さいたま地方裁判所 平成10年(ワ)1249号 判決
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1原告らの請求
1 甲事件につき
被告市は,原告A,同Bに対して各自9562万5084円,同Cに対して3000万円及び以上の各金員に対するいずれも平成9年4月28日から支払済みまで年5分の割合による金員をそれぞれ支払え。
2 乙事件につき
被告法人は,原告A,同Bに対して各自4781万2542円,同Cに対して1500万円及び以上の各金員に対するいずれも平成9年4月28日から支払済みまで年5分の割合による金員をそれぞれ支払え。
第2事案の概要
本件は,亡Dの遺族である原告らにおいて,Dが被告市の開設している川口市立医療センター(以下「医療センター」という。)及び被告法人の開設している鳩ヶ谷中央病院(以下「鳩ヶ谷病院」と略称する。)をそれぞれ受診し,再び医療センターを受診した後,急性心不全で死亡したことにつき,医療センター及び鳩ヶ谷病院の担当医師の診療行為などに過失があったと主張して,被告らに対し,債務不履行に基づき,それぞれDの死亡により生じた損害の賠償を求めている事案である。
第3前提となる事実
1 本訴請求に対する判断の前提となる事実は,以下の2及び3のとおりであって,当事者間に争いがないか,あるいは,括弧内に挙示する証拠ないし弁論の全趣旨によって認めることができ,この認定を妨げる証拠はない。
2 当事者等
(1) Dは,昭和38年12月24日生まれ(死亡時33歳)の男性で,生前,株式会社ゼネコスに勤務していた(甲1,8)。
(2) 原告AはDの父,原告BはDの母,原告CはDの妹である(甲1)。
(3) 被告市は,埼玉県川口市ab番地に医療センターを開設して医療活動を行っている。
(4) 被告法人は,埼玉県鳩ヶ谷市c町d丁目e番f号に鳩ヶ谷病院を開設して医療活動を行っている。
3 診療経過等(月日は平成9年である。)
(1) 4月23日朝,Dは,38度5分くらいの熱を出し,24日の午前2時ころには,熱は39度5分まで上がり,朝まで熱が下がらなかった(原告B)。
そこで,24日早朝,Dは,医療センターを受診し,E医師の診察を受けた。
その際,Dは,E医師に,前日から38度の発熱があったこと及び咽頭痛を訴えたところ,診察の結果,扁桃部に発赤を認めたが,呼吸音・心音に異常はなく,腹部は柔らかく平坦であったうえ,Dの母が風邪に罹患していると言うので,同医師は,Dを感冒と診断し,クラビット(抗生物質製剤),PL(総合感冒薬),ボルタレン(解熱鎮痛消炎剤),ウルグート(胃薬)を処方した(乙1,8,証人E)。
(2) 同月25日,Dは,熱が40度まで上がったので(原告B),再び医療センターを受診し,F医師の診察を受けた。
その際,Dの説明する症状は,前日処方された内服薬を服用すると,一時的には解熱するが,再び発熱し,まだ発熱が続いているということであった。当日の診療録には,「扁桃やや発赤」,「肺雑音なし」,「心雑音なし」との記載がある。同日,胸部X線検査が実施されたが,心陰影と肺野とには異常所見は認められなかった(乙1,9)。
そこで,F医師は,ソリタT3(維持液)にビタミン剤を混和して点滴投与し,インダシン座薬(解熱剤)を処方した。
(3) 同月26日午後2時ころ,Dは,容体が改善しないため,鳩ヶ谷病院を受診することとし,G医師の診察を受けた。
その際の診療録(甲8,丙1)の「既往症・原因・主要症状・経過等」欄には,「主訴 発熱(38℃)」,「3日前より主訴あり。センターで投薬受けるもよくならない。胸やけもする。胸部異常なし。」,「腹部平坦,軟,圧痛なし」との記載がある。
G医師は,Dに点滴を施行し,リンコシン(抗生物質)とkpザンターク(胃壁保護剤又は消化性胃潰瘍剤)を処方した。
(4) 同日午後8時10分ころ,Dは,再び鳩ヶ谷病院を受診し,当直医のH医師の診察を受けた。
その際の診療録(甲8,丙1)の前同欄には,「発熱,心窩部痛」,「37.4℃」,「胸部異常なし」,「腹部,軟,平坦 」との記載がある。
H医師は,Dが過換気と似た状態にあるとして,ゆっくりと呼吸をするように指示し(丙4),レンドルミン(睡眠薬)を処方した。
