けているが,カードを利用するかどうかは保険契約者の自由であって,被告からカードの利用を求めることはできない。
(2) 原告の主張
被告の担当者がAを原告と認定したことについては,次のとおり相当な注意義務を尽くしたとはいえないから,被告は本件貸付けの効力を原告に対して主張することができない。
ア 保険契約者が契約者貸付けを受けるためには,保険証券の提出が必須の要件であるのに,Aは本件保険契約の保険証券を被告に提出していない。保険会社は,通常であれば,保険証券の再発行請求書の提出を受けて,保険証券を再発行し,再発行された保険証券を持参した者を保険契約者と認めて契約者貸付けを行う。そして,再発行される保険証券は,保険契約者の自宅あてに郵送される。ところが,被告は,保険証券の再発行を待たずに,再発行請求書の提出を受けるのと同時に,それだけで本件貸付けを行っている。被告が,上記のような通常の方法をとっておれば,Aを保険契約者と誤認して本件貸付けを行うことはなかった。
Aは,当初は,本件契約を解約し,解約返戻金をだまし取ろうとしたが,保険証券が再発行されるまでは解約ができない旨の指摘を受けて,契約者貸付けを受けることにしたものであるが,契約者貸付けについても,解約と同様の扱いをするべきであった。
イ 実印,印鑑登録証明書,健康保険証等は,盗難にあったり,冒用されたりすることがあるものであるから,契約者貸付けを申し出た者から,これらの書面の提出があっただけで,その者を契約者と認定することは十分でない場合がある。本件においても,保険契約申込書(保存場所がどこであれ,ファクシミリを利用するなどの方法によって,即時にその写しを被告京都支社に送付することは容易である。)の原告の筆跡と契約者貸付請求書の原告の氏名の筆跡とを比較すれば,本件貸付けを申し出た者が原告ではないことは容易に判明した。
ウ また,契約者貸付けを行うことが被告の義務であるとしても,原告はカードの交付を受けていたのであるから,保険証券を所持していない以上,カードと暗証番号を利用して契約者貸付けを受けることを求めることは容易であった。
第3当裁判所の判断
1 前記基礎となる事実に,証拠(甲11,甲12の1ないし5,甲14の1ないし甲15の1,3,4,5,甲17,乙4,7,8,9)を総合すると,次の事実を認めることができる。
(1) 被告においては,店頭において保険契約者と称する者から契約者貸付け等の申出を受けた場合には,次のような手続で貸付けを実行するものとされている。
ア 「承り書〈受付票〉」に契約者の記名押印,申出の内容(契約者貸付け,解約等)等必要事項の記載を求めるとともに,運転免許証,健康保険証,年金手帳,パスポート等の公的機関発行のもの又は勤務先の職員証明書によって本人確認を行った上,「試算回答票」の試算額を提示して貸付けの意思,請求金額を確認する。
イ 契約者貸付けが2回目以降である場合には,「貸付請求書」に証券番号,被保険者の氏名,申込日,契約者の住所,氏名,連絡先電話番号に記入,押印を受け,さらに,「試算回答票」で示された範囲内の金額及び受取方法を記入してもらう。
ウ 契約者に貸付請求書,保険証券の提出を求める。保険証券を紛失した旨の申出があった場合には,保険証券の再発行の手続完了後に貸し付けるものとされていた。また,貸付請求書に押捺された印鑑が,保険証券に顕出された印鑑と同一である場合には,「試算回答票」で示された範囲内であれば金額のいかんにかかわらず貸付けを行うが,認め印の場合には,50万円以下に限ることを基準としていたが,実印が押捺され,印鑑登録証明書が提出された場合には,基準外の貸付けも行うこととされていた。
エ 担当者は,印鑑の照合等のほか,「試算回答票」に出力された契約者の住所と「貸付請求書」記載の住所との照合も行うものとされていた。
(2) なお,被告においては,保険証券を紛失した保険契約者が,保険契約を解約しようとする場合には,解約請求書中の「保険証券紛失届」欄に記名押印を求めるのみで,保険証券の再発行の手続を執っていない。
(3) Aは,平成12年8月7日,被告京都支社を訪れ,窓口で応対した同支社の職員Bに対し,本件保険契約の保険証券の番号の記載された郵便振替払込金受領書を示して,本件保険の解約を申し出た。Bは,保険証券を持っているかどうかを聞いたところ,証券を紛失したので,印鑑登録証明書と実印を持参しているとのことであったので,紛失届を提出してもらうことで解約手続を行えると判断した上,来店者(A)が保険契約者本人であるかどうかを質問し,原告であるとの答えを得たので,その証明書類の提示を求めた。これに対し,Aは原告名義の健康保険証及び原告の印鑑登録証明書を提示した。Bは,これによって来店者が原告本人と確認できたと考え,解約の手続を行うこととし,Aに「承り書〈受付票〉」の用紙に住所,氏名,生年月日,自宅の電話番号を記載してもらい(証券番号及び申出の内容はBが記載した。),その記載内容を健康保険証等の記載と照合した。そして,試算回答票に基づいて,Aに解約返戻金額等を告知するとともに,その解約の意思が固いことから,解約請求書用紙に氏名,解約返戻金の振込先の原告名義の預金口座の口座番号等を記載してもらった。なお,Aは,上記原告名義の預金の通帳を持参していた。Aは,上記解約請求書を作成中,契約者貸付けであれば,その場で現金が受け取れるのであれば,契約者貸付けにする旨申し出たので,Bは,Aに「契約者貸付請求書」及び「保険証券再発行請求書」の契約者氏名欄に原告名義の署名とその実印による押印をしてもらい,契約者貸付請求書に健康保険証で本人確認をした旨及びその健康保険証の番号等を記載し,これらの書類を決裁権者である同支社のC総務課長代理に提出して,その決裁を受けた。このようにして本件貸付けが実行された。
(4) 原告は,昭和20年5月8日生まれの男性であり,Aは,昭和23年9月9日生まれの男性である。
