さいたま地方裁判所 平成9年(ワ)84号 判決
主文
1 被告は,原告Aに対して1078万9625円,原告B及び同Cに対してそれぞれ497万4812円並びに以上の各金員に対するいずれも平成6年8月20日から支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は,これを3分し,その2を被告の,その余を原告らの各負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1原告らの請求
被告は,原告Aに対して1868万5180円,原告B及び同Cに対してそれぞれ868万2590円並びに以上の各金員に対するいずれも平成6年8月20日から支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,Dが,急性硬膜下血腫の診断により被告の経営していた「せんげん台病院」(以下「被告病院」という。)に入院後,脳腫脹により脳ヘルニアを引き起こして死亡したことについて,亡Dの遺族である原告らが,被告病院の担当医師の診療行為に過失があったとして,被告に対し,その使用者責任に基づく損害賠償を請求している事案である。
第3前提となる事実
1 本訴請求に対する判断の前提となる事実は,以下の2及び3のとおりであって,当事者間に争いがないか,あるいは,括弧内に挙示する証拠ないし弁論の全趣旨によってこれを認めることができ,この認定を妨げる証拠はない。
2 当事者等
(1) Dは,昭和8年10月15日生まれ(死亡当時60歳)の男性で,食堂を営んでいた(弁論の全趣旨)。
(2) 原告Aは,Dの妻であり,原告B及び同Cは,いずれもDと原告Aとの間に生まれた子(原告Bが長男,原告Cが次男)である(原告B本人の供述)。
(3) 被告は埼玉県越谷市e丁目f番地gにおいて,被告病院を経営していた医療法人である。
(4) Eは,被告病院の脳外科に勤務し,Dの主治医として後記診療に当たっていた医師である。
3 被告病院における診療経過
(1) Dは,平成6年7月31日午後3時ころ,自転車運転中に転倒して後頭部を打ち,翌8月1日午前0時ころ,救急車で被告病院に運ばれた(原告B本人の供述)。
Dは,当直医の診察を受けたが,被告病院に運ばれた当時,Dには重度の意識障害が認められ,1回目のCT検査の結果(乙7のCT画像上の血腫の厚さは最大約20ミリメートルである。)では,頭部左側に血腫及び脳腫脹,正中偏位が認められた。
当直医は,Dの症状を急性硬膜外血腫と診断し,Dに止血剤(アドナ,トランサミン),抗脳浮腫薬(グリセオール),脳代謝賦活薬などを点滴投与し,Dは,そのまま被告病院に入院することになった。
(2) 被告病院では,当直医の勤務終了後,脳外科のE医師がDの主治医として診療を担当することになったが,同医師は,同日午前9時ころ,当直医の実施した1回目のCT検査の結果から,Dの疾患につき,左橋静脈破綻による急性硬膜下血腫及び脳腫脹であると診断し,Dのカルテ(乙2)にも,その旨記載した。
(3) 同日午後から,Dの容態は快方に向かい,翌2日及び同月4日に,2回目及び3回目のCT検査が実施されたが,その結果(乙8及び9のCT画像上の血腫の厚さは,それぞれ最大約12ミリメートル及び10ミリメートルである。),脳腫脹,正中偏位の改善が認められた。カルテには,2回目のCT検査については,「硬膜下血腫,後頭部に沈下する」と,また,3回目のCT検査については,「慢性硬膜下血腫形成必発か?」と記載されている。
(4) その後,Dの意識状態は良好に推移し,同月6日及び8日のカルテにも,その旨の記載がある。
(5) しかし,同月10日午後から,Dは,頭痛を訴え始め,同月12日には,4回目のCT検査が実施されたが,その結果(乙10のCT画像上の血腫の厚さは最大約14ミリメートルである。)を踏まえ,カルテには,「左硬膜下血腫の形成,前回より正中偏位増大」と記載されている。
(6) E医師は,その後,同月14日から17日まで,休暇のため,Dの診療を行っていないが,その間の同月16日,Dの意識レべルは,3・3・9式方法では,Ⅱ-20~30に下降し,休暇中のE医師に代わってDを診察した被告病院の内科に勤務するF医師は,点滴(ラクテック)の追加,心電図モニターの装着を指示した。