(5) 同月27日午前8時10分ころ,Dは,発熱,痙攣発作,胸痛のため,医療センターを救急外来で受診した。
Dを診察したI医師は,髄膜炎の可能性を考えて入院を指示し,血液検査・生化学検査・頭部CT検査の後,Dは,同日午前8時50分,医療センターに入院する運びとなった(乙2,乙14)。
Dの入院診療録(乙2)の同日午前8時50分の欄には,「KT36℃,脈拍測定不能,血圧測定不能,四肢冷感,チアノーゼあり,呼名時発語あり」等の記載がある。
しかし,同日午前9時ころ,Dは,呼吸停止,心停止の状態に陥ったため,人工呼吸器が装着され,心マッサージ,カウンターショック,ボスミン等の昇圧剤の心注が行われたが,反応がなく,同日午前10時30分,急性心不全で死亡するに至った(甲2,乙1,乙10)。
(6) Dの死因は,剖検の結果,ウィルス性心筋炎と判明した(甲2,4,乙2)。
第4本件訴訟の争点
1 第1の争点は,Dが死亡したことにつき,被告らの担当医師の診療行為などに過失があったか否かであるが,この点に関する原・被告らの主張は,要旨,以下のとおりである。なお,月日は,前同様,平成9年である。
(原告ら)
(1) 医療センター(の担当医師等)の過失
(4月24日及び25日時点の過失)
ア 心筋炎は,発熱,咽頭痛,咳,頭痛,悪心,嘔吐腹痛などの消化器症状を含む症状,すなわち,感冒,胃腸症状で発症する。したがって,感冒(上気道感染)ないし消化器疾患が疑われるような場合は,当然,心筋炎か否かの鑑別診断に入らなければならない。急性の心筋炎が感冒様の症状を呈することは,医学診断において必須の知識である。
しかるところ,Dは,4月24日の初診時には,前日からの38ないし40度の発熱,咽頭痛,扁桃発赤,胸痛を訴え,25日には,風邪薬を服用した後も熱が引かず,39.8度の高熱,扁桃発赤,胸痛といった,単なる感冒ではない,心筋炎の典型症状を訴えていたのであるから,医療センターの担当医師は,遅くとも25日には,心筋炎を疑い,直ちに血液検査,心電図検査等を行い,心筋炎を確認し,その治療をすべき注意義務が生じていた。そして,実際,担当医師が,血液検査を1度でも実施していれば,心筋障害が数値上で直ちに明らかになったはずであるし,心電図検査を実施していれば,心筋の異常が読みとれたはずである。
しかし,医療センターの担当医師は,前記注意義務を怠り,単なる感冒と誤診し,心筋炎の進行するにまかせ,Dを急性心不全で死亡するに至らしめたものであって,その診療行為には過失がある。
イ 特に,F医師についてみると,25日の時点で,インダシンを処方しているが,前日のボルタレン投与に加えてインダシンを処方したことが心筋炎を激症化させたものであって,この点において,同医師に過失があることは明らかである。
ウ また,原告Bは,4月25日午後3時ころ,Dの容体を見かねて医療センター内科に電話し,応対に出た看護婦に対し,「点滴をして頂いた渡邉ですが,息子のDが今も胸が苦しい苦しいと言っており,胸が苦しいのが全然楽にならないのです。また身体の震えもあります。すぐ先生に聞いてほしいし,診てもらいたいのです。」と要請しているのであるから,看護婦としては,少なくとも直ちに原告Bから聞いた内容を担当医師に取り次ぐべき義務があったにもかかわらず,かえって,「胸が苦しいのも身体の震えも当たり前で心配ない」などと自分勝手に判断し,その取次ぎを怠り,担当医師による心筋炎を疑った血液検査,心電図検査等を受けられる機会を逃し,心筋炎の進行するにまかせ,急性心不全で死亡するに至らしめたのであって,その応対に出た看護婦の過失もある。
エ 仮にDが4月24日及び25日の時点で胸痛を訴えていなかったとしても,24日の初診時には,前日からの発熱(38度から40度),咽頭痛,扁桃発赤を訴え,25日には,風邪薬服用後も,熱が引かず,39.8度の高熱のほか,扁桃発赤を継続して訴えていたのであるから,担当医師としては,心筋炎を疑い,直ちに血液検査,心電図検査等を実施し,心筋炎を確認して,その治療を行うべき注意義務が生じていたのに,これを怠り,単なる感冒と誤診し,心筋炎の進行するにまかせ,急性心不全で死亡するに至らしめたものであって,この場合にも,担当医師に過失があったというべきである。