(5) 被告においては,年間の契約者貸付けの件数は約91万件(そのうち53万件はカードを利用した取引),京都支社における件数に限っても約3000件(そのうちカードを利用しての取引は約850件)に達する。
2(1) ところで,生命保険会社がいわゆる契約者貸付制度に基づいて保険契約者と称する者の申込みによる貸付けを実行した場合において,その者が保険契約者本人と認定するについて相当の注意を尽くしたときは,生命保険会社は,民法478条の類推適用により,保険契約者に対し,上記貸付けの効力を主張することができると解される(最高裁平成5年(オ)第1951号同9年4月24日第一小法廷判決・民集51巻4号1991頁参照)。そして,この相当の注意とは,特に本人であることを疑わせる事情のない限り,本人確認の方法として社会通念上相当と認められる方法を講じることで足りるというべきである。
(2)ア これを本件に見るのに,被告の係員は,契約者貸付けの申込みをした者から,原告の健康保険証の提示と印鑑登録証明書の交付を受け,面前で原告の実印によって押捺された契約者貸付請求書及び保険証券再発行請求書の提出を受けており,さらには,上記の者が原告名義の預金通帳を所持していることを確認している。そして,実印,印鑑登録証明書及び健康保険証は,いずれも通常本人が慎重に保管管理しており,第三者がこれを冒用することは容易ではないから,これらを所持している者がその本人であることが通常である。また,種々の取引上,これらのもの,とりわけ健康保険証が本人確認の手段として用いられていることは公知の事実である。
そうすると,原告とAが同性で年格好も似ていること(上記1(4)),その他,窓口での言動にも不自然な点はなく,契約者本人であることを疑わせるような事情が認められないことも考慮すると,被告京都支社の担当者が,Aから原告の印鑑登録証明書の交付と原告の健康保険証の提示を受け,さらに実印による押印を受けることによって,原告と称して被告京都支社を訪れたAが,原告本人であると認めたことは,社会通念上不合理とはいえず,上記相当の注意を尽くしたと認めるのが相当である。
イ 確かに,被告においては,契約者貸付けを行うには,保険証券の提出を求めるものとされているのに,本件貸付けの際には保険証券は提出されていない。
しかし,契約者本人であっても保険証券を紛失していることがあることは経験則上明らかである。そして,保険契約者に対して契約者貸付けを行うことが被告の約款上の義務であること,それ故,保険契約者の中には,保険証券を紛失している場合であっても,迅速に契約者貸付けを受けることを期待することは不合理ではなく,そのような期待を保護すべき要請もあること,カードを利用して契約者貸付けを受ける際には,カードの所持と暗証番号の照合によって契約者本人等の権原のある者からの契約者貸付けの申出があったことを確認するにとどまっており,保険証券の提出が絶対的に必要としているものではないこと,契約者貸付けは上記のとおり極めて多数件数行われているものであるから,画一的かつ迅速な取扱いがされることが被告及び契約者双方にとって求められていると解されること,以上の事情を考慮すると,被告において,保険証券を紛失した旨の申出があるときには,契約者本人等の権原のある者からの申出であることが確認される限り,保険証券の再発行の手続をとらせた上で,再発行を待たずに契約者貸付けを行っていることも不合理な手続とはいえない。そして,上記のとおり,印鑑登録証明書の提出,健康保険証の提示,実印による契約者貸付請求書及び保険証券再発行請求書への押印によって,本人を確認する方法は社会通念上不合理とはいえないから,保険証券の提出を待って本件貸付けを行わなかったからといって,上記相当の注意を尽くした旨の認定に影響を与えない(なお,原告は,解約の場合には,保険証券の再発行を待ち,それを提出させる取扱いであり,契約者貸付けについてはこれと異なる取扱いをする合理的な理由がない旨を主張するが,被告において解約について保険証券の再発行の手続を求めていないことは上記認定のとおりである。)。
ウ また,原告には,カードが交付されていたが,窓口に被告の社内の取扱上必要とされる書類を持参して契約者貸付けを求める者に,カードによる貸付けを受けることを勧めたとしても(わざわざ支社まで赴いたものにそのような勧めをすることが事実上困難であることはさておくとしても),カードを忘れてきたとか,カードを紛失したとか,暗証番号を失念したなどとして窓口での貸付けを求められた場合には,結局は,上記の書類等で契約者本人と認定するか否かの問題となり,このような勧めをしなかったからといって,上記相当な注意を尽くしたとの認定に影響しない。
エ さらに,原告は,本件保険申込書の原告の署名と契約者貸付請求書の筆跡を照合すべきであった旨も主張する。しかし,筆跡の照合は,本人確認の方法として,必ずしも適切な方法とはいえない上,上記のとおり契約者貸付けが画一的,迅速に行われるべき要請もあることを考慮すると,被告京都支社の窓口において,Aが原告とは別人であると疑わせるような事情もないのに,多数の保険契約の申込書から本件契約の申込書を検索し,その原本ないし写しを窓口に送付して,筆跡の照合をすることまで求めるのは合理的とはいえない。
3 そうすると,被告は,原告に対し,本件契約者貸付けの効力を主張することができるから,本件契約が解約されたときには,約款18条5項によって支払うべき解約返戻金及び社員配当金から,本件貸付けの元利金(71万1358円)を差し引いて支払うことができ,その差額の60万4555円は原告に支払済みである。
第5結論
以上の次第で,原告の請求は,理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条に従い,主文のとおり判決する。
(裁判官 水上敏)