(7) 次いで,同月17日,Dは,呼名に返答がなく,閉眼状態になり,痛覚による反応は見られたが,瞳孔不動,対光反射の一時消失が認められた。看護処置記録(乙2)にも,その旨の記載がある。
(8) 同月18日,休暇を終えたE医師がDを診察することになったが,同日午前9時30分ころ,同医師は,Dが呼吸停止を起こしていたので,5回目のCT検査を実施し(証人Eの証言,乙12),カルテに,「左慢性硬膜下血腫」と記載した。なお,カルテには,CT検査の後,Dが呼吸停止を起こした旨の記載がある。
(9) E医師は,同日午後0時30分ころから,Dの前記血腫を除去するため,穿頭術を実施したが,カルテには,「脳浮腫強く,硬膜下腔洗滌は困難である」と記載されている。また,術後,6回目のCT検査が実施された(乙13)が,カルテには,「脳浮腫のため正中構造偏位の回復は少ない」と記載されている。
(10) Dは,その後,意識が回復することなく,容態が改善されないまま推移し,同月20日午前5時35分に死亡した。E医師の作成したDの死亡診断書(甲2)には,直接死因として,「脳腫脹,慢性硬膜下血腫」と,その原因として,「急性硬膜下血腫」と記載されているが,少なくともその死因が脳腫脹による脳ヘルニアを引き起こしたものであることについては争いがない。
第4本件訴訟の争点
1 第1の争点は,Dが脳腫脹による脳ヘルニアを引き起こした原因が何であったのか,その原因を前提として,被告病院(その担当医師の診療行為。以下同じ。)に過失があったといえるか否かであるが,この点に関する原告ら及び被告の主張は,要旨,以下のとおりである。
(原告ら)
(1) Dは,平成6年8月1日午前0時過ぎころ,救急車で被告病院に運ばれ,当直医の診察を受けたが,その際,Dには,重度の意識障害(3・3・9式方法で,Ⅲ-200),瞳孔不同,対光反射の消失などの諸徴候が認められ,さらに,頭部CTで左側円蓋部の血腫(血腫の厚さは最大20ミリメートル)や正中偏位(約10ミリメートル)が認められており,急性硬膜下血腫に罹患し,脳ヘルニアの症候を示していた。
したがって,Dの治療に当たった医師は,Dの前記状態を正確に把握し,緊急手術による可及的速やかな血腫除去をすべきであったのに,被告病院の当直医は,Dの疾患を急性硬膜外血腫と誤診したうえ,血腫除去手術を行わず,保存的治療しか行わなかった。
(2) さらに,Dは,同年8月10日から頭蓋内圧亢進に由来すると思われる頭痛を訴えはじめ,同月12日に実施した4回目のCT検査の結果でも,血腫増大・正中偏位などの所見が認められたのであるから,このまま放置すれば,血腫の増大や脳浮腫のため,頭蓋内圧が亢進し,脳ヘルニアを起こして死亡することも十分予見できた。
したがって,Dの主治医となったE医師は,Dの症状を注意深く観察し,症状の改善が認められない場合は,頻回にCT検査などを実施して,Dの正確な病状を把握し,症状が悪化する場合には,抗脳浮腫薬の投与量を増加するなど,脳浮腫対策を強化するとともに,重篤な脳ヘルニアを起こす前に血腫除去手術を実施すべきであったのに,E医師は,8月12日に4回目のCT検査を実施した後,Dの症状が明らかに悪化していたにもかかわらず,同月18日に脳ヘルニアのため呼吸停止を起こすまで,CT検査を実施せず,また,重篤な意識障害に陥った後も,抗脳浮腫薬の増量等の脳浮腫対策や血腫除去手術も行わず,Dを放置した。
(3) Dは,以上の被告病院の過失によって,その後,重篤な脳ヘルニアを引き起こして死亡するに至った。
(4) 被告病院の診療報酬明細書によれば,入院当初は,大量のグリセロールを投与していたが,その後は,序々に投与量を減らし,Dの容態が再度悪化し始めた8月10日頃から呼吸停止を起こした8月18日の朝まで,グリセロールを1日500ミリリットルに増量するとともに,マンニトールの投与を開始している。
このような抗脳浮腫剤の投与状況をみても,Dの容態が再度悪化し始めてから呼吸停止を起こした18日までの間,被告病院が脳浮腫対策を全くとらずに放置していたことは明らかである。
(被告)
(1) Dの死因は,脳挫傷による血管攣縮が発生し,最終的には,小脳扁桃ヘルニアにより呼吸停止に至ったものであるとしか考えられない。