(4月27日時点の過失)
オ Dは,4月27日午前8時10分ころ,前記のとおり,救急外来を受診しているが,その際にも,23日から続く高熱(39~40度),痙攣,胸痛等を訴え,失神を伴ったりしていたのであるから,遅くともその時点では,心筋炎と診断することは容易であって,その治療も十分可能であったにもかかわらず,担当医師は,髄膜炎と誤診し,見当はずれの治療を行い,心筋炎の進行するにまかせ,急性心不全で死亡するに至らしめたのであって,この時点においても,担当医師に過失がある。
そもそも,熱,痙攣,呼吸困難の症状を呈したときに,第1選択として髄膜炎を考えるべきではない。髄膜炎の症状は,基本的には熱,頭痛,髄膜刺激症状(項部硬直,悪心嘔吐)などであるが,本件においてDが訴えていた症状ないし徴候は,高熱,呼吸困難,痙攣発作,胸痛であって,頭痛,髄膜刺激症状があったのかはっきりしない。
呼吸困難からは循環器疾患,呼吸器疾患を考えるべきであり,熱があれば感染症を推測すべきであるが,胸部レントゲンで異常なく,肺炎は否定されるので,Dの呼吸困難は,心不全によるものであって,熱があり,若年者であることからして,心筋梗塞より,心臓の感染症,すなわち,急性心筋炎が診断の第1選択となるべきものであった。
(2) 鳩ヶ谷病院(の担当医師)の過失
ア 心筋炎の症状については,前記(1)アのとおりである。
しかるところ,Dは,4月26日昼ごろの受診時には3日前より続く高熱(38度から40度),そして,風邪薬服用後も熱が引かないこと及び胸痛を訴えていたのであるから,鳩ヶ谷病院の担当医師は,心筋炎を疑い,直ちに血液検査,心電図検査等を行い,心筋炎を確認し,その治療をなすべき注意義務が生じていた。そして,実際,この時点でも,担当医師が,血液検査を一度でも実施していれば,心筋障害が数値上で直ちに明らかになったはずであるし,心電図検査を実施していれば,心筋の異常が読みとれたはずである。
しかし,鳩ヶ谷病院の担当医師は,前記注意義務を怠り,単なる感冒と誤診し,心筋炎の進行するにまかせ,Dを急性心不全で死亡するに至らしめたものであって,その診療行為には過失がある。
イ 特に,26日午後7時すぎの受診時には,Dが心窩部痛及び呼吸困難を訴え,心不全による鬱血も出現していたにもかかわらず,H医師は心因性の呼吸困難(過換気症候群)と診断し,H医師は,Dにゆっくり呼吸するように指示したという。しかし,仮に過換気症候群であったとすれば,息ごらえ試験,紙袋試験(治療を兼ねる)を行えば症状が改善していたはずであるのに,H医師の指示にもかかわらず,Dの呼吸困難は全く解消していないので,過換気症候群ではない。
そして,本件においては,Dに過換気症候群とは異なる呼吸困難が少なくとも存在したのであるから,まず肺性の呼吸困難を考え,それが否定された時点で心因性を考えるべきであった。まして,Dには,持続性,かつ,解熱剤に抵抗性の高熱があったのであるから,両方の症状から肺の感染症,循環器の感染症を考え,レントゲン検査を実施すれば,肺炎は否定され,血液検査を実施していれば,間違いなく心筋逸脱酵素の異常を発見できたので,容易に心筋炎の診断が可能であったはずである。
それにもかかわらず,H医師は,鑑別診断として必要な血液検査すら実施しないで,心因性の呼吸困難と誤診し,心不全に禁忌の中枢抑制作用を有するレンドルミンを投与するという二重の過失を犯し,Dの心筋炎を急激に憎悪進行させたものであって,この点にも過失がある。
(被告ら)
(1) 被告市
(4月24日及び25日時点の過失)
ア Dが担当医師に胸痛を訴えていたことはなく,4月24日,25日の両日において,呼吸音及び心音に異常は認められておらず,4月25日に実施した胸部X線検査でも,心疾患を疑わせる肺鬱血,心拡大等の異常所見は認められていなかったのであるから,診察時におけるDの症状所見や検査結果等からして,発熱が3日目になることのみを理由に心筋炎を疑うことはできない。
しかも,心筋炎は,特異的な所見に乏しく,その診断が臨床的に必ずしも容易ではなく,本件において,仮に血液検査,心電図検査を実施したとしても,心筋炎を診断できたとは考えられない。
したがって,4月24日及び同25日にDの診療に当たった医療センターの担当医師に原告ら主張の注意義務違反はない。
イ 原告らは,特に,F医師の過失もいうが,医療センターにおける診療は前記したとおりであって,F医師を含め,担当医師に過失はない。
ウ 原告ら主張の4月25日午後3時ころにDの家族から医療センターに電話があった事実,その家族の説明で,Dが胸痛を訴えていたという事実はいずれも知らない。Dは,その翌日に鳩ヶ谷病院を受診しているが,その際にも,担当医師に胸痛を訴えたことはないのであって,看護婦が前日の家族の説明を担当医師に取り次がなかったとして,その過失をいう原告らの主張は当たらない。
エ Dが担当医師に胸痛を訴えていなかったことは,前記したとおりであって,Dに対する4月24日及び同月25日の診察時におけるDの症状所見や検査結果等から心筋炎を疑うことはできなかった以上,担当医師に注意義務違反があるとの予備的主張も失当である。
(4月27日時点の過失)
オ Dは,4月27日の来院時,発熱・呼吸困難・痙攣・胸痛の症状があったが,これらの症状は直ちに心筋炎を疑わせるものではなく,かえって,髄膜炎を強く疑わせるものである。
Dは,来院後の各種検査の後,入院する運びとなったが,来院してから50分経過したころ,意識喪失・呼吸停止・心停止等の急性心不全の症状が発現し,それに対する治療にもかかわらず,来院から2時間20分後には,その死亡が確認されているのであって,前記した診療経過において,心疾患を疑って,各種の検査等を実施して原因疾患を診断するまでの時間的な余裕はなかった。
したがって,この時点でも,Dの診療に当たった担当医師に注意義務違反はない。
(2) 被告法人
ア Dは,鳩ヶ谷病院の診療時に,発熱,胸やけといった,非常に頻度の高い症状を訴えていたが,胸痛を訴えていた事実は全くなく,胸部の診察の結果でも呼吸音,心音に異常が認められなかった。そこで,鳩ヶ谷病院の担当医師は,その症状,経過等から,Dを急性上気道炎・胃炎と診断したものであって,担当医師が心筋炎を疑う余地は全くなかった。
イ 原告らは,血液検査を行わなかったことを問題にするが,これは,医療センターにおける診療が継続中であったこと,Dの前記症状,経過等から緊急検査が必要とは認められなかったこと,また,鳩ヶ谷病院では,血液検査を外部に依頼しているため,すぐにデータが得られないこと,当日は土曜日の時間外であったため,血液検査は不可能であったことから血液検査を行わなかったものであって,問題はない。
さらに,H医師は,Dが来院した際,呼吸状態等を考慮して入院を勧めたところ,医療センターで診療継続中なので,鳩ヶ谷病院に入院するつもりはないとのことであったので,入院に至らず,血液検査及び心電図検査を実施する余地がなかったものである。
2 第2の争点は,医療センターの担当医師の過失が認められる場合のその過失とDの死亡との間の因果関係の有無,換言すれば,亡Dの救命可能性の有無であるが,この点に関する原告ら及び被告市の主張は,要旨,以下のとおりである。
(原告ら)
心筋炎は,その典型症状が発現しているときに,すみやかに心筋炎との診断を下し,適切な治療を行っていれば,一般にその容体の回復はめざましいものがある。
本件の場合も,Dが医療センターの救急外来を受診して入院した4月27日の時点であっても,入院後,直ちに心筋炎と診断し,心臓の集中治療に臨めば,救命の可能性は十分にあったし,初めに医療センターを受診した4月24日から翌日25日の間に心筋炎と診断していれば,なおさら救命の可能性は大であった。
したがって,医療センターの医師が最後まで心筋炎と気付かなかった診療行為の過失とDの死亡との間に因果関係があることは明らかである。
(被告市)
心筋炎には,無症状の軽症のものから急死する重症のものまであり,原告らの主張するように,心筋炎の診断さえつけば必ず治療によって救命できるというものではない。
現に,Dの心筋炎は,極めて重篤な症例であって,医療センターの診療行為によって救命できたとは到底考えられない。
したがって,医療センターの担当医師の診療行為の適否とDの死亡との間に因果関係はない。
3 第3の争点は,被告らに損害賠償責任が認められる場合の原告らが被告らに対して賠償を求め得る損害の額であるが,この点に関する原告らの主張は,要旨,以下のとおりである。