(2) 脳血管攣縮は,一般的には,脳底部クモ膜下腔の血液が原因と考えられるところ,本件においても,初回のCT検査の結果を事後的に検討すれば,Dには,硬膜下出血のほか,くも膜下出血が認められる。
Dの入院当時は,脳が腫れていた状態であったため,初回のCT検査で,これを発見することは不可能であったが,このことは,くも膜下出血に原因して脳血管攣縮を引き起こしたことを否定させるものではない。
(3) そして,脳血管攣縮は,その原因に関しても,未だ定説のない状況であり,治療方法の決め手となるものも存在しない疾患であるから,脳血管攣縮に一旦罹患してしまえば,有効に治療する方法がない。
したがって,被告病院において何らかの対応をすればDが死亡するという結果を必ず避けられたものであるとはいえないから,被告病院には,Dの死亡につき,結果回避可能性がない。なお,仮に,初回のCT検査で脳底部のくも膜下出血は確認されたとしても,外傷性脳血管攣縮は稀なものであるから,本件のような結果発生を予見することも極めて困難であった。
(4) 被告病院では,Dに対して抗脳浮腫剤の投与を続けていたので,この点に問題はなく,原告らは,その投与量を問題にするが,単に増量すれば救命し得るという性質のものでもないから,原告らの主張は当たらない。
2 第2の争点は,被告病院に過失があったことを前提に,Dに救命の可能性があったか否か,すなわち,被告病院の過失とDの死亡との間の因果関係の有無であるが,この点に関する原告ら及び被告の主張は,要旨,以下のとおりである。
(原告ら)
(1) Dの救命可能性は,平成6年8月1日の入院時には,80パーセント以上はあったと認められるべきものである。すなわち,急性硬膜下血腫は,予後不良の疾患とされているが,それは,急性硬膜下血腫の大多数が高度の脳損傷を伴っているためであって,一次的脳損傷を伴わないか,伴っても軽度の場合は,血腫除去が手遅れにならない限り,その予後は極めて良いのである。そして,Dの場合,CT検査の結果,脳挫傷を疑わせるような所見は全く認められておらず,脳挫傷によると認められるような神経学的所見も認められていない。また,Dは,自転車で転倒した受傷直後は,意識障害がなかったか,あってもごく短時間で回復したことが窺われ,さらに,被告病院を受診した後も,一旦は意識状態が悪化していたものの,その後,意識明瞭となるまで回復しており,これらの点からしても,脳挫傷がなかったか,あっても軽微なものであったことが裏付けられる。
したがって,Dは,急性硬膜下血腫を起こしていたが,脳挫傷の合併がないか,あっても軽度のものであったことが明らかであるから,Dの救命可能性は,少なくとも80パーセント以上はあったものである。
(2) 本件において,Dの救命可能性を考えるにあたり,Dの入院時の意識障害や正中偏位の強さを特に考慮する必要はない。すなわち,本件は,入院時の頭蓋内圧亢進がそのまま進行して死亡したという場合ではなく,入院後,血腫は縮小して頭蓋内圧亢進はおさまり,正中偏位も軽減し,意識状態も明瞭となるまで改善したという場合である。
したがって,入院時にその原因となっていた血腫を除去していれば,その後の症状が一層改善されていたということはできても,この時点で血腫を除去しても,手遅れで,そのまま死亡するに至ったということは全く考えられない。しかも,Dが死亡した原因は,その後の血腫の再増大であり,入院時の意識障害や正中偏位の強さが原因となって死亡したわけではない。
(3) 次に,Dの年齢であるが,予後の不良因子としてあげられるのは,「65歳以上の高齢者」であり,入院時,Dは60歳であったから,これに該当しない。
また,「高齢者では血腫量も多く,正中偏位も強い。このことが予後不良に関与する。」との指摘(後記G鑑定の補充書添付資料2)があるが,この問題は,患者の血腫の大きさに還元できるものであって,本件のように血腫の大きさが判明している場合では,それ自体を考慮すれば足り,ことさらにDの年齢を考慮する必要はない。
(4) Dが実際にアルコール依存症であったかどうかはともかく,後記G鑑定では,Dがアルコール依存症に罹患していたことを前提に,アルコール依存症の患者が急性硬膜下血腫を起こすと死亡率が高くなると指摘しているが,同鑑定ないし後記G証言では,アルコール依存であるということ自体が急性硬膜下血腫の死亡率を高める直接の因果関係があるというわけではなく,アルコール依存症による肝機能障害が問題であるとし,具体的には,麻酔をかけたり,抗生剤等の薬剤を使用するなどの様々な治療に対して肝機能が障害を受け,術後の合併症が大きくなり,そのため死亡率に相違が出るというのである。しかし,血腫除去手術それ自体は現代医学ではそう困難な手術ではなく,麻酔も,全身麻酔でなく,局部麻酔で足りるのであり,術後の感染症対策のための抗生剤投与も,それほど大量のものが必要とは解されない。
したがって,仮にDに中等度の肝機能障害があったとしても,血腫除去等の治療により,死に至るような重篤な肝機能障害を引き起こすとはとても考えられない。また,被告病院は,当初からDに肝機能に問題があったことは把握していたのであるから,麻酔剤等の薬剤の選択,投与量の調節等により,重篤な肝機能障害を引き起こすのを回避することは十分可能であった。さらに,そもそも,入院時の1回だけの検査では,Dの肝機能が当時どの程度障害されていたのかまで十分に把握できたとは解されない事情もあるのであって,以上によれば,仮に,Dに肝機能障害があったとしても,本件の場合,それがDの救命可能性に影響を与えたとは解されないし,仮に影響を与えたとしてもそれは僅かであって,数パーセント程度と考えるべきである。
(被告)
(1) 後記G鑑定は,Dの救命可能性について,受傷4時間以内に開頭術を受けた患者の死亡率を前提にしているところ,それは,一旦意識が回復したから脳にそれだけの障害がなかったという点を理由にしているにすぎず,根拠のないものである。
本件では,Dの救命率は,受傷後4時間以降に手術した例である10パーセント以下を基礎にして判断すべきである。
(2) また,急性硬膜下血腫の死亡率は,通常でも,55パーセントに達し,さらに,本件は,Dが高齢で,意識障害が強く,正中偏位も強いという死亡率が高い例であるから,生存率は,45パーセントよりも低く,さらに,そこから10ないし20パーセントの肝機能障害による生存の可能性を差し引くべきである。
したがって,生存率は,高くとも25ないし35パーセントにすぎない。
3 第3の争点は,被告病院の過失とDの死亡との間に因果関係が認められる場合に,原告らが被告に対して賠償を求め得る損害額であるが,この点に関する原告ら及び被告の主張は,要旨,以下のとおりである。
(原告ら)
(1) 亡Dの逸失利益
Dの急性硬膜下血腫は,脳損傷を伴わないか,伴ったとしても,軽微なものであったこと,入院後に一時回復していること,特に後遺障害を残すような形跡は全く認められなかったことなどを考慮すれば,救命された場合は,特に後遺障害を残すことはなく,従前の仕事に復帰できたものと考えるべきである。
Dは,死亡当時60歳の男子であり,平均余命20.06年の約2分の1である10年間は就労可能であった。また,Dは,食堂を営み,自ら稼働していたところ,死亡前3年間の平均年収は,120万2317円であった。そして,同期間の生活費を年収額の40パーセントとして控除し,さらにライプニッツ式計算により,その間の中間利息を控除すると,Dの逸失利益の現価は,557万0359円となる。
原告らは,Dの前記逸失利益を法定相続分に従って,原告Aについては278万5180円,原告B及び同Cについてはそれぞれ139万2590円を相続した。
(2) 原告らの慰謝料
原告らは,Dの死亡により,それぞれ多大な精神的苦痛を被ったが,その苦痛に対する慰謝料としては,原告Aについては1300万円,原告B及び同Cについてはそれぞれ650万円が相当である。
(3) 亡Dの葬儀費用
原告Aは,Dの葬儀費用として,少なくとも120万円を支出した。
(4) 原告らの弁護士費用
原告らは,本件訴訟の提起・追行を原告ら訴訟代理人に委任し,報酬の支払を約したが,当該弁護士費用のうち,少なくとも,原告Aについては170万円,原告B及び同Cについてはそれぞれ79万円を被告病院の過失と因果関係のある損害として被告に負担させるべきである。