(原告ら)
(1) 逸失利益 6125万0168円
Dは,死亡時33才の大学卒の男子であった。Dは,株式会社ゼネコスに勤務していたが,その給与の年収は基本給,手当,賞与等を入れて626万4720円であった。
そこで,亡Dの就労可能年数を34年,新ホフマン係数を19.554,生活費の控除割合を50パーセントとして,その逸失利益の現価を計算すると,6125万0168円となる。
原告A及び同Bは,前記金員を3062万5084円ずつ相続により取得した。
(2) 亡Dの慰謝料 5000万円
Dは,亡くなる直前まで胸等の痛みに耐え続け,被告の的確な処置のないまま息を引き取った。この本人の苦しみは筆舌に尽くし難く,これを慰謝するには,5000万円をもってしても足りない。
原告A及び同Bは,前記金員を2500万円ずつ相続により取得した。
(3) 原告ら固有の慰謝料 1億1000万円
原告A及び同Bは,亡Dの両親であって,働き盛りの最愛の息子を被告らの重大な過失により突然失った悲しみは深く,特にAは自営として建築業を営んでいたが,平成9年の7月からはDに全面的に営業を譲るつもりでいただけに,そのショックは計り知れず,その苦痛を慰謝するに足りる金員はそれぞれ4000万円を下回らない。
また,原告Cは,亡Dの妹であって,愛する唯一人の兄を突然失った悲しみは,たとえようもなく深いものがあり,その苦痛を慰謝するに足りる金員は3000万円を下回らない。
(4) よって,原告らは,被告市に対しては,前記(1)ないし(3)の合計2億2125万0168円(原告A及び同Bにつき,各自9562万5084円,同Cにつき,3000万円),被告法人に対しては,一部請求として,その2分の1の合計1億1062万5084円(原告A及び同Bにつき,各自4781万2542円,同Cにつき,1500万円)及び以上の各金員に対するDの死亡した平成9年4月28日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第5当裁判所の判断
1 一般的な心筋炎の症候とその診断について
亡Dの死因がウィルス性心筋炎であったことは,前提となる事実3の(6)のとおりであるから,原告ら主張の医療センター(の担当医師等)ないし鳩ヶ谷病院(の担当医師)の過失の有無を検討するに先立って,心筋炎の症候及びその診断についてみると,証拠(甲5,6,17,19,20,丙5)によれば,一般的に以下のようなことが認められ,この認定を妨げる証拠はない。
(1) 急性心筋炎の症状は,上気道感染症状として発熱,頭痛,咽頭痛などや,消化器症状として悪心,嘔吐,下痢などを初発症状とすることが多く,心異常は,これらの初発症状発現後7~10日に出現することが多い。その他,全身症状として関節痛,筋肉痛,皮疹などを訴えてくることもある。
心症状としては,全身倦怠感,呼吸困難,動悸,前胸部不快感があり,さらに心膜炎を反映する胸痛,心筋梗塞様の胸痛をきたすこともある。劇症の場合にはショックに陥ることもある。その他,失神,チアノーゼ,痙攣などをきたすこともある。
また,発熱の程度とは不釣り合いな頻脈が特徴であるが,逆に著明な叙脈,不整脈を呈する症例もある。聴診上,心音の減弱,奔馬調律,肺の湿性ラ音のような心不全所見,心膜摩擦音を呈する症例もある。
(2) 前記症状等により,心筋炎が疑われる場合には,さらに心電図と胸部X線写真により心筋障害と心不全の程度を確定する。臨床歴に冠(状)動脈疾患,弁膜疾患,先天性疾患のいずれもがないのに,心不全とか不整脈症状とかが最近に起こった場合には,心筋炎の診断を疑う。
ア この場合の心電図変化は,一般的にみて,一過性であり,心症状の発現率より心電図変化を認めることのほうが多い。特異的なST・T変化が多いが,心室性期外収縮,房室電動障害,心室内電動障害,さらには,急性心筋梗塞様の異常Q波を呈することがある。完全房室ブロックや,心室性,上質性頻拍症,心房細動などの各種の不整脈の所見も多い。このように,心電図変化がさまざまに変化するということも特徴の1つである。
イ また,胸部X線像は,多くの場合,正常であるが,劇症な症例では,心拡大,肺鬱血が認められる場合がある。