(5) よって,原告らは,被告に対し,民法715条に基づき,原告Aについては1868万5180円,原告B及び同Cについてはそれぞれ868万2590円並びに以上の各金員に対する被告病院の過失によりDが死亡した日である平成6年8月20日から支払済みに至るまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
(被告)
(1) Dの就労の可能性は,福祉的就労を含めても極めて低いと判断されており,仮に,延命が可能であったとしても,その死亡に伴う損害として,逸失利益は認められない。
また,Dの肝機能障害は,入院をしていなければならない程度のものであり,そのため,収入も,直近のものは,年収で71万円余りとなっているのであるから,仮に,逸失利益が認められるとしても,原告ら主張の過去3年分の平均年収を基準にするべきではない。
(2) 原告らの固有の慰謝料も,Dが一家の支柱であったことを前提に計算されているが,甲14号証を見ても,原告A,同Cの方が収入が遥かに多く,一家の支柱とはいい得ない状況である。
この点は,Dが本来は肝機能障害で入院していなければならない状態であったことからも明らかである。そうすると,Dの死亡に伴う慰謝料が認められるとしても,一家の支柱などではない「その他」に分類される2000万円がその基準とならなければならない。そして,そこから救命の可能性を考慮して定められるべきものである。
第5当審における鑑定
当審では,前記争点(第3の争点を除く。)に関する専門的知見を得るため,医師Gを鑑定人に指定し,本件における①急性硬膜下血腫の診断,②CT検査の結果,③被告病院の措置の当否,④Dの死因,⑤Dの救命可能性などについて,鑑定を命じ,同医師から書面による鑑定結果(補足書を含む。以下「G鑑定」という。)の提出を受けているほか,同医師を証人として尋問し,この点に関する証言(以下「G証言」という。)も得ている。
第6当裁判所の判断
1 第1の争点(被告病院の過失の有無)について
(1) まず,硬膜下血腫の一般的な症状及びその治療方法などについて検討すると,甲7号証,甲19号証及びG鑑定によれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる証拠はない。
ア 硬膜下血腫とは,頭部外傷により脳表と硬膜との間に発生する血腫であり,受傷3日以内に発症するものを急性硬膜下血腫,4日から20日に発症するものを亜急性硬膜下血腫とし,20日以降に発症するものを一律に慢性硬膜下血腫としている。
急性硬膜下血腫は,血腫が主体となっている場合と,脳損傷が主体となっている場合があるが,その両者では,発症の状況も,臨床症状も異なってくる。
しかも,発症の時期,経過は,衝撃を受けたときの脳損傷の状況と程度と部位,出血源,出血の速度と量,頭蓋容積と脳容積の相互関係によって決定される。一般的には,頭痛を中心とした発症で,血腫により,脳の偏位がみられはじめ,次に血腫が広がり,運動領などに局所圧迫を加え,片麻痺が出現し始め,次第に頭蓋内圧が亢進し,脳ヘルニアに陥る。
イ 急性硬膜下血腫の治療の原則は,CT検査の結果を確認して早期に診断し,脳ヘルニアに陥る前に手術による血腫除去を行い,合併している脳挫傷に対しては,それに由来する脳腫脹に対する治療と損傷組織の代謝性アシドーシス,代謝中間物質による脳障害の誘発を防ぐことである。
また,急性硬膜下血腫においては,手術による血腫除去に加えて,その前後に実施すべき治療として,①頭蓋内圧降下剤(マンニトール,グリーセロール)の投与,②脳血液関門保護と脳浮腫対策としてのステロイド大量療法,③呼吸管理と酸素療法,④水分電解質,酸塩基平衡障害の補償,⑤循環障害への対策がある。
急性硬膜下血腫の保存的治療の是非については,急性期に来院し,脳ヘルニアの徴候がなく,意識レべルが3・3・9式方法による意識障害の分類でⅢ-100以下の場合であって,①若年者,②CT検査上,脳腫脹を認めるが,脳挫傷,脳内出血を伴わない,③急激に神経症状が悪化しない,④経過中に痙攣発作を認めない,⑤巣症状を認めないなどの条件を満たせば,経過観察でも良いとされているが,反対に,①意識レべルがグラスゴー・コーマ・スケール(意識明瞭15,深昏睡3)で6.8以下,②血腫量34.9ミリリットル以上,③血腫の厚さ11.0ミリメートル以上,④正中偏位3.1ミリメートル以上のいずれか1項目でも,この数値を超える場合には,保存的治療は限界で,手術療法が必要とされる。
(2) 以上を踏まえ,前記事実及びG鑑定を総合して,被告病院の過失の存否を判断すると,まず,Dの入院時の症状は,急性硬膜下血腫であったと認めることができ,この認定を覆すに足りる証拠はない。
この点につき,被告は,Dの死因を争う前提として,Dは,入院当時,くも膜下出血も発症していたところ,脳が腫れていたため,初回のCT検査では,これを発見することが不可能であったが,事後的に検討すれば,くも膜下出血の発症は明らかであると主張し,証人Eも,被告の主張に沿う供述をしている。
しかし,Dがくも膜下出血を発症していたか否かについては,G鑑定によっても一応認められるが,同鑑定で指摘されている脳血管攣縮の原因となり得る可能性,その発症の時期は,いずれも一般的な知見にとどまり,Dが具体的にくも膜下出血に原因して脳血管攣縮を引き起こしたという趣旨ではないと解されるから,E医師の供述を直ちに採用するのは困難であって,本件において,少なくともDの死因として,くも膜下出血を考慮する余地はないものといわなければならない。
(3) そして,Dの症状が急性硬膜下血腫であったとすると,急性硬膜下血腫に対しては,前記のとおり,早期診断・早期治療が原則であるところ,平成6年8月1日のDの状態は,前提となる事実のとおり,同日の1回目のCT検査の結果,血腫の厚さは約20ミリメートル,さらに,乙第2号証及びG鑑定によれば,意識レべルはⅢ-200,正中偏位は約10ミリメートルであり,瞳孔不同,対光反射(-)の神経症状は鉤(前方または側方)へルニアの徴候を示していたと認められるのであるから,保存的治療の限界を超え,担当医師としては,この時点で,Dの血腫除去手術を実施すべき義務があったといわなければならない。
しかるところ,その時点でDを診療した当直医は,急性硬膜外血腫と診断し,かつ,保存的治療のみを行っているのであって,これ自体誤診といわざるを得ないが,急性硬膜外血腫であると診断したのであれば,かえって,血腫の厚さに関係なく血腫除去手術を実施しなければならなかったと解されるのであるから(G証言),当直医の処置は,急性硬膜外血腫に対する処置としても不適切であったというべきであって,この点は,当直医が脳外科に所属する専門医であったか否かとは関係がないところである。
さらに,同日午前9時ころには,脳外科の専門医であるE医師がDの主治医として診療を担当したが,同医師は,1回目のCT検査の結果を見て,Dの疾患について急性硬膜下血腫及び脳腫脹と適切に診断しているところ,その処置としては,保存的治療にとどまる止血剤・脳浮腫改善剤・酸素の投与・頭部の冷却のみであったというのである(E証言)。
(4) 以上からすれば,被告病院の担当医師は,Dが入院した8月1日の時点で,遅くとも当直医から専門医のE医師が主治医として担当することになった時点で,血腫除去の手術を実施すべきであったのに,当該手術を行わなかったのであるから,この点に過失があると認めざるを得ない。
(5) 被告は,Dの症状が,被告病院に入院後,改善の傾向にあったことを踏まえ,その治療経過からして,その後の症状の悪化は,急性硬膜下血腫の再出血によるものではなく,脳血管攣縮であると主張し,同旨の臨床報告(乙3)を提出するが,Dの死因としてくも膜下出血を考慮することができないことは,前説示のとおりであって,その臨床報告も,本件と事案を異にすると認められるから,採用し得ない。もっとも,くも膜下出血によらなくても,外傷性脳損傷による脳血管攣縮の可能性もないわけではないが,本件におけるDの治療経過及びその死亡に対する主治医であるE医師のその当時の診断内容に照らしても,Dの死因が外傷性脳損傷を原因とする脳血管攣縮によるものと推測させるような事情は認められない。
また,被告は,Dの症状の悪化が再出血によることを窺わせる事情もないと反論して,被告病院の過失を争うが,Dが,被告病院に入院後,症状に改善が見られた後,頭痛を訴えるなどして,その症状が悪化し,CT検査の結果でも,血腫の厚さが増大していることに鑑みれば,その血腫の増大は,入院の原因となった急性硬膜下血腫が除去されていなかったことに原因しているものと推認するのが相当であって,かつ,血腫の除去手術を実施することが不可能であったと認める事情はないから,入院直後の処置によって一時的に症状が改善された状況は呈していたが,当該処置をもってDの治療として担当医師の義務違反を生じさせないほどに適切であったというのは困難である。