(3) その後,血液検査,心エコー図法の検査を行うが,心臓カテーテル法と心筋生検とが必要になる場合は稀である。
ア この場合の血液検査では,急性期に,白血球増多,赤沈促進,CRP陽性などの炎症所見が50から70パーセントの症例に,心筋逸脱酵素の上昇も同様の頻度でみられる。一般に,重篤例では,逸脱酵素の値が著しく高い。
イ また,心エコー図で,左心機能低下や心膜液貯留を認める場合もある。
2 原告ら主張の被告らの過失の有無について
そこで,前認定の一般的な心筋炎の症候及びその診断を踏まえ,原告ら主張の被告らの損害賠償責任について検討する。なお,以下でも,月日は,平成9年である。
(1) 医療センターの過失の有無
(4月24日及び25日時点の過失)
ア Dは,前提となる事実3(1)のとおり4月24日の時点において,発熱,咽頭痛を訴え,扁桃部の発赤があったところ,E医師は,Dの心音・呼吸音に異常が認められなかったため,Dの症状を感冒と診断しているのであって,被告市提出の医師J作成の私的鑑定書である乙16の1及び乙17(以下「J意見」という。),被告法人提出の医師K作成の私的鑑定書である丙5及び丙6(以下「K意見」という。)に照らしても,その診断は相当であったと認められる。
この点につき,原告らは,主位的に,Dは24日の受診時に胸痛を訴えていたことを前提に,医療センターの過失を主張するが,当日の問診票(乙1)には,Dの症状につき,「熱が下がらないので」という記載のみがあること,また,当日の診療録(乙1)には,Dの訴え及びE医師の所見が記載されているところ,「胸痛」という記載がないこと,E医師は,患者が胸が苦しいと訴えた場合には,通常,呼吸が苦しいのか,胸の痛みが心臓の方か,肺の方かを聴いて診療録に記載し,心電図及びレントゲンを撮影しているというところ(証人E),Dの診察に際して,通常の場合と異なる診療を行ったような事情があったとは窺われないことが認められ,以上を総合すれば,Dは,4月24日には,E医師に原告ら主張のような胸痛を訴えていなかったというほかなく,胸痛の訴えを前提とする原告らの主位的主張は,採用し得ない。
次に,4月25日の時点についてみても,同日の所見は,前日と同様で,発熱,扁桃発赤があったが,心音・呼吸音にも異常はなかったというのである。
原告らは,4月25日の時点においても,Dが担当医師に胸痛を訴えていたことを前提に,医療センターの過失を主張するところ,その主張に沿う証拠(甲7,甲18,原告B)もないわけではないが,原告BらがDの受診の際に付き添っていたわけではなく,当日の診療録(前掲乙1)にも,その旨の記載がないことからして,前記証拠を採用するのは困難であって,これをもってDが担当医師に胸痛を訴えていたと認めることはできない。
イ 原告らは,特に,F医師の過失も主張するが,F医師は,高熱があったので,一応,肺の疾患などを疑って胸部写真を撮っているところ,異常はなかったことが認められるのであって(乙1,乙9,証人F),この段階では,感冒症状のほか,心筋炎を疑うような異常所見は認められていなかったといわざるを得ないのであるから,さらに進んで,心電図検査及び血液検査を実施する義務はなかったというほかない。
この点につき,原告ら提出の医師L作成の私的鑑定書である甲25,甲26の1及び2,甲27(以下「L意見」という。)では,4月25日の時点で,血液生化学,尿検査を実施すべきであったというのであるが,前記J意見及びK意見に照らすと,同日の時点におけるDの症状からみて,感冒の診断は相当であって,その診断を前提にすれば,臨床上では,さらにL意見にあるような検査を実施するまでの必要はなかったというべきである。
F医師がDに4月24日のボルタレンの投与に加え,同月25日,インダシンを投与したことは,結果的にみて,心筋炎へ悪影響を与えたことを完全に否定し去ることはできないが,4月25日の時点における感冒の診断が相当であった以上,インダシンの投与につき,その場面において,これを違法なものであったということはできない。