被告の主張は,いずれも採用し得ず,他に前認定を妨げる証拠はない。
2 第2の争点(因果関係の有無)について
(1) そこで,次に,被告病院の過失とDの死亡との間の因果関係の有無に係るDの救命可能性について検討すると,G鑑定及びG証言によれば,硬膜下血腫の患者の死亡率は,①手術前の意識障害の程度,②受傷から手術までの時間,③年齢,④脳損傷の程度(血腫の大きさ,随伴する脳損傷の程度,脳幹損傷の有無等)などによって左右されるというのであるが,さらに,一般的にいって,65歳以上の高齢者で,術前,意識障害が強く,受傷後4時間以後に手術をした場合には,予後は不良であるということができるが,急性硬膜下血腫の予後は,随伴する脳実質損傷,特に脳幹損傷の程度に大きく左右されるともいうのである。
そこで,本件における前記諸要素を検討すると,まず,②については,前提となる事実のとおり,Dは,入院時には,重度の意識障害(意識レべルⅢ-200)が認められているが,その後,8月6日ころには,一旦意識が回復し,ほぼ清明となっている。また,①については,受傷から約9時間後に病院に運ばれており,手術をするまでに30分から1時間程度かかるとしても,被告病院に過失がなければ,受傷後遅くとも10時間後には,手術に着手することができたということができる。③については,Dの年齢は,当時60歳であった。④については,G鑑定からすれば,一次的損傷としての脳幹損傷が合併していた可能性はあるが,一旦Dの意識が回復し,ほぼ清明となったことからすると,意識に影響を及ぼすほどの重篤な一次的脳幹損傷はなかったと推認するのが相当である。また,G証言によれば,本件は,CT等の画像からでは,脳実質の損傷も見当たらないことが認められるので,Dの脳の損傷の程度は,仮にこれがあったとしても,かなり低いものであったと認めることができる。
以上を総合考慮すると,②の受傷後の経過時間や③の患者の年齢は,一般的な統計によるものであるから,これらを過度に重視すべきではなく,かえって,本件では,急性硬膜下血腫の予後に大きくかかわるという脳実質損傷の程度が,④のとおり,かなり低いものであることや,Dが入院直後,①のとおり,意識を回復していることなどからして,G鑑定のとおり,Dの救命率は70パーセントはあったと認めることができる。
(2) この点につき,被告は,Dが自転車で転倒した後,4時間以上を経過して被告病院に入院していることを前提に,G鑑定の指摘するDの救命率は適切でなく,さらに,Dが肝機能障害に罹患していたことから,Dの救命率は低下するとし,結局,その救命率が低度であると主張して,被告病院の過失との間の因果関係を争っている。しかし,受傷後の経過時間を過度に重視すべきでない本件においては,Dが被告病院に入院した時期が受傷後9時間程度経過していたことは,Dの救命率をG鑑定のとおりに認定することの妨げとなるのではない。
また,Dの肝機能障害についても,G証言にいう生存率が1割前後低下するという程度では,因果関係それ自体を否定し得るほどに救命率が低いと認定し得る事情ではなく,せいぜいDの身体的な素因として,被告の責任の割合を判断するに際して斟酌すれば足りる程度のものというべきである。
したがって,この点に関する被告の反論も,採用し得ない。
(3) 以上説示したところによれば,被告病院において,Dが入院した平成6年8月1日の時点で,Dの血腫除去の手術をしていれば,Dは硬膜下血腫により死亡していなかった蓋然性が高く,被告病院の過失とDの死亡との間には因果関係が認められるというべきであるから,被告病院の責任は免れない。
3 第3の争点(原告らの損害額)について
(1) そこで,以下,Dの死亡によってDないし原告らが被った損害額について検討する。
(2) 逸失利益
Dは,前提となる事実のとおり,死亡当時60歳の男子であり,食堂を営んでいたところ,甲12号証ないし14号証によって,Dの死亡前3年間の年収額をみると,平成3年度が131万0356円,平成4年度が158万5511円,平成5年度が71万1084円であって,その平均年収は,原告ら主張の120万2317円となる。
被告は,Dの前記年収の推移を前提に,平成5年度の年収が激減しているのは,Dの罹患していた肝機能障害が入院をしていなければならない程度のものであったからであるとし,仮に逸失利益が認められるとしても,原告ら主張の過去3年分の平均収入によるべきでないと主張するが,G鑑定によると,Dは,死亡する5年前よりアルコール肝炎で治療を受けていたというのであるから,平成3年度及び平成4年度の収入も,その影響下の収入といわなければならず,逸失利益の算定に当たり,両年度の収入及び平成5年度の収入の平均収入を基準とすることに不合理なところはない。
そこで,Dが平均余命期間の20.06年の約2分の1である10年間につき,平成3年度ないし5年度の平均収入120万2317円を基準として,その40パーセントを生活費として控除し,ライプニッツ方式により中間利息を控除して,その就労による逸失利益の現価を計算すると,557万0358円となるから,原告らは,各自の法定相続分に従い,原告Aについては278万5179円,原告B及び同Cについてはそれぞれ139万2589円の限度で相続したことになる。
(3) 慰謝料
被告病院におけるDの前記した診療経過,Dの年齢,原告らとの身分関係及び生活関係などを考慮すれば,Dの死亡に対する原告らの固有の慰謝料は,原告Aについては1000万円,原告B及び同Cについてはそれぞれ500万円と認めるのが相当である。
(4) 葬儀費用
弁論の全趣旨によれば,Dの葬儀費用は,原告Aが出捐していると認められるところ,その葬儀費用に相当する損害賠償として被告に賠償を求めることができるのは,120万円が相当であると認められる。
(5) 被告の一部免責
原告らに生じた損害(亡Dから相続した逸失利益を含む。)は,弁護士費用を除くと,原告Aについては1398万5179円,原告B及び同Cについてはそれぞれ639万2589円であるが,G鑑定によると,Dは,被告病院に入院する前から,中等度のアルコール依存症に罹患していたと認められるところ,アルコール依存症の患者が急性硬膜下血腫を発症した場合は,そうでない者の場合に比べて統計的に死亡率が高いこと,慢性期の中枢神経外傷に関する研究において60歳以上の就労率が極めて低いことなどに鑑みると,これによってDの救命可能性が否定されるものではないことは,前説示したとおりであっても,Dについては,さらに重度の障害が残った可能性も否定できないことからして,損害の公平な分担という見地から,過失相殺の法理を類推適用して,Dの死亡によって原告らに生じた前記損害の一部は,原告らが負担すべきものである。そして,被告において,Dの救命可能性を争っている本件においては,その旨の主張をしているものと解されるから,被告の一部免責が認められるべきところ,その割合は,本件に現れた前記事情の下においては,30パーセントをもって相当とするというべきである。
(6) 弁護士費用
以上によれば,原告らが被告に対して賠償を求めることができる損害額は,原告Aについては978万9625円,原告B及び同Cについてはそれぞれ447万4812円となるところ,その認容額,本件事案の内容,審理経過など一切の事情に照らすと,原告らが本件過誤を原因として被告に対して賠償を求めることができる弁護士費用に相当する損害は,当該認容額のほぼ1割に相当する原告Aについては100万円,原告B及び同Cについてはそれぞれ50万円と認めるのが相当である。
(7) したがって,被告が原告らに対して賠償すべき損害額は,原告Aについては,1078万9625円,原告B及び同Cについては,それぞれ497万4812円ということになる。
4 以上のとおりであるから,原告らの本訴請求は,被告に対し,前説示の各金員及び当該各金員に対するいずれもDが死亡した日である平成6年8月20日から支払済みに至るまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから,これを認容し,その余を失当として棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 滝澤孝臣 裁判官 永井崇志 裁判官 白﨑里奈)