ウ 原告らは,Dの母である原告Bが4月25日午後3時ころ,医療センターに電話をかけ,応対に出た看護婦に対し,Dが胸が苦しいと言っており,身体の震えもあるので,すぐ医師に聞いてもらいたいと要請したのに,看護婦が自分勝手な判断で取次ぎを怠ったとも主張するが,仮に電話の事実が認められるとしても,その3時間前にF医師の診察を受けた時点では,Dに異常は認められていないこと,その診察後,薬を処方され,点滴を受けて帰宅したのが電話の約1時間前というのであるから(原告B),仮に看護婦が医師に電話を取り次いでいたとしても,その際,直ちに心電図・血液検査等を実施するまでには至らなかった可能性も高く,また,そのような検査を実施したとしても,異常を発見できたか否かについては疑問が残るのであって(乙17),看護婦の対応がことさらに違法なものであったということもできない。
エ 原告らは,Dが担当医師に胸痛を訴えていなかったとしても,心筋炎と診断して必要な治療を行うべきであったと主張するが,胸痛の訴えがなかったことを前提にした担当医師の過失の有無は,前説示したとおりであって,予備的主張に対する判断もこれに尽きる。
(4月27日時点の過失)
オ 4月27日の受診時におけるDの症状には,髄膜炎の場合にみられる発熱・痙攣があったことからすれば,I医師が最初に髄膜炎を疑ったことが相当か否かはともかく,確定診断をするために,各種の検査を行ったことはやむを得ないということができ,これ自体を過失ということはできない。
そして,検査終了後の午前8時50分に,Dは入院となったが,その10分後である9時ころには,呼吸停止・心停止の状態になり,これに対する処置にもかかわらず,10時30分には急性心不全による死亡が確認されているのである。
以上の経過を前提にすれば,担当医師としてすべきことは行ったといえ,原告ら主張の過失は認められない。
(2) 鳩ヶ谷病院の過失の有無
ア Dは,前提となる事実3(3)のとおり4月26日午後2時ころ,被告法人を受診しているところ,証拠(甲8,丙1,丙3及び証人G)によれば,このときのDの主訴は,発熱であって,胸部の診察の結果,心音・呼吸音にも異常はなかったことが認められる。
原告らは,この時点でも,Dが胸痛を訴えていたというが,前掲証拠(甲8及び証人G)によれば,Dは,「みぞおちの辺りがちりちりする。」と訴えていたにとどまり,G医師は,Dの訴え及びその他の症状等から,胸やけを訴えたものと判断したことが認められるが,その訴えをもって胸痛と判断しなかったことに特に問題があったと認めるに足りる証拠はなく,原告らの主張は採用し得ない。
そうとすれば,Dには,心症状等がなかったのであるから,高熱が4日続いているということのみをもって,臨床上,心筋炎を疑うべき場合であったということはできず,G医師が急性上気道炎及び胃炎と診断したことは相当であるから,原告ら主張の検査を実施すべき義務はなかったといわざるを得ない。
イ また,Dは,前提となる事実3(4)のとおり4月26日午後8時10分ころ,再び被告法人を受診しているが,その際の主訴は,高熱と心窩部痛であったところ,H医師は,Dの呼吸状態を過換気と判断しているのである。
この段階における症状は,結果的にみると,心不全による呼吸困難であった可能性が疑われないわけではないが(甲25),H医師のその段階における診察では,Dの胸部所見に異常はなかったことが認められるのであって,Dの呈していた感冒症状を併せ考えると,K意見にいうとおり,臨床上では,心疾患を疑うことはできなかったといわなければならず,この時点においても,鳩ヶ谷病院の担当医師が心筋炎を疑ってDに対して原告ら主張の検査を実施する義務はなかったということができる。
また,レンドルミンの投与についてみても,H医師の前記診断が相当であった以上,その投与に過失はなかったといわざるを得ない。
(3) 以上説示したところによれば,医療センターについても,鳩ヶ谷病院についても,原告ら主張の過失は認められないから,原告らの本訴請求は,その余の点について判断するまでもなく,理由がないことが明らかである。
3 よって,本訴請求をいずれも棄却し,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条,65条を適用して,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 滝澤孝臣 裁判官 永井崇志 裁判官 白崎里奈)